くり 万太郎(くり まんたろう、1950年〈昭和25年〉3月6日[1] - )は、フリーアナウンサー、ラジオディレクター、ラジオパーソナリティ。本名は高橋 良一(たかはし りょういち)[1]。
来歴
神奈川県川崎市出身[1]。神奈川県立多摩高等学校、早稲田大学第一文学部卒業[2]した。
小学生時代から、声の良さで一際目立つ存在だった[2]。中学生時代はブラスバンド部と卓球部を経て放送部で、高校生時代は放送部でそれぞれ活動し、高校生のNHK放送コンクール神奈川県大会で入賞[2]した。早稲田大学からジャーナリズム分野へ多数が輩出されていることを知り、早稲田大学へ進学してアナウンス研究会に所属し、同会の1年後輩に吉田照美がいる[2]。
1973年にアナウンサーの就職試験で、文化放送は最終の3人に、北海道放送は重役面接に、それぞれ残るも本採用に至らず[3]、1年間の就職浪人を決意してスポーツニッポン新聞社でアルバイトとして勤めた[2]。1974年は、静岡放送などのアナウンサー試験で1年後輩の吉田照美と同席することも多く、文化放送は前年に続いて最終試験に至り、ニッポン放送にアナウンサーとして那須恵理子とともに入社する[2]。
1975年から1978年にかけて『オールナイトニッポン』でパーソナリティを担当した[4]。本名でオールナイトニッポン火曜2部パーソナリティを務めた時は、本名を英語に直した名前「ハイブリッジ・グッドマン」を名乗った[2]。
マイクネームの由来は栗饅頭に似ていることから[5]、ドン上野が命名した[6]。
1977年5月9日14時から5月12日午前2時まで、ヒゲ武こと高嶋秀武と『ヒゲ武・くり万60時間マラソンDJ』を放送し、1971年の糸居五郎『50時間マラソンジョッキー』を更に10時間上回った。
「しっかりと読む仕事も続けたい」という本人の希望もあり、「くり万太郎」としてバラエティ番組で活動していた間も「高橋良一」として日曜のニュース読み当番を継続していた。後輩の上柳昌彦はその姿勢に学ぶことが多かったという[7]。このこともあり、ワイド番組の代行では「くり万太郎」名義ではあるが、ニュースでは「高橋良一」を名乗り、番組中に速報を担当する際は「高橋アナウンサー」と呼称される。
1990年の夏に管理部へ異動し[8]、1990年代後半に制作部へ異動してディレクター・プロデューサーとして数々の番組に携わり、2001年4月から2003年9月までBSデジタルラジオ放送LFX488の番組『ブロードバンド!ニッポン』でパーソナリティを担当した。
『あっぱれ!日本一』(テレビ東京系)にゲスト出演者の関係者として本名で出演したことがある。
2009年3月30日にアナウンサールームへ復帰し、『くり万太郎のオールナイトニッポンR』でパーソナリティを担当した。2010年に定年を迎え、その後も嘱託として在籍、2015年12月31日にニッポン放送を退社したが、以降もアナウンサーを務めている。
31歳の時にニッポン放送のアナウンサーだった馬場直子と結婚した。
担当番組
現在
制作部時代に担当
アナウンサーとして担当
その他
レコード
- 一人になれるかい(1977年5月25日発売、キャニオンレコード B面『オイラ、有楽町のマンタロウ』)
- 作詞:島武実、作曲:宇崎竜童
- 『くり万太郎のオールナイトニッポン』で行われていた企画『歌手デビューに挑戦!』から出されたレコードだった。この曲は何度かカバーされ、後にくり万太郎が『大入りダイヤルまだ宵の口』のパーソナリティだった時に、同じ番組のパーソナリティだったはた金次郎と『スイートポテト』というユニットを組み、1979年2月に発売された『真冬の帰り道』のB面にこの曲が二人の歌により収録。1989年には、作詞した島が関係の深いダウンタウンにこの曲を提供し、シングル『夕陽家族』のカップリング曲として収録(1991年発売のアルバム『万力の国』にも収録されている)。
脚注
外部リンク