吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月19日 - 1974年(昭和49年)3月24日)は、昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。 東京生まれ。東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)卒業。母校で教壇に立ち、多くの後進を育てた。
1894年、東京日本橋に太田信義(太田胃散の創業者)とトウ(銅)の間の5男第8子として生まれた。父が58歳のときの子だからということで五十八と命名された。その後4歳の時に父を、中学生の時に母を亡くしたため、長兄の妻の下で育てられた。1909年、母方の姓が絶えるのを防ぐため養子として吉田姓を継いだ。
常盤尋常小学校、東京開成中学校(現・開成学園)を卒業。中学在学中の同級生、久保寺保久(のち教育者)の強い勧めで建築を志し、1915年、東京美術学校図案科第2部に入学し、岡田信一郎に学ぶ。大学には八年在籍し、在学中から住宅や店舗の設計を手がけた。1923年に卒業すると、麻布の自宅に「吉田建築事務所」を開設した。
1925年、学生時代から心惹かれていたドイツ、オランダのモダニズム建築を見るため、兄の援助を受け、ヨーロッパ、アメリカを廻った。この旅行留学でモダニズム建築よりも、ヨーロッパ各地に残るルネサンス建築、ゴシック建築といった古典建築の方に強い感銘を受けた。これが吉田の建築観を大きく変えることになる。吉田はヨーロッパの古典建築について、その伝統や民族性が前提にあるからこそ出来得たものであり、日本人である自らには到底出来得るものではないと考えた。そのことから、日本人である自らにしか作り得ない建築とは何かを考えるうち、当時は過去の建築様式でしかなかった数寄屋造の近代化に着目した。自らの建築の方向性を定めた吉田は中断していた設計業務を再開すると、縁故関係の依頼による仕事などをこなしつつ、日本の伝統的建築について勉強を始める。
1930年代半ばから吉田独自に近代化した数寄屋造の住宅を発表し始めた(1930年代の建築を参照)。吉田の手法の主なものとして、大壁造の採用、吊束と欄間の省略、荒組障子と横棧の障子の採用、押込戸の発明、リシン吹付壁、アルミパイプの下地窓等の工業生産材料の採用、座式と椅子式生活のレベル差による融合などが挙げられる。
奇しくも同時期に来日滞在したドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、桂離宮等の数寄屋造の中に、モダニズム建築に通じる近代性があることを評価した。これにより、日本の建築界においても数寄屋建築が注目され始め、その流れで吉田の数寄屋建築も近代数寄屋建築と評され、広く注目を集めた。1937年結婚。
1940年代以後も作品毎に数寄屋造の近代化の手法を発展させ、仕事量も比例し増えていった。1941年、母校の東京美術学校の講師に就任。1944年、東京に戦火が及ぶことを恐れ、神奈川県二宮町に疎開し、自邸を建てる。
戦後は住宅以外の劇場、美術館、寺院など、公共建築・大規模建造物の依頼設計が多くなり、自身の手法をさらに進展させた。1946年から1961年まで東京美術学校教授(1949年より東京芸術大学)を務めた。
1964年秋に文化勲章を受章(建築家では伊東忠太に次ぎ2人目)。1963年から68年まで皇居新宮殿の造営顧問を務めた。
1974年に結腸がんにより死去。享年79。ワシントンの日本大使公邸が遺作となった。没後の1976年より、功績を記念し吉田五十八賞が設けられた。墓所は多磨霊園。