養老 孟司(ようろう たけし[1]、1937年11月11日 - )は、日本の医師、医学者、解剖学者[1]。東京大学名誉教授。医学博士。ニュース時事能力検定協会名誉会長。神奈川県鎌倉市出身[2]。
2003年に出版された『バカの壁』は450万部を記録し、第二次世界大戦後の日本における歴代ベストセラー5位となった[3]。
1937年(昭和12年)、小児科医の養老静江(1899〜1995年)と養老文雄(三菱商事勤務)の次男として神奈川県鎌倉市で生まれる。4歳の時に父親を結核で亡くし、その後は鎌倉で小児科「大塚医院」を営む母・静江の腕一つで育てられる。
私立ハリス幼稚園(鎌倉市)を卒園し[4]、鎌倉市立御成小学校[5]、栄光学園中学校・高等学校[6]、東京大学医学部を卒業後、東京大学医学部附属病院での1年間のインターン(研修医)を務める。しかし、そこで自分が医者に向いていないことを悟った。手術の際に患者の血液型を間違える医療事故を起こしかけ、このままでは注射の薬剤まで間違えるのではないかと思い、自分のミスは自分でなく患者に死をもたらすことに気づき完全に自信を失った[7]。このような医療事故を3回経験したことから、患者と接する医者の道を諦めた[7]。その後、精神科医を目指そうとしたが抽選に外れ、結果的に解剖学の道を志した[7][8]。「医学においては死んだ人間を扱う解剖学が最も確実なものだ」と考えたのが理由だとしている[8]。1967年(昭和42年)3月に東京大学大学院医学系研究科第一基礎医学専攻博士課程を修了し、医学博士の学位を取得[9]。学位論文の題は「ウロコ形成におけるニワトリ胎児表皮の増殖と分化」[10]。
東京大学医学部助手・助教授を経て、1981年(昭和56年)に解剖学第二講座教授となる。この間、1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけてオーストラリアのメルボルン大学に留学した。
1989年から1993年(平成5年)は東京大学総合研究資料館館長を、1991年(平成3年)から1995年(平成7年)は東京大学出版会理事長を歴任した。
1995年(平成7年)春、東京大学を57歳で早期退官。
以後は短期で北里大学教授、大正大学客員教授を務めた。
各地で講演を行いつつ、代々木ゼミナール顧問、日本ニュース時事能力検定協会名誉会長、ソニー教育財団理事、21世紀高野山医療フォーラム理事[11]を務めている。また、2006年の開館時から2017年3月まで京都国際マンガミュージアム初代館長[12]を務め、2017年4月からは名誉館長に就任[13]。その他には2017年時点で、小林秀雄賞、毎日出版文化賞、山本七平賞選考委員を務めている[14][15]。2018年時点で、NPO法人「日本に健全な森をつくり直す委員会」委員長[16]。2020年9月から、ミチコーポレーション・ぞうさん出版事業部の顧問に就任。
政府関係では農林水産省食料・農業・農村政策審議会委員を務めた[9]。福島県須賀川市のムシテックワールド館長、日本ゲーム大賞選考委員会委員長[17]。NPO法人「ひとと動物のかかわり研究会」理事長[18]。
2020年6月26日、体調不良のため病院で検査を受けたところ心筋梗塞と診断された。集中治療室で2日間の治療を行い、2週間の入院を余儀なくされた。主治医によるといつ死んでもおかしくない状態であった[19]。東京大学医学部附属病院を受診するのは26年ぶりであったが、70キログラム以上あった体重が1年で15キログラム減り、6月に入り体調が悪く、特に受診直前3日はやる気が出ず寝てばかりという状態に「身体の声」を尊重して健診嫌いを押して、教え子である中川恵一の診察や心電図検査を受けた。病院の待合室で妻や秘書と「天ぷらでも食べて帰ろうか」と話していたら「ここを動かないでください」と言われ、心臓カテーテル検査から2週間の入院となった[1]。