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松田 聖子 (まつだ せいこ、1962年 〈昭和 37年〉3月10日 - )は、日本 のアイドル ・歌手 ・シンガーソングライター ・女優 。
所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)[ 5] 。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県 久留米市 荒木町 出身[ 6] 。血液型 A型。
概説
日本を代表するアイドル 歌手 。1970年代 を代表するアイドルであった山口百恵 が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、様々な面で日本の大衆文化 に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。
山口百恵が引退した年の1980年 4月に「裸足の季節 」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコード が次々とヒットを記録する1980年代 を代表するアイドルとして活動した[ 7] 。類い稀な声質と「ぶりっ子 」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマーク の「聖子ちゃんカット 」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当時の街中に溢れかえった[ 7] 。後に中森明菜 と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が頻繁に発生した。
芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた[ 7] [ 注釈 1] 。
出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた[ 8] 。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子 は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎 から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという[ 9] 。
聖子を発掘してプロデュース したCBS・ソニー ディレクターの若松宗雄 は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモ を聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple 」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア 」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダー には後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD 時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。
楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色 」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア 」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート 第1位を獲得した[ 10] 。これはピンク・レディー が当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時、後続のアイドルの中で「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子 ・中山美穂 ・浅香唯 ・工藤静香 の1位獲得記録の合計を上回るものであった[ 11] [ 注釈 2] 。この記録は、CDバブル を迎えた2000年にB'z に破られるまで11年10か月間保持していた。
デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものであったが、6枚目のシングル「白いパラソル 」以降は作詞に松本隆 が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング 』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁 」から大村雅朗 が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した[ 4] 。1980年代の作曲家は財津和夫 、松任谷由実 (『呉田軽穂』名義)、細野晴臣 などニューミュージック 系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライター の起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズ と吉田拓郎 のコラボ の成功が念頭にあり[ 12] 、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からであったと述べている[ 12] 。音楽プロデューサーの川原伸司 は、「アイドルとかニューミュージックとか、当時まだJ-POP と言われる前で、ジャンルをすべて飛び越えた感じがあった」「"松田聖子プロジェクト"は、最終的には今のJ-POPの原点になった」と語っている[ 13] 。
私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみ と破局 。その後、すぐに映画で共演した神田正輝 との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加 を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。
1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング 」の作詞に始まり、「Canary 」、「時間旅行 」、「シェルブールは霧雨 」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライター としての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良 と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜 」が初のミリオンセラー を記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ 』、『SEIKO JAZZ 2 』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。
デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身 』や『婦人公論 』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケート では常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル 『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞 』の天声人語 (4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫 創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎 らを抑えて「日本の雑誌 に最も頻繁に登場した著名人」とされている[ 14] 。
経歴
生い立ち
1962年 3月10日 、福岡県 三潴郡 筑邦町 荒木(現在の久留米市 荒木町 )に、同県柳川市 出身で社会保険事務所 に勤める公務員 (厚生省 事務官 )の父親と、同県八女市 の庄屋 出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人であった、高良台病院で生まれた。難産 で生まれた時には、仮死状態であった[ 15] 。
出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は柳川城 の城主であった蒲池氏 [ 16] 第16代目蒲池鑑盛 (蒲池宗雪)の三男・蒲池統安 の子孫であり、江戸時代 には柳河藩 12万石[ 17] (立花家 )の家老 格であった旧家 [ 18] [ 19] [ 20] 。家紋 は蒲池久憲 以来の「左三巴」[ 注釈 3] 。8歳上の兄がいる[ 15] 。
幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた[ 15] 。久留米市立荒木小学校 卒業後、久留米市立荒木中学校 に入学しテニス部に所属。ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズ の曲を歌っていたという[ 21] 。自宅と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となっていた。なお、1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している。中学時代はスチュワーデス か保母 になりたいと思っていた[ 15] 。母親は二重まぶた のはっきりした目 なのに自分は一重まぶたであったため、母親の目が羨ましかったという[ 15] (デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。
高校時代 - 歌手志望へ
1977年、4月8日、カトリック 系の久留米信愛女学院高等学校 に入学する[ 15] 。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校が選ばれた[ 15] 。キリスト教 研究部に入部し、聖書 の勉強に勤しむ[ 15] 。行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される[ 15] 。大ファンの郷ひろみ のコンサートが福岡 で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる[ 15] 。
高校入学まもない春、福岡開催のテイチク 新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子 の「気まぐれヴィーナス 」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン 九州 大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選[ 15] 。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃 腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組みピンク・レディー の曲で出場した[ 15] 。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった[ 15] 。
高校2年となる1978年、CBS・ソニー と集英社 『セブンティーン 』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト 』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸 のディズニーランド にご招待」で、「大好きなミッキーマウス に会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に福岡市民会館 で行われた九州地区大会に出場した[ 15] 。
しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式 帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員 で厳格な父親は娘の芸能 界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスター の前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の若松宗雄 は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープ を取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようとスカウト する決意をした[ 15] 。若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。このときのテープは若松が現在も保管しており、2022年に上梓された「松田聖子の誕生」でテープの写真が公開された。
法子の芸能界入りは、学校 の規則 や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京 の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。そんな状況が続き、父親もこのまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、1979年1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。
晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある平尾昌晃 音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという[ 22] 。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校(渡辺プロ 系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している[ 15] 。支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした[ 15] [ 23] 。若松は次にプロダクション尾木 の尾木徹 社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった[ 注釈 4] 。
上京 - 芸能界入り
1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い相澤秀禎 社長のサンミュージックプロダクション であった。当初は相澤が支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接 を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る[ 15] [ 24] 。
当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子 に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、翌年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を中退 した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした[ 15] 。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に予定されていた父親の東京出張 に合わせて法子も上京する運びとなった。そして、父親と共に5日間ほど東京に滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。食事の帰り道、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。
1979年7月、堀越高等学校 に転学 する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。
相澤は朝のジョギング が日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを同行した。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな鎮守社 に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという[ 25] 。
プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ[ 15] 。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものであった(中山はそれを法子に告げていなかった)[ 15] 。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断 に委ねた結果、沖紘子 の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。
1979年10月、日本テレビ 系ドラマ『おだいじに 』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった[ 15] 。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介 とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送 『ザ・パンチ・パンチ・パンチ 』のパーソナリティ 「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始[ 15] 。この時同番組のスポンサーの平凡パンチ からは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの宮本幸一 の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった[ 26] 。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。
同月、資生堂 の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼ が出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子 )[ 7] 。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している[ 7] 。
1980年1月末、NHK総合 『レッツゴーヤング 』の中のユニット「サンデーズ 」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌 ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦 らと共に新メンバーに抜擢される。
歌手デビュー - 1980年代を代表するアイドルへ
注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とかコマーシャルソング としての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節 」で歌手デビューを果たした[ 7] 。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている[ 24] 。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵 の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった[ 7] 。デビュー時のキャッチフレーズ は「抱きしめたい! ミス・ソニー 」。
聖子の歌声はタイアップ CMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した[ 7] 。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色 」、「夏の扉 」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆 (後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという[ 7] 。
デビュー日となる4月1日、日本テレビ 『ズームイン!!朝! 』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK 『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ 『夜のヒットスタジオ 』に「裸足の季節」で初登場。7月3日、TBS 『ザ・ベストテン 』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い岩崎良美 とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁 」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした[ 7] 。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗 を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる[ 27] 。
9月には「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャート では最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側 」で10位にランクインした山口百恵と初共演、握手をし激励の言葉を受けた。このシーンは70年代 と80年代 を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞 』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦 』にもデビュー1年目で初出場した[ 7] 。
伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロング のふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット 」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した[ 7] 。
楽曲では、初期の三浦徳子 のリゾート感あふれる詞と小田裕一郎 による西海岸風のサウンドに始まり、大村雅朗等のシティ・ポップ 的なアレンジが彩りを添えた。2年目にはチューリップ のリーダーである財津和夫 を起用。さらに作詞に松本隆 を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一 、松任谷由実 、細野晴臣 、佐野元春 、尾崎亜美 、大江千里 といったニューミュージック 系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理 、来生たかお 、原田真二 、甲斐祥弘 、南佳孝 、林哲司 、矢野顕子 、玉置浩二 等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供した。アルバムには基本的に歌詞カードのみが封入、一曲ごとに全ての楽器演奏者の名前がクレジットされるという、アイドルでは珍しい楽曲重視のプロデュースが見られ、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録していく。
デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキー な色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー 」、「SWEET MEMORIES 」などの代表曲が生まれた。元々B面 であった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー 缶ビールのCM曲であった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット 表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。
こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色 」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア 」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート 1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた[ 28] [ 29] 。
社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている[ 24] 。
結婚・出産 - ママドルへ
1985年1月、交際していた郷ひろみ (結婚 間近と噂されていた)との破局 を発表し、単独で記者会見 を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった[ 28] [ 注釈 5] 。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー 』で共演していた神田正輝 が聖子との交際を認め、4月に婚約 を発表。6月24日に行われた結婚式 は、石原プロ の俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴 では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった[ 28] [ 30] 。司会 を務めたのは当時日本テレビ アナウンサー の徳光和夫 。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日 は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイム の平均視聴率 は34.9%(ビデオリサーチ ・関東地区)を記録した[ 28] 。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ 』では司会の芳村真理 が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう…… よかった」とだけ応じる場面があった[ 28] 。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル 」と「哀愁のカサブランカ 」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)[ 28] 。
妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦 』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。
1986年10月1日、長女の沙也加 を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME 』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞 』では「アルバム大賞」を受賞した[ 29] 。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦 』にも出場した。
1987年4月発売のシングル「Strawberry Time 」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルであった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron 』はデイヴィット・フォスター によるプロデュースで、シングルの「Marrakech〜マラケッシュ〜 」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった[ 29] 。
独立・海外進出 - セルフ・プロデュースへ
1989年6月、サンミュージック との契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック 」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ 行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁 状態で別れる事となる[ 31] [ 32] 。
11月、27枚目のシングル「Precious Heart 」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。
1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven 」、「THE RIGHT COMBINATION 」、アルバム『Seiko 』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART 』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本 ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダ で2位、イギリスで11位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「We Are Love 」から再び日本に拠点を移して活動。
続くシングル「きっと、また逢える… 」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague 』から1998年のアルバム『Forever 』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良 との共作)。作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルであった。「あなたに逢いたくて〜Missing You〜 」のように、同主調 や平行調 、あるいは属調 や下属調 などの近親調 への転調 をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。
また海外進出の際に改めてダンスを学んでおり、1990年代のセルフ・プロデュースでは米欧のミュージックトレンドを取り入れたダンスナンバーが格段に増える。この頃にはミュージックビデオの制作にも力を入れており、1995年からはプロパガンダ・フィルムズ とタッグを組んでのMV制作も行われた。コンサートでは外国人バックダンサーを多数起用する、セクシーな表現を取り入れるなど、1980年代からの変化も見られた。
この頃のシングルではチャート4位の「きっと、また逢える…」(1992年)、7位の「大切なあなた 」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう 」(1994年)などがヒット。
1994年の『第45回NHK紅白歌合戦 』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボール の中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦 』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみ を背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。
1995年にはアルバム『It's Style'95 』がチャート2位、同年のコンサートツアーが当時自己最高の観客動員数を記録するなど改めて人気が再燃。
そして1996年発売の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう 」が久々のシングルチャート1位、自身初のミリオンセラー を記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期にはチャート5位の「さよならの瞬間 」(1996年)や、長女・沙也加への母性愛をテーマとした「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に 」(1997年)も発表した。
同年にはロビー・ネヴィル をプロデューサーに迎えた、R&B 路線の海外進出第二弾『WAS IT THE FUTURE 』も発表。
1997年1月、神田正輝と離婚 した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師 と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。
2000年代以降 - ジャズへの挑戦
1999年のアルバム『永遠の少女 』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party 』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二 も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1 』から2004年のアルバム『Sunshine 』までは原田が作曲・プロデュースを担当した。
その間、アメリカのインディーズ レーベルから発売された海外進出第3弾アルバム『area62 』ではクラブサウンドに挑戦、アルバムからのシングルがビルボード のダンス・チャートの上位にランクインもした。
2005年以降は、鳥山雄司 プロデュースのアルバム『fairy 』を経て、2006年の『bless you 』で再び小倉とのコンビとなるが[2007年の『Baby's breath 』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。
2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加 と音楽番組 やバラエティ番組 でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした[ 注釈 6] 。
2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック 会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している[ 31] [ 32] 。
2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美 以来26年ぶりとなる、竹内まりや 作詞・作曲のシングル「特別な恋人 」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス 」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実 )のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい 」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI 作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って 」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『Bibbidi-Bobbidi-Boo 』から起用された編曲家の野崎洋一 が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。
2014年2月末、新事務所「felicia club」を設立し「ファンティック 」から移籍。
2017年、新たな取り組みとして全編ジャズ で構成されたアルバム『SEIKO JAZZ 』を発売。2019年には第2弾となる『SEIKO JAZZ 2 』を、2024年には第3弾となる『SEIKO JAZZ 3 』を発売した。
2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020 』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫 と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている[ 33] 。
一人娘・神田沙也加の死
2021年12月18日、一人娘である長女・神田沙也加 が札幌市 中央区 のホテル の高層階から転落して死去[ 34] 。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという[ 35] 。翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された[ 36] 。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり[ 37] [ 38] 、選出されていた『第72回NHK紅白歌合戦 』も出場を辞退した[ 39] 。
同月21日、札幌市清田区 の札幌市里塚斎場 に赴き[ 40] 、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った[ 41] 。
年譜
1970年代まで
1962年
1974年
4月、久留米市立荒木中学校に入学。テニス 部に入部し3年間在籍した。
1977年
1978年
1979年
1980年代
1980年
2月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMソング として歌唱起用が決定。
4月1日、「エクボ」のCMソング「裸足の季節 」で歌手デビュー。デビュー当時のキャッチフレーズ は「抱きしめたい! ミス・ソニー 」。
4月13日、NHK総合 『レッツゴーヤング 』にサンデーズ のメンバーとしてレギュラー出演開始。
4月28日、「裸足の季節」で、フジテレビ 『夜のヒットスタジオ 』に初登場。
7月、デビュー3か月でファンクラブ発足 発会式には5,000人が集まる。
7月、よみうりランドグリーンステージで『さわやかコンサート』を開き、8,000人のファンを動員する。
7月3日、「裸足の季節」で、TBS 『ザ・ベストテン 』の「スポットライト」コーナーに初登場(11位)。
8月14日、「青い珊瑚礁 」で、TBS『ザ・ベストテン』に初ランクイン(8位)[ 7] 。
9月18日、「青い珊瑚礁」で、TBS『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得。
9月25日、『ザ・ベストテン』で「青い珊瑚礁」が2週連続第1位となる。
9月30日、日本青年館ファーストコンサート『First Kiss』開催。
10月 3枚目のシングル「風は秋色 」で初のヒットチャート第1位獲得。
8月 - 12月、「青い珊瑚礁」で第22回日本レコード大賞 新人賞をはじめ、10もの大きな音楽祭の賞を獲得。第31回NHK紅白歌合戦 に初出場。「聖子ちゃんカット 」と呼ばれるヘアスタイル が大流行し、「ブロマイド 」の年間売り上げでトップに輝く。
1981年
1月、イタリア のサンレモ音楽祭 に出場。
3月、「青い珊瑚礁」が1981年春の選抜高等学校野球大会 の入場行進曲になる。
4月、初の全国横断コンサート(6か所8公演)の締めくくりに日比谷野外音楽堂 で『'81聖子ビックコンサート in TOKYO』を開く。
7月 - 9月、コンサートツアー『Nice Summer Seiko』
8月8日、初主演映画『野菊の墓 』公開。
8月13日、「白いパラソル」が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「初登場第1位」を獲得(9072点)。
12月、「聖子ちゃんカット」をバッサリ切り、ショートカットになる。
この年の暮れから、父親の定年 退職を機に両親を九州から呼んで共に暮らすようになる[ 42] 。のち神田正輝 と結婚するまでは東京都目黒区 東が丘の一軒家で、この家の門は、代表作「青い珊瑚礁」のサビ部分「あ〜私の恋は〜」の五線譜で飾られていた。
1982年
1983年
2月、12枚目のシングル「秘密の花園 」が10曲連続シングルチャート1位となり、 9曲連続のピンク・レディー の記録を破る。
2月、大阪厚生年金会館 で『Seiko New Year Concert』開催。
3月28日、沖縄市 営体育館でのコンサートにて、「渚のバルコニー 」の歌唱中に観客席から男が乱入し、工事用のプラスチックパイプで聖子の頭部を目掛けて数回殴打するという事件が発生。男は傷害の現行犯ですぐに逮捕されたが、聖子は右頭部と右手に全治約1週間の軽傷を負い恐怖で失神し、その日のコンサートは中止となった[ 42] [ 注釈 7] この様子は日本テレビがザ・トップテン の放送のために撮影をしていたため、ワイドショー等で頻繁に放送された。その後、4月5日の熊本 コンサートから復帰を果たした(なお、現地の当時の様子を伝えていた沖縄テレビ [ 注釈 8] の中安章生 はザ・トップテンのスタジオと中継の際、誤って「白いパラソル を歌っていた」と伝えている)。
4月、フジテレビの音楽番組『ザ・スター』に出演。『ザ・スター 松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子』放送[ 43] 。
7月、コンサートツアー『アン・ドゥ・トロワ』開催。中井貴一 共演の主演映画『プルメリアの伝説 天国のキッス 』公開(主題歌は13枚目のシングル「天国のキッス 」)。
8月、「SWEET MEMORIES 」がサントリー生ビールのCMソングに。ジャケット写真は最初のものと後に発売された両A面版と2パターンある。
11月17日、「SWEET MEMORIES」(9位、6796点)と「瞳はダイアモンド 」(2位、8199点)が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「2曲同時初登場」を記録。
12月、日本武道館でコンサート『SEIKO LAND 』開催。伊集院静 が舞台演出。
1984年
1月 - 4月、コンサートツアー『JEWELS』開催(15か所16公演)。
4月 - 6月、コンサートツアー『FANTASTIC FLY』開催。日本武道館では香水をまく演出が話題に。伊集院静が舞台演出。
7月、ハワイ大学 へ短期留学。羽賀研二 共演の主演映画『夏服のイヴ 』公開。
7月 - 11月、コンサートツアー『Magical Trump』開催。伊集院静が舞台演出。
12月、コンサートツアー『GOLDEN JUKE』開催
『ドレミファドン』のアンケートで「結婚したい女性」のNo.1(回答は若い男性対象)となる。
1985年
1986年
1987年
4月、約2年ぶりのシングル「Strawberry Time 」リリース。結婚・出産を経てもアイドル人気は衰えず、“ママになったアイドル”という意味の「ママドル 」と呼ばれる。
4月、写真集『Five Seasons』(篠山紀信 /撮影)出版。
4月23日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後のスポットライトを獲得(2年ぶりの出演)。ランクインは次々週まで待つ事になる。
6月4日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後の1位を獲得。
5月 - 6月、コンサートツアー『SEIKO SUPER DIAMOND REVOLUTION 』開催(8か所15公演)。
9月、TBS特別企画ドラマ『スイート・メモリーズ』主演。
1988年
2月14日、東京都目黒区の自由が丘 にブティック「フローレス・セイコ 」(Flawless Seiko) をオープン[ 29] 。「フローレス (Flawless)」とは "(宝石が)傷のない、完璧な" という意味で、ダイアモンドの最高級を表す[ 29] 。(※2014年11月1日に「felicia club by Seiko Matsuda」に店名を改名しリニューアルオープン)
3月、CBS・ソニー・ゴールドディスク大賞受賞。
4月28日、「Marrakech〜マラケッシュ〜 」でTBS『ザ・ベストテン』最後の出演[ 29] 。
5月 - 9月、コンサートツアー『Sweet Spark Stream 』開催(19か所25公演)映画監督・根岸吉太郎が演出を手がける。
9月、26枚目のシングル「旅立ちはフリージア 」で24曲連続チャート1位獲得。
10月27日、「旅立ちはフリージア」でTBS『ザ・ベストテン』最後のランクイン(10位)。
12月、『第39回NHK紅白歌合戦 』に「Marrakech〜マラケッシュ〜」で9年連続出場。80年代最後の紅白出演となった。
1989年
1990年代
1990年
1992年
2月、ブティック「フローレス・セイコ」が4周年を迎え、記念イベントが行われ2,000人のファンが詰めかける。
3月25日、初の聖子自身による全曲作詞作曲プロデュースアルバム『1992 Nouvelle Vague 』発売。先行シングルは、自身初の主演連続ドラマTBS『おとなの選択 』の主題歌「きっと、また逢える… 」。この年から本人による作詞作曲プロデュースによる楽曲発表が主体となっていく。
6月 - 7月、コンサートツアー『1992 Nouvelle Vague 』開催(10か所16公演)。
12月、初のクリスマスディナーショー(4か所8公演)を開く。
1993年
1994年
たかの友梨 ビューティークリニックのイメージキャラクターに選ばれ、「ヌーディッシュ宣言」と題した本人の巨大広告やTVCMが話題となり、ワイドショーやマスコミなどで「第2次聖子ブーム」と騒がれる。
6月 - 8月、コンサートツアー『Glorious Revolution 』開催(19か所28公演)。
12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。
1995年
6月 - 8月、コンサートツアー『It's Style '95 』開催(23か所33公演)。
12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。
1996年
1997年
1月、神田正輝と離婚。離婚のニュースは、芸能報道の枠を超えて各局とも一般ニュース枠でも報じ、号外 が出された。神田との離婚後も、学業半ばの娘の姓が変わらないようにするため婚氏続称 を選び、民法 上は神田姓であった。
6月 - 7月、コンサートツアー『My Story 』開催(13か所26公演)。
12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。
1998年
5月、6歳年下の歯科医師 と交際2か月で結婚。会った瞬間「ビビビッと来た」というコメントが流行語 になり、「ビビビ婚」などと呼称された。
6月 - 11月、コンサートツアー『Forever 』開催(全国8か所22公演)(広島及び福岡公演は急病のため延期となった)。
12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所21公演)。
1999年
マネージメント事務所を「ファンティック」からソニーのプロデューサーであった若松宗雄が代表を務める「グリーンパークミュージック」に移籍。
10月、事務所移籍の諸事情で武道館他全国アリーナ会場の使用予約をとる事ができなかったため、初のライブハウス・ツアー『Zepp Tour 』開催(4か所9公演)。
12月18日、11年半ぶりに作詞家に松本隆 を起用したアルバム『永遠の少女 』を発売する。なお先行シングルの「哀しみのボート 」は、フジテレビ系で放送されたテレビドラマ『OUT〜妻たちの犯罪〜 』の挿入歌となった。
12月、クリスマスディナーショー開催(11か所17公演)。
2000年代
2000年
2001年
3月、初のスプリングディナーショーを開催する(全国9か所17公演)。
6月 - 8月、コンサートツアー2001『LOVE & EMOTION 』開催(全国13か所23公演)。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国12か所)。
2002年
ソニー・ミュージックエンタテインメント に復帰。
芸能事務所「グリーンパークミュージック」から「ファンティック」に再移籍。
3月11日、ダイヤモンドのように最も輝く女性として『ダイヤモンド・パーソナリティー賞』を受賞し1000万円相当のダイヤを授与される。
6月21日、全米進出第3弾となる『area62 』をHIP-O RECORDSより全米にて発売。
毎年恒例となっている夏のコンサートツアーには、発売されたアルバムタイトルがそのままツアータイトルになる事がほとんどだが、02年には国内でのアルバム発売がなかったために『Seiko Matsuda Concert Tour 2002 Jewel Box 』と題したコンサートツアーが開催され約15万人を動員する。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー2002開催(全国15か所20公演)。
12月31日、この年から2003年まで、大阪城ホール で年末のカウントダウン・ライブを行う。BS 中継もされた(2005年以降は東京体育館 で開催)。
2003年
同年もアルバム発売がなかったため、夏のコンサートツアー(『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2003 Call me )は同年6月に発売されたシングル「Call me 」をツアータイトルとし、「Call meでMeet me」キャンペーンと銘打った抽選により、ファンの楽屋招待と握手という直接交流企画を自身のコンサートツアーにおいて初めて実施して話題となる(全国12か所20公演)。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国11か所)。岐阜市内のホテルでのディナーショーのアンコール中、握手した手を離さない男性ファンがいたため、ステージ上でしりもちをつき「頚椎捻挫、背部挫傷」の全治3週間の怪我を負う。
2004年
5月3日、横浜スタジアム にて横浜-巨人戦の始球式を行う。
7月11日、長野オリンピックスタジアム でのサンヨーオールスターゲーム第2戦のゲーム前に「君が代 」を斉唱する。
約3年ぶりのオリジナルアルバム『Sunshine 』が、7月21日付のオリコンアルバムチャート(週間)で初登場6位を獲得。アルバムトップテン入りで女性アーティストでは松任谷由実 に並ぶ歴代1位に輝いた。
10年ぶりに出演(障害児童の母親役)したテレビドラマ『たったひとつのたからもの 』(日本テレビ )が関東地区で平均30.1%、関西地区で平均23.6%(ビデオリサーチ調べ)の高視聴率となる。なお、このドラマはアジア・テレビジョン・アワード2005 単発ドラマ部門 最優秀作品賞を受賞する。
12月31日、デビュー25周年記念イベントを記念してファンクラブ限定の『スーパープレミアムコンサート』を新高輪プリンスホテルにて16時からと20時45分からの2部にわけて開催される。会員限定という事もあり、通常のコンサートやディナーショーとは違い、聖子自身の幼少からの未公開写真や縁の品を観覧室に展示し順に観覧できるという特別な趣向が凝らされたイベントを行う。
2005年
6月5日のさいたまスーパーアリーナ を初日に、歌手活動25周年に当たる全国ツアー『fairy 』を開始。台湾 のファンからの強い要請に応え、8月20日、最終公演を台湾の新荘市にある新荘体育館で行う(デビュー初の海外公演)。観客5000人から熱烈に歓迎され、中国語 でも歌った。
9月5日開始のAMラジオ 史上初となる全国民放AMラジオ47局の統一キャンペーン「あなたに伝えたい〜言い出せなかった“ありがとう”」キャンペーンソングに「しあわせな気持ち 」が起用され、11月には特別番組のメインパーソナリティーも務める。
2006年
7月31日付オリコン・アルバムチャートで10万円の74枚組CDボックス『Seiko Matsuda 』を96位にランクインさせた。このボックス・セットは週間売上金額で2億1500万円を記録し、2位の『Beautiful Songs〜ココロ デ キク ウタ〜 』(9300万円)を2倍以上引き離していた。また、これまで、アルバムでチャートイン(トップ300)した最高額作品は、1989年8月の美空ひばり の6万円の35枚組『今日の我に明日は勝つ』(9位)であったが、松田聖子はこの記録を16年11か月ぶりに更新した。その後、当初の発売予定の1万セットを完売し、売り上げだけで約10億円となる。
2007年
松田聖子を取り上げたドキュメンタリー 『松田聖子〜女性の時代の物語』(NHK総合 )が放映される。視聴率は9.3%(同放送の平均視聴率は5〜6%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)であった。3月、歌手活動について古巣の「サンミュージック」と業務提携契約を締結。
8月1日、横浜スタジムにて横浜-巨人戦の始球式を行う。
11月20日、沖縄で24年ぶりの公演(ディナーショー)。
2008年
7月5日公開の実写版『火垂るの墓 』で清太の母・雪子を演じ7年ぶりの映画出演となる。回想シーンでの登場を除けば登場は冒頭のみだが同作の挿入歌を担当。
2009年
2010年代
2010年
4月21日、プリンセス・セイコとして矢島美容室 とコラボレーションしたシングル「アイドルみたいに歌わせて 」をリリース。
5月5日、シングル「いくつの夜明けを数えたら 」がフジテレビ『チーム・バチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋 』の主題歌となる。ドラマ主題歌としては14年ぶりの起用であった。
5月19日、26日の2週に渡ってNHK の『SONGS 』で松田聖子スペシャルが放送され、1週目が7.5%(同番組の平均視聴率は3 - 4%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)で番組史上歴代2位の視聴率となり、翌2週目にはさらに視聴率を伸ばし、8.3%と歴代1位となる視聴率を獲得した。
6月6日 - 8月7日、『30th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2010 My Prelude 』を開催(10箇所14公演)、計15万人以上動員する。
10月10日、20年ぶりとなるファンクラブ会員限定の『30周年記念ファンの集い』を赤坂プリンスホテル にて開催。参加は有料抽選申し込みであったが、日程的に急であったにも関わらず予想以上に申し込み人数が多くなってしまったため、4回に分けてファンの集いを行い、約5000人のファンと交流を果たす。
10月20日、東京国際フォーラムでデイヴィッド・フォスター の実に16年ぶりの日本公演となる『DAVID FOSTER &FRIENDS JAPAN TOUR 2010』にスペシャルゲストとして登場し、デイビッドが88'年に聖子に作曲提供した「抱いて 」を彼のピアノ伴奏にて披露する。
1983年に放映を開始したサントリー のTV-CMで、聖子自身が名前を伏せ「SWEET MEMORIES 」をアニメのペンギンにあてて歌い話題となったが、そのアニメキャラクターのペンギンと27年ぶりに再びサントリーの缶コーヒー「ボス シルキーブラック」のCMで競演を果たし話題となる。
2011年
6月 - 8月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2011 Cherish 』を開催(7箇所11公演)
9月7日、Hollywood Bowlで開かれたクインシー・ジョーンズ 主催の『Quincy Jones Global Gumbo All Stars』にゲスト出演し、クインシーとの話し合いで同年3月11日に起きた東日本大震災 への復興への願いも込めて全米ビルボード 1位にもなった坂本九 の「スキヤキ 」を歌う。
10月1日、毎年恒例の夏の全国コンサートツアー中、客席のファンからの要望が多かった事により、昨年の30周年記念のファンの集いに引き続き、この年はザ・プリンスパークタワー東京で2年連続となるファンの集いを、司会進行に、松田聖子の大ファンと公言し続けている藤井隆 を迎え開催、4回に分け約5000人のファンと交流する。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(12箇所27公演)
11月23日、30周年記念シングルとして竹内まりや との初コラボレーションによる「特別な恋人 /声だけ聞かせて」を発売。女性アーティストによるシングル詞・曲楽曲提供は、1985年発売の尾崎亜美 の「ボーイの季節 」以来約26年ぶりとなる。
12月16日放送の『オールナイトニッポンGOLD 』(ニッポン放送)の公開録音を28年ぶりにファンを抽選で招待し行う。
12月31日、毎年恒例となっているカウントダウン・ライブのため出場していなかった「NHK紅白歌合戦」に、カウントダウンのライブ会場である東京体育館から中継という形で10年ぶりに出場し、「震災復興に“親子の絆”という事で少しでも勇気を与えられたら」と、娘である神田沙也加と共に、自身の曲ではなく坂本九 の「上を向いて歩こう 」をデュエットした。
2012年
5月2日、自身が作詞・作曲を手がけた新曲「涙のしずく 」を発表。「涙のしずく」は、2012年4月28日公開の映画『わが母の記 』のイメージソングに決定した[ 48] 。
6月 - 8月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2012 Very Very 』を開催(6箇所9公演)
6月13日、自身の公式ホームページ にて一般男性との結婚を発表[ 49] 。再々婚後も神田姓を続称しているかどうかは明らかにしていないため、2013年現在の本名は不明。
9月に全米でリリースされたジャズグループ、フォープレイ のアルバム『Espirit De Four』の中の「Put Our Hearts Together」でゲストボーカリストとして参加。この曲は東日本大震災の追悼も込めた形でボブ・ジェームス が作ったもの。
9月9日、東京国際フォーラムで行われた『東京JAZZ 2012』に、ボブ・ジェームス率いるユニットの特別ゲストとして出演。
10月29日、『Put Our Hearts Together コンサートin 大船渡』に出演。この模様は12月27日、NHK総合テレビでドキュメンタリー番組として放送された。
11月4日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催。司会は藤井隆。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(9箇所20公演)
12月28日 - 29日、舞浜アンフィシアターにて初のバラードコンサート『Seiko Ballad 』を開催。
2013年
4月2日、京セラドーム大阪 にて、阪神―中日戦の始球式を行う。
4月23日、6月5日に発売される藤井隆 のCDシングル「She is my new town / I just want to hold you」の作詞・作曲・プロデュースを手掛けた事を発表。2曲ともにコーラスでも参加している。
6月 - 7月、コンサートツアー『SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2013 A Girl in the Wonder Land 』を開催(5箇所8公演)
7月31日 - 8月1日、東京国際フォーラム で行われたクインシー・ジョーンズ の32年振りとなる来日公演にシークレットゲストとして出演。
9月14日、幕張メッセで行われた『UNIVERSAL SIGMA 10TH ANNIVERSARY 「SIGMA FES. 2013」 〜U-EXPRESS LIVE AUTUMN〜』に出演。
9月16日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催を予定するも荒天のため中止となる。
10月30日、クリス・ハート とのデュエットソング「夢がさめて 」を発売。
11月2日、TOKYO FM 『McDonald's SOUND IN MY LIFE』のゲストとして東京・渋谷スペイン坂スタジオに生出演。その後、東京・お台場ヴィーナスフォートでシングル発売記念イベントを開催。
11月 - 12月、クリスマスディナーショーを開催(10箇所22公演)
12月31日、グランドプリンスホテル新高輪 「飛天」にて、『2013 New Year's Eve Live Party 』を開催。2回公演で、2回目は紅白歌合戦と、カウントダウンセレモニーが含まれていた。
2014年
2015年
2016年
2017年
6月10日 - 8月20日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2017 Daisy 』を開催(5か所8公演)。7月8日の東京公演は、ケガのため椅子に座った状態で行われた。関係者によると、数日前に転倒した際に背中と腰を強打し、一時は立ち上がる事もできなかったという。翌日の公演も同様に行われ、2日間の東京公演を決行した。
11月2日、オーチャードホールにて『SEIKO JAZZ 2017』を開催。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。
11月24日スタートのNHKのドラマ『マチ工場のオンナ 』の主題歌「新しい明日」を担当。同局のドラマ主題歌を歌うのは初めて[ 50] 。
2018年
1月25日、大阪フェスティバルホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。
2月9日、愛知県芸術劇場大ホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。
3月10日、舞浜アンフィシアターにて『SEIKO MATSUDA Birthday party 2018』を開催。(1日3公演)
6月9日 - 9月2日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2018 Merry-go-round 』を開催(5か所8公演)
11月4日、 Billboard Live Tokyoにて『PREMIUM SEIKO JAZZ LIVE 2018』を開催
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所24公演)
2019年
2月27日、オーチャードホールにて『"SEIKO JAZZ 2" Concert Tour 2019』を開催
6月8日 - 8月3日、コンサートツアー『Pre 40th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour 2019 "Seiko's Single Collection"』を開催。
7月5日 - 8月5日、6日、8日の追加公演が発表され日本武道館は3daysになり福岡は久留米2daysが追加され千秋楽は大阪城ホールとなった。
11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所23公演)
2020年代
2020年
3月14日、中野サンプラザホール にて"SEIKO MATSUDA プレミアム バースデーステージ 2020"を開催予定も新型コロナウィルス感染拡大の影響により中止
4月1日、『SWEET MEMORIES 〜甘い記憶〜』を先行配信リリース[ 51]
6月6日 - 10月3日、Seiko Matsuda Concert Tour 2020 "Singles & Very Best Songs Collection!!"を開催予定であったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により2021年6月以降に延期
7月15日、『瑠璃色の地球 2020』を配信リリース[ 52]
10月3日、デビュー以来初のライブ配信『40th Anniversary Seiko Matsuda 2020 "Romantic Studio Live”』を動画配信サービスU-NEXTにて開催。U-NEXTによるライブ配信最高峰の高音質・高画質を意味するPREMIUM LIVE EXPERIENCEでの初の作品となる
12月、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にてクリスマスディナーショー開催(4日4公演)
12月31日、日本武道館にて40th Anniversary「Seiko Matsuda 2020」Pre Count Down Concert!!〜今年中に会いたかったよ!!(*´▽`*)〜を開催。“40th Anniversary「Seiko Matsuda 2020〜2021」Count Down Concert!!〜新年 最初に会えるねっ!!(*‘∀‘)〜”は電車終夜運転中止による移動手段制限のため中止。
2021年
4月1日、『青い珊瑚礁〜Blue Lagoon〜』を配信リリース[ 53]
6月2日、『時間の国のアリス〜Alice in the world of time〜』を配信リリース[ 54]
6月5日 - 10月24日、Happy 40th Anniversary!! Seiko Matsuda Concer Tour 2020〜2021 "Singles & Very Best Songs Collection!!"を開催
12月15日 - 18日 、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にてクリスマスディナーショー「SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2021」を開催。最終日(19日)は中止となった[ 55] 。また、23日から26日までホテルニューオータニ大阪 で開催予定であった公演も全て中止となった[ 56] 。25日には、出場を予定されていた『第72回NHK紅白歌合戦 』を辞退したことがNHK により発表された[ 39] 。
2022年
4月9日 - 10日、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にて「SEIKO MATSUDA Premium Dinner Show 2022」を開催[ 57] 。
5月5日 - 7日、ホテルニューオータニ大阪 鳳凰の間にて「SEIKO MATSUDA Premium Dinner Show 2022」を開催。
6月11日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2022“My Favorite Singles & Best Songs”』がさいたまスーパーアリーナにて開幕[ 58] 。
9月2日、日本武道館公演120回を達成。
9月3日、日本武道館にてコンサートツアー(5箇所10公演)が閉幕。
11月12日、HBO Asia "FOLKLORE 2" 松田聖子初監督作品 "The Day Wind Blew~あの風が吹いた日~" 特別上映会&松田聖子監督プレミアムシネマトークショーが開催される (1日2回)。
12月14日 - 17日、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にて「SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2022」を開催。
12月23日 - 26日、ホテルニューオータニ大阪 鳳凰の間にて「Seiko Matsuda CHRISTMAS DINNER & CONCERT 2022」を開催。
2023年
5月27 - 28日、東京都世田谷区でファンミーティング(1日2回)開催。
6月10日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2023“Parade”』がさいたまスーパーアリーナにて開幕。
9月3日、日本ガイシホールにてコンサートツアー(5箇所12公演)が閉幕。
2024年
3月24日、4年間の受講を経て、中央大学法学部通信教育課程 を卒業した[ 59] 。マスク姿などで変装しながら実際にキャンパスへ登校し、教員との対面授業にも臨んでいたという[ 60] 。同日に後楽園 キャンパス(東京都文京区)にて開催された卒業式に出席した[ 61] 。卒業式後に茗荷谷 キャンパスで行われた通信教育課程の卒業証書・学位記授与会場で、卒業生を代表してスピーチを行った[ 62] 。
エピソード
ぶりっ子
「ぶりっ子 」という呼称は、当時の人気漫才 コンビ春やすこ・けいこ や山田邦子 が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある[ 8] 。この言葉は当時の流行語 にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。
上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送のNHK ・朝の連続テレビ小説 『あまちゃん 』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった[ 注釈 9] 。
実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。
ヘアスタイル
1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット 」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる小泉今日子 、松本伊代 、堀ちえみ 、石川秀美 など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間であった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「聖子ちゃんず 」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。
「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー 』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷 店が行きつけであった。
1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時にワンレングス のロングヘアーになっている場合が多い。
語学力と海外作品への出演
1990年のアメリカ での歌手 デビュー のために徹底的に英語 を学び、CNN のインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾 におけるコンサートなどでは北京語 も披露している。1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。
1998年公開の映画『アルマゲドン 』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだがカメオ出演 を果たしている。
1999年に公開されたキルスティン・ダンスト 主演の『わたしが美しくなった100の秘密 』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。
2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES 』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。
交友
デビュー当時は同期である岩崎良美 、浜田朱里 らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校 の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。浜田朱里とは2022年4月に都内で久々に再会していた事を女性週刊誌で報道された。同じく同期の田原俊彦 は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲であった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった近藤真彦 とは昔から交流があり、1988年にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。
飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあったモト冬樹 とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。小柳ルミ子 はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも「ルミちゃん」と呼ばれて信頼されていたという。聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。
その他
1980年前半の全盛期を迎えていた頃、ジャイアント馬場 との初対面の際に馬場から、「俺は水戸黄門 しか見ないから(松田聖子を)知らない」と言われた事がある[ 注釈 10] 。
1990年代後半からは「ディナーショー の女王」として知られ、1992年より毎年行われるそのショーは高い人気を誇っている。チケット代は日本の全タレントの中で最も高い部類に入るが、常に即日完売となり入手が困難だと言われている。グランドプリンスホテル新高輪 などのS席は50,500円と高額で、過去にはヒルトン名古屋 にて4人セットで220,000円という価格のものも存在した。
2003年11月、兄が卒業した久留米大学附設高等学校 の同窓会 東京支部の総会に、私人としてノーギャラで、旧姓の蒲池法子でゲスト出演した。子供の頃から兄とは仲がよい[ 63] 。
2006年5月19日放送の『ぐるぐるナインティナイン 』の「ゴチになります!7」にVIPチャレンジャーとして登場し、レギュラー陣を抑えて第1位を獲得。ニアピン賞付きで5万円を獲得する快挙を達成。しかし、2回目の出演では逆にビリになって自腹で払っている。
「蒲池」という名字が、ZARD の坂井泉水 (本名:蒲池幸子)と同じなので、従姉妹や親戚なのではないか、と噂されることがあったが、仮に遠い先祖が同じであったとしても、2人は従姉妹でもなければ親戚でもない。
元夫の神田正輝 、娘の神田沙也加 と共に干支 が3人全員寅年 である。
2015年4月に開催されたファンクラブイベント『Thank You Event!!』において、本人より明らかにされたエピソード。
『ミス・セブンティーンコンテスト 』九州地区大会出場時には、2曲の楽曲を準備するよう指示があったため、桜田淳子 の「気まぐれヴィーナス 」と渡辺真知子 のデビュー曲「迷い道 」を準備しリハーサルで歌ったところ、係員より前者の「気まぐれヴィーナス」を指定された。
上京の1か月後より収録・出演したドラマ『おだいじに 』において、九州訛り が抜けずにNGを連発。杉村春子 、池内淳子 などの大御所俳優に迷惑をかけたと語っている。
健康維持・リフレッシュの方法は入浴と睡眠である。入浴剤 は使用せず、43℃の熱い真湯に10分間ほど入る(シャワー使用時は45℃に表示されている)。ストレッチを毎日行っている。
作品
シングル
タイトル
c/w
発売日
規格
品番
JP
1st
裸足の季節
RAINBOW 〜六月生まれ
1980年4月1日
EP
06SH746
12
2004年4月14日
CD
SRCL-5675
94
2nd
青い珊瑚礁
TRUE LOVE 〜そっとくちづけて〜
1980年7月1日
EP
06SH802
2
2004年4月14日
CD
SRCL-5676
88
3rd
風は秋色/Eighteen
1980年10月1日
EP
07SH866
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5677
-
4th
チェリーブラッサム
少しずつ春
1981年1月21日
EP
07SH911
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5678
93
5th
夏の扉
頬に潮風
1981年4月21日
EP
07SH977
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5679
92
6th
白いパラソル
花一色 〜野菊のささやき〜
1981年7月21日
EP
07SH1026
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5680
95
7th
風立ちぬ
Romance
1981年10月7日
EP
07SH1067
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5681
91
8th
赤いスイートピー
制服
1982年1月21日
EP
07SH1112
1
2004年4月14日
CD
SRCL-5682
85
9th
渚のバルコニー
レモネードの夏
1982年4月21日
EP
07SH1148
1
1982年5月21日
CT
10KH1152
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5683
-
10th
小麦色のマーメイド
マドラス・チェックの恋人
1982年7月21日
EP
07SH1188
1
1982年8月1日
CT
10KH1194
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5684
-
11th
野ばらのエチュード
愛されたいの
1982年10月21日
EP
07SH1233
1
1982年11月1日
CT
10KH1249
83
2004年4月14日
CD
SRCL-5685
-
12th
秘密の花園
レンガの小径
1983年2月3日
EP
07SH1253
1
1983年3月5日
CT
10KH1280
68
2004年4月14日
CD
SRCL-5686
-
13th
天国のキッス
わがままな片想い
1983年4月27日
EP
07SH1289
1
1983年5月8日
CT
10KH1301
55
2004年4月14日
CD
SRCL-5687
98
14th
ガラスの林檎/SWEET MEMORIES
1983年8月1日
EP
07SH1366
1
1983年8月10日
CT
10KH1354
58
2004年4月14日
CD
SRCL-5688
100
15th
瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ
1983年10月28日
EP
07SH1421
1
1983年11月11日
CT
10KH1368
37
2004年4月14日
CD
SRCL-5689
-
16th
Rock'n Rouge
ボン・ボヤージュ
1984年2月1日
EP
07SH1455
1
1984年
CT
10KH1443
47
2004年4月14日
CD
SRCL-5690
-
17th
時間の国のアリス/夏服のイヴ
1984年5月10日
EP
07SH1500
1
1984年
CT
10KH1474
54
2004年4月14日
CD
SRCL-5691
-
18th
ピンクのモーツァルト
硝子のプリズム
1984年8月1日
EP
07SH1540
1
1984年8月10日
CT
10KH1538
71
2004年4月10日
CD
SECL-5692
99
19th
ハートのイアリング
スピード・ボート
1984年11月1日
EP
07SH1580
1
1984年11月10日
CT
10KH1586
68
2004年4月14日
CD
SECL-5693
-
20th
天使のウィンク
七色のパドル
1985年1月30日
EP
07SH1600
1
1985年2月25日
CT
10KH1637
58
2004年4月14日
CD
SRCL-5694
-
21st
ボーイの季節
Caribbean Wind
1985年5月9日
EP
07SH1640
1
1985年6月1日
CT
10KH1889
65
2004年4月14日
CD
SRCL-5695
-
22nd
DANCING SHOES (Club Mix) (SEIKO)
CRAZY ME, CRAZY FOR YOU
1985年6月24日
12inch
12AH1896
1
23rd
Strawberry Time
ベルベット・フラワー
1987年4月22日
EP
07SH1926
1
CT
10KH2179
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5696
-
24th
Pearl-White Eve
凍った息
1987年11月6日
EP
07SH2000
1
CT
10KH2355
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5697
-
25th
Marrakech〜マラケッシュ〜
No.1
1988年4月14日
EP
07SH3040
1
CT
10WH3040
-
8cmCD
10EH3040
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5698
-
26th
旅立ちはフリージア
Angel Tears
1988年9月7日
EP
07SH3106
1
CT
10WH3106
-
8cmCD
10EH3106
-
2004年4月14日
CD
SRCL-5699
-
27th
Precious Heart
恋の魔法でCatch Your Heart
1989年11月15日
CT
CSSL-3045
-
8cmCD
CSDL-3045
2
28th
All the way to Heaven (SEIKO)
He's so good to me
1990年4月30日
CD
656475 2
-
CT
656475 4
-
LP
656475 6
-
EP
656475 74
-
29th
THE RIGHT COMBINATION (Seiko and Donnie Wahlberg)
LOVER'S PARADISE
1990年7月15日
8cmCD
CSDL-3151
28
CT
CSSL3151
-
30th
who's that boy (SEIKO)
He's so good to me
1990年10月1日
CT
-
CD
73523
-
31st
We Are Love
Kiss Me Please
1990年11月21日
CT
CSSL-3194
-
8cmCD
CSDL-3194
16
32nd
きっと、また逢える…
Matins 〜朝の祈り〜
1992年2月5日
CT
SRSL-3323
-
8cmCD
SPCL-3433
4
33rd
あなたのすべてになりたい/Shinin' Shinin'
1992年8月1日
CT
SRSL-3359
-
8cmCD
SRDL-3514
31
34th
大切なあなた
最後の“さよなら”
1993年4月21日
CT
SRSL-3388
-
8cmCD
SRDL-3642
7
35th
A Touch of Destiny
Sweet Memories (English New Version)
1993年5月21日
8cmCD
SRDL-3664
51
36th
かこわれて、愛jing (MATSUYAKKO)
1993年11月10日
CT
SRSL-3422
-
8cmCD
SRDL-3767
63
37th
もう一度、初めから
There for You
1994年5月11日
SRDL-3821
22
38th
輝いた季節へ旅立とう
It's Style
1994年12月1日
SRDL-3953
12
39th
素敵にOnce Again
想い出の“渚のバルコニー”
1995年4月21日
SRDL-4001
22
40th
あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう
1996年4月22日
PHDL-1081
1
41st
Let's Talk About It (SEIKO)
1996年4月24日
12inch
31458 1563 1
-
CT
31458 1562 4
-
CD
31458 1562 2
-
31458 1563 2
-
42nd
I'll Be There For You (松田聖子 with Robbie Nevil)
1996年5月17日
8cmCD
PHDL-1062
35
43rd
さよならの瞬間
Dear My Darling
1996年11月18日
PHDL-1076
5
44th
Good For You (SEIKO)
1996年12月10日
LP
31458 2059 1
-
45th
私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に
1997年4月23日
8cmCD
PHDL-1111
5
46th
Gone with the rain
Good For You (Sweetest Mix)
1997年12月3日
CD
PHCL-1203
28
47th
恋する想い〜Fall in love〜
I Love You
1998年6月17日
8cmCD
PHDL-1151
34
48th
Touch the LOVE
ルツェルンの畔で
1998年11月26日
PHDL-1181
66
49th
哀しみのボート
葡萄姫
1999年10月27日
PHDL-1202
27
50th
20th Party
恋はいつでも95点
2000年5月17日
CD
PHCL-20019
17
51st
上海ラヴソング
チャペルの小径
2000年6月7日
PHCL-20024
37
52nd
Unseasonable Shore
夏色の瞳
2000年6月14日
PHCL-20025
35
53rd
True Love Story/さよならのKISSを忘れない (郷ひろみ・松田聖子)
2000年9月27日
SRCL-4922
7
54th
The Sound of Fire
奇蹟の起る夜☆kiseki no okoru yoru☆
2000年11月29日
UMCK-4003
46
55th
あなたしか見えない
Ave Maria 2001 featuring soundfly SONO
2001年6月20日
UMCK-5523
30
56th
愛♡愛〜100%♥Pure Love〜
Ding Dong
2001年11月14日
UMCK-5535
49
57th
all to you (SEIKO)
2002年4月30日
LP
440 050 054 2
-
CD
HIPF-05039 2
-
58th
素敵な明日
2002年6月5日
SRCL-5350
29
59th
just for tonight (SEIKO)
2002年6月17日
440 060 094 2
-
60th
Call me
This is the place 2003
2003年6月4日
SRCL-5570
17
2004年7月7日
SRCL-5790
-
61st
逢いたい
風色のKiss
2004年5月26日
SRCL-5738
12
62nd
Smile on me (SEIKO with Crazy.T)
制服のボタン
2004年7月7日
CD+DVD
SRCL-5759/60
18
CD
SRCL-5761
63rd
永遠さえ感じた夜
夢見てた二人
2005年2月2日
SRCL-5867
34
64th
I'll fall in love
思い出にできなくて
2005年8月24日
SRCL-5960
30
65th
しあわせな気持ち
The time went by
2005年9月21日
SRCL-5968
28
66th
bless you
ふたつの心達
2006年4月26日
SRCL-6272
29
67th
WE ARE. (PawPaw)
君との未来図
2006年5月24日
SRCL-6279
-
68th
涙がただこぼれるだけ
砂の上でくちづけしてね
2007年5月23日
SRCL-6566
38
69th
真夏の夜の夢 (松田聖子×藤井隆)
二人ならば
2007年8月1日
SRCL-6611
36
70th
クリスマスの夜
Merry Christmas
2007年11月21日
CD+DVD
SRCL-6684〜5
34
CD
SRCL-6686
71st
花びら舞う季節に
あなただけ広い世界に
2008年3月19日
SRCL-6769
32
72nd
Love is all
忘れたりしないでね
2008年6月25日
SRCL-6820
32
73rd
あの輝いた季節
いつまでもこの胸の中に
2008年10月22日
CD+DVD
SRCL-6902〜3
30
CD
SRCL-6904
74th
アイドルみたいに歌わせて (矢島美容室 feat.プリンセス・セイコ)
2010年4月21日
AVCD-31864B
16
75th
いくつの夜明けを数えたら
You are my Angel
2010年5月5日
CD+DVD
UMCK-9329
12
CD
UMCK-5270
76th
特別な恋人
声だけ聞かせて
2011年11月23日
CD+DVD
UMCK-9457
14
CD
UMCK-5355
77th
涙のしずく
上を向いて歩こう
2012年5月2日
CD+DVD
UMCK-9481
20
CD
UMCL-5378
78th
LuLu!!
Sweet Lover
2013年5月22日
CD+DVD
UMCK-9618
23
CD
UMCL-5428
79th
夢がさめて (松田聖子 & クリス・ハート )
もう一度抱きしめたい
2013年10月30日
CD+DVD
UMCK-9647
14
CD
UMCK-5451
80th
I Love You!! 〜あなたの微笑みに〜
Free
2014年5月21日
CD+DVD
UMCK-9673
27
CD
UMCK-5469
81st
永遠のもっと果てまで/惑星になりたい
2015年10月28日
CD+DVD
UPCH-89240
11
CD+グッズ
UPCH-89246
CT
UPSH-89001
CD
UPCH-80414
82nd
薔薇のように咲いて 桜のように散って
薔薇のように咲いて 桜のように散って Piano Ver.
2016年9月21日
UPCH-80445
6
CD+DVD
UPCH-89293
CD+封入ポスター
UPCH-89306
正規プロモ盤/ノベルティ盤
タイトル
内容
年
規格
品番
白いパラソル
白いパラソル 白いパラソル(カラオケ)
1981
EP
YESS 3
風立ちぬ
風立ちぬ(モノラル) Romance(モノラル)
1981
XDSH-93019
聖子とおしゃべりデート
「Pineapple」販促コメント
1982
CT
TPBH-94015
クリスマスメドレー
クリスマスメドレー 恋人がサンタクロース
1984
EP
XDSH-93098
Love Message
「ユートピア」新曲コメント
1983
CT
XAKH-90021
Dancing Shoes
DANCING SHOES (Single ver.) CRAZY ME, CRAZY FOR YOU
1985
EP
XDSH-93043 07SH-1670
Touch Me
TOUCH ME DANCING SHOES (Album ver.)
1985
XDSH-93104
瑠璃色の地球
瑠璃色の地球 白い夜
1986
XDSH-93122
時間旅行
時間旅行 マリオネットの涙
1986
XDSH-93132
Precious Heart
Precious Heart 恋の魔法でCatch Your Heart
1989
XDSH-93246
All The Way To Heaven
All the way to Heaven he's so good to me
1990
656 019 7
Seiko SPECIAL DJ COPY
All the way to Heaven who's that boy THE RIGHT COMBINATION
1990
12cmCD
XDDH-93049
The Right Combination
THE RIGHT COMBINATION
1990
SCK-73417
Who's That Boy
who's that boy
1990
SCK-73523
あなたに逢いたくて 〜Missing You〜
あなたに逢いたくて〜Missing You〜 明日へと駆け出してゆこう
1996
12cmCD 羽根入りBOX
SACL-1002
CD
SADL-1009
Let's Talk About It
Extended Club Vocal Club Dub X Beat Mix I LP Version R&B Street Mix W/ Rap X Beat Dub II
1996
LP
AMPRO-00215
R&B Steet Mix W/O Rap R&B Street Mix W/ Rap Radio House Vocal Hip Hop Mix LP Version
12cmCD
AMSAD-00208
Good For You
X-Beat Dub X-Beat Instrumental Dark & Lovely Dub X-Beat Straight Pass
1996
12inch
AMPRO-00359
Spike Club Vocal Spike Instrumental Radio Remix W/O Rap Radio Remix W/ Rap Spike Radio Mix LP Version
AMPRO-00370
さよならの瞬間
さよならの瞬間
1996
CD
SDAL-1019
私だけの天使〜Angel〜
私だけの天使〜Angel〜 あなたのその胸に
1997
12cmCD
9DCP-9001
Gone with the rain
Gone with the rainKissしてX'mas
1997
9DCP-9004
恋する想い〜Fall in love〜
恋する想い〜Fall in love〜Forever
1998
9DCP-9008
Touch the LOVE
Touch the LOVE ルツェルンの畔で
1998
-
-
哀しみのボート
哀しみのボート 葡萄姫
1999
12cmCD
PHLD-1202
20th Party
20th Party 恋はいつでも95点
2000
CT
-
The Sound of Fire
The Sound of Fire 奇跡の起る夜☆kiseki no okoru yoru☆
2000
-
あなたしか見えない
あなたしか見えない Ave Maria 2001
2001
-
愛♡愛〜100%♥Pure Love〜
愛♡愛〜100%♥Pure Love〜 Ding Dong
2002
-
素敵な明日
素敵な明日
2003
12cmCD
SDCR-80077
all to you
Stonebridge Club Mix Stonebridge Club Instrumental Mix Stonebridge Club Radio Mix Stonebridge Alt Club Mix Stonebridge Dub Mix Stonebridge Alt Radio Mix
2002
CD
HIPF-05039 2
just for tonight
Mark!s Rampant Vocal Mark!s Rampant Dub
2002
LP
JFT001
Mark!s Rampant Radio Mark!s Rampant Now Vocal Mark!s Message Vocal
JFT002
オリジナル・アルバム
タイトル
発売日
規格
品番
JP
1st
SQUALL
1980年8月1日
LP
27AH1032
2
CT
27KH844
1
1983年6月22日
マスターサウンドLP
30AH1607
-
1983年7月1日
メタルマスターCT
33KH1332
-
1983年12月21日
CD
35DH68
-
1987年11月21日
32DH783
-
1990年10月15日
CSCL-1267
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20011
64
2012年2月15日
MHCL-20146
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30107
-
2014年9月25日
SACD
SSMS-001
-
2nd
North Wind
1980年12月1日
LP
27AH1154
1
CT
27KH932
2
1983年6月22日
マスターサウンドLP
30AH1608
-
1983年7月1日
メタルマスターCT
33KH1333
-
1983年12月22日
CD
35DH69
-
1987年11月21日
32DH784
-
1991年5月15日
SRCL-1853
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20013
74
2012年2月15日
MHCL-20147
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30108
-
2015年8月28日
SACD
SSMS-007
-
3rd
Silhouette 〜シルエット〜
1981年5月21日
LP
28AH1267
2
CT
28KH992
2
1981年6月21日
マスターサウンドLP
30AH1204
-
1983年3月21日
CD
35DH29
-
1983年7月1日
メタルマスターCT
33KH1334
-
1987年11月21日
CD
32DH785
-
1991年5月15日
SRCL-1854
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20015
68
2012年2月15日
MHCL-20148
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30109
-
2015年8月28日
SACD
SSMS-008
-
4th
風立ちぬ
1981年10月21日
LP
28AH1337
1
CT
28KH1083
1
1981年11月21日
マスターサウンドLP
30AH1213
-
メタルマスターCT
33KH1092
-
1983年2月25日
CD
35DH26
-
1987年11月21日
32DH786
-
1990年10月15日
CSCL-1268
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20017
52
2012年2月15日
MHCL-20149
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30110
-
2014年9月25日
SACD
SSMS-002
-
5th
Pineapple
1982年5月21日
LP
28AH1432
1
CT
28KH1160
1
1982年6月21日
マスターサウンドLP
30AH1220
75
1982年7月1日
メタルマスターCT
33KH1173
-
1982年10月1日
CD
35DH3
-
1987年11月21日
32DH787
-
1990年10月15日
CSCL-1269
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20019
49
2012年2月15日
MHCL-20150
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30111
-
2014年10月31日
SACD
SSMS-003
-
6th
Candy
1982年11月10日
LP
28AH1494
1
CT
28KH1252
1
1982年12月21日
マスターサウンドLP
30AH1601
70
メタルマスターCT
33KH1265
-
CD
35DH19
-
1987年11月21日
32DH789
-
1990年10月15日
CSCL-1270
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20021
63
2012年3月14日
MHCL-20153
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30112
-
2014年10月31日
SACD
SSMS-004
-
7th
ユートピア
1983年6月1日
LP
28AH1528
1
CT
28KH1310
1
1983年6月22日
CD
38DH39
-
1983年7月1日
メタルマスターCT
33KH1331
80
1983年9月1日
マスターサウンドLP
32AH1610
55
1987年11月21日
CD
32DH790
-
1990年10月15日
CSCL-1271
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20023
50
2012年3月14日
MHCL-20154
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30113
-
2014年11月28日
SACD
SSMS-005
-
8th
Canary
1983年12月10日
LP
28AH1666
1
CT
28KH1425
1
1983年12月21日
メタルマスターCT
33KH1431
-
マスターサウンドLP
32AH1618
64
CD
38DH62
-
1987年11月21日
32DH791
-
1990年10月15日
CSCL-1272
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20025
73
2012年3月14日
MHCL-20155
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30114
-
2015年9月30日
SACD
SSMS-009
-
9th
Tinker Bell
1984年6月10日
LP
28AH1734
1
CT
28KH1485
1
メタルマスターCT
33KH1489
-
CD
35DH100
-
1984年7月1日
マスターサウンドLP
32AH1628
72
1987年11月21日
CD
32DH793
-
1990年10月15日
CSCL-1273
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20027
89
2012年3月14日
MHCL-20156
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30115
-
2015年9月30日
SACD
SSMS-010
-
10th
Windy Shadow
1984年12月8日
LP
28AH1800
1
CT
28KH1600
2
メタルマスターCT
33KH1618
-
CD
32DH170
-
1984年12月21日
マスターサウンドLP
32AH1634
-
1990年10月15日
CD
CSCL-1274
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20029
85
2012年3月14日
MHCL-20157
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30116
-
2015年10月30日
SACD
SSMS-011
-
11th
The 9th Wave
1985年6月5日
LP
28AH1880
1
CT
28KH1685
-
CD
32DH238
-
1985年6月21日
マスターサウンドLP
32AH1640
95
1990年10月15日
CD
CSCL-1275
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20031
90
2012年4月18日
MHCL-20158
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30117
-
2015年10月30日
SACD
SSMS-012
-
12th
SOUND OF MY HEART (SEIKO)
1985年8月15日
LP
28AH1910
2
CT
28KH1720
2
CD
32DH266
39
1995年3月8日
CD
SRCL-3178
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20033
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30118
-
13th
SUPREME
1986年6月1日
LP
28AH2030
1
CT
28KH1850
1
CD
32DH440
-
1995年3月8日
SRCL-3179
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20035
93
2012年4月18日
MHCL-20159
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30119
-
2014年11月28日
SACD
SSMS-006
-
14th
Strawberry Time
1987年5月16日
LP
28AH2170
1
CT
28KH2157
1
CD
32DH656
1
1995年3月8日
SRCL-3180
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20037
99
2012年4月18日
MHCL-20160
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30120
-
15th
Citron
1988年5月11日
LP
28AH5040
1
CT
28KH5040
CD
32DH5040
1995年3月8日
SRCL-3181
-
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20039
-
2012年4月18日
MHCL-20161
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30121
-
16th
Precious Moment
1989年12月6日
CD
CSCL-1039
6
CT
CSTL-1039
2009年8月5日
ブルースペックCD
SRCL-20041
-
2013年7月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30122
-
17th
Seiko (SEIKO)
1990年5月15日
LP
466577 1
-
CD
CK-46046
-
CT
CT-46046
-
1990年6月7日
CD
CSCL-1090
2
CT
CSTL-1090
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30282
18th
We Are Love
1990年12月10日
CD
CSCL-1569
3
CT
CSTL-1569
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30283
19th
Eternal
1991年5月2日
CD
CSCL-1918
3
CT
CSTL-1714
1992年12月12日
MD
SRYL-7087
-
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30284
20th
1992 Nouvelle Vague
1992年3月25日
CD
CSCL-2364
8
CT
CSTL-1807
1992年11月1日
MD
SRYL-7064
-
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30285
21st
Sweet Memories'93
1992年12月2日
CD
CSCL-2546
12
CT
CSTL-1853
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30286
22nd
DIAMOND EXPRESSION
1993年5月21日
CD
CSCL-2616
4
CT
CSTL-1864
MD
SRYL-7107
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30287
23rd
A Time for Love
1993年11月21日
CD
CSCL-2803
21
CT
CSTL-1899
MD
SRYL-7137
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30288
24th
Glorious Revolution
1994年6月12日
CD
CSCL-2915
8
CT
CSTL-1911
MD
SRYL-7148
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30289
25th
It's Style '95
1995年5月21日
CD
CSCL-3230
2
CT
CSTL-1951
MD
SRYL-7199
2014年12月24日
ブルースペックCD2
MHCL-30290
26th
WAS IT THE FUTURE (SEIKO)
1996年5月14日
CD
31454 0480 2
-
CT
31454 0480 4
-
1996年6月10日
CD
PHCL-1007
12
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9337
-
27th
Vanity Fair
1996年5月27日
CD
PHCL-5028
2
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9336
-
28th
Guardian Angel
1996年12月5日
CD
PHCL-5001
10
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9344
-
29th
My Story
1997年5月21日
CD
PHCL-5070
5
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9338
-
30th
Sweetest Time
1997年12月3日
CD
PHCL-12
23
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9345
-
31st
Forever
1998年5月8日
CD
PHCL-5101
12
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9339
-
32nd
永遠の少女
1999年12月18日
CD
PHCL-5130
24
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9340
-
33rd
20th Party
2000年6月28日
CD
PHCL-5151
16
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9341
-
34th
LOVE & EMOTION VOL.1
2001年6月19日
CD
UMCK-4029
19
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9342
-
35th
LOVE & EMOTION VOL.2
2001年11月28日
CD
UMCK-4040
43
2010年5月26日
スーパーハイマテリアルCD
UMCK-9343
-
36th
area62 (SEIKO)
2002年6月11日
CD
4400600542
-
2002年6月21日
VIVI-19623
-
TGCS-1439
-
37th
Sunshine
2004年6月9日
SRCL-5756/8
6
38th
fairy
2005年4月6日
SRCL-5894
7
39th
Under the beautiful stars
2005年12月7日
SRCL-6115
34
40th
bless you
2006年5月31日
SRCL-6286
14
41st
Eternal II
2006年12月6日
SRCL-6455
54
42nd
Baby's breath
2007年6月6日
SRCL-6567
19
43rd
My pure melody
2008年5月21日
SRCL-6806/8
15
44th
My Prelude
2010年5月26日
CD+フォトブック
UMCK-9333
4
CD
UMCK-1355
45th
Cherish
2011年6月1日
CD+フォトブック
UMCK-9438
10
CD
UMCK-1395
46th
Very Very
2012年6月6日
CD+フォトブック
UMCK-9490
9
CD
UMCK-1420
47th
A Girl in the Wonder Land
2013年6月5日
CD
UMCK-1447
5
CD+DVD
UMCK-9624
CD+フォトブック
UMCK-9625
48th
Dream & Fantasy
2014年6月4日
CD
UMCK-1482
5
CD+フォトブック
UMCK-9679
CD+DVD
UMCK-9680
49th
Bibbidi-Bobbidi-Boo
2015年6月10日
CD
UMCK-1510
6
CD+DVD
UMCK-9744
CD+フォトブック
UMCK-9745
50th
Shining Star
2016年6月8日
CD
UPCH-20419
5
CD+DVD
UPCH-29218
CD+フォトブック
UPCH-29219
51st
Daisy
2017年6月7日
CD
UPCH-20453
5
CD+DVD
UPCH-29257
CD+フォトブック
UPCH-29258
52nd
Merry-go-round
2018年6月6日
CD
UPCH-20488
10
CD+DVD
UPCH-29299
CD+フォトブック
UPCH-29300
53rd
SEIKO MATSUDA 2020
2020年9月30日
CD
UPCH-20551
3
CD+DVD
UPCH-29365
CD+ハチマキ
PDCN-1921
2021年10月20日
CD
UPCH-29407
TBA
54th
SEIKO MATSUDA 2021
2021年10月20日
CD
UPCH-20591
4
CD+DVD
UPCH-29406
CD+BD+2LP+ポスター
PDCN-1927
ベスト・アルバム
リミックス・アルバム
企画アルバム/ミニアルバム
オリジナル・サウンドトラック
トリビュート・アルバム/インストゥルメンタル・アルバム
VHS・DVD・Blu-ray
未発表曲
音源が存在したり、関係者が存在を証言している未発表曲として以下のものが確認されている。
白い風は旅人 - 1980年の作と推定[ 64] 。事務所サイドで制作されたものの採用されずお蔵入りになったとされるが、動画サイト等で聞くことができる。
気分はスニーカー - 1980年の作。月星化成 のCM曲であったが、正式な音源としては発売されなかった。動画サイト等で聞くことができる。月星化成は聖子の故郷・久留米の企業であり、CMに何度か起用している。
恋のウエストサイド - 1981年の作。「気分はスニーカー」と同じく月星化成のCM曲であった。月星化成では非売品のプロモーション用としてこの2曲とカラオケバージョンを収録したカセットテープ『聖子のオリジナル・ソングス』を作成しており、封入された歌詞カードには両曲とも作詞はふるさわけん、作曲は中村弘明と記載されている。
幸せなんて欲しくないわ - 1985年の作と推定。松本隆 作詞、吉田拓郎 作曲。詳細は「ボーイの季節 」を参照。
夢のクレッセントムーン - 1987年に開始したフジテレビ 『FNS27時間テレビ 』の第1回放送『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島 』のテーマソングとしてBoy Meets Girlの「Waiting for a Star to Fall」を日本語訳にカバーしたもの。聖子が『27時間テレビ』に携わったのは現状この一回限りである。
楽曲提供
Alan Reed
「LOVE YOU BETTER」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
「BETWEEN MY LINES」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
「STANDIN' TALL」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
「YOU AND ME AND TIME」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura
「YOU'RE THE GIRL」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
「YOUR EYES (Japanese Version)」[ 注釈 11] 作詞:Alan O'day 作曲:山下達郎 日本語詞:Seiko Matsuda 編曲:Ryo Ogura
神田正輝
「雨のシナリオ〜Can't Say Good-bye〜」作詞・作曲:SEIKO 編曲:大村雅朗
電波子
「駈けていく少女」作詞:Seiko Matsuda 作曲・編曲:後藤次利
藤井隆
「SHE IS MY NEW TOWN」作詞:Seiko Matsuda 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
「I just want to hold you」作詞:Seiko Matsuda 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura
記録
シングル
首位獲得数:25作(歴代6位・女性アーティスト単独2位)
12枚目のシングル「秘密の花園 」でピンク・レディー の1位獲得数9枚を抜いて単独首位獲得数1位を記録する。首位獲得数25作まで記録を伸ばすが2000年10月にB'z に抜かれるまで(1983年2月〜2000年10月)の約17年8か月間首位獲得数1位を保持していた。
女性アーティスト・ソロ部門では2006年3月に浜崎あゆみ に抜かれるまで(1983年2月〜2006年3月)の23年1か月間首位獲得数1位を保持していた。
厳密には「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES 」が「ガラスの林檎」で首位となり、AB面入替え・ジャケット変更した「SWEET MEMORIES」で首位となったため、首位獲得「曲数」では26曲である。
首位連続獲得数:24作(歴代7位・女性アーティスト単独2位)
3作目の「風は秋色/Eighteen 」〜26作目の「旅立ちはフリージア 」(1980年10月〜1988年9月)まで首位1位獲得数を保持し、上記に続いて12枚目のシングル「秘密の花園 」でピンク・レディーの首位連続数9作を抜いて首位連続最高数単独1位を記録保持する。2000年7月にB'zに抜かれるまで(1983年2月〜2000年7月)の約17年5か月間首位連続最高数1位を保持していた。
女性アーティト・ソロ部門では2010年10月に浜崎あゆみに抜かれるまで(1983年2月〜2010年10月)の27年8か月間首位連続獲得数1位を保持していた。
上記同様、厳密には「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES 」が「ガラスの林檎」、「SWEET MEMORIES」各々のA面扱いで首位を獲ったため、連続首位獲得「曲数」では25曲である。
月間チャート首位獲得曲:15作(歴代3位・ソロ1位)
月間チャート1位月数:17月(歴代2位・ソロ1位)
月間チャート1位最高連続獲得数:4作(計3回、歴代7位タイ・ソロでは単独3位)
同曲による首位2週以上獲得数:14作(歴代1位)
オリコン 首位獲得週数:50週(歴代4位・ソロでは単独2位)
オリコンシングル同作による首位返り咲き最長週数:11週(「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES 」・1983年8月15日付〜10月31日付)(歴代3位・ソロ1位、再発売の曲も含めると:歴代4位・ソロ2位)
オリコン首位・2位同時獲得:(「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ 」・「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・1983年11月7日付)(藤圭子 に次いで2人目)
オリコン首位返り咲き作品数:3作「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」・「Strawberry Time 」(歴代1位タイ)
ベスト10位以内獲得数:33作
ミリオンセラー獲得数:1作
シングル総売上枚数;1543.9万枚(歴代14位・女性アーティスト単独5位)
アルバム
首位獲得数:19作(歴代4位・女性アーティスト単独3位)
ベスト10位以内獲得数:50作(2017.06)(歴代2位・女性アーティスト1位タイ)
ベスト100位以内同時チャートイン作数:13作(歴代3位タイ・日本人歴代1位タイ・女性アーティスト単独1位)
8年間首位獲得(歴代5位・女性アーティスト3位タイ)
アルバム総売上枚数1356.9万枚
ザ・ベストテンでの記録
1位となった回数:44回(3位)
1位となった曲数:15曲(2位)
1位となった連続最高週数:「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ 」(1983年11月24日放送〜1984年1月12日放送)の8週で4位タイ
ベストテン入りした回数:218回(3位)
ベストテン入りした曲数:25曲(3位)
1位となった年内最高獲得数:13回(1983年度による6位タイ)
史上初の初登場1位:「白いパラソル 」(1981年8月13日)
史上初の200回ランキング(1985年7月4日)※それを後に田原俊彦が達成し、通算回数も聖子を抜き『最多出演』のソファをゲット
その他の記録
アルバム・シングル総合売り上げ:2953万枚(歴代13位・女性ソロアーティスト5位)(2012年)
日本武道館 コンサート回数:121回(歴代2位・女性1位)(2022年9月3日現在)。2022年9月2日の公演で1982年12月25日の初公演以来120公演を達成した。
オリコン の年間アーティスト・トータル・セールス首位を獲得した(1984年)
紅白歌合戦 の大トリを2年連続(2014年〜2015年)でつとめる(紅組では美空ひばり 、八代亜紀 以来史上3人目)。
オリコンアルバム通算トップ10入り獲得作品数:53作 (歴代2位・女性アーティスト1位タイ) [ 65] 。
出演
テレビドラマ
音楽
レッツゴーヤング (1980年、NHK総合)※サンデーズ の一員
レッツゴーヤング(1981年、NHK総合)※司会者(田原俊彦と共に。メイン司会者は太川陽介)
ザ・スター 松田聖子 振り向けば・・・聖子(1983年3月1日 - 29日〈毎週火曜日、全5回〉、フジテレビ)※音楽バラエティ番組
music-enta (2000年、テレビ朝日)
バラエティ
テレビアニメ
ドキュメンタリー
NHKスペシャル 松田聖子 女性の時代の物語(2007年4月9日、NHK総合)※初のドキュメンタリー番組出演
NHK MUSIC SPECIAL 松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年(2020年9月22日、NHK総合)※デビュー40周年記念番組。後日、未公開シーンを追加編集した「ロング・バージョン」「完全版」が放送された。
映画
ラジオ
CM
江崎グリコ
ヨーレル (1980年 -1981年)
アーモンドチョコレート &セシルチョコレート(田原俊彦と共演)(1980年 -1981年)
フロート (1980年 -1981年)
クルール (1980年 -1981年)
パナップ (1981年 -1984年)
ポッキー (歌:風立ちぬ、野ばらのエチュード、CMオリジナル・複数曲あり)(1981年 -1984年)
カプリソーネ (ゆーとぴあ と共演)(1981年 -1983年)
キャデリーヌ (1984年 )
チョコピック (1982年 )
ワンタッチカレー (1986年 -1987年)
熟カレー(神田沙也加 と共演)
エスエス製薬 エスタック、ブロン液W (1982年 -1984年)
大阪ガス ガスファンヒーターエアコン(歌:CMオリジナル・複数曲あり)(1985年)[ 67]
学研 ニューコース問題集 (1980年 -1981年)
角川書店 ザ・テレビジョン
カネボウ バイオ口紅、ファンデーション(歌:Rock'n Rouge、ピンクのモーツァルト)(1984年)
コーセー アミノマイルド
さしじん(田原俊彦 と共演)(1980年)
サントリー
CANビール(歌のみ:SWEET MEMORIES、ボーイの季節(Engrish Version)、Blue Love Letter(Engrish Version)、CMオリジナル曲)(1983年 -1985年)
BOSS シルキーブラック「シルキー歌姫(ディーバ)」篇(歌:SWEET MEMORIES、瞳はダイアモンド)
資生堂
エクボシリーズ(歌のみ:裸足の季節、風は秋色、夏の扉、Romance/出演は山田由紀子 )(1980年 -1981年)
ピンポンパンツ(歌:CMオリジナル)
住宅情報館
シュワルツコフヘンケル パオン ディオーサ(クリーム リニューアル篇にて神田沙也加と共演)
スカイパーフェクTV
服部時計店 ピコレ、アルバ (1980年 -1982年)
ソニー
大京 ライオンズマンション(神田沙也加 と共演)(歌:逢いたい)
KINCHO ゴン
ダイハツ 新シャレード(歌のみ:天使のウインク)(1985年)
たかの友梨ビューティークリニック (歌:Back For More)
宝酒造 TaKaRaCANチューハイ
ドクターデヴィアス 化粧品(歌:Ave Maria 2001)
ドミノピザ
トヨタ自動車 「カムリ 」
トリンプ・インターナショナル・ジャパン 「FLORALE by Triumph」(2016年、2017年)[ 68]
日清食品 家族のやきそば(神田正輝 と共演)
日本和装
「日本和装の夢」
「No.1」篇
「いろんな超いろんな聖子さん」篇 (あなたもおいで)
「いろんな超いろんな聖子さん」篇 (いつかではなく、今きれいに)[ 69]
PHS アステル
maxell
ピザーラ
HILLS AVENUE[ 70]
ファミリーマート (歌:We Are Love)
SUBARU レックス シリーズ(歌:Precious Heart、WHO'S THAT BOY)
富士フイルム
アスタリフト
「偶然の出逢い」篇(中島みゆき と共演)
「旅先の出逢い」篇
「純白の出逢い」篇
「ハリーさん・語る」篇「ハリーさん・歌う」篇
「アスタキサンチンとは?」篇「ハリーさん体操」篇
「お肌の試食」篇「お肌の実感」篇
「屋上新年会・アスタリフトジェリー」篇
「それぞれの旅先」篇(小泉今日子 と共演)
「東京上空でお正月・アスタリフトジェリー」篇
「お肌の実感」篇(2012年改定)
「衝撃の出会い レタッチペン新登場」篇
「実感してください」篇
「肌時間旅行」篇
「赤組・松田聖子」篇
「聖子さんと赤い球体」篇
「新発想・ジェリー」篇(高畑充希 と共演)
アスタリフト ホワイト
フジカラー
ブラザー工業 コンパルシリーズ他(歌:CMオリジナル)(1984年 -1985年)
プロクター・アンド・ギャンブル P&G
三菱電機 炊飯器他(歌のみ:赤いスイートピー、チェルシー・ホテルのコーヒー・ハウス、マリオネットの涙/出演は神田正輝)
ミノルタ (現:コニカミノルタ )トークマン(オートフォーカス カメラ)(歌:CMオリジナル)(1983年 -1985年)
月星化成 ウエストサイド、ジャガーΣ、ファルコンバイオフェック、ディズニーシューズ(歌:CMオリジナル・複数曲あり)(1980年 -1984年)
メガネトップ 「眼鏡市場」
SUMMER COLLECTION「サングラスが欲しいなぁと思ったら」篇(2015年)[ 71]
P'layer「新しいメガネ欲しいなぁと思ったら」篇[ 72]
「価値あるレンズ、価値ある価格。」篇(西田敏行 と共演)[ 73]
「2016 お正月」篇
「スマホ老眼」篇
「価値あるレンズ、価値ある価格。高機能レンズ」篇(西田敏行と共演)[ 74]
「真夏のサングラス」篇[ 75]
「2017 お正月」篇
森永 L&L
山之内製薬 カコナール(※現在の発売元は第一三共ヘルスケア )(歌:Angel Tears)
有線放送 U-kara
ユニマット
ライオン チャーミーV(歌:CMオリジナル)
NHK紅白歌合戦出場歴
歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大ヒット により、第31回 (1980年)に紅白歌合戦へ初出場。その後、第39回 (1988年)まで9年連続で出演したが、次の第40回 (1989年)は落選した。
それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、第71回 (2020年)は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。第72回 (2021年)は選出されたが、出場を辞退した。
対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。
受賞歴
1980年
1981年
日本テレビ音楽祭 金の鳩賞
テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 審査員奨励賞
日本歌謡大賞 放送音楽賞
第23回日本レコード大賞 ゴールデンアイドル賞
1982年
CBS・ソニー ヒット賞
日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞
テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 特別賞
日本歌謡大賞 放送音楽賞
FNS歌謡祭 グランプリ ※受賞楽曲「野ばらのエチュード」
日本有線大賞 有線音楽賞
全日本有線放送大賞 優秀スター賞
第24回日本レコード大賞 金賞
1983年
CBS・ソニー ヒット賞
日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞
テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 ゴールデングランプリ ※受賞楽曲「ガラスの林檎」
日本歌謡大賞 最優秀放送音楽賞
第25回日本レコード大賞 金賞、ベストアルバム賞
1986年 第28回日本レコード大賞 アルバム大賞
1988年 CBS・ソニー ゴールデンディスク大賞
1990年 日刊スポーツ映画大賞 話題賞(受賞理由:「どっちもどっち」の大胆演技で映画界の話題作りに貢献)
1992年 第34回日本レコード大賞 最優秀ボーカル賞
2002年
第19回ダイヤモンド パーソナリティ賞(ダイヤモンド・インフォメーション・センター)
第40回ゴールデンアロー賞 ゴールデン・スター賞女性部門
2005年 アジア・テレビジョンアワード2005単発ドラマ部門 最優秀作品賞「たったひとつのたからもの」(主演作品)
2007年 ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2007 PV話題賞「涙がただこぼれるだけ」
2009年 第18回日本映画批評家大賞 審査員特別賞(映画「火垂るの墓」)
2013年 第55回日本レコード大賞 企画賞
2015年 第57回日本レコード大賞 最優秀歌唱賞
2017年 第59回日本レコード大賞 企画賞(Seiko Matsuda名義)
2018年 第32回日本ゴールドディスク大賞 ジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー(Seiko Matsuda名義)
2020年 第62回日本レコード大賞 特別賞
著書
写真集
『松田聖子スペシャル』近代映画社
『聖子ひとりじめ』CBS・ソニー出版
『Eighteen』平凡出版
『Lovely・ナインティーン』音楽専科社
『聖子おしゃれアルバム』実業之日本社
『野菊の墓写真特集』勁文社
『松田聖子特集号PART2』近代映画社
『やさしさfor you』音楽専科社
『SEIKO Photograph』近代映画社
『真夏のときめき』近代映画社
『明星特別編集 聖子』集英社
『パステルカラーの調べ』音楽専科社
『プルメリアの伝説 写真集』近代映画社
『プルメリアの伝説』秋田書店
『のちの想いに...聖子』ワニブックス
『ひとりじめ松田聖子』学習研究社
『楽譜ヒット曲集付写真集』近代映画社
『夏服のイヴ SEIKO in NEWZEALAND』近代映画社
『夏服のイヴ』旺文社
『EXCITING LIVE 武道館』集英社
『カリブ・愛のシンフォニー』旺文社
『カリブ・愛のシンフォニー』集英社文庫
『愛・聖子』集英社
『1911DAYS』近代映画社
『five seasons』扶桑社
『NO COMMENT』扶桑社
『赤いスイートピー』篠山紀信 写真。講談社 - ISBN 4062129094
書籍
監督作品
フォークロア・シリーズ2『あの風が吹いた日』(2021年11月4日)[ 76]
脚注
注釈
^ ただし聖子に対する「ポスト山口百恵」という表現はマスコミが行っているだけであり、本人もプロデューサーの若松もそのような考えは念頭になかったことを著書「松田聖子の誕生」で明らかにしている。そもそもレコード会社は同じCBS・ソニーであったが、百恵は企画制作2部の酒井政利 が担当し、聖子は企画制作6部の若松が担当していた。
^ 『Precious Heart 』リリース時点。
^ 神田正輝 との結婚披露宴の際に身に付けていた緞子織りの白無垢に左三巴紋が記されていた事がテレビでも放送された。
^ 尾木プロは1980年に浜田朱里 をデビューさせる予定があったため。奇しくも松田聖子と浜田朱里は堀越時代の同級生であり、親友でもある。
^ 後に郷は「会見する事も知らなかった。あんなセリフも言っていない。僕が生まれ変わって虫だったらどうする気だろう?」とジョークを交じえて否定したという[ 28]
^ 『うたばん 』で聖子の大ファンだという米良美一 と共演。2008年3月10日放送の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP 』で聖子の大ファンだという中川翔子 と共演。2008年11月10日放送の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだというはるな愛 と共演。
^ 逮捕された男は沖縄の地元民ではなく、埼玉県 入間市 (旧高麗郡 )に住むファンを名乗る19歳の少年であった。ノイローゼ を患っており埼玉県の精神病院に入院していた精神病患者でもあった。2日前の26日に外泊許可を取得し、前日の27日に家族と一緒に買い物に東京 に来ていたが、その最中に行方をくらまし、手持ちの小遣い35,000円で航空券を購入して沖縄へ飛ぶ。その後、凶器となった陳列ケース棚を留めるスチール製の金具を購入した。犯行動機については「有名人である松田聖子を殴る事で自分も有名になりたかった 」と供述しており、聖子にとってはいわれなき災難であった
コンサート中 暴漢に襲われた松田聖子 日刊ゲンダイDIGITAL、2023年3月30日閲覧
^ フジテレビ系列だが、ザ・トップテンの放送及び中継に参加していた。
^ 当該のセリフは本放送のみで、映像作品ではカットされている。
^ 松田聖子のプロデュサーであった若松宗雄の著書「松田聖子の誕生」では若松とデビュー前の聖子が話をしていた乃木坂の小さな喫茶店でほぼ必ず馬場が寛いでいたことが記されており、実際には聖子の顔を知っていた可能性がある。
^ 山下達郎のカバー曲、原曲は英語詞だが、松田が日本語詞を提供している。
出典
^ 両手 1980 , p. 109,234
^ 『大人のためのハイレゾオーディオ完全マニュアル 』学研プラス 、2015年、76頁。ASIN B00VE4B67M 。https://books.google.co.jp/books?id=CAG5BwAAQBAJ&lpg=PA1&hl=ja&pg=PA76#v=onepage&q&f=false 。
^ a b c Eremenko, Alexey. Seiko Matsuda | Biography & History - オールミュージック . 2021年1月13日 閲覧。
^ a b “『SEIKO MEMORIES~Masaaki Omura Works~』スペシャルサイト ”. OTONANO . ソニー・ミュージックダイレクト. 2018年8月12日 閲覧。
^ 名鑑 2016
^ “松田聖子、中央大学法学部通信教育課程を卒業「法律を学ぶことができた4年間は素晴らしい時間」 ”. スポーツ報知. 2024年3月25日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m 「第二章 遅れてきたアイドル――1980年」中川 2014 , pp. 66–116
^ a b 写真 2016 , pp. 43–45
^ “金田一秀穂×三浦徳子 アイドル歌謡の作詞術 ”. 読むらじる (2019年12月28日). 2020年10月17日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年10月17日 閲覧。
^ “松田聖子の80年代伝説Vol.5 松本隆や大滝詠一との出会いが、ポップス史に残る名盤を生んだ4thアルバム『風立ちぬ』〜前編〜 - 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 - COLUMN ”. GINZA . マガジンハウス (2020年10月20日). 2021年5月8日 閲覧。
^ 「特集 続・1位は続くよどこまでも 連続首位獲得記録―アーティスト編」『ORICON WEEKLY』1989年11月6日号、オリジナルコンフィデンス 、22頁。
^ a b 水原空気; 若松宗雄(インタビュー)「松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』 」『ginzamag.column』、マガジンハウス 、2021年1月23日。オリジナル の2021年1月23日時点におけるアーカイブ。https://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/ 。2018年2月22日 閲覧 。
^ 川原伸司 『ジョージ・マーティンになりたくて ~プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録~』シンコーミュージック・エンタテイメント 、2022年8月3日、128頁。ISBN 978-4-401-65218-1 。
^ “人名索引総合ランキング ”. 大宅壮一文庫 . 2021年10月29日 閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「第一章 夜明け前――1972年~79年」中川 2014 , pp. 18–65
^ 八幡 和郎『戦国大名県別国盗り物語』PHP研究所、2015年、164頁。ISBN 9784569763392 。
^ “立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 | Q&A ”. 2021年12月29日 閲覧。
^ 福岡県立柳川古文書館
^ 大下 1989
^ 玉鶴姫の意地 。詳しくは「蒲池氏#子孫たち(大木喬任、広津和郎、宇都宮徳馬、松田聖子他) 」を参照
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参考文献
関連項目
関連人物
外部リンク
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オリジナル サウンドトラック ベスト リミックス ボックス・セット トリビュート その他
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映像作品
楽曲 主な テレビ出演 主な ラジオ出演 主な映画 関連人物 関連項目
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注釈
第1回 から第10回 までは制定なし。第12回 は発表なし。第32回 から第34回 までは演歌・歌謡曲、ポップス・ロックの2部門に分けて発表 (ただし第32回に限り演歌・歌謡曲、ポップス、ロックの3部門に分けて発表した)。
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