元プロ野球選手の「坂本竜一 」とは別人です。
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坂本 龍一 (さかもと りゅういち、英語 : Ryūichi Sakamoto 、1952年 〈昭和 27年〉1月17日 [5] - 2023年 〈令和 5年〉3月28日 [6] [7] [8] )は、日本 の作曲家 、編曲家 、ピアニスト 、音楽プロデューサー [9] 。東京都 出身[10] 。
音楽性は幅広く、クラシック音楽 が根幹にあり、民俗音楽 、ポピュラー音楽 (特にテクノポップ )にも造詣が深かった。1987年 には日本人 で唯一アカデミー作曲賞 を受賞しており、映画音楽 でも世界的に評価されている[11] [12] 。愛称 は「教授 」[13] 。晩年は環境や憲法に関する運動にも積極的に参加していた[14] [15] 。1990年代中盤にはインターネット の普及に先んじて逸早くライブや作品に取り入れるなど、新技術にも興味を示していた。
概要
幼いころから母方叔父の持っているレコードを聴いて音楽への興味を募らせつつ成長した。田園風景の濃厚に残る世田谷区 で小中学生時代を過ごし[16] 、当時学力上位校の一つであった東京都立新宿高等学校 に進学する[17] 。新宿 は当時の日本のサブカルチャーの中心地であり、映画 と音楽 を中心に様々な店に出入りしては文化的素養を吸収していった[18] [19] 。東京芸術大学 在学中にスタジオ・ミュージシャン として活動を開始[5] した。1970年代 後半よりソロやKYLYN バンドのメンバーとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ (YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなった。同時に山下達郎 や大貫妙子 などの同世代の音楽家とも知り合い、共同作業を行った。
YMO時代にテクノポップ やニュー・ウェイヴ の分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロック とテクノ の融合、ワールドミュージック 、ヒップホップ やR&B などのブラックミュージック を織り交ぜたポップス 、オペラ の作曲およびプロデュース 、クラシック やボサノヴァ のユニットを結成してのワールドツアー、晩年はアンビエント やエレクトロニカ の作品を発表するなど、ジャンルを横断して多彩な作品を発表した。前衛的で先進的なイメージを残しながら、大衆に理解され得る親しみ易さを持った作品として仕上げる手腕に卓越したものを持っていた[20] 。
自身の音楽活動のほか、プロデューサー やアレンジャー としても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。俳優として出演した大島渚 の監督映画『戦場のメリークリスマス 』で映画音楽 も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞 作曲賞 を受賞した。1987年公開の『ラストエンペラー 』[注 1] では日本人初のアカデミー作曲賞 を受賞し[注 2] 、同曲でゴールデングローブ賞 作曲賞 、1989年第31回グラミー賞 最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞など世界的な音楽賞を総なめした。1990年 、映画 『シェルタリング・スカイ 』のサウンドトラック を担当しロサンゼルス映画批評家協会賞 の作曲賞、1991年 にゴールデングローブ賞 作曲賞 を受賞した。以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。
1990年代 前半は打ち込み系ポップスの作品を多数リリースし、1995年 11月30日には『三菱電機 スーパーセレクション 坂本龍一 TOUR '95 D&L with Daizaburo Harada』というライブを開催し、日本初のインターネット配信 も行った。インターネット配信 自体は既に1994年 11月にローリング・ストーンズ が行っていたが、インターネット の商業利用化が1995年 に完了した直後という時代に、世界でも数例しか行われていない中での極めて先進的な試みであった。同時に、原田大三郎 によるステージ上での映像のリアルタイムコントロールも、後のVJ の先駆けであった。
1990年代 後半はアコースティック作品を中心に制作し、その中でも1999年 に三共 『リゲイン EB錠』のCM曲であった『energy flow 』が癒し系楽曲として絶大な人気を得て、同曲を収録した『ウラBTTB 』がミリオンセラー を達成した。以降のスタジオ作品は2000年代 を通して、アコースティック感のある脱構築的な作風に移行して行った(2009年 の『Out of Noise 』など)。同時に、スタジオ・アルバムのリリースは大きく減少した。
音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優 としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウン などとお笑い番組やバラエティ番組に出演することもあった。
近年は各メディアで環境問題 や憲法 をはじめとした諸問題に関する運動に積極的に参加・言及しており、2000年代半ばに話題になったPSE問題 においても、坂本が中心人物として反対運動を行った。「エコ 」や「ロハス 」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティック の実践者でもある。2008年 6月5日の「世界環境デー 」には、CD製造時の二酸化炭素 排出への対策としてcommmons レーベルから新たに発売する全てのCDをカーボンオフセット 対応とすることも発表した(最新作まで継続中)[21] 。長年喫煙 者であったが、針治療 を通じて禁煙 に成功した[22] 。一時期はベジタリアン でもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に中止している。2008年の9月には作家村上龍 との対談で、現代の「夢があるということは素晴らしい、だから君も夢を持て」という風潮に疑問を抱いている発言をしている。
無類の猫好きである。一人っ子だった坂本が生まれたときから15歳の時まで一緒に住んでいた猫と兄弟のように生活していたことが影響している[23] 。若い頃は自分の見た目に無頓着で、アルバム「千のナイフ」のジャケット写真を見た当時の音楽仲間が「あの汚い坂本が」と驚愕したほどだった。このような坂本がファッションセンスを得るに至ったのは、高橋幸宏 の指導によるものである。
坂本は手塚治虫 の漫画 が好きだと公言しており、特にお気に入りの作品は『火の鳥 』と『ブッダ 』だという。手塚漫画の女性や動物は滑らかな曲線で描かれており、そこに音楽性と美しさを感じると度々語っている[24] 。坂本は手塚るみ子 プロデュースの「手塚治虫 その愛した音楽」というCD(内容は手塚が漫画の執筆中に聴いていた音楽を収録したもの)の仕事もしている。手塚プロダクション の「さよならティラノ」というアニメの音楽も担当している。
スピーカー の付帯音を極限まで抑えて原音をそのまま再生するムジーク(musikelectronic geithain )のモニタースピーカーを愛用していた[25] 。
愛称は「教授 」「世界のサカモト」。
生涯
生い立ち
1952年 、東京都 中野区 に生まれた。父は河出書房 の編集者 で、三島由紀夫 や野間宏 、中上健次 、高橋和巳 などを担当した坂本一亀 。母・敬子は実業家・下村彌一 の娘にあたり、帽子デザイナーで銀座 の宝石商に勤務。
通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所であったため、3歳からピアノ を習い始める。自由学園 幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団 [26] において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。
6歳ごろまで住んでいた中野の家には、ピアノやレコードプレーヤーがなかった[27] 。近所に住む祖父の家には、当時まだ学生だった叔父のピアノがあり、その上にレコードプレイヤーがあった[27] 。ピアノによじ上ってレコードを聴いたのが、坂本の最初の音楽の記憶である[27] 。
10歳で東京芸術大学 教授の松本民之助 に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキー であった。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。14歳の頃、ドビュッシー の音楽と出会い、そこから多大な影響を受けた。自分はドビュッシーの生まれ変わりに違いないと半分信じて、サインの練習まで始めた。人生で最も影響を受けた音楽家は、ドビュッシーとバッハ である[28] 。
小学2年の時に、東京都世田谷区 給田 (千歳烏山)に転居[27] 。世田谷区立祖師谷小学校 から世田谷区立千歳中学校 を経て、1970年 に東京都立新宿高等学校 を卒業[29] 。同級生には塩崎恭久 [注 3] 、馬場憲治 、那須恵理子 、野中直子 がいる。千歳中学校ではバスケットボール部に所属した。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。風月堂 などにたむろするフーテン たちに影響を受け、ジャズ を聞くようになり、自分でも演奏するようになった。ロック も好きであったが、フォーク は大嫌いであった。学生運動 にものめり込み、塩崎や馬場はこの時の闘争仲間でもある。
1970年 東京芸術大学入学[注 4] 。大学在学中、民族音楽学 研究の泰斗小泉文夫 の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想が確かにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃 にも学んでいる(ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも)。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治 の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽 に出会ったのは大学学部在学中のことである。
学生時代には教職課程も履修しており、母校へ音楽教員になるための教育実習に行ったこともあったが、生来の気質から学校組織の一員として務めることには向いていないと早々に諦めている[30] 。
1974年 東京芸術大学の音楽学 部作曲科を卒業し、同大学院 音楽研究科修士課程に進む。1977年 修了。修士論文は「坂本龍一 Year Book 1971-1979」のDISC 2にも収録されている管弦楽作品「反復と旋」。
デビュー
1975年 、大学院在学中に新宿ゴールデン街 で意気投合したという友部正人 の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノ で参加。スタジオ・ミュージシャン としてのキャリアをスタートさせる。翌1976年 、竹田賢一 と「学習団」を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行 とのコラボレーション )を発表。以降、りりィ のバックバンド (バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィ のマネージャー (現:株式会社365 代表)が細野晴臣 のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。初期の山下達郎 の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一 、山下達郎、伊藤銀次 のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1 』などにキーボードとして参加。大貫妙子 のLP『SUNSHOWER 』『MIGNONNE 』『ROMANTIQUE 』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。
1978年 2月、細野晴臣 のアルバム『はらいそ 』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏 とともに「イエロー・マジック・オーケストラ 」(YMO) を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ 』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ 』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー 』で爆発的人気を博す。この年、風の旅団 の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年 にはYMOと並行する形で渡辺香津美 、矢野顕子 、小原礼 、村上秀一 、本多俊之 らとセッションユニットKYLYN や、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプト のカクトウギセッションでの活動を行う。一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治 のLP『新ウィーン楽派 ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。参加楽曲シェーンベルク 「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年 にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。
1979年 12月、アレンジを手掛けたサーカス のシングル「アメリカン・フィーリング 」で、日本レコード大賞 編曲賞を受賞する[注 5] 。
YMOのライブを期待していた観客から野次られると「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等のエピソードもある。この頃、立花ハジメ 、沢村満 、鈴木さえ子 らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年 には、RCサクセション の忌野清志郎 と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック 』をリリース。資生堂 '82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した[注 6] 。この年、矢野顕子 と結婚。
YMOとしての活動の傍ら、1981年 よりNHK-FM にて「サウンドストリート 」のパーソナリティ を務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた[注 7] 。パンクバンドTACO(タコ) のオムニバスにはな・い・し・ょのエンペラーマジック で参加。同曲をサウンドストリート で放送したが、放送禁止用語が含まれていたためにすぐにオンエア中止になった。メジャーシーンの活動と並行して、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンとは交流があり、自主レーベルである、パス・レコード でフリクション 、Phew のプロデュースを行っている。
1983年 公開の映画 『戦場のメリークリスマス 』には、大島渚 監督の依頼により、ヨノイ大尉 役で出演し、デヴィッド・ボウイ 、ビートたけし と共演。出演の条件として音楽を担当した。同作は第36回カンヌ国際映画祭 に出品され、結果は無冠だったものの、坂本の音楽は高く評価され、英国アカデミー賞 作曲賞 を日本人として初めて受賞した。同作品のサウンドトラック からシングルカットされたデヴィッド・シルヴィアン とのシングル「Forbidden Colours(禁じられた色彩)」は、全英チャート(Music Week)16位を記録した[31] 。同年、YMOは「散開」(解散)する。
YMO解散後
1984年 、矢野顕子らと「MIDIレコード 」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。1986年 には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。ツアー終了後、YMO以来所属していた「ヨロシタ・ミュージック」から独立し個人事務所「トラフィコ」を設立。
翌1987年、映画『ラストエンペラー 』公開。坂本は甘粕正彦 満映 理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン 、蘇聡 とともに担当。これによりグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門 、ゴールデングローブ賞 作曲賞 、アカデミー作曲賞 [注 2] 等を日本人として初めて受賞し、以後、映画音楽 作家としての地位を確立する。溥儀 役のジョン・ローン とは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという[32] 。
1989年 、都民文化栄誉章を受章。海外戦略のためヴァージン・レコード に移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。後にEMIのヴァージン・レコード 買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。
1990年 4月からは、音楽の拠点をニューヨーク に移す。別の女性と暮らし始め、男児をもうける[33] 。これが原因で、矢野顕子と翌年に別居したと報じられた。
1992年 にはバルセロナオリンピック 開会式のマスゲーム の音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家の鈴木行一 が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮 した。この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサーPepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。契約金は他の出演者とともに1ドルであった[注 8] 。このときの楽曲は後に「El Mar Mediterrani」として発表された[注 9] 。
1993年 、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン 』を発表し、6月には東京ドーム にて2日間のライブを行う。
1994年 には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコード に移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。個人レーベル「グート」の第一弾作品・アルバム『スウィート・リヴェンジ 』を6月に発売する。
1995年 、ダウンタウン の変名音楽ユニット「GEISHA GIRLS 」に富家哲 、テイ・トウワ らと参加[34] 。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ 」ではコント「アホアホマン 」に出演、大便のシミを付けたパンツで登場するなどアホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた[35] 。
ワーナーへの移籍
1998年 、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパン に移籍。
1999年 、製薬会社三共 (現:第一三共ヘルスケア )リゲイン のCM に用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー 」を収録したマキシシングル 「ウラBTTB 」がミリオンセラー となり、インストゥルメンタル としては初のオリコンチャート 1位を記録した。自身初となるオペラ 『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999 』(以下、LIFE)を公演。この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ 」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男(矢野の連れ子)と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている[注 10] 。さらに同番組では、「外国人が持つ日本コンプレックスをくすぐる、嫌いなアーティスト」として喜多郎 とCHAGE and ASKA を名前を伏せた形で挙げた[注 11] 。
2001年 、TBS 50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァ トリオ「Morelenbaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジル の友好に寄与したとして、ブラジル政府よりリオ・ブランコ国家勲章 (英語版 ) 「カヴァレイロ位」を授与される[36] 。
2003年 には、この年4月にオープンした六本木ヒルズ のテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表。小林武史 、桜井和寿 らと非営利組織「ap bank」を設立。
2006年 11月6日 、エイベックス と新レーベル「commmons 」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。
2007年 3月10日 -5月28日 、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション 作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センター にて展示。3月10日 にはオープニング・コンサートを行った。9月15日 -11月4日 、東京のNTTインターコミュニケーション・センター でも展示。9月15日には、浅田彰 、中沢新一 を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。この年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリン ラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07 」をリリース。5月19日 には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ 」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日 には「ライブ・アース 」にYMOとして出演。8月22日 には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。
2009年 7月16日 、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス 政府から芸術文化勲章 「オフィシエ」を授与された。
2010年 3月12日 、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁 より芸術選奨 「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞 を授与された。
2012年 、東日本大震災 における原発事故 の後の脱原発 に向けたデモ活動 に対してニューヨーク から駆け付けて参加する中で、「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」と発言して物議を醸す[37] [38] 。この発言の全文は、原発に頼らない電力供給を呼びかけたものだった[37] [38] 。その後、自身も呼びかけ人を務める「『さようなら原発』一千万人署名市民の会」から「音楽のイベントができないか」という相談を受けたため、脱原発 をテーマにしたロック・フェスティバル である「NO NUKES 」を企画してシリーズ化し、2019年 までほぼ毎年開催した[39] 。
2012年 11月23日 、アジア太平洋映画賞 国際映画製作者連盟賞を受賞。
2013年 2月8日 、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞 」を授与された[40] 。オリエンタリズム を感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽 の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。同年、「第70回ヴェネツィア国際映画祭 」のコンペティションの審査員を務める。
2014年 、札幌国際芸術祭 のゲストディレクターに就任。
闘病
2014年 7月10日 、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴ から中咽頭癌 であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された[41] 。かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。
2015年 8月2日 、映画『母と暮せば 』(監督・山田洋次 、主演・吉永小百合 、2015年12月12日 公開)の音楽で仕事復帰[42] 。本作で第70回毎日映画コンクール ・音楽賞を受賞[43] 。
2016年 、第25回モンブラン国際文化賞 を受賞[44] 。
2017年 11月4日 、自身のドキュメンタリー映画、『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開される。スティーブン・ノムラ・シブル 監督によるもので、第74回ヴェネツィア国際映画祭 アウト・オブ・コンペティション部門正式出品作品になった[45] [46] [47] 。
2018年 、1月27日 自身のライヴの様子を収録した映画「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async」を公開。2月15日 開催の「第68回ベルリン国際映画祭 」で、コンペティション部門の審査員6名に選ばれる[48] 。
2021年 1月21日 、2020年 6月にニューヨークにてがんの診断を受け、直腸がんおよび転移巣の手術を受けたことを公式サイトで発表した[49] [50] 。手術は20時間にも及び、発表後も転移 した肺の摘出手術など6度に渡る手術が行われた[50] 。音楽活動再開に向けて入院治療に専念しつつ、『新潮 』2022年7月号より「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始した[50] 。
2022年 3月26日 、東京 ・サントリーホール で行われた東北復興支援プロジェクト『東北ユースオーケストラ演奏会2022』に登場。『東北ユースオーケストラ』は、東日本大震災 を体験した小学生から大学生までの若者で構成され2016年から2019年までに公演を定期的に行っていたが、2020年以降はコロナ禍 のためコンサートは中止になっていたため、坂本とともに3年ぶりの公演であり、最後の公の場での生演奏であった。坂本は新曲『いま時間が傾いて』を初演。坂本がピアノ演奏を行う中で吉永小百合 による詩の朗読も行われた[51] 。
2022年6月、がんの「ステージ4」であり、両肺に転移したがん摘出手術を前年10、12月に受けたことなどを明かした[52] 。同年12月11日に配信されたピアノのソロコンサートが、最後の公の場になった。同年9月中旬に事前収録したもので、体力面を考慮し1日数曲ずつ演奏し、数日かけてコンサートに仕立てたものであった。
死去
2023年 3月28日、東京都内の病院で死去した。71歳没。訃報は同年4月1日午前、共同通信の配信記事で明らかになった[8] 。また、4月2日夜、本人の公式Twitterおよび所属事務所によるリリースで公表された[53] 。所属事務所によれば「がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」としており、既に葬儀は近親者で執り行われている[54] [55] 。所属事務所のコメントは、坂本が好んだ一節「Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し」で締められた[56] 。公式Instagram アカウントでは、生没年月日と朽ちて壊れたピアノ と暗闇が繰り返しフェードイン する動画がトップに固定されて投稿された[56] [57] 。
苦しい闘病の中でも、亡くなる2日前の3月26日には自身が代表・監督を務める「東北ユースオーケストラ」の演奏会をオンラインで視聴し、終演後に出演者に向けて「Superb! Bravissimo(拍手×5)素晴らしかった!! よかったです。みんなありがとう(拍手×3)お疲れ様でした♪」とのメッセージを送っていた[58] 。同年3月29日に配信された共同通信の書面インタビューでは「音楽制作も難しいほど気力・体力ともに減衰しています。残念ながら手紙を送る以上の発信や行動は難しい」と現状を明かしていたが、この記事が配信された時点で既に死去していた[59] 。
「世界のサカモト」と呼ばれた坂本の訃報は、イギリス・BBC、アメリカ・CNN、フランス・AFP通信、韓国・聯合ニュース、中国のネットメディアなどで速報で伝えられた[60] 。また、世界中の著名人のWebサイトやSNSアカウントで追悼文が公開された。
2023年 4月2日、活動限界を迎える直前までコンピューター で制作し続けた「神山まるごと高等専門学校 」の校歌が、未完成ながらも入学者や出席者に対して披露された。生前、坂本自身も未完成の作品の発表をためらっていたが「新入生を祝福するため」として了承していた。この校歌が生前最後の作曲となった[61] [62] 。その後、坂本の生前の意思に基づき、網守将平 が編曲を担当。同年8月10日に、完成した校歌「KAMIYAMA」が同校公式Webサイトで公開された[63] [64] 。
2023年 4月3日1時29分、たった2ヵ月の間にYMO で唯一の存命者となった細野晴臣 は、高橋幸宏 が亡くなった時に坂本龍一が行った追悼の方法と同じく、SNS で無地の灰色の画像を投稿して追悼した[65] 。
2023年 4月14日、新宿ミラノ座 の跡地に坂本龍一監修の109シネマズプレミアム新宿 が開業した。館内BGMは3曲が坂本龍一作曲で、全シアターには坂本が認めた最高の音響設備のみを採用した「SAION -SR EDITION-」が導入され、一部シアターには坂本の希望で稀少な35mmフィルム映写機も導入されている[19] 。坂本にとって新宿は思い出深い地であり、1960年代 後半の東京都立新宿高等学校 在学中に好んで新宿 中の映画館 で上映作品の傾向を調べて映画を鑑賞するほどの映画 マニアで[19] 、他にも「事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を1ヶ月かけて全部廻る」などして後の活動の基盤となる文化的素養を得ていた[18] が、新宿の文化的発展を願い自身が監修した映画館 に行くことは出来なかった。
同年5月17日、音楽(新曲2曲、既成曲5曲)を担当した日本映画『怪物 』が第76回カンヌ国際映画祭 で上映される[66] 。同作品は脚本賞 とクィア・パルム賞 を受賞した[67] [68] 。
同年、第65回日本レコード大賞 特別功労賞を受賞した[69] 。
2024年1月、第47回日本アカデミー賞 会長特別賞と優秀音楽賞を贈賞された[70] [71] 。
同年3月、第96回アカデミー賞 の逝去した映画関係者を讃えるイン・メモリアム(In memoriam )のコーナーで追悼された[72] 。
同年4月17日、NexTone Award 2024で特別功労賞を受賞[73] 。
人物
音楽活動
ピアノを演奏する坂本(2017年)
坂本のピアノ曲集『Avec Piano』に寄せられた解説文の中で音楽評論家の秋山邦晴 は「なかなかピアノも巧い」と評している。デビュー作『千のナイフ 』では現代音楽家の高橋悠治 との連弾を行っている。加藤登紀子 が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リスト の難曲ラ・カンパネラ を藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも坂本本人は発言している。
音楽を担当した映画『ラストエンペラー 』においてアカデミー作曲賞 を受賞[注 2] した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点をアメリカに移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌『GOETHE 』(幻冬舎 )で述べている。
現代音楽 への進出は、原田力男 の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントがある。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行い、芸大在学中に作曲した曲を中心に数作品が高橋アキ等によって演奏された。YMO散開後の1984年、『題名のない音楽会 』(テレビ朝日 )においてオーケストラ曲「反復と旋」が一部割愛ながらも世界初演される。この作品は芸大大学院の修士論文として提出された作品で、未発表のまま芸大に保管されていた。
学生時代にヤニス・クセナキス の作曲法を取り入れようとしたが、数学が苦手なために挫折した。太田出版 から出された『坂本龍一・音楽史』に、その試行の膨大なメモが掲載されている。
坂本は国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。ニューヨーク帰りの東京のパンクバンドフリクション のファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhew のソロデビューシングルでのコラボレーション、山崎春美 の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。
国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイ との親交が有名である。DNAの頃のアートと初めて出会ったときは一方的に敵意を向けられて満足に言葉を交わすことができなかったが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーした際に快諾し、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。
J-WAVE で2004年に放送された番組『ゆく都市くる都市・新春放談』では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックス があると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。
コンサートではほとんど年齢制限を設けたことがなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日 「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホール では、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に対応をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。
過去にアニメ 監督の高畑勲 監督から音楽を頼まれたことがあったが、作った音楽があまりにも暗すぎ、解雇されてしまった[74] 。
歌はうまくないと自認している。『ダウンタウンのごっつええ感じ 』(フジテレビ )に出演した際、「君に、胸キュン。 」を歌ったら浜田雅功 にツッコまれてしまったほどである。坂本自身がボーカルを執った楽曲は極めて少ないが『左うでの夢 』『ビューティ 』『SMOOCHY 』のように、あえて坂本のボーカルを前面に押し出して製作されたアルバムもある。「歌はうまさじゃなく声色、ヘタでも自己表現としては音楽の中で最高のもの」という自身の発言がある。
幅広い音楽ジャンルを分析し、自身の作品に反映しているが、カントリー・ミュージック とハワイアン だけはなじめないと発言していた[75] [76] が、近年どちらも聴けるようになりハワイアンに関しては「現地に行った際に大好きになった」とのこと。
「今夜はブギー・バック 」リリース当時「ハマった」と言ってミュージシャン小沢健二 と対談もしている[77] 。ZERO-LANDMINE企画時には日本のビジュアル系と称されるアーティストたちとも共演したり、YMOチルドレンのLUNA SEA のSUGIZO のソロ・アルバムにピアノで参加したこともある。クラシックからダウンタウン のプロデュースに至るまで、いずれもジャンルの垣根を越え音楽を聴き、解析し、プロデュースすることのできる自身の才能について「自分は音楽の鉄人だと思う。(発表されている作品には)いろいろなスタイルの音楽がありますが、全部僕のものですから、安心して下さい」と発言している[78] 。
若い頃は古典芸能や工芸などの日本の古典的文化を「戦前のナショナリズムの象徴」として否定的に考えていたが、海外移住や年齢を重ねたこともあって、近年はそれらに対しての関心が強くなり、そうした日本の古典的文化を積極的に学ぶようになったという[79] 。
思想・社会活動
坂本(2007年)
政治思想 に関しての発言や、社会運動家としての活動も多い。新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久 と馬場憲治 の3人でバリケード封鎖を決行した。大学時代には武満徹 を批判するビラを配ったこともあった[80] [81] 。これについて坂本は、当時の自分は生意気で、それに対し武満はエスタブリッシュされた作曲家であり、その日本的な情緒が目障りだったからと、武満の没後に語っている[81] 。また、鈴木邦男 との対談[82] では、「若い頃は日本の楽器とかが嫌でそれを使っていた武満さんに反抗心を抱いてしまった」とも語っている。批判された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と語ったという[80] [81] 。このことは、同じく鈴木邦男との対談では、30分くらい話し合ったと語り、のちに坂本が何人かでコンサートをやった後、偶然バーで武満と会った時には武満から「ビラのときの子ね。君、いい耳持ってるね。」と言われ、うれしかったという[80] [81] 。武満はそのコンサートの観客の中の1人であり、その後は名前を覚えてもらったという。武満はその後、坂本が作曲した「戦場のメリークリスマス 」を、高く評価している[83] 。さらに坂本によるとニューヨークでも会ったことがあり喫茶店で「いつか一緒に仕事しましょう」と約束したという[80] 。坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラ からインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB 』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを意識している。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉 の著書『風邪の効用』やオペラ『LIFE』の製作のための取材等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家 や思想家 など知識人 との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目・人物 参照)。
東京藝術大学の1年生の頃の1970年11月25日、三島由紀夫 が割腹自殺を遂げたことを知った坂本は、遺体が移された市谷近くの牛込警察署 に押し掛けた[27] 。坂本によると「作家としての三島をとても尊敬していた。彼は右翼、僕は過激な左翼 でしたが、右も左も過激になると似て来るところがあるのでしょうか。」という[27] 。
小室哲哉 とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違い[注 12] からして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無いものねだりながらもお互いに無いものを求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している[84] 。反面小室は「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしていて[85] 、坂本もいち早くダウンタウン を音楽への道に引き入れる小室の発想力とバイタリティに「横取りしやがって…」と反発心を覚えていた[86] 。
1997年 ごろから日本における音楽著作権 の取り扱いについて、JASRAC が独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁 に対して働きかけを行った[87] 。MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境 ・平和 問題に言及することも多くなり、地雷 除去活動を支援するためのチャリティー ソングとしてGLAY 、Mr.Children 、DREAMS COME TRUE 、DJ KRUSH らを迎えて制作した『ZERO LANDMINE 』[88] やアメリカ同時多発テロ事件 をきっかけとした論考集『非戦 』を発表している。
2004年 には音楽評論家高橋健太郎 やピーター・バラカン らの呼び掛けに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法 改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会 で審議されていた音楽レコードの還流防止措置 (レコード輸入権)に反対を表明した[89] 。
2006年 2月には、PSE問題 に絡み、松武秀樹 、椎名和夫 とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法 (PSE法)に反対する署名を募集[90] 。経済産業省 がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。同年5月にはShing02 、クリスチャン・フェネス らとともに青森県 六ヶ所村 の核再処理施設に反対し、この問題をアート作品の共有と拡散という手法を使って内外に周知するプロジェクトSTOP ROKKASHO をスタートし、河野太郎 、保坂展人 らの政治家、小室哲哉 らのミュージシャンからも賛同を得ている[91] 。
2007年 7月16日に起きた新潟県中越沖地震 で柏崎刈羽原子力発電所 が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始めた。東日本大震災 後も原発を批判する旨の意見を度々述べている。
2012年 1月11日には、自身が代表を務める森林保全団体 more trees による被災地支援プロジェクト「LIFE311」 と、サイバーエージェント のソーシャルゲームピグライフ と連携する連動企画『LIFE311×ピグライフ』を期間限定(3月31日 まで)で立ち上げた[92] 。なお、ピグライフに設置された特設エリアには坂本も登場している。
IWJ主催シンポジウムで演説中の坂本龍一
憲法9条 の改正に強く反対しており、選択的夫婦別姓 制度導入にも賛同する。
数多くのチャリティーコンサートを実施、無償での被災地の幼稚園・小・中・高校に対し、楽器関連の復興支援を行うための『こどもの音楽再生基金』、被災地支援参加型プロジェクト『kizunaworld.org』、先述の被災地支援プロジェクト『LIFE311』 など、様々な側面から復興支援に尽力した[93] 。2012年5月1日、日本財団 により、伊勢谷友介 、EXILE 、加藤登紀子 、小林幸子 、コロッケ 、サンドウィッチマン 、杉良太郎 、伍代夏子 、中村雅俊 、はるな愛 らと共に「被災地で活動した芸能人 ベストサポート」に選出され、表彰されている[94] 。
2015年 には、安倍晋三 内閣総理大臣 の進める集団自衛権や改憲について、デモにも参加するなど批判している[95] 。
2016年 、沖縄における米軍属に対する「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」に向けて「沖縄だけに痛み、苦痛と侮辱を何十年もおしつけておくべきではない。もうたくさんだ。基地、米軍、武力が必要なら日本人の全てが等しく背負うべきだ」とのメッセージを寄せた[96] 。
自身の政治的な言動が批判されることについては「音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義 でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」といった考えを述べている[97] 。
2021年 、小山田圭吾 が、東京オリンピック・パラリンピック開会式音楽スタッフ就任に端を発する過去の雑誌インタビュー記事や、同記事をめぐる報道(詳細は小山田圭吾 を参照)[98] に謝罪の文を公式サイトに寄稿。坂本は「読みながら少し泣けてしまった。なかなかこれほど真摯な文章は書けるものじゃない。よほど自分の心の中を曇りなく隅々まで見ないと」と私見を述べ、「今後どんな音楽が生まれてくるのか、気長に待ってます」とつづった[99] 。
最晩年となった2023年3月上旬には明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を、小池百合子 東京都知事、永岡桂子 文部科学大臣、都倉俊一 文化庁長官、吉住健一 新宿区長、武井雅昭 港区長の5名に送り、「100年かけて守り育ててきた樹々を犠牲にすべきではない」「樹々は差別なく万人に恩恵をもたらすが、開発は一部の既得権者と富裕層だけに恩恵をもたらす」などと訴えたが、認可を出した小池百合子 東京都知事から「事業者の明治神宮 にも手紙を送られた方がいいじゃないでしょうか」と一蹴されている[100] 。
人柄
若い頃について坂本は「YMOで大ブレイクして、30歳代半ばまではまさに人生の絶頂期で、遅刻やすっぽかしもしょっちゅうだった。運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったりした。今思えばとんでもないことであり、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っている。子供の頃、体格がよかったこともあって、力ずくで意思を通すことをあまりためらわない性格に育っていた。」などと述べている[101] 。
YMO結成当初の紙面上のインタビューで、同時期に活動を開始していたP-MODEL に関して坂本が吐いた発言により、当時のP-MODELファンの間で「YMO不買運動」が起こるなどの因縁が生まれた[102] 。
糸井重里 との対談で坂本は「自分の生活を露出させる人は、他人に対して無遠慮だ」と非難し、「ジャージ をはいてる人が嫌い。ジャージはその人の生活を完全に感じさせるものだからそんな格好して、外に出てくるな」、「学生の時に、学生食堂で一人でご飯をきちんと食べてる男の人を見ると、すごく不愉快だった」などと述べている[103] 。
家族・親族
坂本家は福岡県三奈木村 の坂の下(現・朝倉市 )の出で、江戸時代 に足軽 として黒田家 に仕えた[104] 。明治 に入ると苦しい生活を強いられたため、坂本龍一の曽祖父・坂本兼吉は明治の中頃に甘木町 に移住し、「料理坂本」を始めた[104] 。坂本龍一の祖父・坂本昇太郎は坂本兼吉の長男として生まれ、22歳でタカという女性と結婚、長男が坂本龍一の父・一亀である[104] 。坂本昇太郎は興行を取り仕切る父の影響もあり、芸事が好きで、芝居小屋「甘木劇場」の経営主をつとめ、後に福岡の生命保険会社に就職した[104] 。
母方の祖父下村彌一 は長崎県諫早市 の小さな農家 に生まれ、苦学して第五高等学校 と京都帝国大学 に学んだ。第五高等学校では後に首相となった池田勇人 が同級生におり、ともに京都帝国大学へ進学して、生涯の親友として交流した[注 13] 。大学卒業後は共保生命保険に就職、実業家 として共保生命 取締役、東亜国内航空 会長 などを歴任。母方の叔父(母の弟)下村由一 (1931 - )は歴史学者 で、千葉大学 名誉教授 。
東京芸術大学2年のときに2歳年上の女性と結婚し、長女ができたが離婚する[101] 。歌手 の坂本美雨 はシンガーソングライターの矢野顕子 との間に生まれた娘で、坂本にとっては次女[105] 。
出版活動
1984年から1989年まで「本本堂」という個人出版社を持ち、自身の著書を中心に、独自の出版活動を行った。1984年に<週刊本 >シリーズで刊行された『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社 )も話題となった。その本で予告されたのは、浅田彰 著/井上嗣也 装幀『煉獄論あるいはゴダール ・スペシャル』、南方熊楠 著/井上嗣也 装幀『男色と免疫疾患』、赤瀬川原平 装幀『糸井重里 児童文学全集』、武邑光裕 編/細野晴臣装幀『往復書簡 ウィリアム・バロウズ -出口王仁三郎 』、中沢新一 構成/坂本龍一ピアノ/日比野克彦 装幀『グルジェフ 体操カセットブック』などの、50冊であった。
本本堂から、実際に刊行された書籍は以下の通り。
長電話 高橋悠治 ・坂本龍一 本本堂、1984年5月
水牛楽団 休業 [録音資料] 浅田彰+坂本龍一編 本本堂、1984年10月
音楽図鑑 坂本龍一 本本堂、1985年6月
未来派2009 坂本龍一+細川周平 監修 本本堂、1986年4月
写真集『ラストエンペラー 』 坂本龍一編 本本堂、1988年4月
キリコのコリクツ 玖保キリコ 本本堂、1989年4月
「教授」という愛称
一般に「教授 」という愛称で広く親しまれている。命名者は高橋幸宏 。
高橋がテレビ番組で語ったところによると、坂本と高橋が初めて会った時、坂本が東京芸術大学 の大学院生 だと聞いた高橋が驚いて、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけのようだ(ライブでたどたどしい口調で司会をする様子がいかにも芸大生風だったという説もある)。『イエロー・マジック・オーケストラ』(アスペクト )には坂本が大学院生であることを知った高橋が「じゃあ、プロフェッサーだから『教授』」と名付けたとある。イエロー・マジック・オーケストラ結成直後に『ニューミュージック・マガジン』(現『ミュージック・マガジン 』、ミュージック・マガジン)から取材を受けた時にはすでに「教授」の愛称が使われている(同誌1978年10月号)。
「教授」と呼ばれる前は、当時の坂本の無頼派な風貌が野球漫画『あぶさん 』の主人公である景浦安武 に似ていることから「あぶ」と呼ばれていた。細野晴臣が漫画好きで、高校時代の友人である西岸良平 が『ビッグコミックオリジナル 』で連載していたため、同誌で連載していた『あぶさん』も読んでいたからだが、「ある日、(斎藤)ノヴさんが『どんなお酒が好き?』と聞かれ、教授は『アブサン 』(=スイス が発祥のお酒)と答えました。それで『じゃあ、今日から君はアブサンね』となり、そう呼ばれていました。」(土屋昌巳 )という説もある。
2014年より母校である東京芸術大学において、客員教授 を務めた。
ディスコグラフィ
シングル
海外限定シングル
Riot In Lagos (1980年)
Bamboo Houses / Bambo Music - David Sylvian & Ryuichi Sakamoto(1982年)-全英チャート30位[106]
Life In Japan(1983年)
Forbidden Colours - David Sylvian & Ryuichi Sakamoto(1983年)-全英チャート16位[31]
Fild Work - Ryuich Sakamoto feat. Thomas Dolby (1985年)
Movin' on(1994年)
love & hate(1994年)
Anger/Grief(1998年)
prayer/salvation(1998年)
配信限定シングル
海の道(2006年)
aubade(2009年3月7日)
Ieta(2022年1月19日)
アルバム
スタジオ・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
日本コロムビア / Better Days
1st
1978年10月25日
千のナイフ
LP
YX-7586-ND
1980年6月25日
CT
CTK-7004-ND
アルファレコード
2nd
1980年9月21日
B-2ユニット
LP
ALR-28003
CT
ALC-28003
3rd
1981年10月5日
左うでの夢
LP
ALR-28025
CT
ALC-28024
MIDI / SCHOOL
4th
1984年10月24日
音楽図鑑
LP
MIL-1001
CT
MIT-1001
1984年11月24日
CD
MID-1001
1993年9月21日
音楽図鑑完璧盤
CD
MDCL-1243
2015年3月25日
音楽図鑑 -2015 Edition-
SHM-CD (初回完全限定生産盤)
MDCL-5034
5th
1985年10月5日
エスペラント
LP
MIL-1007
CT
MIT-1007
CD
35MD-1007
6th
1986年4月21日
未来派野郎
LP
MIL-1015
CT
MIT-1015
CD
35MD-1015
CBS・ソニー / TERRAPIN
7th
1987年7月1日
ネオ・ジオ
LP
28AH-2200
CT
28KH-2220
CD
32DH-700
Virgin
8th
1989年11月21日
ビューティ
CD
VJD-32235
CT
VJT-28211
LP
VJL-28203
9th
1991年10月21日
ハートビート
CD
VJCP-30093
FOR LIFE / güt
10th
1994年6月17日
スウィート・リヴェンジ
CD
FLCG-3001
CD (特別仕様完全限定盤)
FLCG-3002
1994年11月18日
スウィート・リヴェンジ '94年末スペシャル・エディション
CD (特別仕様完全限定)
FLCG-3005
11th
1995年10月20日
スムーチー
CD
FLCG-3014
CD (特別仕様完全限定盤)
FLCG-3015
12th
1997年7月2日
DISCORD
CD
FLCG-3028
ワーナーミュージック・ジャパン / WEA Japan
13th
1998年11月26日
BTTB
CD (初回限定盤)
WPC6-8524
1999年2月24日
CD (通常盤)
WPC6-10010
1999年8月25日
LP
WPJ6-10010/1
2018年9月26日
BTTB -20th Anniversary Edition-
CD
WPCL-12924
ワーナーミュージック・ジャパン
14th
2004年2月25日
キャズム
CD
WPCL-10072
2004年3月24日
LP
WQJL-10002
commmons
15th
2009年3月4日
アウト・オブ・ノイズ
CD (初回限定盤)
RZCM-46128
CD (通常盤)
RZCM-46129
2009年3月18日
LP
RR12-88544/5
16th
2017年3月29日
async
CD
RZCM-86314
2017年5月17日
LP
RZJM-86312/3
17th
2023年1月17日
12
CD
RZCM-77657
LP
RZJM-77655/6
セルフカバー・アルバム
ミニ・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
MIDI / SCHOOL
1st
1986年
オネアミスの翼〈イメージスケッチ〉
LP
L25N-1016
CD
MID-1501
タワーレコード / güt bounce
2nd
1996年10月1日
Music For Yoji Yamamoto Collection 1995
CD
GTBC-0001
ライヴ・アルバム
ベスト・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
アルファレコード
1st
1982年
決定版 坂本龍一 ベストセレクション
CT
ALC-30002
1986年2月25日
CD
32XA-52
MIDI / SCHOOL
2nd
1989年9月22日
グルッポ・ムジカーレ
CD
32MD-1046
CT
30MT-1046
-
1990年12月1日
ryuichi sakamoto collection
CD
MDCZ-1123~30
-
1993年5月21日
Ryuichi Sakamoto Collection
CD
MDCZ-1215~24
1999年6月23日
CD
MDCZ-1215
3rd
1993年6月21日
グルッポ・ムジカーレII
CD
MDCL-1237
4th
1993年11月21日
OPERA
CD
MDCL-1261
5th
1993年11月21日
WORKS OF R.SAKAMOTO/坂本龍一ベスト・セレクション [注 18]
CD
FDCL-30276
MESA
-
1994年
Soundbytes [注 17]
CD
R2 79075
Virgin
6th
1995年6月28日
ベスト・オブ・坂本龍一サウンドトラックス
CD
VJCP-3110
7th
ベスト・オブ・坂本龍一ヴァージン・トラックス
CD
VJCP-3111
8th
1998年3月28日
The Greatest - Ryuichi Sakamoto
CD
VJCP-51051
FOR LIFE / güt
9th
1998年4月22日
ベリー・ベスト・オブ・グート
CD
FLCG-3035
10th
1999年8月21日
COMPLETE INDEX OF GÜT
CD
FLCG-3042
日本コロムビア
11th
1999年9月18日
坂本龍一の音楽〜Early Best Songs
CD
COCP-30628
FOR LIFE / güt
12th
2001年9月27日
PURE BEST
CD
FLCF-3886
ワーナーミュージック・ジャパン / WEA Japan
13th
2002年10月23日
US
CD
WPC6-10241/2
14th
UF
CD
WPC6-10243
15th
CM/TV
CD
WPC6-10244
MIDI
16th
2002年11月20日
ワークスI - CM
CD
MDCL-1437
17th
ワークスII - TV/Inst
CD
MDCL-1438
Sony Classical
-
2003年11月11日
moto.tronic [注 17]
CD+DVD
SNYC93044
コロムビアミュージックエンタテインメント / J-room
18th
2004年9月22日
Chronological Collection 1978-1981 [Columbia Years]
CD
COCB-53251/3
FOR LIFE / güt
-
2012年11月28日
Complete güt BOX
CD
FLCG-5001
commmons
19th
2023年5月3日
TRAVESIA RYUICHI SAKAMOTO CURATED BY INARRITU
CD
RZCM-77722
リミックス・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
アルファレコード
1st
1991年11月21日
イン・ザ・ナインティーズ ザ・マーク・プラッティ・リミックス
CD
ALCA-229
Virgin
2nd
1992年1月21日
ハートビート〜リミクシーズ
CD
VJCP-14037
FOR LIFE / güt
3rd
1994年12月16日
ハード・リヴェンジ
CD
FLCG-3006
4th
1996年3月21日
スヌーティー
CD
FLCG-3006
5th
1999年2月24日
DISCORD gütninja remixes
CD
FLCG-3041
ワーナーミュージック・ジャパン / WEA Japan
-
1999年9月12日
LIFE IN PROGRESS
CD
WPC6-10035/6
-
2002年2月27日
コミカ
CD
WPC6-10194
ワーナーミュージック・ジャパン
6th
2006年5月24日
ブリコラージュ
CD
WPCL-10315
commmons
7th
2017年12月13日
ASYNC REMODELS
CD
RZCM-86410
トリビュートアルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
グリーンエナジー
1st
2005年5月10日
music plans skmt tribute
CD
GECA-1106
electric sheep
2nd
2012年1月17日
Ryuichi Sakamoto Tribute
CD
ELSP-0011
commmons
3rd
2022年11月30日
A TRIBUTE TO Ryuichi Sakamoto
CD
RZCM-77623
コンピレーション・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
commmons
1st
2015年1月17日
Year Book 2005-2014
CD
RZCM-59752/3
2nd
2016年1月17日
Year Book 1971-1979
CD
RZCM-86035/7
3rd
2017年3月29日
Year Book 1980-1984
CD
RZCM-86229
4th
2018年2月28日
Year Book 1985-1989
CD
RZCM-86486/90
坂本龍一によるクラシック・アーティストのセレクション・アルバム
発売日
タイトル
規格
規格品番
Sony Classical
1st
2008年12月24日
グレン・グールド 坂本龍一セレクション (バッハ以外)
A journey to the polar north
CD
SICC-1109
Sony Classical
2nd
2009年12月02日
グレン・グールド 坂本龍一セレクション (バッハ編)
The Art of J.S. Bach
CD
SICC-1268
Deutsche Grammophon
2018年12月05日
ドイツ・グラモフォン ベスト・オブ・ベスト selected by 坂本龍一
CD
UCCG-1824
commmons
2018年12月19日
坂本龍一 選 耳の記憶 前編
CD
RZCM-86712
commmons
2019年01月30日
坂本龍一 選 耳の記憶 後編
CD
RZCM-86715
タイアップ一覧
非売品レコード・CD・ファイル
LEXINGTON QUEEN (六本木「LEXINGTON QUEEN (英語版 ) 」、1980年)
い・け・な・い ルージュマジック(資生堂、1982年)※ B面は「インスツルメンタル(表記通り)」7インチシングル
LIFE IN JAPAN(日本生命、1983年)※ 12インチシングル(※ 後にVocal版が『音楽図鑑 完璧版』、ベストアルバム「CM/TV」と「Works」シリーズに収録。)
空に会おうよ&プロローグ・大地の詩/フェスタ・エリカの夢(国際科学技術博覧会 住友館、1985年)
「空にあおうよ」はモモの歌入り。作詞は矢野顕子。7インチシングル(※ 後に「Works」シリーズに収録。)
COMPUTE, COMPUTE, COMPUTE(京セラ、1987年)
THE GARDEN(TOKIO KUMAGAI、1989年)
FLOATING ALONG(日産自動車)
YOU DO ME (NEC) ※ 音源は市販されたものと同じ。
THE IMAGE MUSIC(鹿島建設)
コンピューターおばあちゃん ※ NHK「みんなのうた 」のBGMで編曲のみ。
The Fantasy of Light & Life(Expo '90電力館、1990年)プロデュースのみ。音楽は小久保隆が担当。
The Heart of Asia(Cathay Pacific、1994年)※「CM/TV」に収録されているテイクはM5のreprise。M1は4:14
snooty抜粋3曲入りプロモ(1996年)※ 短冊7cmシングル
COMPLETE INDEX OF GÜT抜粋5曲入りプロモ(1999年)
GEM (2002年)※ 非売品(2002年に発売されたベストアルバム「US」「UF」「CM/TV」の初回盤のみの特典として、応募券3枚を集め送るともらえた“坂本龍一お宝音源”を収録したCD)
WORLD CITIZEN - i won't be disappointed(music for J-WAVE、2003年)※ 坂本本人のナレーションと曲紹介から始まるショートヴァージョン。
ASIENCE(花王、2004年)※ M2のstring quartet ver.は未発表
+33(ルイ・ヴィトン)※ 後に「/04」に収録された。
The Land Song(六本木ヒルズ)※後に無償配信された。
26-Windb theme rev nobell(2005年)※ nokia8801に添付されているCD-Rに音楽ファイルとして収録。
wind, cypresses & absinthe(2012年)※「メトロポリタン美術館展」テーマ曲。図録に添付。
Blu(2014年)※「洋服の青山」CM曲
Whitescape #1(2014年)※ 札幌国際芸術祭2014のホームページ用サウンド
XSOL CM TUNE(2014年)※ 2曲がXSOLのサイトからダウンロードできた。1曲のタイトルは「Urlicht」
Music for Fashion Museum(2013年)※「ISETAN」リニューアル後の正面入り口のウェルカム曲
命の循環(2014年)※ NHK for SchoolのダンゴムシのBGM
テレビなどのサウンド・トラック
アリスの叛乱(演劇、脚本・監督:高取英 、1978年)
NHKニュースワイド 初代テーマ曲(1980年 - 1983年)
YOU (テレビ番組) テーマ曲(NHK教育TVで1982年 - 1987年放送)
天外魔境 ZIRIA (1989年)※ メインテーマを含む計3曲を提供
ピーチ・ボーイ -桃太郎 -(Peach Boy - Momotaro - , 1992年)※ 童話「桃太郎」の英語朗読(シガニー・ウィーバー )のバックに流れる音楽を担当
ワイルド・パームス(Wild Palms , 1992年)※ アメリカのテレビドラマのサウンドトラック。
ストーカー 逃げきれぬ愛 (1997年)
セガ ・ドリームキャスト サウンドロゴ(1998年)※ 起動音
L.O.L(Lack of Love , 2000年)※ ドリームキャスト のゲーム「Lack of Love」の音楽。坂本はゲーム自体のプロデュースも行っている。
ロスト・チャイルド(Lost Child, 2000年 )
永遠の仔 (2000年)※ 2曲に使用
変革の世紀(Henkaku No Seiki - Changing Century , 2002年 )※ NHKの同名番組のテーマ曲
エレファンティズム(2002年)
聖剣伝説4 (2006年)メインテーマ「Dawn of Mana」
不毛地帯 (2009年 )※ メインテーマ
大河ドラマ ・八重の桜 (2013年 )※ オープニングの「メインテーマ」、「八重のテーマ」、「八重の桜 紀行」のみ。
朝日放送オープニングテーマ曲(1990年 。朝日放送テレビ は1990年 - 1998年 、朝日放送ラジオ は1992年 - 2014年 の間使用)
きょうの猫村さん (2020年 、テレビ東京 )※ オープニングテーマ「猫村さんのうた」の作曲も担当(作詞:U-zhaan 、歌:松重豊 )
日本沈没2020 (Webアニメ、監督:湯浅政明 、2020年、Netflix )※ 主題歌「a life」の作曲を担当(作詞、歌:大貫妙子 )
エクセプション (Webアニメ、監督:サトウユーゾー、2022年、Netflix)[107] )
NHKスペシャル 「ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間」(2023年2月26日放送)※ 番組終了時の音楽担当
映画音楽
ハイヒール (High Heels , 1991年)
嵐が丘 (The Wuthering Heights , 1992年)
リトル・ブッダ (Little Buddha , 1993年)- グラミー賞ノミネート
デリダ (Derrida , 2003年)
Life is Journey(2003年)
Rubios,Los(2003年)
アップルシード (2004年)※ アルバム『キャズム 』収録の「coro」が使用されている。
トニー滝谷 (TONY TAKITANI , 2004年)※ サウンドトラックのリリースは2007年。
バベル (Babel , 2006年)※ オリジナル・アルバムより3曲使用されている。
シルク (SILK , 2008年)
バンド・ユニット・コラボ活動
YMOについてはイエロー・マジック・オーケストラ の項を参照。
ディスアポイントメント・ハテルマ(Disappointment - Hateruma , 土取利行 +坂本龍一, 1976年 )
サマー・ナーヴス (SUMMER NERVES , 坂本龍一&カクトウギ・セッション, 1979年 )
い・け・な・いルージュマジック (忌野清志郎 +坂本龍一, 1982年)※ シングル
東京ジョー (Tokyo Joe , 坂本龍一&渡辺香津美 , 1982年)
エンド・オブ・エイジア(the End of Asia , 坂本龍一+ダンスリー , 1982年)
アレンジメント(THE ARRANGEMENT , 坂本龍一&ロビン・スコット (英語版 ) ), 1982年)
バンブー・ハウス/バンブー・ミュージック(Bamboo Houses/Bamboo Music , デヴィッド・シルヴィアン &リュウイチ・サカモト, 1982年)※ シングル
禁じられた色彩(Forbidden Colours , リュウイチ・サカモト&デヴィッド・シルヴィアン , 1983年)※ シングル
フィールドワーク (Field Work , トーマス・ドルビー &坂本龍一, 1985年)※ シングル,12インチシングル
ゼロ・ランドマイン (ZERO LANDMINE , N.M.L. , 2001年)※ シングル
カーザ(CASA , モレレンバウム2 /サカモト, 2001年)
ライヴ・イン・トーキョー・2001(LIVE IN TOKYO 2001 , モレレンバウム2 /サカモト, 2001年)
ア・デイ・イン・ニューヨーク(A DAY IN NEW YORK , モレレンバウム2 /サカモト, 2003年)
ワールド・シチズン(WORLD CITIZEN - i won't be disappointed , 坂本龍一+デヴィッド・シルヴィアン , 2003年)※ シングル
vrioon(alva noto +Ryuichi Sakamoto, 2003年)
insen(alva noto+Ryuichi Sakamoto, 2005年)
Sala Santa Cecilia(Christian Fennesz +Ryuichi Sakamoto, 2005年)
revep(alva noto+Ryuichi Sakamoto, 2006年)
cendre(fennesz+sakamoto(フェネスサカモト), 2007年3月28日 )※ クリスチャン・フェネス とのユニット
Ocean Fire(WILLITS+SAKAMOTO, 2007年10月17日 )※ クリストファー・ウィリッツとのユニット
Ancient Future(WILLITS+SAKAMOTO, 2012年7月31日 )※ クリストファー・ウィリッツとのユニット
UTAU (2010年 11月10日 ) - 大貫妙子&坂本龍一
flumina(fennesz+sakamoto(フェネスサカモト), 2011年8月3日)※ クリスチャン・フェネスとのユニット
Disappearance (Ryuichi Sakamoto + en:Taylor Deupree , 2013年7月10日)
Snow, Silence, Partially Sunny(Sachiko M + Ryuichi Sakamoto, 2012年12月19日)
その他アーティストとのコラボレーション
映像作品
電子の拓本 ALL STAR VIDEO(現代美術家・ナム・ジュン・パイク とのコラボレーション,1984年)
Tokyo Melody Ryuichi Sakamoto (フランス公共放送FR3 制作のドキュメンタリー映画, 1985年)
TV WAR(浅田彰 、RADICAL TVとのコラボレーション, 1985年)
ADELIE PENGUINS (ビデオアーティスト・キット・フィッツジェラルド 、ポール・ギャリン とのコラボレーション,1986年)
ESPERANTO (前衛舞踏家・モリサ・フェンレイとのコラボレーション。アルバムの「エスペラント 」はこの作品のサウンドトラック。)
MEDIA BAHN LIVE(1986年)
NEOGEO LIVE in NEW YORK(1988年)
ビューティ・ツアー'90(1991年)
Sweet revenge Tour 1994(1995年)
D&Lライブ・アット武道館11・30・95 坂本龍一ツアー95D&L WITH 原田大三郎(映像作家・原田大三郎 とのコラボレーション, 1996年)
Ryuichi Sakamoto Trio World Tour 1996 (1996年)
PLAYING THE ORCHESTRA 1997“f”(1998年)
MORELENBAUM2 / SAKAMOTO / 3 years(DVDのみの1万枚限定生産。プライベートフォトやビデオを日記風に閲覧できる作品, 2003年)
坂本龍一・80年代の映像作品集(「電子の拓本 ALL STAR VIDEO」、「TV WAR」、「ADELIE PENGUINS」、「ESPERANTO」、「MEDIA BAHN LIVE」、「NEOGEO LIVE in NEW YORK」を収録した6枚組のDVD-BOX, 2004年)
PLAYING THE PIANO/05(2006年)
LIFE - fluid, invisible inaudible...(高谷史郎 とのコラボレーション, 2008年)
utp_ (Alva Notoとのコラボレーション, 2008年)
watch-ryuichi sakamoto playing the piano 2009 japan(2009年に行われた東京オペラシティ コンサートホールでのライヴ, 2010年)
UTAU LIVE IN TOKYO 2010 A PROJECT OF TAEKO ONUKI & RYUICHI SAKAMOTO(2010年末に開催された大貫妙子 とのツアーの模様, 2011年)
playing the piano in seoul / korea 2011(2011年韓国からUstreamによる中継を編集したもの, 2012年)
async surround /坂本龍一 + 高谷史郎(2018年)
書籍
単著
『アヴェクピアノ:戦場のメリークリスマス』思索社、1983年
『本本堂未刊行図書目録:書物の地平線』朝日出版社 〈週刊本 〉、1984年
『Seldom-illegal:時には、違法』角川書店 、1989年。角川文庫 、1991年。
『N/Y:坂本龍一写真集』田島一成 写真、リトルモアブックス、1995年
『Decode 20』インプレス 、1997年
『AFRICA NOTE』code、2000年
『BRAZIL BOX』code、2001年
『音楽は自由にする』新潮社 、2009年。新潮文庫 、2023年4月
「ENGINE 」2007年1月号から2009年まで連載。半生をまとめた自叙伝
『龍一語彙 二〇一一年-二〇一七年』角川書店、2017年11月。発言・発信録集
『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』新潮社、2023年6月
「新潮 」2022年7月号から2023年2月号まで連載。続編の遺著
共著
『音を視る、時を聴く 哲学講義』大森荘蔵 共著(朝日出版社、1982年)。ちくま学芸文庫 、2007年
「水牛楽団休業」(浅田彰 共編、1984年)。カセットブック
「長電話」(高橋悠治 との共著、本本堂 1984年)
「音楽図鑑」1985年
「EV.Café 超進化論」村上龍 ほか(講談社 、1985年)。講談社文庫 、1989年
「音楽機械論」吉本隆明 との共著(トレヴィル、1986年)。ちくま学芸文庫、2009年
『未来派2009 : La velocita.i rumori.il movimento.』細川周平 共編 本本堂 1986年
「友よ、また逢おう」(村上龍共著、角川書店 、1992年)。角川文庫、1993年
「ザ・ゲイシャ・ガールズ・ショウ 炎のおっさんアワー」(Ken&Shoとの共著、幻冬舎 、1995年)
「モニカ 音楽家の夢・小説家の物語」(村上龍共著、新潮社、1996年)。新潮文庫、1999年
「skmt」(後藤繁雄 共著、リトル・モア、1999年)
「skmt2」(後藤繁雄共著、NTT出版 、2006年)。新編合本・ちくま文庫 、2015年
「少年とアフリカ 音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話」(天童荒太 との共著、文藝春秋 、2001年)。文春文庫 、2004年
『エンデ の警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来』河邑厚徳 共編著(NHK出版 、2002年)
「反定義 新たな想像力へ」(辺見庸 との共著、朝日新聞社、2002年)「小説トリッパー 」編集部編。朝日文庫 、2005年
「Life : fluid,invisible,inaudible…」(高谷史郎共著、浅田彰監修、NTT出版 、2007年)
「縄文聖地巡礼」(中沢新一 との共著、木楽舎、2010年/イースト・プレス、2023年12月)
雑誌「ソトコト」に掲載された縄文文化に関する旅と対談をまとめた記事をさらに追記したもの。
「LIFE-TEXT」(高谷史郎との共著、NTT出版、2010年)
1999年に発表されたオペラ「ライフ 」と2007年の「インスタレーション」をまとめたビジュアルブック。
『いまだから読みたい本 3.11後の日本』坂本龍一+編纂チーム選 小学館 2011
『クロニクルFukushima』 青土社 2011
大友良英 代表、宇川直宏 ,遠藤ミチロウ ,木村真三 ,丹治博志 ・智恵子・宏大,森彰一郎 ,和合亮一 共著
『脱原発社会を創る30人の提言』池澤夏樹 ・池上彰 ほか共著 コモンズ 2011
『地球を聴く 3・11後をめぐる対話』竹村真一 共著 日本経済新聞出版社 2012
『NO NUKES 2012 ぼくらの未来ガイドブック』編纂チーム共編 小学館 スクウェア 2012
『フクシマからはじめる日本の未来』大友良英,金子勝 ,児玉龍彦 共著 アスペクト 2012
『村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Cafe』スペースシャワーブックス 2013
北野宏明 ,浅田彰,伊藤穰一 ,竹中直純 ,赤尾健一 ,塩崎恭久 述
『愛国者の憂鬱』鈴木邦男 、金曜日 2014。対談を書籍化。
『坂本龍一×東京新聞 脱原発とメディアを考える』東京新聞編集局編 2014
『音楽と生命』福岡伸一 、集英社 2023年3月。遺著
『坂本図書』伊藤総研構成、空里香監修、坂本図書、2023年9月
『坂本龍一のメディア・パフォーマンス マス・メディアの中の芸術家像』
松井茂・川崎弘二編著、フィルムアート社 2023年9月。第2部にインタビュー
監修・聞き書き等
「未来派 2009」(坂本龍一・細川周平 共同監修、本本堂、1986年)
「気分転換法77」(サワグチ・サイキック・センター著、坂本龍一監修、扶桑社 、1987年)
「写真集『ラストエンペラー 』」(バジル・パオ他写真、本本堂、坂本龍一編、1988年)
「坂本龍一・全仕事」(山下邦彦 編著、太田出版 、1991年)。大著
「坂本龍一・音楽史」(山下邦彦 編著、太田出版、1993年)。大著
「テクノドン」(後藤繁雄 編著、小学館、1993年)。主にYMOの全発言
「楕円とガイコツ」(山下邦彦、太田出版、2000年)。小室哲哉 との関連
「非戦」(sustainability for peace 共同監修、幻冬舎、2002年)
「伝説の編集者 坂本一亀 とその時代」(田邊園子、作品社 、2003年。河出文庫、2018年)。企画
「坂本龍一の音楽」(山下邦彦 編著、東京書籍 、2008年7月)。坂本自身の提供資料による大著
「ユリイカ 総特集=坂本龍一」(青土社 、2009年4月臨時増刊号)
「2003―飯野賢治対談集」(1999年、ソニーマガジン ) ISBN 4-7897-1359-8
「耳鳴りに悩んだ音楽家がつくったCDブック」(鈴木惣一朗 、DU BOOKS 、2018年)。インタビュー収録
「小津安二郎 大全 」(松浦莞二・宮本明子編著、朝日新聞出版、2019年)。インタビュー収録
「コモンズ :スコラ 音楽の学校 第18巻 ピアノへの旅」(アルテスパブリッシング、2021年)
「坂本龍一 音楽の歴史」(吉村栄一、小学館 、2023年2月)
長年の取材による音楽評伝(没する直前に刊、写真集・完全ディスコグラフィーを併せた3冊組・特装版も刊行)
フォトグラファー
「エロコト」第1号(ソトコト2006年11月号増刊/責任編集:坂本龍一、アート・ディレクション:信藤三雄 )
THE NAKED LUNCH 裸のランチ(写真:坂本龍一、モデル:天海麗 )
「ラブコト」(編集長:坂本龍一、ゲストエディター:蝶々、ソトコト2008年8月号増刊)
出演
俳優としての出演作品
映画
CM
ミュージック・ビデオ
テレビ
ラジオ
コンサート
ドキュメンタリー映画
SUGA: Road to D-Day(2023年) - SUGA との対談シーンに出演[126]
脚注
注釈
^ 坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、オーケストレーションは川崎絵都夫 、上野耕路 、野見祐二 、渡辺蕗子 らが分担した。
^ a b c d 外部リンクに映像
^ 塩崎は年齢では1学年上にあたるが、高校時代に1年間アメリカ留学を経験した上で本来より1学年下の学年に編入したため、結果的に坂本と同級生になった。
^ 坂本が東京都立新宿高等学校 一年生の時、偶々坂本作曲の音楽を聴いた、高校の先輩の池辺晋一郎 は、「この実力があれば(東京芸大に)十分受かるだろう」と太鼓判を押したというエピソードもある。なお、芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学 芸術学部 に進むことを考えていたという。その理由は「当時の日大全共闘 は一番ぶっちぎれていたから」。(「SELDOM - ILLEGAL - 時には、違法」、1989年、角川書店より)
^ 受賞のコメントで「売れようとか思ってやったわけではないので、自分のやったことが評価されただけ」と述べたという。
^ 『戦場のメリークリスマス 』でも坂本とデヴィッド・ボウイ と抱擁しながらのキスシーンがある
^ この番組にテープを送っていたリスナー で後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ 、槇原敬之 らであり、ステッピン・イントゥ・エイジア でラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている。
^ 本人は「日本人が外国人に歌舞伎をお願いするようなものだ」と語っている。
^ 高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。
^ 4人のうち1人(長男)は矢野顕子が前夫である矢野誠 との間にもうけた連れ子で、坂本と養子縁組はしていたものの血縁関係はない。なお、矢野との離婚後も養子関係を継続しているかは明らかでない。2015年7月に美雨が女児を出産した際には、この女児が坂本にとっての初孫と報じられている(矢野にとっての初孫は2014年秋に生まれた長男の子供)。
^ 番組内では音声は伏せられたものの「K」と「C&A」と画面には表示し、さらに「K」について司会の古舘伊知郎は「ゲゲゲが付いたら」とヒントを挙げている。
^ 坂本はライブの生中継を目指し、小室は音源データの配信を意図していた
^ この祖父は、池田首相の葬儀の際に友人代表として弔辞 を読んだという。坂本龍一著 『音楽は自由にする』 新潮社 、2009年、23頁
^ 北海道地区限定リリース
^ パークハイアット東京開業20周年記念のCD BOOK
^ 海外盤のみのリリース。附属のDVDは日本ツアーの物販のEUツアーのブルーレイディスクと同内容。収録はドイツのHamburg(ハンブルク)とKarlsruhe(カールスルーエ)の2公演から。
^ a b c アメリカ 盤のみ
^ 通販限定
出典
関連項目
外部リンク
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シングル
アルバム
オリジナル ベスト リミックス ライブ セルフカバー その他 サウンドトラック
楽曲 ユニット 関連人物 関連項目
カテゴリ
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い・け・な・いルージュマジック (忌野清志郎+坂本龍一 ) - S.F. (忌野清志郎 , JOHNNY, LOUIS & CHAR ) - AROUND THE CORNER 曲がり角のところで - E-JAN - デイドリーム・ビリーバー (THE TIMERS) - ロックン仁義 (THE TIMERS) - パパの歌 - 夜空の誓い (HIS) - パパのカラオケ (トーサンズ) - 日本の人 (HIS) - 世間知らず - パパの手の歌 (忌野清志郎 & 2・3'S) - いつか観た映画みたいに (忌野清志郎 & 2・3'S) - お兄さんの歌 (忌野清志郎 & 2・3'S) - プライベート (忌野清志郎 & 2・3'S) - サラリーマン - サヨナラはしない (THE TIMERS) - 君にだけわかる言葉 - Good Lovin' - 世界中の人に自慢したいよ - パーティーをぬけだそう! (忌野清志郎と篠原涼子 ) - メロメロ (忌野清志郎 Little Screaming Revue) - サンシャイン・ラブ (忌野清志郎 Little Screaming Revue) - QTU - 水の泡 (ラフィータフィー) - ブーアの森へ - ガンバレ日本 (木梨憲武 +忌野清志郎) - 青い星 (LOVE JETS) - 強烈ロマンス (ミツキヨ) - 宇宙大シャッフル (LOVE JETS) - UFO神社 (LOVE JETS) - ONABE (サルサガムテープ with 忌野清志郎) - JUMP - 雨上がりの夜空に35 (忌野清志郎 feat.RHYMESTER) - 愛を謳おう (忌野清志郎 with 井上陽水 ) - 仕草 - 走れ何処までも - RUN寛平RUN - Oh! RADIO
映像作品
HAPPY HEADS LIVE IN JAPAN (忌野清志郎 & The Razor Sharp) - HAVE MERCY! (忌野清志郎 + Booker T. & THE MG's) - Screaming Revue - GLAD ALL OVER (忌野清志郎 & 仲井戸麗市) - 不死身のタイマーズ (THE TIMERS) - RESPECT! - ドラムレス ラフィータフィー (ビリ井バンバン) - 不確かなメロディー - WANTED - ONE MAN SHOW - LOVE JETS 生 (LOVE JETS) - 2005★GOD Presents ROMANCE GRAY35 - 忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館 - ブルーノートブルース 忌野清志郎 LIVE at Blue Note TOKYO - 忌野清志郎 LIVE at SPACE SHOWER TV~THE KING OF ROCK SHOW~
関連人物・グループ 関連項目
カテゴリ
メンバー
小林武史 (Keyboards) - 櫻井和寿 (Vocal & Guitar) 他多数
シングル ダウンロード配信 アルバム 映像作品 関連項目
1934–1950 1951–1975 1976–2000 2001–2025
1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1976–1980 1981–2000 2001–2020 2021–現在