江原 真二郎(えはら しんじろう、1936年10月12日[1][2] - 2022年9月27日) は、日本の俳優[2]。京都府[1][2]京都市出身[3]。身長170cm[1][2]。血液型はB型[2]。1960年代前半まで、江原 眞二郎とクレジットタイトルで表記されていた。本名は土家 基定[1]。アズユー所属。
経歴・人物
生家は京都の島原近く[3]。父は悉皆屋を営んでいた[3]。兄が居る[3]。父が悉皆屋を辞めて転職したことにより、家も島原近辺から西大路七条、今出川と京都市内を転々とする[3]。
日本通信学校高等部卒業[3]。高校生時代は野球部で活動、また学生時代はバレーボールの選手だったこともあった[3]。
高校卒業後、元々東映の時代劇映画が好きなことや[5]、知人に音響係をしていた人がいた関係もあり[5]、また兄の勧めもあって[3]1954年1月末に東映京都撮影所へ入所[1][5]。氷屋のアルバイトで東映京都撮影所へ出入りしていたところスカウトされた。
最初の映画の仕事は『殴り込み二十八人衆』(萩原遼監督)の京都・嵐山ロケ[5]。最初は大部屋俳優だったが、映画監督の今井正により、1957年の映画『米』の主役に抜擢され、これを出世作とした[7]。同作で中原ひとみと初めて出会った。東映時代に今井監督や家城巳代治監督に役作りを学ぶ。
文芸・恋愛・アクション・時代劇と二枚目から敵役まで主演・助演と演じてきた。1962,3年の映画『宮本武蔵 般若坂の決斗』、『宮本武蔵 二刀流開眼』、『宮本武蔵 一乗寺の決斗』では吉岡清十郎に扮している。
1967年、東映を退社しフリー。岡田茂東映プロデューサーが敷いた「東映ギャング路線」や「東映任侠路線」で売り出されていたため、大映作品に数本出たのち、1969年の日活『無頼 殺せ』に出演。この際、岡田から「東映を辞めた者がなぜ日活で同じような映画に出ているのか」と怒鳴られたという。自身でも「日活で東映みたいなことを毎日やって不思議だ」と撮影の合間に思っていたという。
1960年代半ばからテレビドラマや他社映画にも活動の場を広げる。1964年、長門裕之・南田洋子とともに人間プロダクションの設立に参加[8]。
1960年に[7]女優の中原ひとみと結婚[9][10]。中原を初めて見たのは、1955年の映画 『源義経』の撮影現場で[7]、その後、自身の出世作となった映画『米』で兄妹役として共演したのが結婚のきっかけとなっている[7]。1960年4月18日に椿山荘で挙式、媒酌人は当時の東映社長の大川博が務めた[7]。
長男の歩、長女の里織[10]、そして妻とライオン歯磨(現・ライオン)の歯磨き粉「ホワイト&ホワイト」のテレビCMに家族4人で出演、このCMは1972年から1982年まで10年間続いた[11][12]。その後子供2人は芸能界入りした。
2022年9月27日、進行性核上性麻痺により神奈川県横浜市内の施設において死去した[13][14]。85歳没。訃報は約3か月後の12月9日に明らかにされた[13]。
受賞歴
出演
映画
※はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
テレビドラマ
舞台
吹き替え
CM・OV
- CM
- オリジナルビデオ
ディスコグラフィー
- シングル
- 「男の星座」(作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと。1958年7月発売。コロムビア)
- 「トラムペットの青春」(作詞:石本美由紀、作曲:上原げんと。1958年7月発売。コロムビア)
脚注
出典
参考文献
- 加藤仁、小松一三「人物リサーチ これは意外!素敵なおじさまたちの知られざるプライバシー公開 藤竜也 江原真二郎 成田三樹夫 高橋悦史 小池朝雄 土屋嘉男」『スタア』1976年1月号、平凡出版、90–91頁。
- 轟夕起夫「日活クラシックインタビュー『戦争と人間』 江原真二郎」『映画秘宝』2015年9月号、洋泉社、76–77頁。
外部リンク
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