糸居 五郎(いとい ごろう、1921年〈大正10年〉1月17日 - 1984年〈昭和59年〉12月28日[1])は、日本のアナウンサー、ラジオ・ディスクジョッキー(DJ)。
日本のラジオDJの草分け的存在として、ラジオの深夜放送で活躍した。
命日の12月28日は、上野修の提唱により糸居の功績をたたえる記念日として「ディスクジョッキーの日」と定められている[2]。
ジャーナリストで、地域向け新聞『小石川新聞』の編集・発行を手掛けていた糸居銀一郎の五男(末子)として[注釈 1][4]、東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)音羽に生まれる[2]。本人は、父に鉱石ラジオのレシーバーを頭にかぶらされて聴いていたと、その自分の子供時代を語っている[5]。東京市指ケ谷尋常小学校(現・文京区立指ケ谷小学校)に入学した1927年にその父を亡くす。
小学生時代から、兄の影響でジャズが好きになる[4]。本人曰く、ジャズの曲の英語詞を口ずさみながら学校に通っていたとのこと[5]。また、小学生時代には大河内傳次郎ファンになったが、旧制中学時代はアメリカ映画ファンになったという[5]。その後、戦中・戦後を通じ、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、アル・ジョルソン、キャブ・キャロウェイ、レッド・ニコルズ(英語版)らを好んで聴いていたという[2]。
1933年、府立第三商業学校(現・東京都立第三商業高等学校)入学[4]。在学中の1936年、同級の塩田英二郎(のちの漫画家)と共に全国学生ポスター展に入選、銀の優勝盃を受ける[6]。商業学校を卒業した1938年、11歳上の兄が官吏として赴任していた満州に渡り、新京(現・長春市)の和田英学院で英語を学ぶ[1]。1940年に卒業。同年、徴兵検査のため日本に帰国するが、体重が軽すぎたために第二乙種合格となり、徴兵を免れる[1][7]。
1941年5月、アナウンサーとして満洲電信電話株式会社新京中央放送局に入局[8][注釈 2]。当時同局に勤めていた8歳年長の森繁久彌からアナウンス指導を受けた[1]。同年11月には哈爾浜中央放送局に転任[8]。その後ハイラル放送局に転任[8]、1944年に大連の大連中央放送局に転任[3]。1945年、大連で終戦を迎え[8][注釈 3]、そのまま満洲に抑留。放送局閉鎖でアナウンサーの仕事がなくなったため、「放送局のスタジオでこっそりジャズを聴いていた仲間」で結成した「大連放送管弦楽団」で活動。のちにはジャズミュージシャンの川口養之助(ジョージ川口の父)の勧めで、営業を再開した現地のダンスホールで働いた[3]。終戦約1年半後の1947年に引き揚げる[2][8]。
東京へ戻ったのち、日本放送協会(NHK)への入局を望むが、定員超過という事情で叶わず[8]、しばらくは東京・神田小川町で、友人と共同出資して輸入食料品店「ひつじ屋」を開業[8][2]し、進駐軍物資の横流しで生計を立てた[9]。
アナウンサーとして復帰するにあたり、ラジオ東京(のちのTBSラジオ)と京都放送(のちのKBS京都)から誘いを受けていたが、当時開局を控えていた京都放送にチーフアナウンサーとして1951年10月入社。同局ではニュース、スポーツ中継の担当アナウンサーとして活動したほか、翌1952年には民放初の本格的DJ番組とされる『アルファベット・ジャズ』を担当[1][2]。1953年には愛媛県のラジオ南海(RNB)に出向し、第8回国民体育大会(四国国体)中継と、開局間もない期間のアナウンススタッフ養成に携わった。同局の開局第一声及び開局日のニュースも担当している[10]。
1954年7月、ニッポン放送の深夜部門担当の子会社・株式会社深夜放送に入社し、『深夜のDJ』という番組を担当[1]。なお、1954年7月15日のニッポン放送開局第一声「ただいまから開局いたします」は、糸居によるものである。1959年10月からは『オールナイトニッポン』の前身番組『オールナイトジョッキー』を担当[1]。1963年2月の同番組において、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」を日本で最初にオンエアしている[1][2]。
1967年10月、『オールナイトニッポン』が放送を開始し、糸居は月曜日(のちに金曜日や水曜日)を担当(→『糸居五郎のオールナイトニッポン』)。同年、株式会社深夜放送とニッポン放送の合併にともない、ニッポン放送の所属となる[1]。50歳の誕生日を迎えた1971年1月17日午後1時30分より『50時間マラソンジョッキー』を敢行(1月19日午後3時30分ゴールイン)[1]。1972年10月、それまで5年間出演し続けた月曜深夜のオールナイトニッポンから、日曜深夜の『オールナイトニッポン電話リクエスト』(ニッポン放送のみでの放送でネット無し)へ移動。この時期、合わせて音楽番組『ソウル・フリーク』や歌謡番組を担当。しかし、リスナーからの強い要望により、1975年1月に金曜2部(深夜3:00 - 5:00)に移動して平日のオールナイトニッポンに復帰。その間、エフエム東京に出向して「Music Spacial in DAC」という音楽番組を担当していた時期もあった[2]。
1980年6月、ニッポン放送を定年退職。定年記念に公開生放送を行った。定年後も引き続き『オールナイトニッポン』を担当したが、1981年に降板を表明。特別番組となった同年6月30日深夜の最終回の放送は4時間にわたるファンを集めての公開放送となった[2]。
その後もコンスタントにDJや音楽紹介・評論、『イングリッシュ・ジャーナル』においてコラム「ポップスこそわが青春」の連載、東京アナウンスアカデミーで講師を務めるなど活動。既にアナウンサー時代から講師を務めていた東京アナウンスアカデミーではDJや放送などを題材にその歴史や社会的考察など多くのテーマで講義、一度も同じ内容だったことはないという講義を展開するなど[11]、活動を続けていた。1984年7月にニッポン放送の番組に出演したのが、公的な場での最後の出演と言われている[12]。1984年12月28日、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターにて、食道がん[12]により死去。63歳没。妻が「明日も仕事に使おうと思っていたんでしょう」と言っていたように、この時糸居の病床の傍らにはLP盤などのレコードが入ったままの皮とデニム製のバッグが置かれていた[12]。訃報の第一報は『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送中に伝えられた。1985年1月14日、東京都新宿区の太宗寺で行われた葬儀では亀渕昭信が弔辞を読み、「君が踊り僕が歌う時…」の『オールナイトニッポン』のキャッチコピーと共に「Go Go Go & Goes On!」の糸居の決め台詞で送った[13]。奇しくも、同じニッポン放送にゆかりがあり、ラジオパーソナリティの草分けである山谷親平が死去してから1か月後の出来事であった。
糸居が生前収集していた大量のレコードなどの遺品は、東京都内の自宅で妻が保管していたが、2013年5月、転居を期に、北海道新冠郡新冠町のレ・コード館(道の駅サラブレッドロード新冠敷地内)に寄贈された[14]。主な寄贈内容はLPレコード8770枚、EPレコード1955枚、SPレコード22枚、蓄音機、ステレオデッキ、放送を録音したオープンリール、番組に寄せられたリクエストはがき、ファンレター、『オールナイトニッポン』の進行表、生前に受賞した賞の盾など。
月刊ラジオマガジン(モーターマガジン社)にとって、1984年8月9日のインタビューが糸居への生前最後の取材となった。ここで糸居は、自分が過ごしてきたラジオの時代、ラジオ界の現状とこれからのこと等について色々話している。トーク主体の番組パーソナリティが「ディスクジョッキー」を称することについて「ギャグ、駄洒落など喋り専門の人は今後『ディスクジョーク』と呼ぶことを提案したい。今ラジオには“ディスクジョーカー”が多いですね」と語り、「もうラジオ時代のDJは終わったということでしょうね」と、本来のプロのDJが消えていくような当時の現状について寂しさを込めながら話している[12][15]。 「いつかFM局でもDJをやりたい」と語りながら、当時のFM局とAM局の曲紹介の仕方の違いについて以下のように話している。
今のFMは、1920年代のAM頃にやっていたような曲紹介の仕方をしていますね。曲名と紹介の仕方をハッキリと明確にすることがね。AMは曲紹介がスピードアップされてますね。雑にやってしまうというか — 糸居五郎、[12]
本当の意味でのディスクジョッキーの形というものとDJ界の問題点について
その人なりにやればいいことだし、それは決まってないと思う。若いタレントが喋るのも新鮮だし、使う側にとってはギャラが安く済むし、下手なプロを使うよりはいいということなんでしょうね。私が局の立場ならアマチュアを多く使うでしょうね。それが時代の流れでしょうし、今の放送界のあり方という気がしますね。(当時の)ニューヨークなどでは、FM局だけで60局あまり、AM局だけでも50局近く、合わせて100局以上あるので、リスナーは自分の好きな個性あるDJの番組を聴くことが出来るんです。それにくらべて日本のラジオ局の数は少ない。そのためどの時間帯の番組も、既に人気のある人を起用した、いろんな層の人に聴いてもらえるような最大公約数的な番組になっている。そのために段階的な選曲が出来なくなっていて、パーソナリティが専門化していく余地が無くなっている。今こそ放送局のDJを大切にしないといけないと思います。 — 糸居五郎、[15][12]
そして今(当時)のリスナーに向けて、次のように話している。
かつての深夜放送が力(ちから)を持っていたのは、リスナー一人一人が番組を盛り立てていた部分が大きかったように思う。私の力なんか微々たるものです。今のリスナーには喋り手のネームバリューで選んだり、何となくといった惰性で聴くなと言いたい。丹念に良いDJを捜して聴いて欲しいです。リスナーがそういう気持ちなら、特徴あるDJの番組がもっと多くなっていくと思うんですよ。 — 糸居五郎、[12]