辺見マリ(へんみ マリ、1950年〈昭和25年〉10月5日 - )は、日本の歌手・タレント・女優。本名、逸見 万里(読み同じ)。
神奈川県逗子市生まれで、2歳から京都府京都市育ち[1]。消息不明となっている父親がスペイン系アメリカ人(陸軍将校)で[2][3][4]母親が日本人。最終学歴は平安女学院高等学校卒業。
元夫は歌手の西郷輝彦で、西郷の籍へ入ったため婚姻期間中の戸籍上の姓は西郷の本名である今川(いまがわ)であった。長男はミュージシャンの辺見鑑孝(へんみのりたか)。長女はタレントの辺見えみり。
血液型B型、身長162cm[4](または160cm)。B83cm、W60cm、H90cm(1982年2月時点)[4]。
経歴
平安女子中等部3年時に京都会館で行われた、ナベプロの「新人スターパレード」を見に行って同事務所から歌手としてスカウトを受けた。
1967年、高等部2年生になると両親の賛成で休学し、軽自動車の免許を取ったばかりのマリは愛車のホンダN360と共に上京し、浜口庫之助の下で厳しいレッスンを積みながら、間もなく渡辺プロへ入社[5]。
1969年11月に「ダニエル・モナムール」でデビュー。翌1970年、20歳の時に発売したセカンドシングル『経験』の「やめてぇ」と溜息混じりの歌い方が話題になり、大ヒット[1]。曲と共に本人の大人びた容姿も相まってブレイクし、同年の第12回日本レコード大賞新人賞やゴールデン・アロー賞グラフ賞などいくつもの賞を受賞した[1]。以降、同年に「私生活」、翌1971年に「めまい」等をリリースし、セクシー歌謡の歌手として活躍。『私生活』で第21回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、睡眠時間は3時間という多忙な日々を送った[1]。
ところが、人気絶頂時の1972年に同じく人気歌手の西郷輝彦と(当時マリは22歳、西郷は25歳で)結婚し、芸能界を引退[1]。結婚の翌年に長男、26歳で長女・えみりを出産し、2児の母となったが1981年に離婚し、芸能界に復帰[4][1]。
1993年にはヘアヌード写真集「INFINITO」を発売[6][7]。これと前後して1993年には娘の辺見えみりがドラマ『いちご白書』でデビューする。1998年に発売したCDシングル『Good-Bye あばよ』では、えみりがジャケット写真の撮影を担当した。
遡って38歳の頃(1988年頃)から金銭トラブルに見舞われ、それによる騒動や上記の熟女ヌード写真集の発売に至ったことなどが、その後ワイドショーで話題になる。さらにその後、この時の金銭トラブルは「拝み屋」が原因だったことを『Dのゲキジョー 〜運命のジャッジ〜』(フジテレビ系)出演時に告白している。また、「拝み屋」にはまっていたことで、えみりと絶縁状態になっていた時期がある(現在は和解している)。
2001年に年下の宝石デザイナー河澄信介と再婚するが、2005年に離婚。
現在は歌手やテレビタレント以外にもミュージカル等の舞台でも活躍中。
近年は「夢スター歌謡祭 春組対秋組歌合戦」に出演し、全国各地を回っている。
2015年、バラエティ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)に出演し、上記の38歳頃から拝み屋に洗脳されて大金を失った話を打ち明け、視聴者から大きな反響を呼んだ[1]。
エピソード
生い立ち
流しの歌手をする父(義父)と明るい性格の母に大切に育てられた[注釈 1]。以後高校生の頃まで、マリは自分がハーフであること[注釈 2]や、一緒に暮らす父が育ての親であることを知らずに育った[1]。
幼稚園に入園した4歳の頃よりバレエを始め、京都でも有名なバレエの先生である木村陽子・谷桃子両氏による指導の下、年に5 - 6回は舞台に立つようになった。また、錦林小学校3年生の頃には、一流のバレリーナになることを夢見るようになった。ただし小・中学生の頃は、学校で仲間はずれに遭うなど友人関係がうまく行かなかったため、学校生活はあまり好きではなかった[1]。
平安女子中等部入学後は、アイススケートに半年ほど凝っていた。2年生の時、カンツォーネとジャズに出会い虜(とりこ)になる。それまで京都会館にはバレエでよく舞台に立っており、3年生でナベプロのスタッフから「君踊れるって聞いたけど、歌は歌えるかい?」とスカウトされた[注釈 3]時は、すっかりジャズに陶酔していたこともあって快諾したと語っている。
1967年10月6日(17歳の頃)、芸能界入りを前に母から「変な形で耳に入ると良くないから」と、実父の存在とマリが混血児であることを告白された[1]。万理が生後2ヶ月の時に母・美保子はスペイン系アメリカ人の夫と別れ、やがて2歳になる頃には京都へ移り、逸見覃(へんみひろし[注釈 4])と再婚したことを知らされた。それまで自分は純粋な日本人だとばかり思っていた万理にとって、母の話は衝撃的だったが、実の子のように育ててくれた義父がやはり自分にとっての本当の父親だと確信した、と語っている[8]。
結婚生活、芸能界復帰
歌番組で共演した人気歌手の西郷輝彦と交際に発展し、1972年に西郷との結婚によりあっさり引退した[注釈 5]。結婚後、西郷はドラマ『どてらい男』(関西テレビ制作・フジテレビ系で放送)に主演すると、3年半に渡るヒットシリーズになったことから大阪での撮影が続いた。その撮影期間中、育児に追われる辺見の様子を見かねた西郷の提案[注釈 6]によりマリは(結婚後の自宅で)自分の両親を呼び寄せて同居を始めた。本作の撮影後から西郷も一緒に暮らしたが、その後夫とは別居状態となり、1981年に離婚[注釈 7]。
クイズ番組のアシスタントを頼まれたのをきっかけにタレント業に復帰し、以後両親や子どもたちとの生活を支えるため懸命に働いた[1]。復帰直後はCMなどの大きな仕事もあったが、歌手としては新たなヒット曲に恵まれず、次第に地方の温泉地のショーやキャバレーで歌う仕事(いわゆるドサ回り)がメインになった[1]。またこの頃は、デビュー当時のセクシーなイメージが強すぎて、映画やドラマの出演依頼が来ても脱ぐ仕事ばかりで断ることも多かったという[1]。
金銭トラブル
拝み屋Kとの出会い
復帰から8年後(38歳)、当時のマネジャー・Sから「僕の知り合いで、神様と話せる人がいるんですけど会ってみませんか?」と誘われた。当時思うように仕事ができない不安と焦りから[注釈 8]霊能力を持つという拝み屋の中年女性・Kと会ってみたところ、相手は熱心に話を聞いてくれた。また当時抱えていたマリの悩みを次々と言い当てた[注釈 9]ため、以降何でも相談するようになった[1]。最初は自らの意志で拝み屋に1回5,000円 - 1万円の謝礼を渡していたが、ある日を境に相手から色々と理由[注釈 10]を付けて“厄払い”としてお金を要求され、以降徐々にその金額が上がっていった[注釈 11]。
当時Kの周囲にはSの他、Kの家族やKの友人女性Aなどがおり、毎日Kたちは集まって“修行”と称して拝んでいた[1]。マリは厄払いのためにKのもとに訪れていたが、Kたちは彼女をわざと修行に誘わなかった[1]。これはKたちがわざとマリの嫉妬心を煽るというテクニックだったが、既に洗脳状態となっていたマリ[注釈 12]もほどなくして仲間に加わり、毎日朝から晩まで修行するようになった[1]。異変に気づいたえみりたち家族やマリの友人から、修行に行くのを辞めるよう説得されたが、マリは全く耳を貸さなかった[1]。
新・拝み屋Aとの生活
後日Kがいなくなると新たにAが拝み屋に成り代わり、要求される金額がそれまでとは桁違いに増加した[1]。この頃にはマリはほとんど仕事をせずに修行をし、Aはマリが工面した金から、生活費をマリに渡していた[1]。しかし金が尽きたことでAはマリを歌の仕事に復帰するよう告げた[1]。ただし拝み屋Aが修行中に出す食事のせいで、マリは以前より20kgも太ったが、Aの指示でダイエットしてから歌手業を再開させた[注釈 13]。しかし外の世界に触れ、ステージで歌唱後にファンからの温かい拍手をもらったことで、拝み屋との生活に違和感を感じるきっかけになった[1]。また、Aからの指示でダイエット教室を開くことになったが、生徒たちから集めた約2,000万円の入会金がAに持ち逃げされた。初めてAたちに怒りの感情が沸いたことがきっかけとなり、ようやく洗脳が解けた[注釈 14]。
後日Aから電話がかかり再びお金を求められたが、大ゲンカして要求を突っぱねた[9]。その後警察に捜査を依頼したが、拝み屋たちの居所は分かっておらず金も返ってきていない[9]。13年間で約5億円(周りから借金した分も含めて)をKやAたちに渡したという[注釈 15]。洗脳期間中に成長した子どもたちはそれぞれ独立して以降絶縁状態が続いたが、洗脳が解けたことで交流が復活した[注釈 16]。
その他
デビュー前は布施明の大ファンだった。ナベプロからスカウトされたのも彼が出演する歌謡ショー(「新人スターパレード」とされる)を見に行ったのがきっかけ[1]。
デビューの頃は、“舐められたくないから”という理由で年齢を実際より2歳高く鯖読みしていた。
2013年6月末の深夜にえみりの出産に立会い、マリは孫娘の祖母となった。なお、出産祝いとして娘夫婦にベビーベッドを購入してプレゼントした。
2020年10月頃体調に異変を感じ、病院で頻脈性心房細動及びうっ血性心不全と診断されて入院し、数日後に退院。その後2022年6月に心臓のアブレーション手術[注釈 17]を受けた[1]。
本人は性格について、「元々真面目すぎる性格で物事を突き詰めて考えちゃったり、わりとマイナス思考」と自己評価している。いつ頃からか、そういう時は余計なことを考えないように、敢えて「ま、いっか」と声に出すことで気楽に過ごすようになったという[1]。
長年長い髪を染めて生活していたが、コロナ禍を機に染めるのを辞めて地毛の色であるグレイヘアにし、髪型もショートヘアに変えた[1]。
ディスコグラフィ
シングル
アルバム
- マリとあなたの部屋(1971年1月)
- 20才の女(1971年8月4日)
- 辺見マリとクリスマスを(1971年)
- Love Letters(2001年10月24日)
出演
映画
テレビドラマ
バラエティ
テレビアニメ
CM
NHK紅白歌合戦出場歴
- 注意点
書籍
- 「空白の1095日―“経験”エッセイ」(1992年4月、廣済堂出版)
- 「辺見マリの実戦!やせるメニュー (JOSEI SEVEN BOOKS)」(1994年4月、小学館)
- 「もうひとつの経験―本当の絆をつかんだ親子の愛」(2003年3月、青春出版社)
写真集
- 「INFINITO―辺見マリ写真集」撮影:谷口征(1993年5月、竹書房)
脚注
注釈
- ^ 実際にはマリの下に双子の弟が生まれたが、生後間もなく二人とも亡くなったこともあり、マリは一人娘のように大切に育てられた[1]。
- ^ 黒髪ではないマリからハーフと気づかれないよう、母親は髪を娘に合わせて明るい色に染めていた。このため、マリは後年に知らされるまで母と同じ“純粋な日本人である”と疑わずに育ったとのこと。
- ^ 当日、マリは顔なじみの会場スタッフに頼んで、出演者である布施明のサインをもらうため関係者用の廊下を歩いていた。するとマリの存在に気づいたナベプロが、会場スタッフから彼女にバレエ経験があることを聞き、上記のようにスカウトしたという[1]。
- ^ ひろしの漢字は、「西」の真下に「早」。
- ^ 人気絶頂時での引退について本人は、「芸能界でスターになることに加え、愛する人ができたら結婚するというのも私のもう一つの夢だった。当時の私には結婚生活と仕事を同時にすることはできないから、西郷さんを支える縁の下の力持ちになろうと思って引退したんです」と述懐している[1]。
- ^ 西郷から子育てのためにマリの両親との同居を提案され、「その方が僕も安心して留守にできるから」と言われたという[1]。
- ^ 離婚の経緯についてマリは後年、「今思えば、同居生活で家族がお互いに気を遣い過ぎたのが原因かもしれません。その後西郷さんはだんだん家に帰ってこなくなってそのまま別居状態になり、結局結婚生活は9年で終わりました」と回想している。[1]。
- ^ Sから話を聞いた時は、正直『コイツ、何言うてんねん(笑)』と思いました、でもそれから間もなく、私のディナーショーのポスターを見た人が『辺見マリってまだ歌手やってんの?もう古くねえ?』と悪口を言うのを偶然聞いてしまい、ひどく落ち込んじゃって…」と述懐している。
- ^ 実際は、裏でSがマリの情報を逐一伝えていた
- ^ 「このままだとえみりちゃん(当時小学6年生か中学1年生)の目が見えなくなりますよ。悪い厄を取り除かないと」、「このままだと息子さんがグレてしまう。お金を払えば救えますよ」等。
- ^ 本人によると、「厄払いをするたびに5万、10万、20万円…と金額が増えていった。拝み屋の深みにハマってしまったのは、私の弱さが一番の原因。でも、あの頃は『もし厄払いをしないで自分の一番大切な家族が不幸になったら、それこそ取り返しがつかない』と思い込んでいた」と述懐している[1]。
- ^ マリは、「『そんなのに引っかかるなんておかしい』と思われるかもしれませんが、子供時代の経験から仲間はずれにされるのが嫌で自分から『一緒に修行させて下さい』と頼んだんです」と回想している。
- ^ 後日、自叙伝やヌード写真集も出版したが、その印税もAに渡していた[9]。
- ^ 本人によると、「それまでAたちに渡したお金は、『家族が不幸にならないように』と自分が信じて用意していました。でも入会金は、自分を信じて生徒さんたちが用意してくれたお金でしたから、お金としての重みが全然違いました」と回想している[9]。
- ^ 本人は後年「要求と支払いを何度も何度も繰り返すと感覚がマヒしてくるんですよ。拝み屋たちへの支払いのため、自分の貯金がなくなってからは生命保険を解約し、持っていた宝石を全て売って自宅までも売りました。それでも足らなくなって自分のヘアヌード写真集も出したし、えみりが15歳でタレントデビューするとその契約金まで渡してしまいました。総額5億円も渡すなんて異常ですよね。でも、それが洗脳なんです」と述懐している[1]。
- ^ 本人は後年、「普通ならもう親子の縁を切られてもおかしくないのに…、(えみりや長男には)本当に感謝しかないです」と語った[1]。
- ^ 不整脈の一種である心房細動を起こす患部を焼く治療法。
出典
外部リンク
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。
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2009年,2010年代 | |
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