三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年〈大正15年〉1月12日 - 2017年〈平成29年〉2月3日)は、日本の作家。
日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。
東京府豊多摩郡(現:東京都中野区)東中野生まれ。父はイタリア文学者の三浦逸雄[1]。野方第五尋常小学校(現:中野区立啓明小学校)、東京府立第二中学校(現:東京都立立川高等学校)から旧制高知高等学校を経る。同校在学中には禁じられている煙草を吸い、さらに厭戦的態度を示して無期停学になった[2]。旧制高知高等学校3年生の時に勤労動員され[3]、1945年7月21日、陸軍二等兵として千葉県我孫子で入隊、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える[4]。
復学後、1948年東京大学文学部言語学科卒業[5]。1950年第17次『新思潮』に参加し、1951年の「冥府山水図」で「芥川の再来」と呼ばれ、1952年「斧と馬丁」で芥川賞候補となり、作家活動に入る。妻の曽野綾子(本名:三浦知寿子)とともに、“第三の新人”の一人[6]。
父の口利きで1948年から日本大学芸術学部非常勤講師となる。1952年10月助教授、1967年10月教授となるが、もともと日大の教員になったのは三流私大なら不勉強な自分でも教えられるだろうと高を括ったためであり、殊に30代半ば以降は作家としての収入が助教授の給料の数倍に達し、教員をするのがバカらしくなり、そういう気持ちが態度や勤務状況に反映して同僚から反感を買ったという[7]。結局、1969年の日大紛争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職[8]。のち中部大学女子短期大学教授、1991-95年学長を務めた[9]。
2004年10月に日本芸術院の院長に選出され、2014年9月末まで院長を務めた[10]。妻・綾子とともにカトリック信徒[11]で、同時に天皇崇拝家[12]。
2017年2月3日、間質性肺炎のため死去[13]。91歳没。