井上 八千代(いのうえ やちよ)は、京舞井上流家元の名跡である。
本名・井上サト(1767年(旧暦:明和4年) − 1855年1月22日(旧暦:安政元年12月5日))[1]
初世の経歴について裏付ける史料は数点しか見付かっておらず、その史料からは、過去帳で命日と享年が、その享年から出生年を類推でき、また、一定の知名度を持つ舞踊家であったことが確認できる程度である[2]。よって、後述する経歴については、伝承の域を出ない[2]。
京都の出身[1]。井上敬助[注 1]の妹。幼少より舞を習い15歳で町師匠の代稽古、満16歳より満30歳まで[注 2]近衛家の老女南大路鶴江[注 3]のもとに御殿つとめ、この間に御所風の上品な立居振舞、白拍子舞を自分のものとした[5]。1797年(旧暦:寛政9年)の宿下りののち、井上流を創始[6]。近衛家より「井菱」の文様を賜り家紋とし、主人鶴江の「玉椿の八千代にかけてそなたを忘れぬ」という言葉から八千代を名のる[5]。一旦、錦小路の魚問屋に嫁すが舞と両立できず円満離婚して舞に専心、禁裡の公家・女官や京都所司代の後援を得る[5][6]。のち島原の廓に舞師匠として招聰される[5]。晩年は、八千代の名を姪のアヤに譲り、自身は剃髪して玉蓮を名乗った。享年88歳[1]。
本名・井上アヤ(1795年(旧暦:寛政7年)[注 4] - 1868年3月24日(旧暦:慶応4年3月1日))[7]
二世の経歴についても裏付ける史料は少ないが、それらの史料から、著名な舞踊家であったこと、初世と共に今日まで踊り継がれる「伝承曲」や「本行舞[注 5]」を数多く創作していること、祇園町に少なからずの、さらには先斗町にも門弟がいたこと、晩年に流派形成の端緒となる名取式を挙行したことなどがわかっている[9]。
京都の出身。初世の兄の井上敬助の娘で、後に養子[6]。幼時より叔母の初世とともに舞一筋に生きて生涯独身[6]。1838年(旧暦:天保9年)頃、初世の剃髪後に二世を襲名した[1]。祇園町に稽古場を移して井上流の基礎を築く[5]。金剛流の野村三次郎に私淑して能の型を囁取、人形浄瑠璃の人とも交流あり、人形の動きを舞にとり入れ、さらに歌舞伎からも摂取し、井上流の芸風を確立した[1][5]。享年74歳[注 6][7]。
本名・片山春子(前名・吉住春子,井上春、1838年2月24日(旧暦:天保9年2月1日) - 1938年(昭和13年)9月7日、旧姓:吉住)[1]
初世及び二世の墓所である超勝寺には、「三世井上八千代之墓・大正七年一月三十日往生」と刻まれた墓があるが、建立の経緯や被葬者について明らかになっていない[10]。
京都・堀川二条で生まれる[11]。大坂住吉神社の社家の家筋で京都に移り住んだ吉住彦兵衛の次女[6][11]。初世、二世に仕込まれた内弟子で、二世歿後暫くして家元を継ぎ、祇園の舞の師匠となる[5]。1872年(旧暦:明治5年)、満34歳のとき、一力亭の杉浦治郎右衞門に依頼され第1回京都博覧会の附博覧(余興)として開催された「都をどり[注 7]」に協力し、振付ならびに指導を担当、これまで座敷舞であった京舞を舞台にのせた[13][14]。また、 祇園町(祇園甲部)と井上流の関係を深めて流派を今日の興隆に導いた[15]。この時代、地唄・義太夫にとどまらず, 常磐津・清元なども幅広くとり入れ作舞する[5]。シテ方観世流能楽師・六世片山九郎右衛門(晋三)との結婚により、京・観世流の影響も大きい[5][16]。四世井上八千代、松本佐多をはじめ多くの弟子を育てている[17]。なお「井上八千代」を名乗るのは96歳の時で、それまでは片山春子で通していた[注 8][16]。1937年(昭和12年)、百寿の祝賀会で創作舞を披露し、翌1938年(昭和13年)の春、満100歳となっても「都をどり」の采配を振るい、最晩年まで舞にかける情熱は衰えを見せなかった[20]。同年6月頃から衰えが顕著となり、同年9月7日、老衰のため京都市東山区の自宅で死去した[21]。
本名・片山愛子(前名・木田愛子,岡本愛子,岡本定子,井上愛子、1905年(明治38年)5月14日 - 2004年(平成16年)3月19日)
1905年(明治38年)5月、京都市建仁寺町にて生まれる(父:北井清治郎、母:木田いと)[22]。二歳で、当時縄手通車道西入ルにあったお茶屋兼置屋を経営する岡本マスの養女となる[23]。その後、芸妓松本佐多(本当の芸名は定、本名は愛子)の「妹」として一字を貰い、岡本定子の名とする[24]。満9歳で舞妓店出し[24]。大正天皇御大典奉祝「第47回都をどり・都名所」で都をどり初出演[25]。松本佐多が強く勧め、満12歳で京舞井上流三世家元片山春子の内弟子となる[24]。この時、家元は満79歳。岡本家から家元が「旦那」として彼女を引くこととなり、引き祝い金は百円であった[24]。その年の温習会に「屠蘇万歳」を舞ったのが舞妓最後の舞台となり、以降、都をどり・温習会には出演していない[25]。1947年(昭和22年)に四世家元を継承、井上八千代に襲名した[26]。1952年(昭和27年)に日本芸術院賞等を受賞[26]。1955年(昭和30年)、人間国宝の制度ができてから最初の認定者の一人に選ばれた[27]。1957年(昭和32年)には女性舞踊家として初めて日本芸術院会員となる[27]。1975年(昭和50年)に文化功労者として顕彰され、1976年(昭和51年)に勲三等宝冠章、1990年(平成2年)に文化勲章を受章した[26]。後年隠居して初代井上愛子を名乗る[27]。行年98歳[28]。夫は三世家元の孫で能楽師の八世片山九郎右衛門。子もいずれも能楽師で九世片山九郎右衛門、片山慶次郎、杉浦元三郎。
本名・観世三千子(1956年(昭和31年)11月28日 - 、旧姓:片山)[38][39]
1956年(昭和31年)、井上流四世家元井上八千代の長男で後にシテ方観世流職分家九世当主片山九郎右衛門となる能楽師の片山博太郎の長女として京都に生まれる[40][41]。祖母で人間国宝の四世井上八千代に師事し、2000年(平成12年)に井上流家元を継承、井上八千代を襲名した[38][39]。卓越した技量で積極的な舞台活動を展開するとともに、日本舞踊協会の常任理事なども務め、後進の育成に寄与している[38]。2015年(平成17年)に、人間国宝に認定される[注 9][42]。日本芸術院会員[43]。夫は能楽師の九世観世銕之丞[42]。弟も能楽師の十世片山九郎右衛門[42]。子に井上流名取の井上安寿子、能楽師の観世淳夫[44][45]。
井上流