桃井 かおり(ももい かおり、1951年〈昭和26年〉4月8日[1] - )は、日本の女優。
東京都世田谷区出身。2005年公開のハリウッド映画『SAYURI』出演を期に、2006年にはアメリカ合衆国映画俳優組合(現・SAG-AFTRA)に加入、活躍の場をハリウッドにも広げる。ロサンゼルス在住[2][3]。身長162cm(1976年4月)[4]。
1951年に東京都世田谷区の裕福な家庭に生まれる。父は国際政治学者の桃井真、母の悦子(1923〜2022)はアトリエを構える芸術家[5][1]、4人兄弟で上の兄は脚本家の桃井章。2番目の兄は科学者。弟は銀行員。女優で人形作家の結城美栄子は母方の従姉。親類は岩城滉一の妻・結城アンナ。
3歳からクラシックバレエを始め、中学生の時にイギリスのロイヤル・バレエ・アカデミーに単身留学。しかし、現実の厳しさを知り、挫折。桃井はこの時のことを振り返り「同じ年くらいの白人の子達と並ぶと、自分が“みにくいアヒルの子”という感じ。自分を醜いと思わざるを得なかった」と語っている[6][7]。
帰国後、女子美術大学付属高等学校・中学校へ入学。同校在学中は東京バレエ団に所属。大学受験に失敗し[8]、同校卒業後、女子美に文学座にコネのある人がおり[8]、バレエの契約が切れると同時にバレエを辞め[8]、両親に内緒で演劇を目指し文学座付属演劇研究所(養成所)第11期生に研究生として入る[1][8]。モノマネの特徴として誇張される桃井の"倦怠感"や"アンニュイ"イメージは、桃井によれば、文学座時代に周りの劇団員が演劇論を戦わせるのに付いて行けず、「手口としてそれが身に付いたというか、文学座のやり方ではそれしか生きる道がなかった」と話している[8]。
1971年に映画『愛ふたたび』(市川崑監督)にて浅丘ルリ子の妹役でデビュー。映画出演のきっかけは「文学座養成所の授業をさぼってパチンコをやっていたとき、スカウトされた」と書かれたものがある[4]。同年、ATG映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(清水邦夫・田原総一朗監督)にてヒロインを演じ、本格的に映画デビュー[1]。桃井は「私、ATGで一番入らなかった映画(同作)と入った映画(『もう頬づえはつかない』)やってるのよ(笑)」と述べている[8]。同作では共演した石橋蓮司と緑魔子に徹底的にしごかれ、痛く傷付き逃避行する[8]。とにかく遠くへ行きたいと羽田から広島に行き、タクシーの運転手から「島でも渡ってみるかね?」と言われたため[8]江田島に渡り、地元の飲食店で住み込みで働く[8][9][10]。この映画出演が両親に知られ、父に勘当を言い渡され家出した。4ヵ月後、「かおり許す、父」という新聞の伝言を目にして家に戻ることはできたが、元の生活には戻れないと思い、再び女優として活動を開始[7][11]。杉村春子の代表的演目『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で、台詞ひとことの役が不満で[8]本公演を降板し、文学座を退団する[8][12]。1973年公開の『赤い鳥逃げた?』[8]で助監督を務めていた長谷川和彦には「文学座を辞めろ」と言われた。
一方で当の桃井は「文学座をやめるかこの映画撮るかって相談したのが、恋愛時代をすごしてた頃の優作だから」と語っている[13]。
1973年、後に本人が「最も頼りにした」[14]と明かした脚本家・早坂暁の指名で、はじめてNHKドラマ「たった一人の反乱」に出演する。「私という、桃井かおりという役者の80%は早坂さんの作品でできている。暁さんは私の役者道にいつもいてくれて、助けてくれる神様だった。暁さんが死んだら役者を辞めようと思っていた」とも話した。しかし、番組中で生前の早坂が「かおりにやらせたい」と残していた小説「私が殺したゴッホ」を呈示され、「いい感じに宿題残してくれる、生き延びられるようにしてくれる。まさに暁さんだ」と結んでいる。
22歳の時、撮影現場で腹部に違和感を覚え、歩くのも困難になり帰り道の山道で倒れる。幸い一命は取り留めたが、その後の検査で腎臓結核であることが分かり、片方の腎臓を摘出。その後、順調に回復し、萩原健一の強い要望でドラマ『傷だらけの天使』(第14話「母のない子に浜千鳥を」)へのゲスト出演で復帰を果たした。
1975年、倉本聰脚本による日本テレビ系列『前略おふくろ様』の海役で、人気に火が付く。
1977年公開の山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』では、それまでの気怠く性に奔放な女性といった役柄が多かった桃井の、別な一面を引き出し、第1回日本アカデミー賞助演女優賞、ブルーリボン賞などを受賞した。1979年公開の『もう頰づえはつかない』で映画初主演[1]。
1981年、突然、単身ニューヨークへ渡る。先述の本人談によると、帰国後は役者を辞めて八ヶ岳で生活していたが、早坂暁から電話があり「白いごはんのような俳優になりなさい」と『花へんろ』の主役を打診されたことで本格的に復帰する。この『花へんろ』で、その後12年にわたって主役・静子を演じるという、役者にとってかけがえのない時間を過ごすことになる[15]。1991年にはオムニバス映画『ご挨拶』の第3話「NOW IT'S THE BEST MOMEN0T IN OUR LIFE!!」で映画監督デビュー(モモイ・カオリ名義)。
2004年に父が他界。父の死を乗り越えるために、もっと辛い状況に身を置くことを決意し、ハリウッド映画のオーディションを次々に受ける。2005年に『SAYURI』でハリウッド映画初出演。翌2006年にアメリカ合衆国映画俳優組合に加入[16]。
2006年に『無花果の顔』で長編映画監督デビュー。
2008年春、紫綬褒章を受章[17]。その受章にあたり、生年がそれまで公表されていた1952年ではなく、1951年であることが判明。
近年は女優業に留まらず、ジュエリーデザインや雑誌創刊など活動の幅を広げている。2009年に女子美術大学・女子美術大学短期大学部客員教授に就任。
2015年1月21日に、なかにし礼の作詩家・作家生活50周年を記念した企画アルバムで、日本コロムビアよりリリースされた「なかにし礼と12人の女優たち」で、アン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」[18]、2016年9月28日リリースの第2弾の「なかにし礼と13人の女優たち」で細川たかし の「心のこり」を歌った[19]。
私生活では長らく独身だったが、事実婚状態だった年上の音楽プロデューサーと2015年1月に婚姻届を提出し結婚した。同年10月16日京都国際映画祭で行った監督・主演映画「Hee And She」のトークイベントで公表した[20]。
2022年春の叙勲で旭日小綬章を受章[21][22]。2023年、第6回種田山頭火賞を受賞[23]。
若草恵
※ 10万枚以上を売り上げた[70]
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