山形 勲(やまがた いさお、1915年〈大正4年〉7月25日 - 1996年〈平成8年〉6月28日)は、日本の俳優。本名:塙 勲(はなわ いさお)。
軽業師の父親(後述)の巡業先であったイギリス・ロンドンで生まれ[1]、東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で育つ。
1935年に日本俳優学校を卒業[1]。兵役を経て1936年に東宝劇団に入団した[1]。1942年、佐佐木隆、鈴木光枝、山村聡らと劇団文化座を結成[1]。同座の看板俳優として1953年まで在籍した[2]。退団の理由として、劇団の活動資金を稼ぐため、ラジオ・映画などに出演し続けた結果、舞台活動が疎かになったことにあるとされる[2]。
1949年、『斬られの仙太』で映画に初出演した[1]。1953年、大映初の総天然色イーストマンカラー映画で第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した映画『地獄門』(衣笠貞之助監督)に京マチ子の夫役で準主演し、注目された[1]。のちに定着する悪役のイメージとは全く異なる善人を演じている(主演の長谷川一夫が悪役を演じている)。
しだいに悪役として注目され[1]、その後は東映時代劇に多く出演、主に悪役として活躍するかたわら、テレビ時代劇では、『剣客商売』の秋山小兵衛役で主演[1]。また、『水戸黄門』では第1部から第18部まで柳沢吉保を演じ、はまり役と言われた。現代劇では、映画『不毛地帯』(山本薩夫監督、1976年)で主人公を招き入れる商事会社社長役など、大学教授・会社重役・高級官僚などの役を演じることが多かった[1]。
1988年に勲四等瑞宝章を受章した[1]。
1995年のNHKドラマ『されどわが愛』のロケ参加後に入院[1]、1996年6月28日午前6時15分に若いころから患っている肺結核のため、東京都府中市の東京都立府中病院で死去した。80歳没[3]。墓所は豊島区玄静院。
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