由美 かおる(ゆみ かおる[3]、1950年〈昭和25年〉11月12日[2][3][4][5] - )は、日本の女優、歌手。本名:西辻 由美子(にしつじ ゆみこ)。戸籍上の名前では由美 薫と表記される場合もある[要文献特定詳細情報]。
京都府[4]京都市生まれ[3]、6歳から兵庫県川西市で育つ[6]。血液型A型。身長157cm。体重44kg。スリーサイズはB86cm W58cm H86cm。本人によると、スリーサイズはデビュー当時(15歳)から現在までほぼ変わっていないという[2]。私立梅花高校中退[2]。株式会社Made Born Japanと業務提携。
1962年、小学6年生の時に「西野バレエ団」へ入団[7][4]。1966年に『11PM』で歌って踊れる歌手[注釈 1]としてデビューし[4][8]、抜群のプロポーションと愛らしい風貌と網タイツ姿で人気を集める。同年の『まんがシンチョー』にも出演[4]。
1967年の金井克子や奈美悦子らと「レ・ガールズ」結成後は、音楽番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)に共演し[4]、ミニスカート姿でマリリン・モンローのレパートリー等を歌って踊るシーンが話題を呼んだ。単独では他にも『ヤング720』(東京放送(TBS))などのレギュラー番組や映画、ステージ出演などで多忙となった[8]。
歌手としては、1967年からのクラウンレコードを皮切りに、フィリップス・レコード、ミノルフォン、コロムビア・レコードと転籍する中で、『レモンとメロン』『炎の女』『しなの川』(後述する同名映画の主題歌)『別れる前に』『ちぎれ雲』などを発表する。
女優としては、1966年に映画『夜のバラを消せ』でデビュー[4]。22歳で出演した1973年の映画『同棲時代-今日子と次郎-』で初ヌードを披露し、由美の後ろ姿のヌードを載せたポスターも話題になった[8]。また、「同棲」という言葉が流行して本作は社会現象にもなり、結果として由美が本格的な女優に脱皮する作品となった[9]。
同年には映画『しなの川』にも出演、美しい和服姿と大胆なオールヌード、処女喪失シーンが話題となった[4]。他にも1974年の『ノストラダムスの大予言』『エスパイ』[3]、1976年の『超高層ホテル殺人事件』でもヌードを披露している。同年東映の大ヒット映画「トラック野郎シリーズ」4作目『トラック野郎・天下御免』のマドンナ役で出演、同時に『夜のひとりごと』が挿入歌として使用された。
1986年から、人気時代劇『水戸黄門』に「かげろうお銀」役でレギュラー出演[4]。なお、同シリーズには、「かげろうお銀」役以前から何度もゲスト出演をしていた。番組の中で披露される由美の入浴シーンは名物となり(後述)、「疾風のお娟」と名前を変えて活躍した[2]。1986年11月10日草の根保守運動として開催された「天皇陛下御在位60年大奉祝祭」の銀座七丁目前の式典で挨拶をしている[10]。
『水戸黄門第41部』(2010年4月12日 - 6月28日)をもって、同ドラマのレギュラー出演を降板することを正式に発表した。
2019年3月27日に37年振りとなるニューアルバム『Jewel Box』を発売、キャリア初のインストアライブを開催し、アコーディオンでの弾き語りも披露した[11][12]。これをきっかけに歌手活動を再開し、以後不定期ではあるが、ジャズコンサートを開催している。
2022年2月、59年間在籍した西野バレエ団を退団した。
遡って『水戸黄門』シリーズ出演終了後から東京都港区で暮らしていることから[8]、2023年4月に東京都港区の観光大使に任命された[13][14]。
京都で青果店を営む両親と、祖母、3人きょうだい(兄が2人いる)の末っ子として育った[8]。3歳頃からバレエを習い始め、6歳で兵庫県に引っ越してからはバレエの他、ピアノと歌も習い始め、そろばん塾にも通った[8]。
小学6年生の時、友だちに誘われて大阪にあった西野バレエ団に入団し、創始者の西野皓三と出会う[8]。中学3年生の頃、当時テレビ番組の企画や振り付けを手掛ける西野から「『11PM』で歌って踊るコーナーができたから出てみないか?」と勧められた[8]。父から芸能界入りを猛反対されたが、ハンガーストライキをしたり、西野の説得によりデビューが決まった[8]。
『11PM』ではミニスカートに網タイツ、ハイヒールで溌剌とした姿で、ドリス・デイの「ティーチャーズ・ペット」を歌いながら踊った[8]。由美のクリクリした目の愛らしい顔も相まって、視聴者から「あのかわいい子は誰?」との問い合わせが殺到した[8]。その後も仕事の依頼が続いて本格的に芸能活動をするため16歳で上京し、女性マネージャーと共同生活を始めた[8]。
『水戸黄門』シリーズには、初代黄門(東野英治郎)時代にゲストで6回出演した後、2代目黄門(西村晃)の時に「かげろうお銀」としてレギュラー出演を開始[15]。ゲスト出演した時点で入浴シーンはあったが、お銀になった当初は入浴シーンは毎回ではなかった[15]。由美によると、とあるクイズ番組で「お銀は何時何分にお風呂に入るか?」というクイズが出された[15]。この話を聞いた『水戸黄門』のプロデューサーが、「そんなに話題になっているなら、毎回お銀をお風呂に入れよう」ということになり、お銀の入浴シーンが定番化したという[15]。
『水戸黄門』シリーズの入浴シーンは、1986年4月の初披露[注釈 2]から2010年に降板するまでの24年間で計204回を数えた[16]。これは極めて異例であり、2022年現在「1ドラマシリーズにおける1俳優の入浴シーン放映回数の世界最多記録」として、ギネス・ワールド・レコーズに申請中である[16]。ゲスト出演を経て、水戸黄門一行に「かげろうお銀」としてレギュラー入りする回では、黄門との混浴シーンを演じている[16]。ちなみに『水戸黄門』の入浴シーンでは、ベージュの水着を着ていた[16]。
降板後のシリーズでは由美の実質的後継者として、同年秋から放送予定の水戸黄門第42部から雛形あきこが新キャラクター(由美が演じてきた役とは別の新しい役)として起用された。また、第1話と第22話で由美がゲスト出演し、新旧両女優が共演することも決まった[17]。
『水戸黄門』シリーズでお銀が着る忍者の衣装デザインは、本人の考案。バレエの網タイツに、着物をミニスカート風に短くした衣装を考え、そのデザインを洋服屋に持ち込んで製作してもらった[注釈 3]。また、本人の中で「ミニスカート=お銀」のイメージがあったことから、同役を演じていた時期の私生活では敢えてロングスカートを穿いて脚を見せないようにしていた[16]。
合気道四段の猛者でもあり、本人は後に「お銀役では合気道とバレエの経験が役に立った」と回想している[16]。このため本作では、今尚華麗なアクションでお茶の間を楽しませているアクション女優としての一面もある。『水戸黄門』シリーズに出演していた頃は、撮影場所である京都で25年間暮らしていた[8]。
先述の通り、現在(2022年時点で72歳)もデビュー当時と変わらぬ体型を維持している[16]。本人は、「仕事で決まった時間に食事ができない中で若さを保ちつつ健康でいられるのは呼吸法のおかげ」としている。
毎朝、ブリージングと合わせてストレッチも行っており、本人によると72歳になった現在(2022年)でもY字バランスができるという[16]。日常生活では食事制限などはしておらず、好きなものを好きなだけ食べている。特に米が大好き[16]。また、同団の退団後に「みんなにも健康で美しくなってほしい」との思いから、美と健康をテーマにした「由美かおるのブリージング(呼吸法)レッスン」を始めた[16]。このブリージングは上記呼吸法を高齢者にも無理なくできるようアレンジしたものを用いており、介護施設などで伝える活動をしている[16]。
昭和40年代には、アース製薬(大塚グループ)の蚊取り線香「アース渦巻」のCMキャラクターとして起用されていた。この宣伝を兼ねたホーロー看板は、ほとんど必ずと言っていいほど水原弘の「ハイアース」(稀に松山容子の「ボンカレー」[18])と一対になって街中いたる所に貼り出され、現在でも運が良ければ鄙びた山間部のバス停や古い農家の土壁などで目にすることができる。
グラビア撮影についてはヘソ出しがNGのようで、ヌードであってもヘソを見せていない。
歌手活動時に、後にガロに参加するMARKこと、堀内護が在籍していた「ジ・エンジェルス」がバックバンドを務めていたことがあった。
1960年代後半に『ヤング720』でイタリアの取材で知り合ったレコード会社の社長からの依頼により[8]、現地でレコードを発売[8]。ヴェネツィア音楽祭で歌を披露すると反響が大きかったことから、ブラジルやチリの音楽祭にも招待された[9]。
出身地、兵庫県川西市の源氏のふるさと大使などを務める。
1979年7月21日、羽田から和歌山県南紀白浜行きの東亜国内航空(当時)381便のYS-11に搭乗したが、離陸後に後輪の左車輪が故障し、出せなくなっていることが判明した。同機は羽田に引き返し、前輪と後輪が右側のみの片輪で着陸した。着陸後、速度が落ちた機体は脚のない左後方に大きく傾き、胴体を滑走路に激しく擦りつつ、機体の前後がほぼ逆に向いた状態で何とか停止。幸いにも爆発や炎上などはなく、由美を含めた乗員乗客は全員無事だった。なおこの時のYS-11機長とは、2004年にみのもんた司会のテレビ番組の中で対面をしている。
プライベートで着る洋服は主に、若い女性が行くような洋服屋(ユニクロ、「ZARA」(ザラ)、「H&M」等)で買っている[注釈 4]。また立地的に所属事務所が渋谷の近くにあるため、週に1度、渋谷109に通いギャルファッションにチャレンジしている。
関西で生まれ育ったが、父がプロ野球チーム・読売ジャイアンツファンでその影響を受けて本人も巨人ファンである[19]。デビューから間もなく仕事で巨人軍に取材に行く機会があり、その時長嶋茂雄や王貞治と並んで撮った写真は「私の宝物」としている[19]。
由美のファンは著名人にも多い。『日本沈没』『エスパイ』の原作者である小松左京は由美のファンで[4]、映画『エスパイ』のキャスティングの際、彼が由美を希望したことから出演が決まった[8]。1973年の映画『日本沈没』にも小松からヒロイン役で出演を依頼されたが、スケジュールの都合で実現しなかった[19]。翌1974年のドラマ版『日本沈没』にヒロイン役で出演を果たした[19]。
嵐寛寿郎もファンで、『同棲時代』公開時に「由美のヌードをむやみやたらに人に見せるのは良くない」との理由から、落語家・林家木久蔵(現・林家木久扇)と2人で自転車に乗って街なかに貼られた、由美の後ろ姿のヌードが載る本作のポスターを剥がして回ったという[20]。
漫画家・手塚治虫は由美のコケティッシュなイラストを、洋画家・東郷青児は彼女のデッサンをそれぞれ残している[8]。
石原裕次郎は先述の由美のテレビ初出演である『11PM』の回をたまたま見て、主演映画『夜のバラを消せ』の相手役に抜擢した[注釈 5]。同作の撮影期間中は関西在住の中学生3年生か高校1年生だったため、石原の妻・まき子のはからいで石原家に泊めてもらった[8]。また、石原が運転するガルウィングドアタイプのスポーツカーに乗せてもらって毎回撮影所に通っていた[21]。
2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊が由美の大ファンで知られ、彼のノーベル賞受賞パーティーでは、由美が花束を贈呈した[8]。衆議院議員の渡部恒三も大ファンで、2006年に渡部の民主党国対委員長就任時にプレゼントを贈った。
* 由美かおる ブリージン・レッスン 人生100年時代を生き抜くための神呼吸術(2023年10月6日、白秋社)ISBN 978-4434325403
中村 深海/著『永遠の東宝映画俳優』由美かおるインタビュー くまがい書房、2014年
開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。