ヘンリー・フォンダ (Henry Fonda、1905年 5月16日 - 1982年 8月12日 )は、アメリカ合衆国 出身の俳優 、映画プロデューサー 。愛称はハンク(Hank)。
世界的にも高名な役者の一人で、戦中・戦後の映画界で活躍した。子にジェーン とピーター 、孫にブリジット とトロイ・ギャリティ がおり、いずれも同じ俳優の道に進んでいる。
生涯
ネブラスカ州 グランド・アイランド にて[1] 、印刷工場を営むクリスチャン・サイエンス 教徒の家庭に生まれる[2] 。フォンダの家系は、1500年代にイタリア からオランダ に移住、1600年代にオランダからアメリカに移民してきたという[3] 。生後6か月で、同じ州のオマハ に移る。幼い頃から絵や文学の才能に恵まれ、12歳の時にはニュース映画で映画デビューを果たす。
セントラル高校卒業後、新聞記者を目指してミネソタ大学 でジャーナリズムを専攻するが卒業はせず、母親の友人であったドロシー・ブランド(マーロン・ブランド の母親)の紹介で20歳の時にアマチュア劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスに参加、1925年 に初舞台を踏む[1] 。いくつかの地方巡業の舞台で活躍した後、小売信用会社で働き始める。しかし、演劇の魅力忘れがたく、ついに仕事を辞めて演技の道を選び、1928年 にサマー・ストック劇団ケープ・プレイハウスをへて、ユニバーシティ・プレイヤーズ・ギルドに参加、そこで将来フォンダの妻となるマーガレット・サラヴァンや、同じく俳優を目指すジェームズ・スチュアート やジョシュア・ローガン と出会うことになる。1929年 には『The Game of Life and Death』の通行人役でブロードウェイ にデビュー。
若き頃の出演映画『Slim』より(1937年)
1933年 にローガンやスチュアートと共にニューヨーク に向かい、アパートメントを借りてルームメイトとして生活しながら、その後は様々な劇団で地方の舞台への出演や舞台装置家として働いていて演技を磨く。1934年 に『New Face』というショーで認められたことがきっかけで、翌年には『運河のそよ風』の主役に抜擢される。この舞台の成功によってハリウッドに招かれ、1935年 にヴィクター・フレミング の同作の映画版で映画デビュー。その後 ヘンリー・ハサウェイ の地方ロケーション初の三原色テクニカラー映画『丘の一本松 』、ベティ・デイヴィス と共演した『或る女』や『黒蘭の女 』、フリッツ・ラング の逃避行ドラマ『暗黒街の弾痕 』、ジョン・フォード の青年時代のリンカーン を演じた『若き日のリンカン 』や南北戦争を舞台にした恋愛ドラマ『モホークの太鼓 』など、数年の間に数々の話題作に出演。いかに難しい役でも完全にこなしきる力を持っていたため、フォードは安心してフォンダに役を任す事が出来たという。
20世紀フォックス 社と7年の専属契約を結び、1940年 には再びフォードと組んでジョン・スタインベック の小説の映画化『怒りの葡萄 』に出演。主人公トム・ジョードは当り役となり、初のアカデミー主演男優賞 にノミネートされた。1941年 にはパラマウント 社に貸し出されて『レディ・イヴ 』に出演、普段の生真面目なイメージのフォンダからも予想もつかないドタバタ喜劇に挑戦し、新たな一面を開拓した。『レディ・イヴ』出演後にアメリカ海軍 に入り、3年の間、第二次世界大戦 に従軍し、武功を上げてブロンズスターメダル と大統領感状が与えられる。
戦後、軍隊除隊後に再びフォードと組んで、OK牧場の決闘を描いた1946年 の『荒野の決闘 』でワイアット・アープ を演じる。あまり自分のことは語りたがらないフォンダも「数少ない納得できた作品」と語っている。翌年の『逃亡者 』と1948年 の『アパッチ砦 』でもフォードと組んで、ジョン・ウェイン と並びフォード映画には欠かせない主演俳優となる。ダリル・F・ザナックの利益優先方針とマッカーシー上院議員による赤狩りに嫌気がさし、それまで契約していたフォックスとの契約が切れ、他のスタジオとの長期契約を嫌ったフォンダはブロードウェイに戻り、1948年 にローガンの舞台『ミスタア・ロバーツ 』で主演する。上演回数1157回に及ぶヒットとなり、フォンダはトニー賞 を受賞するなど、このロバーツ役はトム・ジョード、ワイアット・アープに続く当たり役となった。このように主に人間味豊かで善良な役を意欲的に演じ続け、ハリウッドでも息の長いスターとなる。特に英語の語り口は絶妙であり、とんとん拍子に数多くの傑作を自分のものとしていった。
西部劇映画『胸に輝く星 』より(1957年)
6年ほどハリウッドから離れた後、スクリーンに復帰。復帰作である映画版の『ミスタア・ロバーツ』でもロバーツを演じたが、フォンダは撮影開始前から演出を担当したフォードのやり方に満足できず、ついにはフォンダが彼の演出が間違っていると非難し、怒ったフォードはフォンダを殴りつけてしまいフォードとは決別、これが2人が組んだ最後の映画となってしまう。幸い映画は大ヒットを記録し、フォンダのハリウッド復帰は成功する。
1950年代は『シーソーの二人』や『ケイン号の叛乱』などの舞台や、テレビシリーズ『胸に輝く銀の星』など映画以外でも活躍。映画もオードリー・ヘプバーン と共演した『戦争と平和 』、アルフレッド・ヒッチコック の異色サスペンス『間違えられた男 』などに出演。ただ『戦争と平和』についてだけは彼はこの映画に出演した事を後悔し、自作の回顧上映ではこの映画を含めることを拒否したという。1957年 には、元々CBS のテレビドラマ(レジナルド・ローズ 作、フランクリン・J・シャフナー 演出、ロバート・カミングス 主演)であった法廷劇『十二人の怒れる男 』の映画化に自身もプロデューサーを兼ねて出演、ベルリン映画祭では最優秀作品賞を獲得するなどこれまた映画でも高い評価を得た。
映画『ワーロック 』の宣材写真(1959年)
1960年代には多くの西部劇映画や戦争映画に出演。1964年 の核戦争の恐怖を描いた『未知への飛行 』で手堅い演技を見せ、1968年 にはセルジオ・レオーネ 監督の『ウエスタン 』で初めて幼い少年を射殺する残忍な殺し屋のボス悪役に挑戦。1970年代以降は主演作は減り、『ミッドウェイ 』、『テンタクルズ 』、『スウォーム 』、『メテオ 』などのオールスター映画にゲスト出演で止まるなど、それまでに比べて精彩を欠いた。1974年 に心臓発作に襲われ、ペース・メーカーを入れる。また1979年 には前立腺がんの手術を受ける。しかし70歳代になってもテレビや映画や舞台の出演は続けていた。この頃、1979年にピーターが監督した『グランド・キャニオンの黄金 』にカメオ出演、1981年 にジェーンが年老いた父親のために企画した『黄昏 』でキャサリン・ヘプバーン と老夫婦役で主演、ジェーンも娘役として出演した。さらに同年の12月にはボストンのWCVB-TVのドラマ『夏の黄昏』に出演する。
娘ジェーンとのショット(1970年)
1979年に長年の功績にトニー賞 が贈られ、また1981年にはアカデミー特別賞 を贈られた時は、まだ元気でロバート・レッドフォード の手からオスカー を受けていた。そして『黄昏』の演技により翌1982年 にフォンダはアカデミー主演男優賞とゴールデングローブ賞 を受賞、しかしこの時には体調がかなり悪化し、ジェーンが代わりに授賞式に出席した。結局この『黄昏』が遺作となって授賞式の5ヵ月後8月12日 、77歳で心臓病により死去した。故人の意思を尊重して葬式は行われず、志のある人は自身の俳優としての出発点となったオマハ・コミュニティ・プレイハウスのヘンリー・フォンダ記念演劇センターへの寄付が呼びかけられた。
また俳優としてだけでなく、画家としても才能を持ち、自作の絵をギャラリーや展覧会に出品したり、絵葉書のデザインをしたこともあった。1981年にはハワード・タイクマンがフォンダとのインタビューをもとに彼の生涯を綴った『ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ』が出版された(鈴木主税 訳、文藝春秋 、1982年、文春文庫 で「ヘンリー・フォンダ」に改題再刊、1985年)。なお伝記写真集に『ヘンリー・フォンダ 映画・舞台で深い感動を生み出した名優』(近代映画社 、2008年)がある。
1962年 (昭和37年)、『西部開拓史 』のアメリカに先駆けての公開の宣伝を兼ねて、11月24日 に来日している。
私生活
ヘンリー・フォンダは生涯で5度結婚している。最初の妻で女優のマーガレット・サラヴァンとは1931年に結婚するも1933年に離婚。1936年にニューヨークの裕福な弁護士と死別し間もないフランシス・シーモア・ブロカウと結婚。ピーターとジェーンの2人の子供を儲けたが、フランシスは多忙で留守がちな上に浮気がちな夫に対し、寂しさを紛らわすため株の投資に没頭、散財し次第に心身を病み、1950年に精神病院で自殺した。フォンダは子供たちを動揺させないために、母親は心臓発作で死んだと教えたという。同年、以前から交際していたオスカー・ハマースタイン2世 を継父に持つ舞台関係者のスーザン・ブランチャードと結婚し、養女を1人取るが、3年後に離婚。1957年、ロスチャイルド家 の親戚でイタリアの男爵令嬢でもあるユダヤ人のアフデラ・フランチェティと結婚し、1961年に離婚[4] 。1965年に結婚したスチュワーデス兼モデルだった最後の妻シャーリー・アダムスとは、自身の死まで一緒であった。フランシスとの間に生まれたジェーンとピーターは父親の後を追って俳優になるが、母親の死の真相を知った2人と父親の関係は次第に悪化、ジェーンとピーターが共に俳優として成功した後も、過激な振る舞いでマスコミを賑わせて一時期フォンダを悩ませた。和解にいたるまで長い時間を要し、10年以上の確執が解消したのは1968年にヘンリーが悪役を演じ、ジェーンとピーターが乗馬の大変さを身をもって知った時に互いの立場を理解しあえた。
ジェーンは『キャット・バルー』で、ピーターは姉と共演した『世にも奇妙な物語』(1967年)の第1話で乗馬を体験、ヘンリーが2度の落馬事故(28歳、35歳)で乗馬恐怖症になり、しかも60歳を過ぎても西部劇主演を続けたことへの尊敬がプロ意識の手本になっている。
出演代表作
受賞歴
アカデミー賞
受賞
1981年 アカデミー主演男優賞 、アカデミー特別賞 :『黄昏 』
ノミネート
1941年 アカデミー主演男優賞:『怒りの葡萄 』
1958年 アカデミー作品賞 :『十二人の怒れる男 』
ゴールデングローブ賞
受賞
1980年 セシル・B・デミル賞
1982年 主演男優賞 (ドラマ部門) :『黄昏 』
ノミネート
1958年 主演男優賞 (ドラマ部門):『十二人の怒れる男 』
関連項目
マッカーシズム
バラ :黄色いバラを愛して多数栽培していたことから、黄色いバラの品種の一つに「ヘンリー・フォンダ」と命名されている。
参照
外部リンク
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