サッポロビール株式会社(英: Sapporo Breweries Limited)は、日本の大手ビールメーカーである。1876年(明治9年)に、政府の開拓使が北海道札幌市に札幌麦酒醸造所を設立し、そこで作られた「冷製札幌ビール」が社名の由来とされている。
1949年(昭和24年)9月1日に、過度経済力集中排除法及び企業再建整備法の適用を受けた大日本麦酒株式会社の決定整備計画に基づき『日本麦酒株式会社』として設立、1964年(昭和39年)1月にサッポロビール株式会社(初代法人)に商号変更した。
グループの持株会社体制へ移行に伴い2003年(平成15年)7月1日にサッポロホールディングス株式会社へ商号を変更し、現業一切を同日設立された新設会社「サッポロビール株式会社」(二代目法人)へ分割譲渡し、純粋持株会社に移行した。本項は2003年(平成15年)6月30日までの旧会社と同年7月1日以降の現行会社について述べる。
1876年(明治9年)9月に、開拓次官の黒田清隆の指揮で村橋久成や中川清兵衛を始めとする有志が、札幌に開拓使麦酒醸造所を設立し、翌年に冷製「札幌麦酒」(札幌ビール)の製造を開始する[3]。
1886年(明治19年)に大倉財閥の創始者・大倉喜八郎率いる大倉組商会が官立醸造所の払下を受け、1887年(明治20年)に大倉と渋沢財閥の創始者渋沢栄一、浅野財閥の創始者浅野総一郎らが札幌麦酒株式会社を設立し、同社が製造販売を行う。
1906年(明治39年)に、三井物産系列でヱビスビールを製造して販売する日本麦酒醸造、アサヒビールを製造して販売する大阪麦酒、と合併して大日本麦酒となる。この時、静岡県東部・長野県・新潟県以東でサッポロビールは存続する。
1933年(昭和8年)に根津財閥の創始者根津嘉一郎がユニオンビールと三ツ矢サイダーを製造して販売する日本麦酒鑛泉を、1943年(昭和18年)に、旧鈴木商店系で1939年(昭和14年)に帝国麦酒から社名変更し、サクラビールを製造して販売する櫻麦酒をそれぞれ併合し、大日本麦酒製品の市場占有率は7割以上となった。
1943年(昭和18年)にビールの商標が禁止されてサッポロビールのブランドは一時消滅する。1949年(昭和24年)に、過度経済力集中排除法に基づいて大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒に分割された際、日本麦酒はニッポンビールのブランドを採用した。
ニッポンビールの苦戦と共に愛飲家からサッポロビール復活が望まれ、1956年(昭和31年)にまず北海道で復活して1957年(昭和32年)から全国でサッポロビールを発売し、1964年(昭和39年)に会社の商号を「サッポロビール株式会社」とする。サッポロビールの商標復活に、ビール業界で数少ない醸造技術者出身の社長である松山茂助が尽力した。
ビール類の市場占有率は、会社分割後の日本麦酒が1949年に38.7パーセントで1位[4]となり1952年(昭和27年)まで単独1位、1953年(昭和28年)は原料配給の関係で日本・麒麟・朝日は3社同率[4][5]、1954年(昭和29年)は1位から麒麟、朝日の順で日本麦酒は第3位[4]、1961年(昭和36年)に2位となり、以降、商号変更後も2位を維持して1970年代の生ビール競争も善戦したが、1989年(昭和64年/平成元年)はアサヒが2位でサッポロは3位[4]、2008年(平成20年)はサントリーが3位でサッポロは4位、2009年(平成21年)も4位であった[6]。当社が開拓した第三のビール分野もキリンビールに次ぐ2位で、2008年・2009年上半期ブランド別ビール類販売数量順位では、ビールの黒ラベルが唯一ランクインした[7]。サッポログループ全体の2006(平成18)年度連結決算は、恵比寿ガーデンプレイスなど不動産事業の利益は37億円で酒類事業の経常利益9億円を圧倒し、後述のスティール・パートナーズの株取得を誘引した。
来歴から北海道内の知名度は非常に高く、道内の公共交通施設に「本場の味:サッポロビール」などの広告掲出が多い。道内の飲食店は「ビール」の注文にサッポロビールを提供する時代が長かったが、平成になってからは道内においても他社のビールが多く販売されるようになったため、「北海道は、サッポロビール。」の企業イメージで道内限定のキャンペーンを行うなどして北海道市場の確保に尽力している。
大日本麦酒が分割された際に東日本を主要地域とする日本麦酒として発足したことから、大阪など関西や西日本地区の販売は高くなく、吉本興業と「よーし、もっと黒ラベル」キャンペーンを催すなどしている。
サッポロビールのラベルに描かれている五芒星は北極星(ポラリス)を表す前身の開拓使麦酒醸造所を保有していた北海道開拓使の徽章で、同社の伝統である。
現在のサッポロビールは、2003年(平成15年)7月1日に当時のサッポロビール株式会社(同日付でサッポロホールディングス株式会社と商号変更)の会社分割により設立されたものである。
2008年(平成20年)3月末に大阪工場(大阪府茨木市)が閉鎖され、現在の西日本の生産拠点は九州日田工場(大分県日田市:開設当時は「新九州工場」)の1ヶ所のみとなっている。
同業他社やアルコール取り扱いメーカーでも展開している容器入り低アルコール事業において、同社も2004年から参入し、缶入りチューハイ・カクテルを製造・販売していたが、ビール類(ビール・発泡酒・第三のビール)事業に経営資源を集中するため2007年(平成19年)までに業務用の「氷彩サワー」を除いて撤退した[8]。しかし、若年層のビール離れが進み低アルコール飲料を好む状況から商品ラインナップの充実化が必要と判断して2010年(平成22年)に容器入り低アルコール事業に再参入し[8]、同年5月26日に不二家との共同開発による「ネクターピーチサワー」を発売した[9]。
専門技能を持つフィールドマンが直接生産地に赴いて協働で生産する取り組み[10][11][12]。このことにより、サッポロビールが栽培から加工までの管理に関わることになる[10]。
2003年(平成15年)9月、サッポロビールは「2006年までにすべての麦芽とホップを協働契約栽培にする」と宣言し[10][11][12]、達成している[10][13]。
この取り組みに対しては次のような受賞歴、表彰歴がある。
その他、輸入ワイン各種
下記は独自ブランド
主な商品を記載。詳しくはポッカサッポロフード&ビバレッジの欄を参照。
チューハイと違いフルーツをアルコール醗酵させている。そのためリキュール類・スピリッツとはならず、果実酒(発泡性)①となる。CMはオセロを起用。
[51]。
これらの工場は会社の合理化、生産拠点の集約化、新工場の建設などで閉鎖された。
なお、前身の札幌麦酒が1901年に東京市本所区(現在の東京都墨田区)吾妻橋に東京工場を建設して東京に本格進出。大日本麦酒成立後も1943年まで同社吾妻橋工場としてサッポロビールが製造され続けたが、1949年の会社分割でアサヒビール(当時:朝日麦酒)の所属になった。現在はリバーピア吾妻橋として再開発され、アサヒグループホールディングス・アサヒビール本社やスーパードライホールが立地している。
恵みの庭(めぐみのにわ)は、北海道恵庭市にあるサッポロビール北海道工場に設けられている、ゲストハウスと造園計画とコンテンポラリーアートの組み合わされた企業庭園。植村泰佳のプロデュースによって実現。上田カルチャープロジェクツの上田祐子と建築家の伊東豊雄と共同で、のちに参加したライトアーチストの田原圭一、作曲家の菅野由弘、彫刻家の岡本敦生、サウンドデザインのハ木祥臣が参加した。ここで造園手法はすべて排除、アースワークだけで構成している[52][53]。
光の庭のランドスケープ設計・照明計画:アーククルー、建築計画:伊東豊雄建築設計事務所、サイン計画:日交 音響計画:フォンテックツー、アート:田原佳一(照明) 菅野由弘(作曲) 岡本敦生(彫刻)。 建築施工、镥装・照明工事、植栽は、前田・鴻池JV(協力業者・植栽が大成・伊藤・西松・雪印種苗、王子緑化JV) 竣工は1989年6月、総敷地面積 318.368 m2、該当敷地面積: 110.000 m2である。伊東はゲストハウスで1990年村野藤吾賞を受賞している[52][53]。
敷地周辺の風景、埴生調査から北海道の大地を表現し、工場用地として真っ平らに造成された敷地は、北海道の大地が引き剥され、悲惨な姿をしていた。このため、ごくあたりまえに求めながら容易に実現かった北方圏のイメージを現実のものとして体験する場をめざし、北方圏のおおらかさを出すために、語ることを極力押さえてあり、北海道の大地に抱かれるような、やさしさを表現すべく、緑・花・水・光・雪・風、などの自然な材料の構成にこだわっている。なにげない美しい風景を実現するため、また今もさらに美しくすべく管理されている[52][53]。
生活工房・サッポロファクトリーアトリウムの庭は、北海道札幌市中央区北2条のサッポロファクトリーにある庭園で、この計画も植村泰佳のプロデュースによって実現。イメージは「大通公園に屋根をかけたようなもので、プロジェクト成功のため植村はデザインサイドと企業側との中間のポジションを取り続けた。建設指揮は藤澤和夫と植村である。この庭園計画も実は恵みの庭とまったく同じ方法で計画されている。仮想の原風景である大地をこの計画地全体にまず造り、必要な部分を切り出す方法で造形[52][53]。
庭園設計はアーククルー1級建築士事務所。設計協力に大成建設、照明計画が海藤春樹。 音響とフォグ/フォンテックツー、サウンドデザインがニッポン放送、アート作品は岡本敦生、中林影が担当した。 施工は大成建設、伊藤組土建、西松建設、地崎工業、前田建設工業、三井建設、鴻池組、日本国土開発、飛島建設、岩田建設、日産建設、カブトデコムJV。造園は雪印種苗、横山造園、王子緑化JV。アトリウム計画面積2,400 m2に及ぶ[52][53]。
サッポロドラフトガールズ
提供クレジットは「乾杯をもっとおいしく。☆SAPPORO」と表記されるが、「YEBISU」(ヱビスビール)と表記される番組もある。
特にスポーツイベントでの中継では「スポーツマンシップに乾杯!☆SAPPORO(サッポロビール)」をスローガンとして放送していた(2023年1月現在、箱根駅伝のTV中継では2010年からの企業スローガンである「乾杯をもっとおいしく。」に統一されている)。中でも箱根駅伝は1987年に日本テレビ放送網が独占放映権を得てから特別協賛し、同社の企業イメージCM(箱根駅伝にちなんだオリジナルCMも)や、一部のノンアルコール飲料(ビールテイスト飲料:サッポロ プレミアム アルコールフリーなど)の商品CMが多数時間を割いて放送している(第87回(2011年)より。第86回(2010年)までは、同社の各種ビール類(発泡酒・新ジャンル(いわゆる「第3のビール」)を含む)等の商品CM(まれに関連会社のサッポロ飲料(現:ポッカサッポロフード&ビバレッジ)のソフトドリンクや、サッポロワインのポレールシリーズのCMも放映された)も午後の時間帯に放映された)。ただし同番組は、BS日テレ・日テレジータスでの録画放送も含め、同社の一社提供ではなく、大会に関与するその他の協賛企業・団体との複数提供によるものである。
※2013年にはTEAM NACSの森崎博之と安田顕が出演する北海道編を北海道限定で放送。
※2024年5月からRIEHATA出演が放送される予定であったが現在は見送られている[55]。
(注1)は三井グループ(二木会・三井広報委員会・三井業際研究所・月曜会・綱町三井倶楽部・三井文庫会員企業)でもある。(注2)は三菱グループ(三菱金曜会・三菱広報委員会会員企業)でもある。(注3)は第一勧銀グループ(三金会会員企業)でもある。(注4)は三和グループ(三水会・みどり会会員企業)でもある。(注5)は古河グループ(古河三水会会員企業)でもある。(注6)は大輪会グループでもある。(注7)は春光グループ(春光会・春光懇話会会員企業)でもある。
太字は二木会・三井広報委員会・三井業際研究所・綱町三井倶楽部 / メンバー。
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