寅(とら、いん)は、十二支の3番目の支。
前年は丑(うし)、次年は卯(う)である。
概要
- 「西暦を12で割って6が余る年」が寅年となる(日本では新暦1月1日に始まり、中国では旧暦1月1日に始まる)。なお、年を表す時の別名は摂提格または摂提[1]。
- 寅の月は新暦2月(旧暦1月)。
- 寅の刻は午前4時を中心とする約2時間。
- 寅の方位は東北東よりやや北寄り(北東微南:北基準右廻り60°)。
- 陰陽五行思想では陰陽は陽、五行は木。
- 反対側は、申(さる)。
寅を含む干支
- 丙寅(1の位が6の年)
- 戊寅(1の位が8の年)
- 庚寅(1の位が0の年)
- 壬寅(1の位が2の年)
- 甲寅(1の位が4の年)。
伝承
「寅」が正月になった理由とその誤解、「子」の暦法上の正当性
夏王朝では1月に北斗七星が寅、殷王朝では丑、周王朝では子の方向を向いていたであろうと当時は考えられており、夏王朝は寅、殷王朝は丑、周王朝は子を月建とした[2]。秦王朝では顓頊暦(建亥)を採用し、漢王朝初期も顓頊暦を採用していたが[3][4]、太初元年(BC104)に武帝がこれを三正循環論(これら3つの正月制定法が王朝交代と共に循環する)としたため、漢王朝では「周正の次は夏正」という王朝交代論で夏正を採用し、寅月を正月とした建寅となった[2][5]。漢王朝以降の戦国各国は夏正を歴とし、現在に至るまで、建寅月を正月とする夏正暦が2千年間も中国暦(旧暦・農暦)で使用され続けてきたため「夏正を基にした太陰太陽暦は立春付近に正月を置く暦」と誤解されることになり、太陰太陽暦の正月を建寅月にすることは物理上は正しくない[6]。
また夏王朝以前は冬至起点に子月を正月とした歴が採用されていたという説もある[7]。
天文道・二十四節気 平気法では冬至を1年周期の開始としており、暦法上は周正に最も正当性があり、24時間に十二支を配当すると子の時刻はPM11:00-AM0:59となり、それを24節気に配当すると日付の切り替わるAM0:00が一年周期の切り替わる冬至の位置と重なる。現代の天文学による計算では周王朝初期に、北斗七星が冬至の頃の夕方に北を向いていたという[2]。物理上は十二支の1番目である「子」を正月に置く周正に正当性があり、十二支の1番目である子を最初、更に冬至を起点にすることで物理的な整合性が合致する[2]。
四柱推命や紫微斗数といった占術などの古典は大半が夏王朝以降に記された物であり、正当性のある冬至起点ではなく、夏正による判断によって占術に用いる歴が制定されているため、日本の早生まれなどの鑑定に用いると誤りが生じることがある。
五黄寅
五黄の寅年生まれは気が強いと言われ、この年に女子が産まれることを忌む俗習がある(同様の俗習については「丙午」も参照)。「於菟」(おと)と名づける習慣があり、『広辞苑』には「於菟は虎の異称であり、わが国で猫の異称」とも書いてある。読みは「ごおうのとら」だが、訛って「ごごうのとら」「ごうのとら」「ごこうのとら」などとも言われる。
五黄の寅は36年に1回訪れる(「五黄土星#五黄土星の(中宮になる)年」も参照)。20世紀以降で現在までの該当年は以下のとおりである。
- 五黄の寅年(西暦と和暦)
他
- 『漢書』律暦志によると寅は「螾」(いん:「動く」の意味)であり、春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。後に覚えやすくするために動物の虎が割り当てられた。
- 「辰巳天井、午尻下がり、未辛抱、申酉騒ぐ。戌は笑い、亥固まる、子は繁栄、丑はつまずき、寅千里を走り、卯は跳ねる」という相場格言がある[8]。
- 寅年現象。
- 干支 (北方町)#寅 - 北方町 (宮崎県)では干支の「寅」が住所表記・番地符号として使われている。
脚注
出典
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