佐野 浅夫(さの あさお、本名:佐野 淺雄〈読み同じ〉、1925年〈大正14年〉8月13日 - 2022年〈令和4年〉6月28日)は、日本の俳優・声優、童話作家、実業家。アクターズ・セブン所属。身長168cm。神奈川県横浜市(現在の区分では保土ケ谷区)出身。
来歴・人物
実家は相模鉄道天王町駅近くの青果商[注 1]。神奈川県立横浜第三中学校卒業。中学校の同期生には松山善三がいる。
太平洋戦争下の1943年(昭和18年)、日本大学専門部芸術科(現在の芸術学部)在学中、同窓の高山象三に誘われて劇団「苦楽座」に入団したことで俳優人生を歩み出した[2]。18歳で入団した苦楽座では最年少で皆に可愛がられた。1945年、苦楽座は中国地方を慰問する移動演劇「櫻隊」に改称した。同年3月、佐野は本土決戦に備える特攻隊に応召し、劇団を離れた。丸山定夫、園井恵子、仲みどりら劇団員9人は8月6日の広島市への原子爆弾投下により後に全員が死亡し、櫻隊はこれにより壊滅した[2][3]。佐野は軍隊を抜け出して、日本の敗戦後の8月20日頃、東京大学医学部附属病院に仲を見舞った。仲間の消息を訊こうとしたが、仲はベッドに寝たきりで何も訊けず、病室を後にした。「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と62年間の沈黙を破り、2007年8月6日(月曜日)に東京都目黒区の五百羅漢寺で仲間への思いを初めて語り追悼した。『読売新聞』2007年8月6日や『東京新聞』『毎日新聞』でも戦争体験から反戦平和を述べている[4][5]。
戦後、新協劇団を経て[6]、劇団民藝の結成に参加。1971年の内部での対立により、下條正巳、鈴木瑞穂、佐々木すみ江らと共に退団する。
TBSテレビ系列のホームドラマや時代劇に多数出演。1993年から2000年まで『水戸黄門』で3代目水戸光圀役を演じたことで特に知られる。初代東野英治郎・2代目西村晃とは一味違い、庶民的で優しく慈悲深い「泣き虫黄門様」として親しまれた。光圀役に決まった時、東野英治郎に挨拶し、初代を長く演じて分身みたいなもので、他人が演じるのは嫌だと感じているだろうと思っていたら「よかった」と喜んでもらえて、本当に嬉しかったと回想している[2]。光圀役としての出演回数は246回、太秦にある東映京都撮影所では自転車を乗り回していたという。
NHKラジオ第2放送の『お話でてこい』では、童話の朗読役として4000回を超える放送をこなした。創作童話の執筆にも取り組み、『せん爺さんの太鼓』などの著書がある。これらの功績を讃え、2001年に広島大学からペスタロッチー教育賞を授与されている。
1996年、勲四等瑞宝章を受章。
1998年に先妻・英子夫人に先立たれ、芸能活動を休止したが、2000年2月に21歳年下の育子夫人と再婚。
育子夫人と前夫(川村姓)との間の長男は大学教員、次男は競輪選手の川村晃司[7]。2代目助さん及び5代目光圀役の里見浩太朗(本名:佐野邦俊)は従甥で[8][9]、浩太朗の長男の佐野圭亮は族子にあたる。
2003年12月15日に放送された『水戸黄門 1000回記念スペシャル』では、服部半蔵役として自身の降板以来3年ぶりにゲスト出演。同作で水戸光圀役を降板後に再出演したのは佐野が唯一であった。
2006年5月2日放送の『名奉行! 大岡越前』第2シリーズ第3話「仇を追って40年…男と女、愛と憎しみのお白州!」にゲスト出演したのが事実上最後のドラマ出演となった。2008年に脳梗塞を発症し、その影響で視力が悪くなって以降は活動を控えるようになった[10]。
2009年11月10日に亡くなった森繁久彌の葬儀には参列したほか、2013年時点では『水戸黄門』ドラマ当時の衣装を着て高齢者施設を訪問するボランティア活動を行っていた[10](89歳当時の2014年12月10日に撮影された写真も残されている)。また里見浩太朗によれば2019年にNHKで放送された『スローな武士にしてくれ』の撮影時、京都撮影所に撮影見学に来ていたという[9]。
2022年5月12日に肺炎を起こし、約3週間入院。2022年6月28日(火曜日)午後9時59分、老衰のため京都市内の自宅で死去[11][12]。96歳没。訃報は同年7月4日に所属事務所を通して公表された。関係者によれば同年5月12日に肺炎を患って入院。6月初旬に体調が好転したことで退院し、その後は自宅で過ごしていたが、死去当日に体調が急変し、妻に看取られて息を引き取ったという[13]。
出演作品
映画
など
テレビドラマ
吹き替え
映画
ドラマ
ラジオ
ナレーション
バラエティ
CM
著書
- 『お話でてこいのおじさんのお話』ひかりのくに, 1990年7月
- 『せん爺さんの太鼓』鴇田幹絵. 舵社, 1995年8月
脚注
注釈
出典
外部リンク