松島町(まつしままち)は、東北地方の宮城県の沿岸地域中部に所在する町である。太平洋の松島湾に面する地域で、日本三景の一つに数えられる松島として広く知られている。七ヶ浜町および利府町と共に宮城郡の一部である。
地理
宮城県中部に位置し、奥羽山脈から太平洋にまで至る舌状台地である松島丘陵が海に没する松島湾に面してある。松島丘陵、および、松島湾の多島海によって成る景観は、風光明媚として古くから知られており、古代以来、歌枕として、そして近世中期以降、とりわけ近現代では観光地として旅行者を引き寄せている。
- 山地(標高100m以上)
- 段山(だんやま。標高178.0mで、松島町内の最高峰)
- 姉取山(あねとりやま。標高138.2m)
- 富山(とみやま。標高124.0m。松島町と東松島市の市町境)
- 白坂山(しらさかやま。標高122.2m)
- 鷹場山(たかばやま。標高115.0m。松島町・大郷町の町境)
- 尾鹿ノ森山(おじかのもりやま。標高108.9m)
- 鷲尾山(わしおやま。標高約100m)
- 湾・海岸
隣接する市町村
- cf. 宮城県の市町村全図 :≪外部リンク≫ “宮城県地域マップ”. (公式ウェブサイト). 宮城県. 2022年1月15日閲覧。
人口
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松島町と全国の年齢別人口分布(2005年)
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松島町の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 松島町 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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松島町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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16,004人
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1975年(昭和50年)
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16,568人
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1980年(昭和55年)
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17,246人
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1985年(昭和60年)
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17,568人
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1990年(平成2年)
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17,431人
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1995年(平成7年)
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17,344人
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2000年(平成12年)
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17,059人
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2005年(平成17年)
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16,193人
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2010年(平成22年)
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15,085人
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2015年(平成27年)
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14,421人
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2020年(令和2年)
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13,323人
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総務省統計局 国勢調査より
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歴史
東日本大震災
2011年(平成23年)3月11日、マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、松島町は震度6弱(観測地点:松島町高城)を記録した[4]。cf. 東北地方太平洋沖地震の前震・本震・余震の記録#本震。さらにこの地震が引き起こした大津波は東北地方の太平洋沿岸部全域に未曾有の被害をもたらしたが、松島一帯は遠浅の多島海という松島湾の地勢が津波の威力を減衰させたと見られ、周辺地域との比較の上では軽微と言える被害に留まった[5][6]。ただし、あくまでも他地域の被害状況が激甚であるために言われているのであって、一件の災害として小さいわけではない。犠牲者を含む被災者、養殖施設・史跡・観光施設・船舶などの破壊・流失・浸水、自然地形の崩壊などといった被害が、島嶼部と沿岸部にあった[6][5][7][8]。cf. 東日本大震災。4月18日、被害の大きかったベルギーオルゲールミュージアムが復旧再興を断念し、閉館を発表した(2016年に「ザ・ミュージアムMATSUSHIMA」として再開館)。4月21日にこの時点で死者2人、行方不明者7人、避難者270人(東松島市からの避難者160人を含む)。
行政区域の変遷(市町村制施行以後)
行政
姉妹都市・提携都市
- 日本国内
- 日本国外
経済
産業
観光と水産業によって立つ町で、特にカキ(牡蠣)は名産とされる。
- 産業人口(平成22年国勢調査)
- 第一次産業 :385人
- 第二次産業 :1,364人
- 第三次産業 :5,093人
金融機関
郵便局
- 松島郵便局(集配局)
- 松島海岸郵便局
- 初原郵便局
- 品井沼駅前郵便局
- 富山簡易郵便局
- 竹谷簡易郵便局
- 愛宕簡易郵便局
教育
松島町立松島第三小学校および第四小学校は、第二小学校に統廃合となった。小学校の再編成に伴い、幼稚園も統廃合となっている。第二小学校と第五小学校では児童数の低下が顕著になってきており、両小学校は第一小学校の学区の児童館を共同利用している。[要出典]
交通
鉄道路線
松島海岸駅、松島駅、高城町駅が業務委託駅(JR東日本東北総合サービスへ委託)、品井沼駅が簡易委託駅(町の関連会社である品井沼ステーションサービスへ委託)、愛宕駅・手樽駅・陸前富山駅が無人駅である。
バス
道路
津波に備え、歩道橋を待避所として使用するために、町内随所に歩道橋までの距離を表す標識がある。
港湾
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
関係する著名人
出身者
観光親善大使経験者
脚注
注釈
- ^ ただし、瑞巌寺が現在ある地域には当時、製塩炉が置かれていたことが判明しており、延福寺の所在地は不明。
- ^ 現代語訳 「松島の雄島の磯で漁をする人の袖くらいだろう、(悲恋に涙する私のこの)袖のように濡れているのは」
- ^ 現代語訳 「【源重之の歌への返しとして】(私のほうこそ)貴方にお見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえ、波をかぶって濡れに濡れても色までは変わらないというのに、(私の涙は流しすぎて血の涙となってしまっているので、それを拭う袖の色が変わってしまいました)」
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
松島町に関連するカテゴリがあります。
外部リンク