橋本 朝秀(はしもと ちょうしゅう、1899年(明治32年)8月26日[3][2][1] - 1960年(昭和35年)1月31日[3][2][1])は、日本の彫刻家[3]。福島県安達郡二本松町(現・二本松市)出身[1]。本名は秀次[2][1]。
人物
戦後に山崎朝雲門下の逸材として頭角を現した[3]。また人格の誠実さ、円満さと制作に関する一途さ、精進への努力に関しては友人たちの誰しもが敬服していた[3]。
木彫彫刻界の有力者として活躍し[3]、伝統木彫を基盤に仏教彫刻に関する造詣を深め自作に活かした[3]。
来歴
1919年(大正8年)上京し山崎朝雲の元で1928年(昭和3年)まで木彫を学ぶ[3][1]。また同時期に本郷絵画研究所でデッサンを学んだ[1]。
1925年(大正14年)、第6回帝展(現日展)に出品した「幻想」が初入選[3]。以後1929年(昭和4年)の第10回帝展まで5回連続入選する[3]。また1930年(昭和5年)第11回「法悦」が特選受賞[3][2][1]。1931年(昭和6年)第12回「悉地」も2年連続の特選受賞[3][2][1]、以後無鑑査となり、出品継続する[3][1]。
帝展出品を続ける傍ら、1929年(昭和4年)に仏教美術研究のためインドに6カ月滞在したほか、1941年(昭和16年)夏より蒙疆大同石仏研究のため中国へ渡っている[3]。中国研究の帰路には満州、朝鮮を経由し朝鮮仏像を研究して帰国した[3]。
1943年(昭和18年)第6回新文展(現日展)にて審査員に推挙され、以後1949年(昭和24年)第5回日展、1951年(昭和26年)第7回日展、1953年(昭和28年)第9回日展と審査員を務めた[3]。
官展以外でも日本美術協会、東邦彫塑院、日本彫塑家倶楽部にも出品しており、日本彫塑家倶楽部は1956年(昭和31年)副委員長に就任した[3]。
1954年(昭和29年)、第10回日展出品作品「華厳」が昭和29年度日本芸術院賞を受賞[3]。
1960年(昭和35年)1月31日、東京都文京区にある東京医科歯科大学付属病院で死去[3]。
主な作品
作品名 |
製作年 |
備考
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「飛天」 |
1948年(昭和23年) |
第4回日展、東京国立近代美術館蔵[5]
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「二宮尊徳翁像」 |
1950年(昭和30年) |
報徳館前建立(栃木県今市市)[3]
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「華厳」 |
1954年(昭和29年) |
第10回日展、日本芸術院蔵[6]、日本芸術院賞受賞[6]
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「散華」 |
1958年(昭和33年) |
第1回新日展、日本芸術院蔵[6]
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脚注
参考文献
外部リンク
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |