後藤 明生(ごとう めいせい、1932年4月4日[1] - 1999年8月2日[1][2])は、日本の小説家。本名は明正(あきまさ)[1]。
出版社勤務の傍ら作品を発表し、『人間の病気』で文壇に登場。「内向の世代」の一人に数えられ、実験的手法を用いた前衛小説を多く書いた。
朝鮮咸鏡南道永興郡生まれ[1][3]。生家は植民地朝鮮の元山市で商店を営んでいたが、彼が中学に入学した年に敗戦となり、日本に帰国した[3]。その引き揚げの途中で父と祖母を失った。このことは作品の幾つかに散見される。旧制福岡県立朝倉中学校に転入し、早稲田大学第二文学部露文学科を卒業[1]。大学在学中の1955年に「赤と黒の記録」で『文藝』の全国学生小説コンクールに入選[1]。
大学卒業後、福岡に戻るが不況のため就職できず、翌年に再上京し、博報堂を経て平凡出版(現・マガジンハウス)に勤務。
1959年から1965年にかけて、榊山潤主催の文芸同人誌『文芸日本』『円卓』に参加[4]。1966年、立原正秋主催の文芸同人誌『犀』に参加、岡松和夫、高井有一、加賀乙彦等を知る。
1962年に「関係」で文藝賞佳作。1967年『文學界』に発表した「人間の病気」で芥川賞候補となる[1]。1968年には「S温泉からの報告」と「私的生活」で候補となり、退社。1969年に「笑い地獄」で4度目の芥川賞候補となるが、受賞はしなかった。1977年に『夢かたり』で平林たい子文学賞[1]、1981年に『吉野大夫』で谷崎潤一郎賞[1]、1990年に『首塚の上のアドバルーン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した[1]。
1977年より、(内向の世代と名づけられた)古井由吉、坂上弘、高井有一とともに責任編集者として、平凡社から季刊雑誌『文体』を刊行した。当時、編集者だった村松友視の作品を「文体」に掲載させたのも彼である。1989年には、近畿大学文芸学部設立にあたって世耕政隆に招かれて教授に就任し[1]、文芸研究、文芸創作の指導にあたった[3]。東京から大阪の通勤をしていたが、のちに大阪へ移住。1993年より同学部長を務めた[1]。
1999年、肺がんのため近畿大学医学部附属病院で死去[5]。満67歳。