たまは、日本のフォークロック・バンドである。1984年に3人で結成され、1986年に4人体制となり、1990年にメジャーデビュー、たま現象とも言われるほど話題となった。1996年から再び3人になり、2003年に解散した。
元来は単独で活動していた音楽家の集まりであり[2]、石川曰く「ソロアーティストの集まりで自作曲自分ボーカル制」[3]を採っていた。
バンドを結成する前から、それぞれが独自に音楽家として活動していた。1981年6月頃、北千住のライブハウス「甚六屋」で知久と石川が知り合った(知久は当時高校生)。1982年12月に知久が両国のライブハウス「両国フォークロアセンター」で柳原と出会った。これらの相次ぐメンバーの出会いが、たま結成の切っ掛けとなった[4]。
1984年11月11日、大久保のライブハウス「オフオフ新宿スタジオ・ジャムII」での「地下生活者の夜」というライブイベントで知久、石川、柳原が「かき揚げ丼」という仮バンド名でライブを行い、これをきっかけに「たま」を結成した。石川によると、「たま」というバンド名に決定した背景には、ソロの音楽家の集まりから発展したバンドであり、楽曲の作者によって音楽性が大きく異なることから、バンド名から音楽性が類推されることのないバンド名にしたいという意図があったという。また、略されたり間違えて覚えられたりしないような短い名前にしたいという理由もあった[5]。しかし、とある情報誌のライブハウスのライブ出演者一覧に「また」と間違って記載されたことがある。なお、「かき揚げ丼」のライブは、たまの1stカセットテープ『またたび』として販売された[注釈 1]。「たま」というバンド名で初めてライブを行ったのは、1984年12月5日の「オフオフ新宿スタジオ・ジャムII」で開かれたコンサート「On Christmas GIG '84 BYE BYE」でのことだった。
1986年6月にメンバーの憧れのライブハウスである吉祥寺の「曼荼羅」で「3丁目ジャグ・バンド」の前座として初出演し、演奏を見たマスターからレギュラー出演を打診され、レギュラー出演するようになった[4]。8月のツアーの後、フランス料理店に就職していた柳原が真剣に脱退したいと申し出た。それでも、知久が脱退を思い止まる様に熱心に説得、バンドに留まる条件にベースを入れて欲しいとしたため、ベーシストを募集した。そして同年11月、当時ソロで音楽活動をしており、たまのメンバーとも面識があった滝本がただ一人応募してきて加入し、4人編成になった。なお、滝本にはそれまでベースの演奏経験がなかったが、「既にたまは完成されているバンドだった。誰かが入ってこのバランスが崩れるくらいなら、自分が入ろうと思った」という理由で応募した。滝本は当時、Closed.G.show(クローズド・ジー・ショウ=自閉症のもじり)なるバンドを組んで活動していたが、たまのベーシスト応募時、滝本以外のメンバーは逃げて滝本は一人となり、もはやバンドの体をなしていなかったため、応募しやすかったのもあったと思われる。滝本加入で楽曲に深みが出た。この4人編成での初のライブは同年12月2日に開かれた「曼荼羅」でのコンサートでのことだった。ただし、このライブでは滝本は一部でしか演奏に参加しなかった。滝本が本格的に参加した初のライブは1987年1月29日の「曼荼羅」でのコンサートのことで、このときの録音をインディーズレーベル「ナゴムレコード」に送付した。たまがデモテープを送ったのはこれが初めてのことだった。それから数ヵ月後の11月、オムニバスアルバムへの参加を依頼され、それ以降、ナゴムレコード関係の活動も増加していった[4][6]。
1989年11月11日、吉祥寺のライブハウス「MANDARAII」での定例コンサートの後[4]、ナゴムから発売されるLP「しおしお」のプロモーションを兼ねてTBS系深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演した。人気番組であったイカ天への出演はメンバー間でも意見が割れており、何度話し合っても結論は出ず(知久・石川は「出るべき派」で柳原・滝本は「出なくてもいい派」であった)、業を煮やした当時のマネージャーとしてたまの金銭管理担当で、並行してシンガーとしても活動していて、現在は石川、知久が在籍する「パスカルズ」のメンバーであるあかねが未承諾でデモテープを番組に送ったことで番組出演が決定された[4]。キノコのような髪型・チャンチャンコ・下駄履き姿の知久や山下清を彷彿とさせる体型・服装の石川の個性的な容姿、キャッチフレーズの“かなしい気持ちはとっても不安定”を体現するかのような楽曲「らんちう」でインパクトを与えた。登場時のナレーションでも「また危ないのがやってきた」と紹介されている。この時期は“色物”にカテゴライズされるバンドの登場が目立った[注釈 2]ことから、この回のスタジオには「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」という横断幕が掲げられていたが、たまは完奏を果たした。審査員の吉田建はオリジナリティを評価する発言をし(しかし「オリジナリティがあるのが良かったですね...」と発言したきり俯いてしまい、最終審査でも吉田はサイバーニュウニュウに投票している)、中島啓江は「“能ある鷹は爪を隠す”かもしれない」「涙出てきちゃった、それと同時に笑いも出てきちゃった」、グーフィ森は「変でしたね。こういうの分かるって言っちゃいけない、分からないんだけどいい」と評した。この回は番組史上初の外国人バンドTOKIO ROSEがチャレンジャー賞を有力視されていたが、これに競り勝って見事チャレンジャー賞を獲得、サイバーニュウニュウを審査員投票5対2で倒して14代目イカ天キングとなった。当時柳原の家にはテレビが無かったために番組のシステムすら把握しておらず、翌週も出演することもよく理解していなかった。
キングとなったたまは、2週目(11月18日放送分)にのちに大ヒットとなる「さよなら人類」を歌い、審査員7名全員の支持を獲得して、チャレンジャーの高校生バンドTRIDENTに圧勝。その後も3週目(11月25日放送分)には「オゾンのダンス」で坂本プロジェクトを、4週目(12月2日放送分)には「ロシヤのパン」でTimeless Childrenを下し、3代目グランドイカ天キングにリーチをかけた。5週目(12月9日放送分)に登場したのが、グラムロック・バンドのマルコシアス・バンプ(楽曲は「バラが好き」)である。彼らの演奏は審査員の絶賛を受け、圧倒的な差でこの回のチャレンジャーに選ばれた。キングとして迎え撃ったたまの楽曲「まちあわせ」は、最小限の楽器編成による短い楽曲で、マルコシアス・バンプの煌びやかで重厚な楽曲・演奏とは対照的であった。司会の三宅は「意外な曲」「五週目にこの曲で来ることはないのに」と評し、マルコシアス・バンプのボーカル・ギター担当の秋間経夫には「だってすごいんだもん」と言わしめた。たまの4人は勝ちを狙うつもりは一切なく、「勝っても負けてもどうせこれが最後」「ならば思い切り茶化そう」という理由で「まちあわせ」を演奏することにしたが、結果は審査員投票4対3でたまが制し、5週連続勝ち抜きを達成、第3代グランドイカ天キングの座に輝いた。このことについて後に石川は「流れっちゅうもんは怖い」と話し、知久も「いつも評価してくれない審査員の吉田建さんが俺らに(審査の札を)上げちゃった」と語っている。
メンバーはこれまでは音楽活動と並行して別にアルバイトや仕事をしていたが、たまの人気が沸騰したことから音楽活動に専念するため退職した[7]。1990年、シングル『さよなら人類/らんちう』でメジャーデビューを果たした。宝酒造「純アレフ」のCMソングに採用され、オリコン初登場1位、売上約60万枚を記録し、NHK紅白歌合戦への出場も果たす[8][9]。バンドは「たま現象」と呼ばれる社会現象的な人気を獲得し、「たま現象」の語は1990年の『現代用語の基礎知識』にも収録された。複数の楽器を演奏し、大衆音楽的要素と前衛音楽的要素を兼ね備えていたことから、バンドをビートルズに擬する言説も存在する[10][11][12]。また、1992年に友部正人との共作『けらいのひとりもいない王様』をリリースした。
1992年、所属事務所の契約更新をきっかけに、自分たちの表現を貫徹したいという意図から個人事務所「たま企画室」を設立し[13]、レーベルも日本クラウンから東芝EMIに移籍した。この時期にはバンドブームも下火になり、「オゾンのダンス」以降は次第にヒットチャートやメディアに現れることもなくなっていったが、マイペースに活動を続けた。「曼荼羅」系列のライブハウスでの「たまの月例会」と称した月一回の定期ライブも行っていた[6](2002年1月まで)。また、ライブハウスや会館などのコンサートホールだけでなく、普段はライブの行われることのない寺や酒蔵、洞穴と言った場所でもライブを行う「どこでもツアー」と称したライブツアーも実施した[13]。
1995年、自主レーベル「地球レコード」を設立し、6thアルバム『そのろく』をリリースした。石川によると、インディーズ・レーベルを立ち上げた背景には、レコード会社などが自主的に行っていた「放送禁止用語」の規制を回避する意図があったという[13]。同年、初の海外公演としてニューヨークでのライブが開催されることと、異なる方向性の音楽を始めたくなった柳原の脱退が発表された。この年の初頭には柳原から他の3人に脱退の意思が伝えられていたという。このことについて石川は「喧嘩をして仲がこじれての脱退なら関係の修復などもできたかもしれないが、純粋に他のことがやりたくなってしまったのなら仕方がない」と考えていたという。同年12月24日に開催されたライブ「たまのお歳暮'95」を最後にソロ活動に専念するため柳原が脱退した[13]。
柳原の脱退により、1996年から3人での活動となった(通称「3たま」と呼ばれる)。その後のライブでは斉藤哲也 (undercurrent, Nathalie Wise) やライオンメリィ(ヴァージンVS、ヤプーズ、メトロファルス、エコーユナイト)らをキーボードのサポートとして迎えた。CDではそれまで電気楽器は滝本のエレキベースだけだったが、サポートミュージシャンを導入して以降、エレキギターやシンセサイザー等の電気楽器を使用し、今までのたまのアコースティック楽器を用いた音楽性を残しつつ新たなサウンドを展開した。その一方で、サポートミュージシャンを入れず、アンプや電源が不要でなおかつ携帯しやすい小型の楽器を用いて、より手軽でチープな雰囲気を狙った「しょぼたま」という編成でもライブを行った[14]。
柳原がボーカルを務めていた楽曲はレパートリーからは排除され、柳原が担当していたコーラスのパートは石川と滝本が分け合う形で担当していくようになったが、たまから柳原が脱退したという事実はファン以外の人間には浸透していなかった部分もあり、営業などに呼ばれた際に「『さよなら人類』をやってくれ」と依頼されて困ったことが何度かあった。
1996年6月26日、フジテレビ系アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマとして制作されたシングル『あっけにとられた時のうた』でメジャーレーベルに復帰。
1997年7月23日、吉田戦車の漫画『ぷりぷり県』のイメージアルバム『パルテノン銀座通り』をリリース。
1999年3月、劇団ナイロン100℃の舞台『薔薇と大砲~フリドニア日記#2~』に出演、役者および劇中曲を担当。
2001年、NHK教育テレビ『おかあさんといっしょ』挿入歌「ハオハオ」の作曲・演奏を担当[注釈 3]。5月に番組のファミリーコンサートにゲスト出演し、「ハオハオ」で歌のおにいさん(杉田あきひろ)・おねえさん(つのだりょうこ)と共演し、知久は2番以降でボーカルも担当した。この他、栗原正己作曲の「あめふりりんちゃん」では栗コーダーカルテットとも共演した。このときの模様は、番組からビデオ・DVDが発売されている。7月、劇団ナイロン100℃主宰ケラリーノ・サンドロヴィッチ作の舞台『室温〜夜の音楽〜』に出演、役者および劇中曲を担当。
2003年3月、俳優の近藤芳正が主宰する劇団ダンダンブエノのダンス公演『いなくていい人』に出演。5月、ホリプロ×ナイロン100℃ SPECIAL SESSIONミュージカル『ドント・トラスト・オーバー30』に出演。劇中の演奏を担当し、サウンドトラック盤が7月25日に『しょぼたま2』というタイトルでリリースされた。5月、ダンス公演『いなくていい人』の練習期間に知久が脱退を口にした。石川によれば、マンネリズムによりたまとしての活動に新鮮味がなく、メンバー全員が解散を考えており、いつ誰の口から解散が切り出されてもおかしくない状況だったという[3]。10月28日・30日・31日に行われた吉祥寺STAR PINE'S CAFEでラストライブ「たまの最期!!」をもってたまは解散した。解散公演の最終日、ホフディランのワタナベイビーが飛び入り参加し、柳原脱退以後封印されていた「さよなら人類」も演奏された。石川によれば、「さよなら人類」を演奏した理由は、飛び入りで参加した泥酔していたワタナベイビーが突発的に「さよなら人類」を歌い始めたのが原因であり、前もって意図したものではなかったという[3]。その後もワタナベイビーは3人に会うたびにこの時のことを謝っているという。アンコールとして最後に演奏した曲は「ヒゲのある暮らし」だった。
メンバー間の関わりがあるもののみ記載する。
そのほか、柳原を除く知久・石川・滝本の3人は各々のライブイベントで共演したり、数曲のみセッションや「一時的な再結成」ライブもたびたび行っている。
上記以外では、タイのチェンマイで石川と知久がたびたびセッションを行ったり、誕生日イベントで各メンバーが共演している。また、公の場での共演はないものの、知久が柳原と飲み屋で偶然遭遇して2人で話し込んだというエピソードや、石川が柳原と4人でのラストライブ以来24年振りに再会したことなどが石川のホームページで明かされている[24]。
ファンクラブ会員に配布された8cmCD(非売品)。
1.さよなら人類/らんちう - 2.オゾンのダンス - 3.夕暮れ時のさびしさに - 4.海にうつる月 - 5.きみしかいない - 6.そんなぼくがすき - 7.リヤカーマン - 8.星を食べる - 9.ふしぎな夜のうた - 10.日曜日に雨 - 11.あっけにとられた時のうた - 12.学習 - 13.ゆめみているよ - 14.汽車には誰も乗っていない
1.またたび - 2.ねこばば - 3.ふろく - 4.さるぼぼ - 5.たゆたひ - 6.たまてばこ
1.でんご - 2.しおしお
1.さんだる - 2.ひるね - 3.きゃべつ - 4.犬の約束 - 5.ろけっと - 6.そのろく - 7.たま - 8.パルテノン銀座通り - 9. いなくていい人 - 10.東京フルーツ - 11.しょぼたま - 12.しょぼたま2
まちあわせ - Best Selection - たまセレクション - たま ナゴムコレクション
たま・ライヴ・イン・ニューヨーク
けらいのひとりもいない王様 - ねこばば - 室温〜夜の音楽〜 - 学習・ゆめみているよ
野球 - ビデオクリップ集 - 犬の約束 ツアー・ビデオパンフレット - '94.8.19 九段会館大ホール たまファンクラブの集い<<東京>> - どこでもツアー95ドキュメント - たまのお歳暮95 - どこでもツアー96ドキュメント - たまのお歳暮97 - しょぼたま - History of Tama 15 - たま、ネパールへ行く - たまの温故知新 さんだる編 - たまの温故知新 ひるね編 - たまの温故知新 きゃべつ編 - たまの温故知新 犬の約束編 - たまの最期!!
ナゴムレコード - 日本クラウン - EMIミュージック・ジャパン - NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン - 地球レコード - 三宅裕司のいかすバンド天国
第1回から第10回までは制定なし。第32回から第34回までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表(ただし第32回に限り演歌、歌謡曲、ポップス、ロックの4部門に分けて発表した)。
三宅裕司・相原勇
初代:SLUT&SLASH BAND|2代目:GEN|3代目:☆FLYING KIDS|(仮:パニック・イン・ザ・ズゥ)|4代目:イエロー太陽s|5代目:RABBIT|6代目:JITTERIN'JINN|7代目:セメントミキサーズ|8代目:突撃ダンスホール|9代目:ダイヤモンズ|10代目:宮尾すすむと日本の社長|11代目:NORMA JEAN|12代目:☆BEGIN|(仮:カブキロックス)|13代目:サイバーニュウニュウ|14代目:☆たま|15代目:☆マルコシアス・バンプ|16代目:Stone Crazy|17代目:THE BOOTS|18代目:RAMBLE-FISH|19代目:☆LITTLE CREATURES|20代目:SOLID BOND|21代目:LANPA|22代目:悪名エレキショー|23代目:ジョリーロジャー|24代目:COLLAGE|25代目:☆BLANKEY JET CITY|(仮:P-MACHINE)|26代目:☆PANIC IN THE ZU:|27代目:GLU|28代目:EDITION DELUXE
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