宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。本名は宮肇(はじめ)。
長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。
一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
妻は同じく歌人の宮英子(旧名、瀧口英子)。長女の片柳草生は編集者・文筆家。叔父は画家の宮芳平[1]。
新潟県北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)に書店の長男として生まれる。父は宮保治、俳号を木語といい俳句を詠んだ。1919年堀之内尋常高等小学校に入学。1925年旧制長岡中学に入学し、在学中から相馬御風主宰の歌誌「木蔭歌集」に投稿を行っていた。1930年に卒業後は家業を手伝う。
1932年に上京し中野の朝日新聞販売店に住み込みで働き、翌年北原白秋を訪ね、その門下生および秘書となり、晩年眼疾を患っていた白秋の口述筆記などを手伝う。1934年、白秋主宰の「多磨」創刊に参加。実家の没落により一家で神奈川県横浜市に移り、1939年富士製鋼所(後に日本製鐵との合併を経て富士製鐵)入社。同年、兵役に応召し、新潟県高田市の歩兵第30連隊に入隊。中国山西省各地で足掛け5年兵士として日中戦争を戦う。最終階級は伍長。出征中に第1回多磨賞、多磨力作賞を受賞するが、授賞式には出られず父が代理出席した。1944年に瀧口英子(宮英子)と結婚するが、1945年6月に再招集され、茨城の部隊で終戦を迎えた。
1946年処女歌集『群鶏』を刊行。1947年、加藤克巳、近藤芳美らと「新歌人集団」を結成。1949年に発表した第三歌集『山西省』は、戦闘体験を写実的に描写し、戦争文学の名作として高く評価された。
「戦後短歌のリーダー」と称され[2]、短歌結社を超えた活動を展開した。戦後間もなくに発表したエッセイ「孤独派宣言」にて、戦後短歌の出発点として個人主義を強く打ち出した。1950年には「泥の会」の呼びかけ人となり、岡部桂一郎や山崎方代、葛原繁など結社に依らない歌人たちの活動を主導した。1952年の「多磨」解散後、1953年にはコスモス短歌会の代表として、歌誌「コスモス」を創刊する。1960年、富士製鐵を依願退職。
生涯で13冊の歌集を刊行し、宮中歌会始の他、朝日新聞、日本経済新聞、新潟日報、婦人公論、オール読物、婦人之友など多数の新聞・雑誌歌壇の選者をする。宮中歌会始選者を本名「宮肇」で[3]1967年、68年、71年、72年、74年、75年、76年、78年と八度務めている[4]。1979年、堀之内町名誉町民の称号を贈られる。1983年、日本芸術院会員[5]。
一方で病(糖尿病や関節リウマチ、脳梗塞等。召集された時も疾患により一時入院していて、また晩年は、転倒して左大腿骨頸部骨折で手術を受けている)を患い、入退院を繰り返しながら、東京都三鷹市の自宅で急性心不全のため74歳の生涯を閉じる。
戦後短歌の指導者としては珍しく、学校に本拠を置かず在野を貫いた[6]。門下には安立スハル、島田修二、奥村晃作、高野公彦、桑原正紀、小島ゆかり、大松達知、河野裕子などがいる。
没後の1992年、故郷堀之内町に宮柊二記念館が開館。