桜田 淳子(さくらだ じゅんこ、1958年〈昭和33年〉4月14日 - )は、日本の元女優・歌手[1]。かつては、サンミュージックプロダクションに所属していた[2]。レコード会社はビクター音楽産業[2]。身長161cm[3]。秋田県秋田市新屋表町出身[1][4][5]。愛称は「ジュンペイ」「淳ちゃん」「ズン子」[6][7]。3児の母。
生い立ち
父親は十條製紙に勤めたサラリーマン[3][4][8]。一男二女の末っ子[3][8]。幼少の頃、東京の大森に住んでいた綺麗な叔母が秋田に帰ってきて喋る、聞きなれない東京弁が流暢で耳に心地よく東京に憧れた[3]。このため上京後も訛りの矯正には苦労しなかったという[5]。幼稚園に上がった頃から人前で何かやるのが好きで、小学校では学芸会の常連だった[3]。小さい頃から「せっかく生まれてきたんだから、秋田にいて平凡な人生は送りたくない。東京へ行きたい」とずっと考えていた[8]。小学校6年のとき、将来何になりたいかというアンケートに"女優"と書いた[3]。中学では演劇部を創設し部長になる[8]。中学2年のとき、毎週観ていた『スター誕生!』で森昌子がグランプリに輝いた[3]。自分と同じ年齢の合格者に驚き、乗り出すように画面を観ていると、秋田地区でオーディションをするので応募したい人はどうぞと字幕スーパーが出た[3]。瞬時のためらいもなくハガキを出し、両親にも学校にも言わずオーディションに向かった[3]。その日は夏台風の接近で交通機関の運休があり、応募7000人のうち、会場に集まったのは5000人だった[3]。
秋田市立日新小学校[4]→秋田市立秋田西中学校[5]→品川女子学院中等部・高等部(転入)[5]→国本女子高等学校(編入)卒業(1977年)[5]。聖トマス大学卒業。
歌手として
1972年(昭和47年)7月19日(放映は8月6日)、中学2年生(14歳)の時に日本テレビの人気オーディション番組『スター誕生!』の秋田県民会館で行われたテレビ予選[注 1]で牧葉ユミの「見知らぬ世界」を歌い[注 2]、番組史上最高得点となる573点で合格[注 3]。『スター誕生!』の金谷勲夫ディレクターは「予選に参加した560人の中で彼女だけ白い帽子を被ってニコニコしていた。誰が見てもあの子が本命と直感したほど煌めく笑顔が印象的でした。ちゃんと声さえ出してくれれば合格と誰もが思っていましたね」などと述べている[5]。同年9月6日(放映は9月17日)[5]、後楽園ホールで行われた第4回決戦大会で、これも番組史上最高の25社から獲得の意向を示すプラカードが上がり[7]、審査員からの評価も圧倒的で最優秀賞(グランドチャンピオン)を受賞した[9]。ホリプロ創業者の堀威夫の自伝『いつだって青春』によれば、当初、桜田はホリプロ入りの意向を示していたが、ホリプロには既に同番組出身の森昌子が所属しており、(スター誕生!の出身者が)同じ事務所ばかりに偏るのはどうかとの日本テレビ側の配慮もあって、サンミュージックに所属することになったという。桜田本人は、芸能界の悪いイメージの中にあって、森田健作はさわやかで清潔な印象があり、森田さんの所属事務所なら間違いないという、ただ一つの理由で、秋田にやってきた日本テレビのプロデューサーに「森田さんの事務所に行かせて下さい」と言ったと話している[3]。サンミュージックの相澤秀禎社長はスカウトマンに「うちは、森田健作と野村将希と牧村三枝子のいる家庭的な事務所です、とそれだけ言え」と指示したという[7]。1972年(昭和47年)10月中旬[3]、先の大森の叔母宅に寄宿し、私立品川中学校(現・品川女子学院中等部)2年生に転入した[3]。3年時に同じクラスに山口百恵が転入してきて、よく似た境遇でもあり、すぐに打ち解け親しくなる[3]。高校進学の相談なども電話でよく話した[10]。同年3月23日に二人で卒業するも高校は別々になった[11]。
1973年(昭和48年)2月25日にビクター音楽産業より歌手デビュー。キャッチフレーズは“そよ風の天使”[9]。デビュー曲「天使も夢みる」は、オリコンチャートでも12位につけるなど好スタートを切った。また、歌う時に被っていたキャスケット(2枚目のシングル「天使の初恋」まで)も桜田のトレードマークとなり、当時「エンジェルハット」と呼ばれて話題になった[10]。この時点で既に人気アイドルの仲間入りを果たしていたが、その後、同じ『スター誕生!』出身で、同世代の森昌子・山口百恵と共に花の中三トリオ(当時)と呼ばれるようになり、国民的な人気を集める[1][9]。トリオとしての名称は3年後の「高三トリオ」まで続いた。3枚目のシングル「わたしの青い鳥」のヒットで、第15回日本レコード大賞新人賞、第4回日本歌謡大賞放送音楽新人賞を受賞。さらにその年の大晦日には第15回日本レコード大賞の最優秀新人賞にも輝いた[9]。
同年11月にリリースされた4枚目のシングル「花物語」で初めてオリコンチャートのベストテン入りを果たす。続く「三色すみれ」「黄色いリボン」「花占い」も順調にベストテン入りし、8枚目のシングル「はじめての出来事」ではオリコンチャート第1位を獲得[9]。その後も「ひとり歩き」「十七の夏」「夏にご用心」「ねえ!気がついてよ」「気まぐれヴィーナス」「しあわせ芝居」「リップスティック」「サンタモニカの風」などなど、数々のヒットを飛ばし、トップアイドルとしての地位を不動のものにした[9]。シングルは累計で600万枚近くを売り上げ、トータルで18曲をオリコンチャートのベストテンに送り込んでいる。デビュー3年目の1975年(昭和50年)には、オリコン・シングルレコード年間売上、マルベル堂のブロマイド売上、『月刊明星』の年間人気投票において、いずれも女性歌手部門の1位を獲得するなど(「マルベル堂」『明星』『平凡』『近代映画』首位の4冠は美空ひばり・吉永小百合に続くもの)で、名実共に1970年代を代表するトップアイドルのひとりであった。1974年6月、後に大きな影響を及ぼす姉が上京し同居する[10]。
人気絶頂の時から「たかがアイドル、人気は今だけなんだ。歌手の自分は短命だろう」とずっと考えていた[7][12]。学校では「淳ペイ」「淳ちゃん」と呼ばれて友達と対等でいられるのに、一歩仕事の世界に入ると10代の子供に大人から頭を下げられる世界。あるとき、車もあまり走ってないような地方に公演に行ったら、駅に着くと外車が待っていて、迎えの人から『先生』と呼ばれた。私のためにわざわざ外車を用意してくれたんだと思うと、イヤでイヤで、タクシーで行くと言い張ったが、結局説得された。挨拶させている自分が許せなくて、そのようなギャップにいつも迷っていた[7]。「周りによく思われたい、生意気に思われたくないという意識が強く、ずっといい子でいさせてしまった」[7]「周囲から歌手に向いてないと言われていたし、自分でもそう思う」[12]などと話し、1983年に歌手活動を停止した[12]。
女優として
もともと目立とう精神から何としても芸能界に入りたい、東京に行きたいという思いが強く[8]、どちらかと言えば歌手より女優をやりたかった[8]。まず歌手として頑張らなくちゃいけないという使命感が強く、歌手を続けることは重荷だった[8]。コメディーリリーフとしてのセンスもあり、特に『8時だョ!全員集合』で見せた志村けんとの「夫婦コント」(『私って駄目な女』シリーズ)での絶妙なかけ合いは、音響、照明効果も相まって人気を博し、お茶の間だけでなく、井上ひさしら放送作家達からも絶賛された。歌手として活躍する一方で、女優としても1975年の映画『スプーン一杯の幸せ』を皮切りに、『遺書 白い少女』『若い人』『愛情の設計』『愛の嵐の中で』と、5本の映画で主演を務めていたが、1978年には東宝歌舞伎の大御所、長谷川一夫の指名により、『おはん長右衛門』で舞台女優にも挑戦。初舞台ながら長谷川一夫の相手役を演じたことで、役者としての資質が改めて注目されるようになった。その資質は翌年の市川崑監督作品『病院坂の首縊りの家』での一人二役を経て、1980年の初主演ミュージカル『アニーよ銃をとれ』で大きく開花し、その年の芸術祭大衆芸能部門(2部)優秀賞を、当時史上最年少で受賞するなど高い評価を得た[8]。この頃から次第に女優としての活動に比重が置かれるようになっていき、1983年に発売された小椋佳作曲のシングル「眉月夜」のリリースを最後に歌手活動を停止、完全に女優業へ転向した[12]。その後は数多くのテレビドラマ、舞台、映画で活躍、歌手時代のみならず女優に転向してからも、芸術選奨新人賞(大衆芸能部門 文部大臣新人賞)や菊田一夫演劇賞(演劇賞)を始め数多くの賞を受賞している。
「十七の夏」をリリースした1975年夏の甲子園大会は、東海大相模の原辰徳フィーバーで沸いたが[10]、桜田も原に夢中になり[10]、週刊誌なども騒いだ。ただ、桜田は『月刊明星』1979年3月号で「今までこんな話をしたことは初めてと思う」と「デビューしてから二度恋をした」と自身の20歳までの恋愛経験を話しており[10]、「デビューの頃から憧れた人がいて、彼は仕事場で会う人で、一度だけドライブをして一度だけ握手したいいヤツで、憧れだけの恋だった。19歳までずっと片思いで、もうあんな苦しい気持ちはたくさん」と話していた[10]。実名は書かれていない。その後、短期間、少し秋田のセンパイと付き合ったという[10]。タモリが桜田の大ファンで[8]、『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の名物コーナーだったテレフォンショッキングの第1回ゲストに招いた(1982年10月4日)。
『週刊プレイボーイ』、『平凡パンチ』、『明星』、『平凡』などで何度もグラビアを飾っている。またしゃべり方に特徴があり、ものまね番組などでサ行の発音をデフォルメして真似されることも多く、フジテレビのシチュエーションコメディ『やっぱり猫が好き』内でも、出演者の一人である小林聡美がたびたび桜田の物真似を披露している。アイドルでありながらリクエストされれば秋田弁でしゃべってみせたり、秋田音頭や持ち歌をお国訛りで歌ったりするなどサービス精神が旺盛で、1970年代後半に井関農機の田植機『さなえ』のCMに起用された際も、「やっぱし早苗だべさ」というお国訛りのセリフが有名になった。重度の近眼。
合同結婚式・芸能活動休止
1992年6月30日、5日前に山崎浩子が2か月後に行われる世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式に参加することを記者会見したのに続き、同じ合同結婚式に参加することを記者会見で表明した[13]。このとき、統一教会に入信していた姉の影響で19歳頃から入信していたことを自ら明らかにし、1992年8月25日にソウルオリンピック主競技場で開催された合同結婚式で会社役員と結ばれた[14][15]。なお、桜田の実父は桜田の姉が統一教会に入信した際、全国原理運動被害者父母の会の支部(現 全国統一教会被害者家族の会)「秋田父母の会 陽光会」に参加し会長を務めたこともあった。
この合同結婚式に桜田ら有名人が何人も参加したことによって、統一教会と脱会した元信者らを中心とする反統一教会側との間の訴訟問題がよりクローズアップされるようになった[注 4]。テレビ放送のワイドショーで統一教会の信者であることや霊感商法に関与したのではとの疑惑を取り沙汰され、非難・糾弾報道をされたこともあってか次第に発言そのものを控えるようになっていった。ちなみに桜田自身がこれらの件で告訴・逮捕・勾留・起訴・有罪判決や民事訴訟を起こされた事はないが、1992年の会見では違法性を指摘されていた霊感商法について「詐欺だとは考えていません」と言い放っている[16]。
自分の所属していた事務所サンミュージックの社長・相澤秀禎に壷を売りつけていたのではという疑惑報道がなされたことがあったが、これについては、社長自身が桜田の親族を通じて200万円の壺を買っており、後日「淳子の純粋な気持ちは分かっている。彼女のためと思って私が買った」ことにされた[17]。しかし、相澤は生前、「芸能人は夢を売る仕事です。霊感商法など反社会的な行為を行っている組織に関わってどうするのか。統一教会を辞めない限り、私は淳子を芸能界に戻すつもりはありません」と語っていた[16]。
婚姻後は夫の地元の福井県敦賀市に移り住む[16]。その後も桜田が信者の集会や教会関連のイベントで講演したりするたびに芸能マスコミが取り上げ、「統一教会の広告塔」だとして批判する図式が続いていた。一方で直接関係のない話題であっても、統一教会絡みの話題に「桜田淳子らが参加した合同結婚式で有名な」と名前を引用した当時のスポーツ紙・週刊誌の記事、ワイドショーのタイトルも相当数あり、結婚後のある時期からは、自らがメディアに顔を出す形での取材は一切受けていない。まれにマスコミ向けに出す著名人などへの慶弔のコメントも、すべて自筆の手紙という形で寄せている。
1993年の3月に公開された映画『お引越し』への最後の出演と1996年12月15日、都内で行われた統一教会クリスマスフェスティバルを最後に、以降は一切の芸能活動を休止した。騒動の最中、スポンサーが特定の宗教のイメージを嫌ってCMの契約が全部なくなったことや、「まわりには迷惑をかけられない」との理由で当たり役だった『細雪』の舞台(四女役)の降板を自ら申し出たことなどから、結婚後は仕事を干されたかのように報じられているが、3人の子供を出産後(いずれも自宅で自然分娩)、子育てに専念していた間にも映画出演などの具体的なオファーはいくつか来ていた。関係者や本人の弁によれば「子育てに忙しく身動きが取れない」という理由で全て断っていたとのことである。
2000年4月に夫が経営していた会社をたたみ、同年8月、夫の高齢の母の世話をするため、兵庫県西宮市に移り住む。その間の2003年9月、『桜田淳子BOX〜そよ風の天使〜』<完全生産限定10,000セット>が発売された際には、ブックレットに自筆メッセージを寄せている。2004年には東京都世田谷に転居。転居後も桜田が統一教会関連の集会で時折講演したり、歌を披露している姿が報じられたことなどから、一部のタブロイド紙では夫は統一教会の幹部になったという記事が掲載された時もあった。2006年12月19日発売の『女性自身』での夫への直撃インタビューでは夫自身がこれを完全否定、現在は会社を整理した際に残った資産の運用で生計を立てていると答えている。
近況
2006年11月24日にはエッセイ集『アイスルジュンバン』(集英社)を出版。子育てのこと、近所づきあい、学校の先生との触れ合いなどについてユーモアを交えながら綴っている。ただ、その良妻賢母ぶりに共感する声もあがる一方で、合同結婚式に参加し、マスコミから広告塔として騒がれたことについて一切触れていないとして、ワイドショーや週刊誌記事では軒並み批判的な論調が多かった。もっとも『婦人公論』(2007年1月22日付)のインタビューではこのことについても語っており、著書の中で触れなかったことに「隠したつもりはありません、ただ(教会のことについて)発言することでまた泥仕合になるのは避けたい、今の私は甘受したいと思います」と答えている。さらに同インタビューでは仕事復帰をほのめかす発言もしており、エッセイの出版や東京への引越もその足がかりではと見たマスコミによる、「桜田淳子 芸能界復帰へ」の憶測報道もなされた。
2007年、歌手時代に発表した全19枚のオリジナルアルバムがCDで復刻され、購入特典のメッセージ入りCD「声の手紙」(非売品)の中では、かつてのオリジナル作品3曲を間に挟む形で語り、およそ10数年ぶりに肉声を披露している。また2008年には、過去のライブアルバム9枚もCD化され、これに1979年にNHKで放送された『ビッグショー/桜田淳子 明日への序曲』のDVDを加えた『桜田淳子BOXスーパー・ライブ・コレクション』が発売されている。
2013年5月28日、サンミュージック代表取締役会長:相澤秀禎の通夜に参列し、16年半ぶりに公の場に現れた[18]。
同年10月23日、デビュー40周年を記念し、本人自薦のベストアルバムにTV映像集を加えた『Thanks 40 〜青い鳥たちへ』を発売。11月26日には銀座博品館劇場にて「Thanks 40スペシャル〜ファン感謝DAY」を開催し、約21年ぶりにファンとの交流を果たした。
2017年4月7日、銀座博品館劇場で開催された『スクリーン・ミュージックの宴 with ピアニスター・HIROSHI』にゲスト出演し、80年代に主演したミュージカル「アニーよ銃をとれ」の主題歌である「ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)」や、自身33枚目のシングル「化粧」など全5曲を披露。チケットが数分で完売するなど、現在も衰えぬ人気を証明した。
2018年2月7日、桜田淳子プロジェクトを発表。同年2月25日に35年ぶりの新録アルバム「マイ・アイドロジー」をリリース。同年3月21日にベストアルバム「Thanks45~しあわせの青い鳥」をビクター・エンタテイメントより発売、3月27日に銀座博品館劇場にて「"マイ・アイドロジー"スペシャル~ありがとうのかわりに」を開催した。
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
スタジオ・アルバム
- 2007年に、シングル盤の別テイクやオリジナルカラオケ等のボーナストラックを加えて、それぞれCDで復刻された。
- 各CDごとに2007年の桜田淳子へのインタビューを交えたライナーノーツがつけられている。
カバー・アルバム
- 2007年に、シングル盤の別テイクやオリジナルカラオケ等のボーナストラックを加えて、それぞれCDで復刻された。
- 各CDごとに2007年の桜田淳子へのインタビューを交えたライナーノーツがつけられている。
ライブ・アルバム
- 2008年にCD-BOX『桜田淳子BOX〜スーパー・ライブ・コレクション〜』で復刻された。
ベスト・アルバム
CD-BOX
#
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発売日
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タイトル
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備考
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規格品番
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2000年代
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1st
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2003年9月21日
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桜田淳子BOX〜そよ風の天使〜
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全シングルAB面のリマスター音源、及び15曲のオリジナルカラオケを収録したCD全5枚に、シングルの歌唱映像を年代順にほぼ網羅したDVD(53分)1枚を加え、限定1万セットで発売された。 桜田淳子本人を始め、阿久悠、中島みゆき、歴代担当ディレクター等がコメントを寄せたブックレットや、全シングルの縮小版ジャケットも収められている。 定価15,750円(税込)
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VIZL-92
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2008年9月24日
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完全受注生産による上記BOXのアンコールプレス盤。定価、及び収録内容等は同一である。
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2nd
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2008年8月6日
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桜田淳子BOX〜スーパー・ライブ・コレクション〜
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過去に発売された全てのライブ盤、及び主演映画「遺書・白い少女」のサントラ盤のリマスター音源を収録したCD全9枚と、1979年にNHKで放送された「ビッグショー」の模様を完全収録したDVD1枚が収められている。 尚、サントラ盤にはボーナストラックとして、シングルB面のオリジナルカラオケを5曲収録。
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VIZL-289
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2010年代
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3rd
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2013年10月23日
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桜田淳子Thanks 40 〜青い鳥たちへ
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デビュー40周年記念のアニバーサリーベストアルバム。 自らが監修した、10代のアイドル時代の曲を中心とした「THE IDOL」と今ステージを行うとしたらというコンセプトで選曲した「THE FAVORITE」の2枚のCD、それにTBS「8時だョ!全員集合」の歌唱シーンなど貴重な映像が収められたDVDの3枚組アルバム。 また「スペシャルBOOK」には桜田淳子本人からの書き下ろしメッセージが添えられている。
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VIZL-568
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4th
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2018年3月21日
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桜田淳子Thanks 45 〜しあわせの青い鳥 The Live Anthology
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デビュー45周年記念のアニバーサリーベストアルバム。 ライブ音源の中から自らが選曲した2枚のCD、文化放送「セイ!ヤング」の音源を収録したボーナスCD、NHKや渡辺プロダクションが保有するテレビ番組の歌唱シーンなど貴重な映像が収められたDVDの計4枚組アルバム。 また「スペシャルBOOK」には桜田淳子本人の書き下ろしメッセージ、ライナーノーツ、特別座談会が収録されている。
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VIZL-1333
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参加作品
発売日
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タイトル
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楽曲
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規格品番
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備考
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発売元
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1975年
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君を奪いたい
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「春の恋人たち」
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SV-1229
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山本明のデビューシングル。桜田がデュエット参加している。
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ビクター音楽産業
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タイアップ曲
出演
NHK紅白歌合戦出場歴
NHKみんなのうた出演歴
歌番組
コンサート
【ワンマンショー】
- 桜田淳子ショー ひとり歩き(1975年4月25日 - 5月1日 日劇)
- 桜田淳子ショー 淳子の四季(1976年4月24日 - 4月30日 日劇)
- 桜田淳子ショー はばたけ若い人!(1977年4月26日 - 5月2日 日劇)
- 桜田淳子ショー 淳子満開!(1978年4月25日 - 5月1日 日劇)
- スーパーライブ!桜田淳子 さわやかな青春(1979年4月25日 - 5月1日 日劇)
【リサイタル】(主な公演のみ)
- 桜田淳子16歳のリサイタル(1974年 渋谷公会堂)
- 桜田淳子リサイタル2 ビパ!セブンティーン(1975年 文京公会堂 他)
- 青春賛歌〜桜田淳子リサイタル3(1976年 中野サンプラザ 他)
- 桜田淳子リサイタル4 ラブ・トゥゲザー(1977年 東京芝郵便貯金ホール 他)
- 桜田淳子リサイタル5(1978年 東京芝郵便貯金ホール 他)
- 桜田淳子スーパーライブ リサイタル6(1979年 渋谷公会堂 他)
- 桜田淳子らいぶ 私小説(1980年 博品館劇場)
- いなたいコンサート Misty Night(1981年 日比谷野外音楽堂)
- 桜田淳子ハプニングショー ようこそ10YEARS(1982年 渋谷公会堂)デビュー10周年記念コンサート
【ジョイント】
映画
舞台
ドラマ
【レギュラードラマ】
【単発主演ドラマ】
- 東芝日曜劇場(TBS)
- 第1119回「初恋通りゃんせ」(1978年)
- 第1337回「城下町の夏」(1982年)
- 第1375回「花咲く街で」(1983年)
- 第1494回「おーい春子」(1985年)
- 第1509回「プロポーズをもういちど」(1985年)
- 第1560回「女マンガ家故郷へ帰る」(1986年)
- 土曜ワイド劇場(テレビ朝日)
- 「わかれ道〜ある朝炎のように」(1978年)
- 「魚たちと眠れ 洋上女子大学殺人事件」(1978年)
- 「裏窓の花嫁」(1986年)
- 夫婦は夫婦「魔が過ぎた時」(1981年、フジテレビ)
- 女優シリーズ 妻たちは……「ふりむけば春」(1982年、フジテレビ)
- 月曜ワイド劇場「かりそめの妻」(1982年、テレビ朝日)
- 火曜サスペンス劇場(日本テレビ)
- 「危機一髪の女」(1982年)
- 「遅すぎた手紙」(1984年)
- 「海よ眠れ・PARTII〜愛と青春の輝き」(1984年、TBS)
- 水曜ドラマスペシャル(TBS)
- 「湖に立つ女」(1986年)本編冒頭で原作者の 夏樹静子 本人が「ナツキ先生=役名」としてゲスト出演 [ノン・クレジット]
- 「遺言を頼まれた女」(1987年)
- 「麗子の決闘〜銃口に愛をこめて」(1992年)
- 金曜女のドラマスペシャル「悪魔からの通告」(1986年、フジテレビ)
- 日本放送作家教会脚本公募入選作「いもうと〜異父妹〜」(1989年、NHK総合)
- 水曜グランドロマン(日本テレビ)
- 「思春期外来」(1989年)
- 「合鍵の女」(1991年)
- 世にも奇妙な物語(フジテレビ)
- 「ゴミが捨てられない」(1990年)沢田薫役
- 「8時50分」(1991年)広美役
- 月曜ドラマスペシャル「警察官の妻たち」(1991年、TBS)
- 火曜ミステリー劇場『黄金の犬』(1991年、テレビ朝日)北守礼子役
- 木曜ゴールデンドラマ(よみうりテレビ)
- 「ハンサムガールズ〜いい女は夜眠れない」(1991年)
- 「ハンサムガールズII〜結婚は女が選択する」(1991年)
- 「株式会社の妻たち」(1991年)
- 土曜ドラマ「オバサンなんて呼ばないで!」(1992年、NHK総合)野村洋子役
- 本当にあった怖い話「死の声が聞こえる」(1992年、テレビ朝日)
- 旅情サスペンス「函館幸坂・ふたりの女」(1992年、フジテレビ)
【単発ゲスト出演】
CM
バラエティ番組
【レギュラー】
[音楽バラエティショウ特別企画これが音声多重放送だ!](1978年)
ラジオ
映像作品
VHS
DVD
- カリキュラマシーン ベストセレクション VOL.1 - VOL.3(バップ)
- 日本テレビ SPECIAL PRESENTS『スター誕生! CD&DVD-BOX』(バップ)2011年3月発売
- Masako / Junko / Momoe Memorial Box 「初恋時代 / 出発(たびだち)」(ソニー・ミュージック ダイレクト)2011年8月発売
病院坂の首縊りの家
玉ねぎむいたら…
花の降る午後
はらぺこ同志
独眼竜政宗
居酒屋兆治
水戸黄門
オーロラの下で
池中玄太80キロIII
澪つくし
どっこい大作
写真集
- 『ためらい―恋する人へ 桜田淳子写真詩集』 ワニブックス 1980年
- 『JUNKO―JUNKO SAKURADA 30,SECOND BIRTHDAY』 小学館 1988年
『あなたと淳子の詩集7594人のコーラス』レオ企画 1977年
著作
受賞歴
- 1973年度
- 1974年度
- 1975年度
- オリコン・シングルレコード年間売り上げ 女性歌手個人 第1位
- ブロマイド売り上げ 女性歌手部門 第1位
- 横浜音楽祭 大衆賞受賞
- 日本テレビ音楽祭 トップ・アイドル賞
- あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 ベストアクション賞
- FNS歌謡祭 最優秀歌謡音楽賞(下期) 「天使のくちびる」
- 日本歌謡大賞 放送音楽賞 「天使のくちびる」
- 日本レコード大賞 大衆賞 「『十七の夏』他一連のヒット曲」
- 1976年度
- 日本テレビ音楽祭 敢闘賞受賞
- あなたが選ぶ全日本歌謡祭 ベストアクション賞
- 日本歌謡大賞 放送音楽プロデューサー連盟賞 「夏にご用心」
- 1977年度
- 日本テレビ音楽祭 特別賞受賞
- 新宿音楽祭 ベスト10受賞
- あなたが選ぶ全日本歌謡祭 ベストアクション賞
- 日本歌謡大賞 放送音楽プロデューサー連盟賞 「もう戻れない」
- 日本レコード大賞 大賞候補曲ベスト10選出 「気まぐれヴィーナス」
- 1978年度
- 日本テレビ音楽祭 グランプリ候補
- あなたが選ぶ全日本歌謡祭 男性視聴者賞 「20才になれば」
- FNS歌謡祭 歌謡音楽賞 「20才になれば」
- 全日本有線放送大賞 優秀スター賞 「20才になれば」
- 日本歌謡大賞 放送音楽プロデューサー連盟賞 「20才になれば」
- 日本レコード大賞 金賞 「しあわせ芝居」
- 1979年度
- 1980年度
- 日本テレビ音楽祭 グランプリ候補
- 昭和55年度 第35回文化庁芸術祭 大衆芸能第2部門 優秀賞 ミュージカル「アニーよ銃をとれ」における演技に対して。
- 1981年度
- 1986年度
受賞理由 「ミュージカル『アニーよ銃をとれ』の演技は、優れた女優としての地位を確実に獲得したといえる。
また『エドの舞踏会』『十二夜』でもその実力が開花し、今後がいよいよ期待される。」
- 1987年度
- 1988年度
- 1990年度
- 第14回日本アカデミー賞 助演女優賞 映画『花の降る午後』の演技
- 1991年度
- 第12回日本文芸大賞 ルポルタージュ賞 シルクロード探検ルポ『神様がくれた贈り物』
- 1993年度
- 第67回キネマ旬報ベスト・テン 助演女優賞 映画『お引越し』の演技
- 第48回毎日映画コンクール 助演女優賞 映画『お引越し』の演技
- 第18回報知映画賞 助演女優賞 映画『お引越し』の演技
脚注
注釈
- ^ テレビ予選・決戦大会の映像は現存していないが(写真と決戦大会の音声のみのテープは存在)、秋田での1次審査(司会者の萩本欽一が直接現地に出向いた)の模様を撮影した映像(16mmフィルムで録画)は現存している。
- ^ 後に『スター誕生!』に挑戦した山口百恵も牧葉の「回転木馬」を歌った。
- ^ 挑戦者は7人で、合格ラインは250点。会場が500点、プロは各自100点の計500点で、合計が1000点満点。
- ^ 霊感商法の被害額が最大となったのは、桜田らが合同結婚式に参加した翌年の1993年であった[16]。
出典
関連項目
外部リンク
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シングル | |
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スタジオ・アルバム | |
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ライブ・アルバム | |
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ベスト・アルバム(LP) | |
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ベスト・アルバム(CD) | |
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出演テレビドラマ | |
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出演映画 |
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主なレギュラー番組 | |
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第11回 - 第20回 (1969年 - 1978年) | |
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第21回 - 第30回 (1979年 - 1988年) | |
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第31回 - 第40回 (1989年 - 1998年) | |
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第41回 - 第50回 (1999年 - 2008年) | |
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第51回 - 第60回 (2009年 - 2018年) | |
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第61回 - 第70回 (2019年 - 2028年) | |
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注釈
第1回から第10回までは制定なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表 (ただし第32回に限り演歌、歌謡曲、ポップス、ロックの4部門に分けて発表した)。
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