河合 奈保子(かわい なおこ、1963年〈昭和38年〉7月24日[1] - )は、日本の女性アイドル歌手、シンガーソングライター、アーティスト、作曲家、女優。娘は元歌手のkaho。身長160センチメートル。血液型はO型。
人物
所属事務所は芸映プロダクションで、レコード会社は日本コロムビアに所属していた[注釈 1]。1980年代の歌手・アイドルの1人である。本名は「かわい なほこ」だが、芸名では「かわい なおこ」と読ませている。
シングル売上記録は『エスカレーション』『スマイル・フォー・ミー』『夏のヒロイン』『けんかをやめて』(オリコンチャート)の順。
歌唱の他、ピアノ、ギター、マンドリン、シンセサイザーを演奏し、自作曲(作詞作曲)も発表した。雑誌のグラビアやアイドル水泳大会に登場していた。
1996年2月1日、記者会見でヘアメイクアップアーティスト・金原宜保との婚約を発表し同年2月6日に婚姻届を提出した。その約半年後に産休と翌1997年の第一子出産を契機に、芸能活動を完全停止した。夫との間に2児あり。このうち第二子のkahoは、2013年11月27日にソニー・ミュージックから『Every Hero/Strong Alone』でデビューし、音楽活動をしていた時期があった[2][注釈 2][3]。
現在はオーストラリアに在住している。
略歴
デビューまで
大阪市住吉区(現在の住之江区)粉浜西出身。1963年7月24日、浪速区日本橋の愛染橋病院において会社員の父親の長女として誕生(2400グラムの未熟児)した。誕生時、両親は大阪府枚岡市(現在の東大阪市)に居住していた。1歳時の8月には大阪府八尾市に引っ越し、2歳時の10月には東京都世田谷区に転居した[4]。3歳年下の妹がいる。
幼児のころ父親の職業に転勤が多く、幼稚園は東京都調布市の染地幼稚園、大阪府箕面市の箕面自由学園幼稚園、大阪府東大阪市の若宮保育園の3施設に通った[4]。
粉浜西の住吉団地に転居後、大阪市立粉浜小学校入学と同時にピアノを習い始めた。大阪市立住吉第一中学校時代はフォークソングクラブに所属し、中学2年の秋に日本テレビ系列『スター誕生!』に応募するが、この時は書類選考の段階で選外となる[4]。1979年に大阪女子学園高等学校(現在の大阪夕陽丘学園高等学校)に進学する。
アイドル歌手時代
1979年12月、芸映プロが自社の看板スターである西城秀樹の名を冠して主催した新人発掘コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に応募した。河合がオーディションを知ったのは締切の直前で、応募書類とデモテープを作成して送ったのは締切前日だった[4]。オーディションの選考過程も紙一重で、大本恭敬の「理想の声に近づく本」によれば、大阪の地区予選も一旦は最終審査に残らず、当初の定数1名に対して特別に2人目の代表として選出された(最初に選考され、河合と共に決勝大会に進んだもう一人の大阪代表は後の小林千絵)。翌1980年3月16日に中野サンプラザで開催された決勝大会で優勝する。オーディション応募テープでは杏里の『オリビアを聴きながら』を、決勝大会では石野真子の『春ラ!ラ!ラ!』を歌った[4]。
同月末に上京して歌のレッスンを受けた後、1980年6月1日に『大きな森の小さなお家』で「西城秀樹の妹」という触れ込みとともに、アイドル歌手としてデビューした。この過程で明治大学付属中野高校定時制に編入し、後に卒業した。
なお、歌手デビュー当時のキャッチフレーズは「ほほえみさわやか カナリー・ガール」であった。2枚目のシングル『ヤング・ボーイ」がヒットし複数の音楽祭で新人賞を受賞する。
デビュー2年目の1981年10月5日16時頃、NHKホールでの『レッツゴーヤング』(NHK総合)のリハーサル中、誤って4m下の迫りに転落し第一腰椎圧迫骨折の重傷を負う。約2か月間の療養の後、同年11月30日放送の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)より復帰を果たす。同年12月31日の第32回NHK紅白歌合戦に『スマイル・フォー・ミー』で初出場しトップバッターを務めた。翌年4月頃まで療養のためにコルセットを腰に装着して芸能活動を行う[5]。NHK紅白歌合戦に初出場した際は、転落事故からの復帰直後で、かつ事故現場のNHKホールだったが、本人によればリハーサルは恐怖感が先に立ったものの、本番の出番寸前に不安や緊張が全て消えたという[6]。
1983年12月6日より盲腸の摘出手術で東京・渋谷病院に入院し、同年12月14日に退院した。12月18日まで休養し、翌12月19日の『夜のヒットスタジオ』で復帰を果たした。
歌唱中、マイクロフォンは左手で持つことが多かった[7]。
ライブコンサートは1980年代の後半まで行われた[8]。1983年から1988年まで7月24日の誕生日に東京よみうりランドのEAST野外ステージで行われたバースデイライブなどが行われ、EASTライブは6回全てが映像ソフト化されている。
父親は大の阪神タイガースファンであったが、1985年3月25日に神奈川県立県民ホールで行われた横浜大洋ホエールズのファン感謝デーにゲストとして出演した。イベントでは自身の持ち歌2曲と、選手とのデュエットコーナーで『もしかしてPART2』を関根浩史と共に披露した。
この時期のチーフプロデューサーは芸映の香川洋三郎が務めた[9]。
アイドル以外の仕事へ
1984年発表のアルバム『DAYDREAM COAST 』では録音から制作に参加し、それを契機に音楽の制作面にも関与する。1985年、ベストアルバム『NAOKO 22』のボーナストラックという形で自作曲を発表し、コンサートでも次第に自作曲の割合が増え、1986年には初の全作曲オリジナルアルバム『スカーレット』を発表した。
1984年7月からMBSラジオ『MBSヤングタウン』(ヤンタン)火曜日のメインパーソナリティを務める。嘉門達夫らとの共演で、1989年2月まで約4年7か月にわたり出演した。当時既にスターの仲間入りをしていた河合とどう接したらいいか、嘉門ら共演者も最初は困惑気味だったという[1]。いつまでもちやほやしてても仕方ないということで、嘉門が1つギャグを振ったらアイドルスターらしからぬリアクションをしてきたということで、ヤンタンのノリにすぐに溶け込み、嘉門のツッコミにボケ的なリアクションで返すといったコンビネーションが出来上がった[1]。このようなことから「アイドル芸人」とも言われたこともあり[1]、本人も「決まり事以外のことが話せるようになった」と話している[10]。
1987年4月のKBS京都の交通安全キャンペーン「かたつむり大作戦」のキャンペーンソングの歌詞募集の選考に関わり、その詩に自ら作曲した『やさしさの贈り物[注釈 3]』を「かたつむり大作戦」の会場KBSホールから歌唱した。またこの時期はテレビドラマやミュージカルにも積極的に出演した。1985年のアニメ映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』では主題歌と共に声優として出演。1989年には、ミュージカル『THE LOVER in ME 〜恋人が幽霊』に出演し、同作品では作曲も担当した。テレビドラマでは、『さすらい刑事旅情編』(テレビ朝日)、『ママじゃないってば!』(TBSテレビ)に出演した。1988年に岐阜市で行われた「ぎふ中部未来博」で、メインパビリオンであるスカイマックス未来館の館内環境音楽を担当した。
1989年から1990年には、ザ・ジェントル・ウインド名義のセッションアルバム『Tears of Nature』、『Gentle Voice』で全作曲を担当すると共に、キーボード奏者兼バックグランドボーカルとして参加し、ミッキー吉野らと共演したこともあった。
1995年には、1988年以来7年振りに全国ツアーコンサートを開催したが、現時点でこれが最後のライブツアーとなっている。
日本作曲家協会に所属していた。
結婚・芸能活動完全停止
1996年2月1日、記者会見でヘアメイクアーティスト・金原宜保との婚約を発表した。同年2月6日に結婚した。その後も約半年間はテレビ出演などの活動を続けていたが、同年夏頃に妊娠で休止へ入り、翌1997年の第一子出産を契機に芸能活動を完全に停止した。
2005年6月、芸映プロ公式ウェブサイトの所属タレント一覧から項目が削除されたが、このとき芸能事務所から所属に関する発表はされなかった。
2006年4月26日、iTunes Music Store限定で自作ピアノ作品集『nahoko 音[注釈 4]』を発表した。同年11月28日にはCD化もなされ、同時に公式ウェブサイトを開設した。
2008年12月21日付の竹内まりやのブログ「Pholog」に6年ぶりに再会した記事が写真付きで掲載された。
2009年10月19日放送のSUPER SURPRISEにおいて既に芸映に所属していない事が報じられた[注釈 5](引退状態)。
2010年4月、楽曲提供した池田泉州銀行のCMが関西地区で放映された。
2010年10月26日発売の光文社発行の雑誌「FLASH」2010年11月9・16日号で「独占取材」という形で、オーストラリアでの近況についての記事が掲載された。この中で自身の現在のことと将来のことに関して「今は専業主婦がメインだが、音楽活動が出来ることになれば皆さんの前できちんとご挨拶できたら良いです」という旨のコメントを寄せている。
2018年5月16日、かつての所属事務所・芸映の先輩歌手で、自身が芸能界デビューのきっかけともなった西城秀樹が63歳で死去したことを受け、海外から「余りにもショック過ぎて、言葉が出ません。秀樹さんにただただ、多くの感謝の気持ちをお伝えしたい想いで一杯です。」と、久々に公の場で追悼のコメントを発表した[11]。
2018年11月25日、NHK-FM『今日は一日“竹内まりや”三昧』で、竹内まりやへの40周年お祝いメッセージが、21年ぶりに本人の肉声で放送された。
エピソード
特徴
- デビューの年の秋に開かれたファーストコンサートでは、直前まで不安定さが懸念されたものの、本番では歌踊り共に無難にこなした[12] 。
- デビュー当初からライブや歌番組、特に賞番組において感情を表に出して歌えなくなることはほとんどなかった。この点に関して本人は「泣くと歌が歌えなくなるから」と答えている[4]。
- デビュー後しばらくの間、仕事以外では全く化粧をしなかった[4]。
- アイドル時代、少なくとも首都圏での仕事や全国向けテレビ・ラジオ放送においては、関西弁を使わなかった。ただし、関西の生活文化の話題は普通にしており、1980年当時、「月刊明星」(集英社)において「大阪の実家では節分にはその年の方角(吉方位)を向いて巻き寿司を食べる習慣がある(恵方巻)」と発言している。
- 近視で芸能活動以外はほぼ眼鏡をかけていた。
- 豊満なスタイルを持っており、当時としては巨乳の部類に入った(当時巨乳という単語は一般層には認知されていなかった)ためグラビアアイドルとしても評価があった[13]。
その他
- デビュー間もないころの『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)1980年4月号p.315のインタビューで「太ってるから水着は本当に恥ずかしい」と話しているが、デビュー当時から河合を撮り続けた写真家の黒坂了司によれば、「水着撮影を嫌がったり、胸を気にすることはなかった」とのこと[14]。
- 元巨人選手の斎藤雅樹が、高校時代から河合の熱烈なファンであった。しかし斎藤はなかなかサインを手に入れることができず、三越日本橋本店のサイン会でようやく入手したという[15]。
- テレビや雑誌等で好きな食べ物を聞かれると「お好み焼きとたこ焼き」と答えていた[16]。
- 小学生の頃の夢は保母さんになる事だった。タイムカプセル用にテープへの録音も行われ「近所の小さい子がお姉ちゃんと慕ってくれるのが嬉しい。だから保母さんになりたい。」と将来の夢を語っていた[17]。
- サンミュージック所属(当時)の岡田有希子は彼女のファンで、河合奈保子の肖像画(油絵)を中学1年の時に描いて学校で金賞を獲った[18]。
- 芸映友の会ファンクラブ発表のテレフォンガイドでは1982年夏のツアースケジュールなど、本人がアナウンスした回があった。
- 2016年9月17日に行われたトリビュートイベント「〜再会の夏〜 奈保子ファンミーティング in SARAVAH東京」ではバックコーラスを務めたMILKの元メンバーも参加していた。
- 写真集『Scarlet』には彼女自身が撮影した写真を何枚か採用している。
- デビュー前は左右の八重歯があったが、デビューに際して左は抜歯し、右だけを残した[19]。
- 同じ1980年度の女性アイドル歌手デビューでは、岩崎良美・三原順子・松田聖子・柏原芳恵らが居る。特に同じ大阪市出身で同日デビューの柏原[20]とは親友で、お互いの事を「ヨシヨシ」「ナオナオ」と呼び合っていた[4][21]。
音楽
概要
河合の音楽面でのトータルプロデュースは1986年から1988年までは売野雅勇が、1989年から1992年まではミッキー吉野がそれぞれ務めた。1993年発表のアルバム『engagement』では吉元由美と河合奈保子の共同プロデュースとなっている。また、1985年から1988年まで宮島律子とM Rie(宮島理絵)のユニット「MILK」がバックコーラスを務めたことがあった。
シングルは1980年から1994年までの間に36枚を発売した。非売品ではあるが1986年3月に「《農協共済の歌》しあわせの輪をひろげよう」というシングルもリリースしている。アルバムは1980年から1993年までに、オリジナル盤はミニアルバム1枚を含む計19作品、ライブ盤は4作品を発売した。またベスト盤は2007年までに16作品とCD-BOX3作品をそれぞれ発売した。この他に高橋伸明とのデュエット盤が1作品発売している。
『NHK紅白歌合戦』には1981年から1986年まで、6回連続で出場していた。
デュエットシングル
アルバム
スタジオ・アルバム
ミニ・アルバム
リミックス・アルバム
ライブ・アルバム
ベスト・アルバム
BOX
映像ソフト
- ★印は2012年11月21日にDVDで復刻発売
- ☆印は2014年2月19日にDVDで復刻発売(ビデオ3巻分を1枚に収録)
- △印はPure Momentsにノーカット収録
- BRILLIANT 〜Lady Naoko in Concert(1982年11月21日)★
- Lady Naoko in Concert BEST ALBUM(1982年11月21日)- BRILLIANTの短縮廉価版
- Beautiful Days in 合歓(1983年9月1日)- EAST'83 △
- 河合奈保子 愛のコンサート(1983年12月1日)★
- Daydream Coast(1984年8月28日)- イメージビデオ
- SUMMER SPECIAL in EAST'84(1984年12月1日)★
- STARDUST GARDEN 〜千・年・庭・園〜(1985年3月21日)- イメージビデオ
- 感電するゾ熱い夏 NAOKO EAST'85(1985年9月21日)★
- Fantastic Journey 91/2(1985年12月12日)- イメージビデオ
- NAOKO '86 Stardust Paradise in EAST(1986年9月1日)★
- Scarlet(1986年12月10日)- イメージビデオ
- アース・アーク・芸映フェスティバル 武道館が燃えた!(1987年1月25日)- 当時の芸映プロ及び系列事務所所属タレント総出演のチャリティーイベントライブ
- 月夜宮殿 MY SONG FOR YOU(1987年9月10日)- EAST'87 ★
- NAOKO THANKSGIVING PARTY(1988年11月21日)- EAST'88FINAL、LDのみ
- NAOKO THANKSGIVING PARTY Part1〜3(1988年11月21日)- テープのみ3分割発売 ☆
- THE LOVER in ME 〜 ALONE AGAIN(1992年2月21日)- 同名ミュージカルのライブ
- Pure Moments 〜 NAOKO KAWAI DVD COLLECTION(2002年3月30日)- 映像ソフト総集編
- 河合奈保子プレミアムコレクション~NHK紅白歌合戦&レッツゴーヤングetc.~ (2017年8月30日) - 初のレッツゴーヤング映像化作品
- NAOKO ETERNAL SONGS(2020年12月23日) - TBSテレビでの歌唱映像集
タイアップ曲
楽曲提供
- 中村あずさ「Motion Poet」作詞:ミッキー吉野 作曲:河合奈保子 編曲:ミッキー吉野
参加作品
- SKY NATIVE(1986年3月21日)- NAO&NOBU名義+トランザムIIから成るアルバム
- Tears of Nature(1989年10月1日)- the Gentle Wind名義、全作曲、Key・バックボーカル参加
- Gentle Voice(1990年11月21日)- the Gentle Wind名義、全作曲、Key・バックボーカル参加
- THE LOVER in ME 〜First Christmas(1990年12月8日)- 同名ミュージカル使用曲から成るアルバム
- ちょっとだけ秘密(1992年12月12日)- 奈保子&小金沢くん名義、小金沢昇司とのデュエットシングル
その他
出演
ラジオ
- 番組構成上、リスナーからの投稿が重要な位置を占めており、投稿ハガキ採用者にはヤングタウングッズがプレゼントされた。
- 河合が隊長、吉が副隊長という位置づけであった。
- DENONミュージック倶楽部〜奈保子の少しだけハイヒール〜(1985年10月7日 - 1988年9月26日、FM東京)[1]
- ハウスウキウキサンデー 奈保子のいい朝してますか(1986年4月13日 - 1987年4月5日、文化放送)[1]
- 河合奈保子のスーパーギャング(1986年8月1日、TBSラジオ)
- 三菱ドライビングポップス・奈保子のときめきトワイライト(1986年10月6日 - 1990年4月8日、TBSラジオ)[1]
- 平日は10分、日曜日放送分はSunday Partyと称され30分番組であった。
- 昭和63年度日本民間放送連盟賞ラジオ娯楽部門最優秀賞受賞作品。
- ミッド・ナイト・マガジン(1987年5月22日・7月20日 - 24日、TBSラジオ)
- 1987年5月18日から22日までは特大号として当時のトップアイドルたちが日替わりで出演した。
テレビ
レギュラー出演
単発・連続ドラマレギュラー
※メインタイトルが太字の作品は主演作品。
- 1984年
- 「走れ青春42.195キロ 涙と汗のマラソン野郎」(4月11日、テレビ東京開局20年記念特別企画)
- 1986年
- 「指のほくろ」(11月16日、TBSテレビ系東芝日曜劇場)
- 1987年
- 「ラストゴングが鳴るまで」(6月6日 - 27日、全4回、NHKドラマ人間模様)
- 1988年
- 1989年
- 1990年
- 1991年
- 1992年
- 1993年
- 「危険な恋・ビオラの女」(7月13・20・8月3日、全3回、テレビ朝日系結婚・私が好きですか)
- 「危険な情事シリーズ(5) 結婚前に清算すべきこと」(7月31日、テレビ東京系映画みたいな恋したい)
- 1994年
- 「ママじゃないってば!」(1月5日 - 2月18日、全33回、TBSテレビ系花王愛の劇場)- 帯ドラマ初出演にして連続ドラマ初主演の作品
- 「大江戸風雲伝」(4月8日 - 7月15日、全15回、NHK金曜時代劇)- 途中よりサブレギュラー
- 「求婚記念日」(5月1日、TBSテレビ系ドラマBOX)
- 「港町の紙飛行機」(5月8日、MBSテレビ・TBSテレビ系、ドラマBOXシリーズ「君に伝えたい」より)
- 「裸の大将 第67話 清の焼きおにぎり」(7月3日、フジテレビ系花王ファミリースペシャル) - 西尾和美 役
- 1995年
- 「看護婦探偵・戸田鮎子(2)死の誕生パーティー」(3月20日、TBSテレビ系月曜ドラマスペシャル)- 牧夕子 役
- 「江戸の用心棒II」(10月17日 - 1996年3月5日、全16回、日本テレビ系)- 小夏 役
連続ドラマゲスト
- 「代表取締役刑事38話:裁きは終わりぬ」(1991年7月28日、テレビ朝日系)
- 「水戸黄門 第22部 第19話:悪が群がるカステイラ・長崎」(1993年9月20日、TBSテレビ系)- お糸 役
- 「HOTEL(第3シリーズ)18話:奇妙な新婚旅行!?・19話:長崎空港の謎の女」(1994年8月11・18日、TBSテレビ系)- 高槻理恵 役
- 「HOTEL(第4シリーズ)16話:謎の天才料理人!?・17話:超鉄人!料理対決」(1995年7月27日・8月3日、TBSテレビ系)
アニメ映画
ミュージカル
- 「THE LOVER in ME 〜恋人が幽霊」(1989年10月 - 11月)
- 「THE LOVER in ME 〜ファースト・クリスマス」(1990年12月 - 1991年1月)
- 「THE LOVER in ME 〜 ALONE AGAIN」(1991年12月)
- 「ヤマトタケル」(1994年・1996年、イマジンミュージカル)
バラエティー番組
CM
- ハウス食品工業
- 第一回ヒデキの妹オーディションの後援企業。CM出演は同オーディションの副賞でもあった。
- バーモントカレー - 当初は西城秀樹と共演、後に単独出演
- デザート(プリン、ゼリエース、フルーチェ合同)
- レンジグルメ
- 花さぬき - 単独出演、西川のりおと共演
- 鶏そぼろご飯
- むぎ茶 - 単独出演、子役時代の安達祐実と共演
- とんがりコーンCMソング 君は綺麗なままで(NAO&NOBU名義)
- 日立製作所・日立家電販売
- 当時日本コロムビアの親会社であったため出演
- 家具調こたつ
- 電気暖房器具総合カタログ「あたたかさは、美。」カタログ’86-9版および’86-10版
- からまん棒(洗濯機)
- サンサン青空(衣類乾燥機)※奥様の声に応えて「糸くずポケット新採用」カタログ’83-12版
- ゴミパック(掃除機)
- チリコン(掃除機) ※「-家具の下にも、間にも― すんなりサイズのゴミパック。」 カタログ’84-4版および’84-9版
- ククレット(電子レンジ)※「けんかをやめて」がCM曲として使われていた時期もあった
- ライオン
- 花王
- 旺文社
- 農協の共済
- コロナ
- 日立信販
- 池田泉州銀行(2010年)
- インストゥルメンタル曲が使用されており、画面右下に「河合奈保子」とクレジット表記されている。本人の出演は無し。
NHK紅白歌合戦出場歴
第31回(1980年)のデビュー年にも出場が噂されていたが、惜しくも出場が敗れた。
第36回(1985年)は河合奈保子の歌唱前、吉川晃司が自身の歌唱後にギターを壊すアドリブをし始め、立ち去らなかったため、最初のサビが披露できなかった事態が起こった。[23]
書籍
写真集
- 別冊近代映画 河合奈保子特集号(1981年1月15日発行、近代映画社)
- そよ風のメッセージ(1981年6月26日発行、音楽専科社)
- KAWAI奈保子フォトメッセージ(1981年8月5日初版、近代映画社)
- ときめきのメッセージ(1981年10月15日初版、ワニブックス)
- ほほえみステップ(1982年3月27日発行、音楽専科社)
- 別冊近代映画 河合奈保子スペシャルPART3(1982年7月1日発行、近代映画社)
- さまーひろいん(1982年8月1日初版、ワニブックス)
- チェリーピンクのプチハート(1983年2月23日発行、音楽専科社)
- NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集PART4(1983年4月5日初版、近代映画社)
- 素敵な時間(1983年10月20日初版、ワニブックス)
- らすと・ぷれりゅうど(1984年1月20日発行、音楽専科社)
- NAOKO IN AUSTRALIA 河合奈保子写真集PART5(1984年4月15日初版、近代映画社)
- NAOKO 5TH ANNIVERSARY(1984年10月25日初版、ワニブックス)
- LOVELY SUMMER(1985年7月6日発行、音楽専科社)
- 奈保子 河合奈保子写真集PART6(1985年7月15日初版、近代映画社)
- NAOKO TRANS AMERICA 河合奈保子写真集PART7(1986年1月15日初版、近代映画社)
- Sunshine Venus(1986年3月25日発行、音楽専科社)
- 河合奈保子写真集(近映文庫、1986年6月25日初版、近代映画社)- PART6・7の再録+ロングインタビュー
- 別冊スコラ(36)河合奈保子写真集 スカーレット(1986年12月25日初版、スコラ)
- 『トレフェン : 河合奈保子写真集』ワニブックス、1987年12月25日。
- 月刊平凡 GOLDEN BEST!! Vol.1 河合奈保子写真集 再会の夏(2016年8月31日初版 マガジンハウス)
電子書籍
- 別冊近代映画 河合奈保子スペシャルパート3(2018年12月20日配信)
- 別冊近代映画 河合奈保子特集号 (2019年1月4日配信)
- 近代映画増刊 河合奈保子フォトメッセージ (2019年1月11日配信)
- NAOKO IN BANGKOK 河合奈保子写真集パート4 (2019年1月21日配信)
- NAOKO IN AUSTRALIA 河合奈保子写真集パート5 (2019年1月28日配信)
- 河合奈保子 河合奈保子写真集パート6 (2019年2月4日配信)
- NAOKO TRANS AMERICA 河合奈保子写真集パート7 (2019年2月18日配信)
エッセイ他
- 夢・17歳・愛 心をこめて奈保子より(1981年3月1日初版、ワニブックス)
- アイドル百科3 河合奈保子(1982年12月20日初版、勁文社)
- わたぼうし翔んだ 奈保子の闘病スケッチ(1983年5月20日初版、ワニブックス)- 1981年の転落事故の療養記
- 大人の始発駅 過ぎ去る愛を言葉に(1984年6月10日初版、ワニブックス)
- 新装版 わたぼうし翔んだ -奈保子の闘病スケッチ-(2021年8月20日、復刊ドットコム)- 1983年発行書籍の新装版
関連書籍
- 理想の声に近づく本-大本式ヴォイス・トレーニング(大本恭敬著、1988年3月20日初版、シンコーミュージック)
- 実績の一例として、ボイストレーナーから見た河合奈保子の初期の軌跡に言及。オーディション選考経緯、歌手デビュー前のトレーニング、ファーストコンサート、転落事故復帰に関する所感、等々。
- あしたのナオコちゃん(全4巻、1985 - 1987年初版、中西裕著、白泉社ジェッツコミックス)
- 1980年代アイドルパロディコミック。
受賞歴
- 1980年
- 第7回ABC歌謡新人グランプリ 審査員奨励賞(10月2日、(放送10月10日))- ヤング・ボーイ
- 第10回銀座音楽祭 熱演賞(10月9日)- ヤング・ボーイ
- 第13回新宿音楽祭 銀賞(10月16日)- ヤング・ボーイ
- 第7回横浜音楽祭 新人賞(10月22日)
- 第6回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 優秀新人賞(11月11日)- ヤング・ボーイ
- 第22回日本レコード大賞 新人賞(11月26日ノミネート)- ヤング・ボーイ
- 第7回FNS歌謡祭 優秀新人賞(12月2日ノミネート)- ヤング・ボーイ
- 1981年
- 1982年
- 第24回日本レコード大賞 金賞(11月24日ノミネート)- けんかをやめて
- 第9回FNS歌謡祭 優秀歌謡音楽賞(12月7日ノミネート)- けんかをやめて
- 1983年
- 第2回メガロポリス歌謡祭 ポップス部門入賞(7月1日)
- 第25回日本レコード大賞 金賞(11月23日ノミネート)- エスカレーション
- 第10回FNS歌謡祭 優秀歌謡音楽賞(12月6日ノミネート)- UNバランス
- 第9回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 最優秀アイドル賞(10月25日)- UNバランス
- 1984年
- 第10回日本テレビ音楽祭 日本テレビ特別賞(9月6日)
- 第11回横浜音楽祭 音楽祭賞(10月17日)
- 第15回日本歌謡大賞 放送音楽プロデューサー連盟賞(11月20日)- 唇のプライバシー
- 第26回日本レコード大賞 金賞 - 唇のプライバシー、優秀アルバム賞(11月28日ノミネート)デイドリーム・コースト
- 第10回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 最優秀歌唱賞(10月30日)- 唇のプライバシー
- 第11回FNS歌謡祭 優秀歌謡音楽賞(12月4日ノミネート)- 唇のプライバシー
- 1985年
- 第12回横浜音楽祭 音楽祭賞(11月8日)
- 第11回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 審査員奨励賞(11月12日)- ラベンダーリップス
- 第27回日本レコード大賞 金賞(11月20日ノミネート)- デビュー
- 1986年
- 1987年
- 第7回日本作曲大賞 優秀作曲者賞(10月)- 十六夜物語
- 第9回プラハ国際音楽祭 最優秀歌唱賞・3位入賞・書記長賞(10月26日)- 十六夜物語
- 1990年
- 第27回ゴールデン・アロー賞 演劇新人賞・最優秀新人賞(2月26日、放送3月11日)- THE LOVER in ME 恋人が幽霊
脚注
注釈
- ^ 2002年(平成14年)10月から2010年(平成22年)9月までの社名はコロムビアミュージックエンタテインメント
- ^ ただし、2017年現在のkahoは「今は音楽活動よりも学業を最優先して欲しい」という実母・河合の強い希望も有り、主立った歌手活動は停止中の状況である。
- ^ 1988年発売の『悲しい人』のB面に収録
- ^ 「nahoko 音 / blue」「nahoko 音 / orange」2作品同時リリース。
- ^ この際にオーストラリア在住であることもテレビでは初めて報じられた。
出典
関連項目
外部リンク
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2000年代 | |
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開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。
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2009年,2010年代 | |
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