隈 研吾(くま けんご、1954年〈昭和29年〉8月8日 - )は、日本の建築家(一級建築士)、デザイナー[1]。株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰。東京大学特別教授。高知県立林業大学校校長。岐阜県立森林文化アカデミー特別招聘教授。一般社団法人日本ウッドデザイン協会会長[2]。北九州市アドバイザー[3]。
神奈川県横浜市出身。1990年代半ば以降(ゆすはら座関連設計以降)、木材を使うなど「和(日本)」をイメージしたデザインを旨としており[4]、「和の大家」とも称される[4]。著名な親族として、妻・篠原聡子(建築家)のほか、遠い親戚の後藤勇吉(航空機パイロット)がいる[5]。
神奈川県横浜市大倉山出身[6]。三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)のサラリーマンであった父親(長崎県大村市出身で東京・日本橋育ち[7] 先祖は大村藩の重臣)が45歳の時の息子で[8][9]、医院を営んでいた母方の祖父が建てた大倉山駅近くの古い家で育つ[8][10]。
初めは猫好きゆえに獣医を志していたが[11]、家屋の修繕をするデザイン好きの父親に付き合ううちに、建築に興味を持つようになる[9]。大田区立田園調布小学校に通っている時、1964年(昭和39年)の開催を控えた東京オリンピックの建築物を目にし、いよいよ本気で建築家を志すこととなった[8][12]。中学受験をして栄光学園中学校・高等学校に進学。高校時代は183cmの長身を生かしてバスケットボール部でセンターを守っていた[13]。高校卒業後は東京大学理科一類に進学[14]。
東京大学工学部建築学科を卒業後、東京大学大学院工学系研究科建築意匠専攻修士課程を修了(1979年[15])。在学中は、芦原義信、槇文彦、内田祥哉、原広司らに師事した。同級生には、竹山聖(京都大学名誉教授)、小林克弘(首都大学東京教授)や大江匡(建築家)、村田誉之(大成建設)がいた[16]。
大学院で修士論文を書いていた時期に、同級生の多くは当時話題の新鋭・安藤忠雄に憧れていたが、隈はその逆を行くことを選択し、アトリエ系事務所ではなく、社会に揉まれるためにと大手設計事務所の日本設計に就職した[17]。その後、戸田建設設計部[6]、米国コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員(1985-1986年〈昭和60~61年〉)を経て、1990年(平成2年)に隈研吾建築都市設計事務所を設立する。
法政大学工学部建設工学科非常勤講師、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授(1998年〈平成10年〉4月から1999年〈平成11年〉3月)、早稲田バウハウス・スクール講師(1999年〈平成11年〉から2002年〈平成14年〉春・夏)、慶應義塾大学理工学部客員教授(2002年〈平成14年〉4月から2007年〈平成19年〉3月)慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授(2007年〈平成19年〉から2009年〈平成21年〉3月)、米国イリノイ大学建築学科客員教授(2007年〈平成19年〉から2008年〈平成20年〉)を経て、2009年(平成21年)4月より東京大学工学部建築学科教授に就任。2007年(平成19年)3月に博士論文『建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察』を慶應義塾大学に提出し、博士の学位を取得。
2008年(平成20年)には、フランスの首都パリに Kuma & Associates Europe を設立。2018年(平成30年)には、高知県立林業大学校の初代校長に決まる[18]。2020年(令和2年)4月に東京大学特別教授。同年4月1日に岡山大学工学部特別招聘教授に就任[19]。2021年12月、一般社団法人日本ウッドデザイン協会会長に就任[2]。
2022年2月16日、隈研吾建築都市設計事務所が都道府県と結ぶ初の協定として、和歌山県と地方創生で包括連携協定を結んだ[20][21]。
2023年2月に文化庁が設置した「建築文化に関する検討会議」で女優の鈴木京香と並ぶ委員となる[22]。
初期はドーリック南青山ビルやM2ビルなどポストモダンに一部脱構築主義要素を加えた建物を発表していたが、高知県高岡郡檮原町の「ゆすはら座」存続への関わりをきっかけとして[23]、木材などの自然素材を生かした建築や、縦格子を多用したデザインが特徴的な作品を多く手がけるようになる。
木材を多用するようになったのは、阪神・淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)を見て、コンクリートなどの人工物で自然に立ち向かおうとする20世紀の思想が破綻したと感じたためであると回顧している。森林を手入れして生み出す木材は、人間と地球をつなぎ合わせる存在と位置付けている。また大型の公共建築物が「税金の無駄遣い」「環境破壊」と批判されるようになった時代に育ったうえ、経済成長の鈍化と高齢化が進んでいる日本の現状を見据え、周囲に調和した「負ける建築」や、「コンクリートと鉄の時代」を「木の時代」に変えることを志向している[24]。
近年[いつ?]は活躍の場を海外にも広げ、国際コンペでの受賞も着実に増やしており、世界的に注目される日本人建築家の一人として認識されつつある。また、設計のほか、ホテルやマンションの監修、室内演出や家具[25]、食器、スニーカーなどのデザイン[1] 、ジャケット(企業との共同作成)も手掛ける。
2010年代には、自らのデザインポイントの一つとして、ストラクチャーを際立たせ過ぎないための「粒感」を挙げている[26]。
2005年日本国際博覧会(愛知万博)では、会場計画プロジェクトチームに所属して会場とパビリオンの設計に携わっていたが、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。
中華人民共和国北京市郊外のグレート(バンブー)ウォールは2008年北京オリンピックのCMにも使われた[27]。韓国では、知韓派の建築家として活動している[28]。
2018年(平成30年)には、約30年間の活動を紹介する個展「くまのもの」(会期:3月3日~5月6日)を東京駅構内の東京ステーションギャラリーで開催し[29]、これまで使ってきた10種類の素材(竹、木、紙、土、石、金属、ガラス、瓦、樹脂、膜・繊維)ごとに合計75件のプロジェクトの模型・資料などを展示した[30]。2020年11月から「隈研吾展」が高知県立美術館、長崎県美術館、東京国立近代美術館で巡回開催されている[31]。「新しい公共性をつくるためのネコの5原則」をテーマに掲げた。これは、新型コロナウイルス感染症蔓延下で外国訪問などができない隈が自宅のある東京の神楽坂界隈を歩き回り、細い道をネコのように巡ったことにより街を再発見としたという視点に基づいている[32]。2021年7月からは、台湾台北市にて個展「場域・啓発―隈研吾展」を開催[33]。
現在は早稲田大学特命教授であり、兼ねてより親交の深い村上春樹の要請により、早稲田大学国際文学館、通称「村上春樹ライブラリー」(2021年(令和3年)10月1日開館)の設計を担当した[34][35]。
デザイナーの原研哉は、隈について次のように評した。
隈研吾は頭脳派の建築家である。しかし世の頭脳派と呼ばれる建築家がもっぱら自身の建築の解説に頭脳を使っているのとは一線を画する。どこにどんな頭脳を使っているのかというと、建築という名目で立派すぎる造形を世界に示すことを「恥ずかしい」と感じ、そういう局面に良質のデリカシーを持ち込むことに対して繊細で緻密な頭脳を使っている。つまり、モニュメンタルな建造物が権威を発生させてしまうという宿命や、個性的・耽美的な造形を建築を通じて実現したいという欲望を、どう制御・抑制するかという点が、まさに今日の建築の質をはかるポイントであると考え、その点に非常に高い洗練を生み出そうとしている建築家なのである。その制御と抑制の形は一様ではなく、あるときは繊細さをわざと裏返しにした奇抜なオブジェクトを示してみたり、あるときは存在を軽減するために建築を透過させてみたり、またあるときは建築の姿が見えないように設計してみたりする。[36]
一方で、木材を雨ざらしに多用した建築は腐りやすく、2020年代に入ってから竣工から20年を過ぎた作品で経年変化によるトラブルが相次ぎ、実際に改修に数億円を要した実例[37]もあるほか、高知県の雲の上のホテルのように劣化が酷く、止むなく解体後再開の目処が立たないような施設もあり、長期的メンテナンスを考慮していないという批判が噴出し始め、これを建築家の森山高至は「クマ被害」「隈タイマー」などと評した[38][39]。
2025年2月には、隈設計による2018年竣工の群馬県富岡市庁舎の軒裏に、完成後わずか6年で金具や鉄部にさびが発生し、塗装の剥落が確認された。軒裏に使用された合板に注入した不燃薬剤が塗料を溶解させ、鉄部を腐食させたと考えられる。修繕工事にかかる費用は隈主宰の設計事務所と施工業者が負担することとなった[40][41]。隈自身は、腐朽の原因を「最近の気候変動が原因」と説明しているという[38]。
問題の起きた馬頭広重美術館は、隈建築の特徴である木製ルーバーが初めて高い評価を受けた建築である。1990年代は建築家の間でも評価が低かった隈だが、広重の描く雨の線が細く美しいことに着想を得て、屋根まですべてを細い木材で覆った同美術館の建築が評判を呼び、この成功を機に「木の匠」として持て囃されるようになる。しかし、建築関係者の間では、今回の騒動が起きる前からその「木を使うデザイン」を多用する隈に対する疑念の声はあった。建築家で棟梁でもある宇野友明は、「隈のデザインは木造建築というよりも、木を表面に貼る『木のデコレーション』のような印象だ。なかには木ですらなく、アルミに木目をプリントしたものもある。『木の匠』と評されていることには疑問を抱いている。木造建築は『手入れ』という、維持管理を計画的に行う文化があるが、これがクライアントに十分説明がなされていないのではないか。馬頭広重美術館の木の使い方は特に深刻な事態だが、今後も同じような問題は起きるだろう。彼の影響力を考えると、今回の件で木造建築にネガティブな印象が広まったことは残念だ」と述べた[42]。同美術館では24年後に3億円に上る大規模改修が必要となり、見た目がボロボロで地元の人は寄りつかなくなった。直接風雨にさらされる個所には、通常は油分の多い雨にも強い木材を使用すべきなのにスギを使った点が問題で、安価な木材を使用した点と、建築家としてここまでの状態にならないように綿密に設計し、自治体にメンテナンスを周知徹底させることを怠ったなどと指摘された[43]。
2000年の那須歴史探訪館でも屋根に並べ敷かれた丸太にはカビが生え、部分的に腐朽が進んでおり、雨漏りが確認されている[42]。
前述の森山は、日本は高温多湿の国であり、日本建築では古来、雨がかからないように、あるいは湿気が抜けるような工夫を凝らし、神社や寺を造ってきた。白木そのものに問題があるのではなく、伝統的な建築の知恵を完全無視し、モダン建築の石やガラス、鉄で作るものを木で作ってしまった。だからこのような問題が起きた。木が古くなってもそれが風格に変わるような造りやデザインとしてきた。京都の清水寺も何百年たっているが今でも素晴らしいという印象を与え続けている。隈建築では古びさせ方がおかしい。適材適所を無視し安く湿気に弱い杉材を雨にかかるような場所に使った点に問題があったなどと批判した[38]。
隈が手掛けた建築物は国内だけで200を超す(2024年9月現在)が、隈に仕事が舞い込むようになった背景には、「デザイン性の高さ」とは別の要素として、国が国産材料の使用を推進しており、公共施設には『地場産建材』の使用が求められるようになり、その需要に応えたのが大きいが、隈は仕事を決して断らないスタンスを維持しており、安い予算でも仕事を受ける。通常、建築家が個性を演出するには莫大な時間や熱量が必要であり、大量の依頼は捌けない。このため、隈が編み出した方法が木製ルーバー(格子)で、これを建物に施すことで『隈建築』とわかるように演出したものの、一部ではこれが『クマちゃんシール』と揶揄された。また、隈が東京大学の内田祥哉研究室出身だが、内田研は建築界の頂点といわれるほど権威のある研究室であり、多くのゼネコンのトップが内田研の出身であるため、そのコネや人脈を利用して量産される作品で、将来的に施主らに負担を強いるのは、世界的建築家に相応しくないとの批判が出た[42]。
※太字は、当人もしくは当人の建築設計事務所による著述があることを示す。
手掛けた建築作品を、竣工もしくは納品した時期の古い順に記載する(内装など、厳密には「建築」ではない作品も含む)。ただし、月日の情報を欠く物件が多く、同じ年に完成した物件の記載順は甚だ不正確なものにならざるを得ない。月日の情報を確認できるものを先に記す。作品(物件)の名義も、なるべく正確性を期すが、一次資料の時点で不正確なものが珍しくない。また、依頼者と設計者で用いる名称が異なる場合は、前者を主、後者を副とする。
進行中の主な建築プロジェクトを記載する。
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