加賀 乙彦(かが おとひこ、1929年〈昭和4年〉4月22日 - 2023年〈令和5年〉1月12日)は、日本の小説家、医学者(犯罪心理学)、精神科医。勲等は旭日中綬章。学位は医学博士(東京大学・1960年)。日本芸術院会員、文化功労者。本名は小木 貞孝(こぎ さだたか)で、本名でも著作がある。
東京大学医学部助手、東京大学医学部脳研究所助手、東京拘置所医務部技官、フランスのパリ大学サンタンヌ病院とサンヴナン病院の医師、東京大学医学部附属病院精神科助手、東京医科歯科大学医学部助教授、上智大学文学部教授などを歴任した。
東大を卒業してフランスに留学した後、『帰らざる夏』(1973年)で谷崎潤一郎賞を受賞。ほかに『フランドルの冬』(1967年)、『宣告』(1979年)、『湿原』(1985年)『炎都』(1996年)を執筆した。精神科医としての研究も踏まえて、生の問題について描き続けた。
東京府東京市芝区三田に生まれ、市内の淀橋区西大久保(現・東京都新宿区歌舞伎町)に育つ。母方の祖父は医師・発明家の野上八十八[1]。父の小木孝次は安田生命のエリート社員で、のち、取締役[1]。
大久保小学校5~6年の頃、新潮社の世界文学全集を耽読したことが、後年長篇作家になる素地を培ったという。太平洋戦争下の1942年(昭和17年)4月に東京府立第六中学校へ入学。翌年4月、100倍の倍率を突破して名古屋陸軍幼年学校に入学するも、在学中の1945年(昭和20年)に敗戦を迎えたため軍人への道が絶たれ、同年9月に東京府立第六中学校へ復学。同年11月、旧制都立高等学校理科に編入学した。1949年(昭和24年)3月に旧制都立高校理科卒業し、4月に東京大学医学部へ入学。1953年(昭和28年)3月に卒業した。
東大精神科、同脳研究所、東京拘置所医務部技官を経た後に、1957年(昭和32年)よりフランス留学を果たす。フランスに向かう船中で私費留学生の辻邦生と知り合う[1]。
パリ大学サンタンヌ病院、北仏のサンヴナン病院に勤務し、1960年(昭和35年)に帰国。同年、医学博士号を取得した(学位論文「日本に於ける死刑ならびに無期刑受刑者の犯罪学的精神病理学的研究」)。東京大学附属病院精神科助手を経て、1965年(昭和40年)に東京医科歯科大学犯罪心理学研究室助教授に就任。1969年(昭和44年)から1979年(昭和54年)まで上智大学文学部教授を務めた。
1964年(昭和39年)、立原正秋主催の同人誌『犀』に参加し、高井有一、岡松和夫、白川正芳、佐江衆一、金子昌夫、後藤明生らと知り合う[1]。また、辻邦生を通じて、同人誌『文芸首都』にも参加[1]。この頃、久里浜特別少年院で犯罪心理学者として非行少年の調査を行う[2]。
1968年(昭和3年)、長編『フランドルの冬』の第一章を太宰治賞に応募し、候補作として『展望』に掲載され、その後全体を刊行して芸術選奨新人賞を受賞した。同年には、短編「くさびら譚」で第59回芥川賞候補にもなる。5年後の1973年(昭和48年)に、『帰らざる夏』で谷崎潤一郎賞を受賞、同年活躍した小川国夫、辻邦生とともに「73年三羽ガラス」と呼ばれたが、江藤淳がかれらを「フォニイ」(贋物。「内に燃えさかる真の火を持たぬままに文を書き詩を作る人間[3]」)と批判したため、江藤と平岡篤頼の「フォニイ論争」を引き起こした。
1979年(昭和54年)から文筆に専念。同年に『宣告』で日本文学大賞受賞。1986年(昭和61年)に『湿原』で大佛次郎賞受賞。
翌年のクリスマス(58歳)に妻とともにカトリックの洗礼を受ける。代父母は交流があった遠藤周作夫妻[4][5][6]。。
1998年(平成10年)に『永遠の都』で第48回芸術選奨文部大臣賞受賞。2000年(平成12年)、日本芸術院会員。2005年(平成17年)、旭日中綬章受章[7]。2011年、文化功労者[8]。2012年(平成24年)、『雲の都』(全5巻完結)により毎日出版文化賞特別賞を受賞。2021年(令和3年)には宮中歌会始の召人に選ばれた。
2023年(令和5年)1月12日、老衰のため死去[9]。93歳没。叙従四位[10]。
東京都文京区本郷の仕事場に、1949年(昭和24年)から2021年(令和3年)11月までつけていた日記が遺されていたのを長男が確認し、一部を『読売新聞』が調査して記事で内容を紹介した[11]。