相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)[1]は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者[2]、詩人、歌人、評論家。本名は昌治[2](しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身[3]。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業[3]。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる[4]。
1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる[4]。相馬徳治郎の長男[3]。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した[4]。1905年に第一歌集『睡蓮』を出版するが、同時代の窪田空穂や与謝野晶子に比べると歌人としては地味であった。
1906年に早稲田大学英文科を卒業[3]。島村抱月のもとで、当時復刊された雑誌「早稲田文学」の編集に参加。また野口雨情・三木露風らとともに「早稲田詩社」を設立し、口語自由詩運動を進めた。1911年には早稲田大学講師となる。25歳の時に母校校歌「都の西北」を作った[3]。
その後1916年に内面を告白した『還元録』を刊行し、故郷糸魚川に隠棲する[4]。帰郷後は主として良寛の研究に携わったほか、童話・童謡も発表した[4]。
地元に伝わる奴奈川姫伝説を元に、糸魚川でヒスイ(翡翠)が産出するとの推測を示したことが、1935年(昭和10年)に同地でのヒスイの発見につながった。
1950年5月7日に脳溢血で倒れ、翌8日に糸魚川市の自宅で死去[4]。享年68(満66歳)。戒名は大空院文誉白雲御風居士[5]。
没後の1952年12月10日、居宅が新潟県の史跡となった[4]。
趣味は書画、骨董、散歩、園芸[2]。住所は新潟県西頸城郡糸魚川町大字大町[3]。
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