内井 昭蔵(うちい しょうぞう、1933年2月20日 - 2002年8月3日)は、日本の建築家。博士(工学)(京都大学・論文博士・1992年)(学位論文「住宅の集合形態に関する実践的研究」)。京都大学教授・滋賀県立大学教授を歴任。戦後の日本建築史を代表する建築家の一人[1]。勲三等旭日章受章。東京都出身。
1933年、東京市神田区に生まれる。祖父の河村伊蔵と父の内井進は建築家であり、進は金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わった[2][3]。祖父の河村伊蔵は司祭でもあったため幼少期から教会で過ごすことが多く、「ロシア正教会の持つ空間と祈りと形の関係が、幼少期にすでに強く印象づけられていたように思う」と述べ、こうした経験はモダニズム全盛期の学生時代を経た後に手がけた日蓮宗の寺院やYMCA野辺山高原センターなどにおける合理性のみの形態とは異なるアプローチ、さらには親しみやすさを旨とした公共建築への設計思想へとつながっていったと述べている[4]。
旧制埼玉県立熊谷中学校を経て[5]、1956年に早稲田大学第一理工学部建築学科卒業、1958年に早稲田大学大学院修士課程修了、菊竹清訓建築設計事務所入所。1967年に内井昭蔵建築設計事務所を設立し、1993年までこれを主宰。この間に東京YMCAデザイン研究所、東京大学工学部建築学科、早稲田大学理工学部建築学科でそれぞれ講師を務めた。1972年から1974年まで日本建築家協会理事、1979年から1981年まで同協会副会長。1981年アメリカ建築家協会名誉会員。1988年から1990年まで新日本建築家協会副会長・広報委員長。1993年から1996年まで京都大学工学部建築学教室教授、1996年から2002年まで滋賀県立大学環境科学部教授、1999年から2002年まで同大学大学院環境科学研究科教授を歴任。2002年8月3日、心不全のため東京都大田区の病院で永眠[6][7][8]。
1992年京都大学より博士(工学)の学位を取得、学位論文の題は「住宅の集合形態に関する実践的研究」[9]。
昭蔵自身はガウリイルとの聖名を持つ正教徒であり[3]、著書『ロシアビザンチン 黄金の環を訪ねて』は建築家と正教徒と双方の視点で黄金の環・キエフ・サンクトペテルブルクの正教会聖堂を中心にロシア建築を綴ったものである。永眠の直前にはニコライ堂のイコノスタスにイコンを献納しており、埋葬式はニコライ堂で行われた[2]。
サンパウロビエンナーレ国際設計競技一位入賞(1957年)・勲三等旭日章・日本建築学会賞・BCS賞・レイノルズ賞 (A.I.A)・毎日芸術賞・日本芸術院賞・京都市文化功労賞等、受賞多数[6][7]。
妻は文化学園大学名誉教授・内井乃生(うちい のぶ 1933 - 、インテリアデザイン)。長男は内井建築設計事務所長・内井理一郎 (1962 - )。