ジョン・ウェイン(John Wayne, 1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、アメリカの俳優、映画プロデューサー、映画監督。本名はマリオン・ロバート・モリソン(Marion Robert Morrison)。「デューク」(Duke、公爵)の愛称で呼ばれた。
来歴
生い立ち
アイオワ州ウィンターセットで生まれ、マリオン・ロバート・モリソンと命名された。実家は薬屋で、薬剤師の息子でもある。しかし、両親が彼の弟をロバートと名付けることを決め、マリオン・マイケル・モリソンと名付けられた。一家は1911年にカリフォルニア州グレンデールに転居したが、ウェインはどこへ行くにもエアデール・テリアの愛犬「リトル・デューク」を連れていたため、隣人が「ビッグ・デューク」と呼び始めた[1][2]。以後ずっとウェインは愛称「デューク」を本名の「マリオン」より好んでいたという。
高校卒業後海軍兵学校へ出願するが入校できず、南カリフォルニア大学に入学した。そこで彼は伝説のコーチ、ハワード・ジョーンズの下、フットボールに取り組んだ。しかし水泳中に負った怪我が元で競技生命が絶たれてしまう。彼は怪我の原因が明らかになった時のジョーンズの反応を恐れたと後に記している。
ハリウッド入り
大学在学中、ウェインは田舎の映画スタジオで働き始めた。西部劇のスター、トム・ミックスはフットボールのチケットと交換に夏の間、大道具係の仕事を彼に世話してやった。ウェインは大道具係から1928年には映画の端役に選ばれ、1930年、ウェインの最初のクレジット入り映画であるラオール・ウォルシュ監督の超大作『ビッグ・トレイル』に主役として抜擢された。
ウオルシュがアメリカ独立戦争での将軍、"マッド・アンソニー"・ウェインから取った「ジョン・ウェイン」の芸名を彼に与えた。当初はそのままアンソニー・ウェインの芸名を与える予定だったが、「イタリア風に聞こえる」という指摘があったために名をアメリカ風の「ジョン」と改めたのである[3]。しかし、『ビッグ・トレイル』は商業的に失敗し、ウェインは『駅馬車』がヒットするまでの間、B級活劇専門俳優として不遇の時代を過ごした。しかしその間に、射撃、乗馬、格闘技を修得。不遇期間に主演したなかには『歌うカウボーイ、シンギング・サンディシリーズ』などというものもあり、馬にのりながら歌うシーンが残っている。
ジョン・フォードとの出会い
1939年、端役時代から友情を固めていたジョン・フォード監督の大ヒット作『駅馬車』に主演。やがてウェインはヘンリー・フォンダと並んでフォード作品の看板役者となる。[注釈 1] その後も多くの作品を生み出し、幾つかはウェインの代表作となった。続く35年間で『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』、『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを射った男』と言ったフォードの映画20作以上に出演した。
ウェインは多くの戦争映画に出演し「アメリカの英雄」として賞賛されたが、現実には兵役には就かなかった。1940年に徴兵が復活し、1945年に第二次世界大戦が終了するまでウェインはハリウッドに残って21作の映画に出演した。1941年の真珠湾攻撃当時、彼は34歳で徴兵の該当年齢であったが、家族依存の理由で3-Aに分類され[要校閲]徴兵猶予を申請し受理された。これには国中の興味が集まり、後に2-Aに変更された[要校閲]。
ウェインは西部劇や戦争映画に、俳優としての信念を賭けていたため、強く英雄的な役割を多く演じ、逞しく深みのあるヒーロー像を築いていった。生涯出演した154本もの映画のうち、79本は西部劇であった。その一方でコメディ映画やNBCのコメディ『ラフ・イン』にピンクのウサギの着ぐるみで出演するなどユーモアの感覚も持ち合わせていた。
スター
1948年のハワード・ホークス監督『赤い河』の大ヒットにより、翌年初めてボックス・オフィス・スターの4位にランクインし、名実共にスターの座を獲得。以後20年以上、ベスト10の座を守り続けた。
一方で自他ともに認める愛国主義者である彼は、リベラル思考の観客からは典型的タカ派俳優として非難の対象ともなり、特にベトナム戦争が泥沼化した一時期には人気を落としたが、それに対抗するように製作・監督・主演兼任で映画『グリーン・ベレー』を完成させ、ベトナムで特殊作戦に従事するアメリカ兵を描いた。
多くの作品に出演したウェインは『硫黄島の砂』で主演男優賞、監督した『アラモ』で最優秀作品賞と2度のアカデミー賞ノミネートを受けていた。だが、そんな中ウェインは1964年に肺癌を宣告され、片肺を失うも闘病を宣言して俳優活動を続けていった。そして1969年の『勇気ある追跡』で粗野で酒飲みな隻眼の保安官を演じ、ようやく最優秀主演男優賞を受賞した。念願のオスカーを手にしたウェインは人気を取り戻し、以後遺作となった『ラスト・シューティスト』まで精力的に活躍した。
また、俳優時代には俳優組合長も務めていた。
死去
胃癌の悪化で、1979年5月1日よりカリフォルニア州ニューポートビーチのカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに入院し治療を続けていたが、72歳の誕生日を迎えて17日目の6月11日17時35分(日本時間 12日9時35分)に死去した。ウェインの遺体はカリフォルニア州オレンジ郡のコロナ・デル・マールにあるパシフィック・ビュー・メモリアル・パーク墓地に埋葬された。
日本でも、毎日新聞に「ミスター・アメリカ死す」を始め、大きな見出しで出された。TBSテレビは、6月18日の新聞に追悼広告を掲載。同日夜の番組、月曜ロードショーにて『ブラニガン』(1975年)を放送した[4]。
後に日曜洋画劇場では淀川長治の解説と共に3週連続でジョン・ウェイン主演の3作品の映画が放送され追悼された。
死去の際、アメリカ各地では半旗が掲げられた。
入院期間中の6月5日には、当時の大統領であるジミー・カーターがウェインの見舞いに訪れた。現職の大統領が映画俳優を見舞うのは異例のことであった。
死因である癌の原因の一つとして、ネバダ核実験場の100マイル風下で『征服者』の撮影が行われたことを挙げる者もある[5]。
葬儀に際し、次期アメリカ大統領となったロナルド・レーガン(ハリウッド俳優出身)は、「実生活でも卓越した巨人だった。体躯、態度、信念に不屈の強さを感じた。思いやりのある誠実な人柄は、利己的なハリウッドではめったにお目にかかれぬ存在だ」と語った。
死の床で密かに記した墓碑銘は、「醜く、強く、確かに」である[6]。しかし、実際に刻まれた墓碑銘は以下の通りで、1971年の雑誌『プレイボーイ』でのインタビューでのウェインの言葉である。
「
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Tomorrow is the most important thing in life.
Comes into us at midnight very clean.
It's perfect when it arrives and it puts itself in our hands.
It hopes we've learned something from yesterday.
明日は人生において最も重要なことだ。
真夜中にそれはとてもきれいにやって来る。
届いて、それを手に取れたら完璧だ。
そして昨日から何かを学ぶことを願いたいものだ。
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」
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人物
主な出演作品
日本語吹き替え
主に担当したのは、以下の二人である。
- 小林昭二
- 1966年にNETテレビ(現テレビ朝日)の『土曜洋画劇場』でウェインの映画が放送される際に起用されて以降、他局も小林を起用するようになり、その後はほぼ専属で担当。小林の声質はウェインに非常に近く、吹き替えファンからもフィックスと支持されている[12]。ただし、最初に小林を起用したNETテレビは小林とトラブル[注釈 2] があったため、1970年に放送された『スポイラース』を最後に起用されなくなり、小林による吹替が存在する映画も再放送の際に納谷悟朗を起用して新録するようになった[注釈 3]。
- 納谷悟朗
- 「もうひとりのジョン・ウェイン声優」として定着している[12]。上記の小林とのトラブルにより、途中から、主にNETテレビ、テレビ朝日で起用され担当するようになった[13]。納谷も本来の声質はウェインのものに近かったが、最初の収録の際に地声で演技すると演出家からNGを出され、最終的にウェインの体格に合った野太い声で演じるようになった[12][14]。
また、上記2名より過去には糸博が東京12ch(現:テレビ東京)系列で多く務めていたほか、小林修や小林清志、宮部昭夫、前田昌明、松宮五郎、矢嶋俊作などが複数回起用されている。専属の小林、納谷と共演していた大平透は『納谷悟朗も、もちろん上手いですけど、でもやっぱり小林昭二はそれなりのものを持っていた。』と後年語っていた[15]。
受賞歴
アカデミー賞
- 受賞
- 1969年 アカデミー主演男優賞:『勇気ある追跡』
- ノミネート
- 1949年 アカデミー主演男優賞:『硫黄島の砂』
- 1960年 アカデミー作品賞:『アラモ』
ゴールデングローブ賞
- 受賞
- 1953年 ヘンリエッタ賞(過去に存在した賞)
- 1966年 セシル・B・デミル賞
- 1970年 主演男優賞 (ドラマ部門):『勇気ある追跡』
関連項目
脚注
注釈
出典
外部リンク
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