半田 良平(はんだ りょうへい、1887年(明治20年)9月10日 - 1945年(昭和20年)5月19日[1])は、日本の歌人。
来歴・人物
栃木県上都賀郡北犬飼村深津[1](鹿沼市深津)出身[2]。北犬飼東尋常小学校(現・鹿沼市立津田小学校)、姿川尋常高等小学校(現・宇都宮市立姿川中央小学校)卒[1]。宇都宮中学在学中に下級生の千葉省三と親交を結ぶ。短歌欄の投稿を通じて松村英一、植松寿樹らと知り合い、窪田空穂を中心に結成された十月会に参加。旧制第二高等学校を経て東京帝国大学英文科を卒業[1]。同大学院に進学するも、現役補充兵として召集されたため、退学[1]。その後、空穂主宰の短歌結社である「国民文学」の中心的人物となり、中学の英語教師のかたわら短歌・評論などを多く書いた。松尾芭蕉や小林一茶といった江戸の俳諧や、香川景樹など近世歌人を主な研究対象とした[3]。アーサー・シモンズの翻訳も行った。私生活では、1914年に芳賀郡長沼村(現・真岡市)の石崎美好と結婚し、3男2女をもうけた[1]。3人の息子は全員が病死や戦死のため、良平より先に亡くなっている[1]。
1943年に肋膜炎を患い、以後入退院を繰り返し、療養中の1945年3月にかかった風邪が致命傷となり、5月19日に死去、満58歳没[1]。墓所は生家から西へおよそ300メートルのところにあり、妻と3人の息子と一緒に眠る[1]。没後刊行された『幸木』で1949年に日本芸術院賞を受賞したが、栃木県出身の人物がこの賞を受賞するのはこれが初である[1][2]。半田は、「鹿沼が誇る偉大な歌人」と称される。2017年、半田の生誕130周年を記念し、「半田良平生誕130年記念事業実行委員会」が設立された。2021年10月4日、北犬飼コミュニティセンター(鹿沼市上石川1465-4)に「半田良平コーナー」が設置された[2]。
歌碑
栃木県には半田良平の歌碑が7基(うち1基は墓碑)あり、うち5基が鹿沼市にある[1]。鹿沼市内の碑はすべて良平没後に建てられたもので、生前に建てられたのは宇都宮市にある1基のみである[1]。残る1基は那須塩原市にあるが、いつ誰が建立したのか不明である[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m “半田良平 年譜”. 半田良平生誕130年記念事業. 鹿沼市教育委員会事務局文化課 (2018年3月). 2021年11月23日閲覧。
- ^ a b c “半田良平コーナーを開設しました”. 鹿沼市教育委員会事務局文化課 (2021年10月1日). 2021年11月23日閲覧。
- ^ 日本国語大辞典, 美術人名辞典,デジタル大辞泉,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版. “半田良平とは”. コトバンク. 2020年11月24日閲覧。
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太字は恩賜賞受賞者。名跡は受賞時のもの。表記揺れによる混乱を避けるため漢字は便宜上すべて新字体に統一した。 |