稲葉篤紀
稲葉 篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日 - )は、愛知県北名古屋市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、左投左打)、元日本代表監督。2024年より北海道日本ハムファイターズの二軍監督を務める。
現役引退した翌2015年より北海道日本ハムファイターズのスポーツ・コミュニティ・オフィサー(SCO)を務める。2013年から日本代表チームで打撃コーチを務め、2017年から2021年まで日本代表監督を務めていた。日本代表監督としては2019年にプレミア12優勝[1]、2021年には東京オリンピックで金メダルに導くなどの実績を持つ[注 1][2]。
愛称は北海道日本ハムファイターズで同僚だった新庄剛志からは「アツ」、ヤクルトスワローズで同期入団の宮本慎也からは「ナッパ」と呼ばれており[3]、ヤクルトのマスコットであるつば九郎も「なっぱ」と呼んでいる[4]。
経歴
プロ入り前
愛知県北名古屋市出身。右頬に特徴的な大きな痕があるが、自著によると原因不明とのことである。医学的には「太田母斑」といわれる生まれつきの痣で、治療によって消したり薄くすることは可能だが、同じような症状で苦しんでいる人達の励みになるように、治療したり隠していない。
高校は、愛知県名古屋市の中京高校(現・中京大中京高校)出身である。3年夏の愛知大会決勝で伊藤栄祐、鈴木一朗を擁する愛工大名電高校に4-5で惜敗し、甲子園出場は叶わなかった。のちに日本ハムで打撃投手に転身していた伊藤と再会。自身の引退セレモニーで花束を贈呈された。
卒業後は法政大学経営学部に進学。1年の春から試合に出場し、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、2学年上に一塁手で当時四番を打つ鈴木秀範がいた。また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春からであった。特に2年春(1992年)は左翼手としての先発起用も検討されたが[5]、故障のため不出場に終わった。
1993年(3年時)の春から、一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。
4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。法大では3学年先輩に高村祐と諸積兼司、2学年後輩に副島孔太がいた。
1994年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名され入団[6]。当時のヤクルト監督だった野村克也は、息子の野村克則(当時、明治大学3年)の試合を観戦した際に対戦相手である法政大の稲葉のプレー(この試合で本塁打を打った)を目にとめ、ドラフト当日3位の枠が空いており、「あの法政の左はどうなっとんのや」という発言によって獲得に至った。野村曰く「後で聞いたら、どこからも誘いはなかった[7]。枠が空いていたヤクルトが稲葉を指名することになり、結果プロになりたかった稲葉は大変感謝していた」[8]。とする一方で、稲葉本人は「近鉄バファローズから指名される予定だった」「ヤクルトが指名しなければ、もっと早い段階で梨田昌孝監督のもとで野球をしていたかもしれない」[注 2]と語っている[9]。
ヤクルト時代
1995年、入団後に外野手としての練習を始める。1年目から一軍で出場し、同年6月21日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)にて『8番・一塁手』でプロ初出場(初先発出場)し、中京高校の7年先輩にあたる紀藤真琴から初打席初本塁打を打ったほか、9月9日の読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)ではテリー・ブロスのノーヒットノーラン達成を好捕で助けた。最終的に67試合の出場にとどまったが、8本塁打を打ち、規定打席不足ながら打率.307を記録した。
1996年は125試合に出場し、レギュラーに定着した。プロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.310と好調を維持した。
1997年は打率3割は逃したもののチーム2位の21本塁打を記録し、2年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。
1998年は故障の影響で88試合の出場にとどまった。
1999年は故障で出遅れ、復帰したのは6月だった。この年は外野に飯田哲也や真中満に加えオリックスから加入した高橋智や新外国人のマーク・スミス の活躍もあり68試合の出場にとどまり、本塁打も2本しか打てなった。
2000年、3年続けて100試合に出場することができず、87試合の出場に終わるも11本塁打を打ち、3年ぶりに2桁本塁打を打った。
2001年、5月31日の巨人戦(明治神宮野球場)では、條辺剛からサヨナラ満塁本塁打を打った。これまでの故障や不振から脱し、5年ぶりの3割となる打率.311、25本塁打、自己最多の90打点、OPS.912という成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。この年のヤクルトは稲葉含めた野手8人全員が規定打席に到達した。また、初のベストナインに選ばれた。
2002年、前年の活躍から一転して打率が3割を切り、長打率はプロ入り初めて4割を下回った。
2003年7月1日の横浜ベイスターズ戦(松本市野球場)では史上56人目のサイクル安打を達成した(後述)。しかし故障のためシーズン通して出場することができず、69試合の出場に終わった。
2004年、打撃不振を完全に脱するとまではいかなかったが、135試合の出場で18本塁打、打率.265の成績を残し、2年ぶりに規定打席に到達した。オフにフリーエージェント(FA)宣言。ピーター・グリーンバーグを代理人としメジャーリーグへの移籍を希望したがオファーがなく、一時はトライアウトを受けることも考えたが断念する。
日本ハム時代
2005年、2月に北海道日本ハムファイターズへ移籍。背番号は58。本来日本ハム球団はFA宣言選手の獲得には消極的で、FA宣言した選手が日本ハムへ移籍したのは、稲葉が初めての事例であった当時のGMだった高田繁は「もし稲葉のメジャー移籍が叶わなかった場合は真っ先に入団交渉というつもりでいた」と語った。入団直後はファイターズの「楽しむ野球」に何度も驚かされ、キャンプ合流直後には新庄剛志から「楽しんで」と声をかけられたという[10]。この年は主軸として127試合に出場、打率.271の成績を残した。
2006年、背番号をヤクルト時代の41に変更。この年より日本ハム一軍打撃コーチに就任した淡口憲治の指導のもと長打力の強化に取り組み、自己3番目の打率.307、打点75と自己最多の26本塁打を記録、チームのリーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献、プレーオフでは斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス)から優勝を決めるサヨナラ適時打、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは17打数6安打、打率.353、本塁打2、打点7を記録し[11]、MVPを獲得するなど勝負強さを見せつけた。日本シリーズMVPにはスポンサーから賞品として自動車が贈呈されたが、翌年から賞品が廃止されたため最後の賞品獲得者となった。この年は主に5番打者を務めたが、秋のアジアシリーズではフェルナンド・セギノールの欠場により4番を打った。打撃ではヤクルト時代以来5年ぶりのベストナイン、守備面でも初のゴールデングラブ賞を受賞した(ともに、以後2009年まで4年連続)。
2007年は小笠原道大の退団により3番打者を務め、チームの主要打撃成績は軒並みリーグ最下位でありながら自身は好調でオールスターゲームにも6年ぶりに出場。プロ入り13年目にして初の個人打撃タイトルとなる首位打者(打率.334)、最多安打(176安打)を獲得、また得点圏打率.350、リーグ3位の87打点、同3位のOPS.892を記録するなど球団初の連覇に貢献した。しかし、前年まで相性が良かった日本シリーズでは二塁打1本に終わるなど不振で、チームも2年連続の日本一を逃した。
2008年、5月頃から臀部の痛みに悩まされるも、7月15日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で通算1500試合出場と通算1500安打を同時に達成した。9月26日の埼玉西武ライオンズ戦の初回に通算200本塁打を達成した。打率は前年を下回ったが、2年ぶりの20本塁打を記録。しかしクライマックスシリーズでは、ふくらはぎの肉離れを起こし先発出場が2試合と、ほぼ1年間怪我に悩まされる年であった。シーズン途中に自身2度目のFA権を取得したが、契約交渉ではFA権を行使せず2年契約で更改した。
2009年、監督の梨田昌孝より直々に主将の座に就くことを命じられた。4月8日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)で自身初となる3打席連続本塁打を打った。同じ日に金本知憲も3打席連続本塁打を打ち、複数の選手が3打席連続本塁打を同じ日に記録したのはプロ野球史上初。5月3日の西武戦(札幌ドーム)で延長12回裏にヤクルト時代以来8年ぶりのサヨナラ本塁打を打ち、ヒーローインタビューで感極まり涙を流した[12]。5月25日に出身地の北名古屋市より市民栄誉賞が送られた。オールスターゲームではファン投票両リーグ最多の498,353票を集め、選手間投票では同じく両リーグ最多の484票を集めた。シーズン終盤やや調子を落としたが最終的には打率3割でシーズンを終えた。四死球は自己最多の79で、出塁率はキャリアハイの.391を記録した。
2010年、2月放送のすぽると!で、現役プロ野球選手100人が選ぶ『この選手が凄い・バッター編』の「勝負強さ部門」1位、「バットコントロール部門」4位、「外野守備部門」2位にそれぞれ選ばれた。シーズンでは5月まで打率.227、OPS.688と不振に陥り、一時は5年ぶりに7番で出場するなど苦しんだ。6月以降は打率.316、OPS.870と調子を戻したが、シーズンを通しては5年ぶりに打率3割を切った。また、この年は髙橋信二の頭部死球による離脱や陽岱鋼の台頭によって外野手としての出場は減り、一塁手としては34試合に出場した。
2011年、肩を痛めた影響もあり、開幕戦を初めて指名打者で迎えた。右翼手に陽が定着したことから、指名打者に他の選手が入る際には主に一塁手として起用された。打撃は開幕直後は好調を維持していたが、6月には月間打率.169に終わるなど不振に陥る。7月には月間MVPを獲得するなど調子が上向き、7月24日のオールスターゲーム第3戦では2点本塁打を含む3打点の活躍で初のMVPを獲得したが、シーズン終盤に再び不振に陥り、打撃3部門とも日本ハム移籍後では最低の数字に終わった。特に左投手に対し打率.211と苦しみ、先発を外れることもあった。また勝利打点が5位の12と奮闘した。
2012年、開幕を2000年以来12年ぶりとなる2番で迎え、プロ18年目にして初となる開幕戦における3安打猛打賞を記録した。開幕からは6戦連続で2番に座ったが、その後は主に5番打者として活躍し、打率はリーグ7位の.290、得点圏打率はリーグ6位の.306、長打率はチームトップの.421を記録し、チーム3年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。守備面ではレギュラーシーズンでは一塁手または指名打者としての出場のみで、外野手としての出場はプロ入り後初めてゼロとなっていた。
日本シリーズ第2戦にて、中田翔が死球を受け4回裏に途中交代した際、それまで稲葉が守っていた一塁手にマイカ・ホフパワーが入ったため、4回裏よりこの年初めて右翼手を守った。その他にも日本シリーズでは、稲葉は打率.391で首位打者に輝くなどの活躍を魅せ、敢闘選手賞を獲得した。この年は2009年以来3年ぶりにゴールデングラブ賞を獲得したが、一塁手部門としては自身初となった。パ・リーグの選手としては内野・外野の両方でゴールデングラブ賞を獲得したのは西村徳文(1985年二塁手部門、1990年外野手部門で獲得)以来であり、一塁手部門としては初。外野手から内野手の順でゴールデングラブ賞を受賞したのは、高田繁に続き2人目である。
このシーズンは満40歳という節目を迎える稲葉にとって記録ラッシュの年となった。4月28日の楽天戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)にて、出場1976試合目でケルビン・ヒメネスから史上39人目となる通算2000安打を達成[13]。その6日後の5月4日にはヤクルトに同期入団の宮本慎也も通算2000安打を達成し、奇しくも宮本も出場1976試合目での達成であり、同年に同期入団選手が同試合数で通算2000安打を達成したのはそれぞれ史上初だった。5月4日のオリックス・バファローズ戦では史上58人目となる通算250本塁打、5月19日の広島戦では史上11人目となる通算400二塁打を達成。5月23日には札幌ドームにて「稲葉篤紀2000本安打メモリアルナイター」が開催され、試合前のセレモニーでは山田久志名球会理事よりブレザーが贈呈され、相手チームのDeNAからは元同僚の森本稀哲より花束が贈呈された。この日の試合、稲葉は3打数2安打1打点と活躍し、自らのメモリアルナイターを勝利で飾った。5月31日のヤクルト戦では史上44人目となる通算2000試合出場に到達。8月8日のソフトバンク戦では史上38人目となる通算1000打点、9月27日のロッテ戦では13年連続となる2桁本塁打をそれぞれ達成した。オフの11月15日に元モデルの怜奈と再婚した。12月4日から内野手登録となった[14]。12月4日に第3回WBCの日本代表候補選手34人選出された[15]。
2013年から一軍コーチ兼外野手となる。「5番・一塁手」で開幕スタメンを果たすも、15試合で打率1割以下と極度の不振に陥る(50打数4安打1打点)。チーム全体も3年ぶりの単独最下位を記録するなど苦戦していたこともあり、24日に自ら二軍落ちを志望した。故障以外で登録抹消されるのは日本ハム移籍後初となる。5月に一軍復帰した後のセ・パ交流戦では調子を取り戻すが、リーグ戦再開後に再び調子を落としスタメンから外れる試合も多くなる。6月29日の西武戦ではレギュラーの左翼手である中田翔が指名打者で出場したため、13年ぶりに左翼手として先発出場した。8月26日の二度目となる一軍登録抹消後は、コーチとして一軍に帯同。9月8日に再度一軍登録されるも、チームのAクラス入りが難しくなったため27日に三度登録を抹消され、そのままシーズンを終えた。15日のソフトバンク戦では延長に入り控え投手が全員登板した為、万が一に備えブルペンで投球練習を行っている。この年の規定打席未到達と3桁安打未達成は2003年以来であり、最終成績は打率.203で3本塁打、OPS.563と復調を果たすことができず、前年まで続いていた2桁本塁打の記録も途絶えた。
10月15日、2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイに現役選手であるが専任コーチとして打撃コーチ就任。
2014年は選手専任となる。4月に左膝関節軟骨損傷のクリーニング手術を行い、7月に復帰したが、9月までに23試合出場に留まり、9月2日に現役引退を表明した[6]。レギュラーシーズン最終戦で引退試合を行うも、この年のチームは3位となり、稲葉はこの後のクライマックスシリーズにも出場した。オリックスとのファーストステージ第2戦では代打で登場し、一時は勝ち越しとなる適時打を打つ。さらに第3戦でも代打で登場し、同点に追いつく適時打を打ち、チームは延長戦の末に勝利を収めるなど、チームのファイナルステージ進出へ大きく貢献した。現役最後の打席は、ソフトバンクとのファイナルステージ最終戦、9回表に代打で出場するも捕邪飛に倒れるが、試合終了後、同じく今シーズン限りで引退を表明していた金子誠と共に、日本ハム・ソフトバンク両軍の選手から胴上げされ[16]、温かく迎えられる形で現役生活を締めくくった。
引退後
現役引退後はテレビ朝日・北海道テレビの野球解説者に就任、随時『報道ステーション』のスポーツコーナーでプロ野球解説を担当した。その傍ら、北海道日本ハムファイターズのスポーツ・コミュニティ・オフィサー(SCO)に就任した[17]。
2014年9月18日、「2014 SUZUKI 日米野球」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された。
2015年2月6日、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された[18]。
2015年7月16日、「第1回WBSCプレミア12」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された[19]。
2016年1月28日、「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された[20]。
2016年10月18日、「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された[21]。
2017年1月28日、「第4回WBC」の日本代表打撃コーチを務めることが発表された。
2017年7月31日、4年後のWBCまでの契約で日本代表監督に就任し、都内で記者会見が行われた[22](プロ解禁後の日本代表としては、現役での代表経験及び代表コーチ経験者として初の監督就任となった)。
2017年9月11日、「ENEOS アジアプロ野球チャンピオンシップ2017」の日本代表監督を務めることが発表された。同大会では日本が3戦全勝で完全優勝を果たし、初代王座を獲得した。
2018年1月23日、「ENEOS 侍ジャパンシリーズ2018 日本 vs オーストラリア」の日本代表監督を務めることが発表された。
2018年4月23日、「第2回 WBSC U-23ワールドカップ」の日本代表監督を務めることが発表された。
2018年8月20日、「2018日米野球」の日本代表監督を務めることが発表された。
2019年1月31日、「ENEOS 侍ジャパンシリーズ2019」の日本代表監督を務めることが発表された。
2019年10月1日、「第2回プレミア12」の日本代表監督を務めることが発表された。同大会では監督として日本を大会初の優勝へ導いた[23](日本代表監督としては初のNPB監督未経験及びNPB監督として日本一未経験での初の優勝監督となった)。
2021年8月7日、東京オリンピックで野球日本代表を金メダルへ導いた。また、野球がオリンピックの正式種目となってからは初の金メダルとなった[2]。8月8日、東京オリンピックを区切りに日本代表監督を勇退することを発表した[24]。なお、試合期間中の8月3日は稲葉の誕生日でもあり、バースデーソングを歌うなどのサプライズもあった[25]。
2021年10月27日、北海道日本ハムファイターズのGM(ゼネラルマネージャー)に就任し、会見が行われた[26]。
2023年11月18日、翌2024年シーズンより日本ハムの二軍監督を務めることが発表された[27]。
代表経歴
2007年オフに開催された北京オリンピック野球アジア予選では「7番・右翼手」として全試合に出場し、韓国戦では8回に貴重な適時打を打つなど打率.500を残しオリンピック出場権獲得に貢献した。
2008年は北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、本戦では5番打者を務め、日本の4勝のうち2勝は稲葉が決勝打だった。
2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出された。同大会では4番・指名打者や代打として9試合中8試合に出場した。成績は22打数7安打、打率.318。同大会の決勝戦の10回表には、先頭の内川聖一が安打で出塁した後、自身3年ぶりとなる犠牲バントを決めた。同大会ではイチローが不調であり、日本代表選手の中で唯一の先輩であった稲葉はイチローが凡退した後に、ベンチで励ましの言葉を度々掛けていて、メンタル面でイチローを陰で支えていた。
2013年2月20日、第3回WBC日本代表選手28人に選出された[28]。オリンピック、WBCを通じて40代の選手が日本代表に選ばれるのは史上初[注 3]。同大会では2次ラウンドのオランダ戦では本塁打を打ち、大会最年長記録となった。
選手としての特徴
打撃
規定打席に達したシーズンで6度の3割を記録し、2007年には首位打者を獲得するなど巧打に長け、腕をコンパクトにたたんで体に巻きつくようなスイングで内角を打つのがうまく[29][30]、日本ハム時代の同僚であった新庄剛志からは「稲葉君は内角打ちの天才」と絶賛された[10]。ヤクルト時代にはストレートに滅法強く、変化球には弱かったが、日本ハム移籍後は変化球に強くなり、2009年には曲がる系のボールに対して内角の打率.359、同じく真ん中で.568を誇った[29]。特にカーブを得意とし、森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという[31]。また、ヤクルト時代には通算打率.232と左投手を苦手としていたが、日本ハム移籍後には2010年までの通算打率.295と克服している。この理由については「具体的には、引っ張らずに左方向に打ったり…。現役中は、これ以上は言えません」と語っている[10]。
通算でプロ野球歴代5位となる429二塁打、本塁打は261本と、一定の長打力もある。
守備・走塁
守備ではゴールデングラブ賞を外野手部門で2006年から2009年まで、一塁手部門で2012年に受賞している。外野守備でのポジショニングも良く、主に右翼手として出場した2002年、2006年にリーグ外野手レンジファクター(RF/G)1位を、また2006年にはリーグ外野手最多刺殺を記録[32][33]。なお左翼・森本稀哲、中堅・SHINJO(新庄剛志)との外野陣を2005年に10数試合、SHINJOの現役最終2006年には1年を通して形成し[34]、2006年は森本と刺殺・レンジファクター(RF/G)共にリーグ外野手2位のSHINJOとで合計800弱の刺殺を記録して[32][33]、3人揃って当年のゴールデングラブ賞を受賞している(同一チーム選手での外野手部門独占は1978年・阪急ブレーブス以来で、史上2例のみ〈2016年度発表時点 〉)。
リーグ外野手最多補殺を2度記録しているが、遠投は80メートル程度でプロの外野手としては肩は強くない[10]。本人は「もともと一塁手だったため、大きく腕を振ることができないが、ボールを捕ってから投げるまでが速いため強肩に見えるのではないか」と話している[35]。2010年4月27日のオリックス・バファローズ戦の8回表の右翼守備においては、打者の塩崎真が打って転がってきた安打性の打球を素早く一塁に送球し、打者走者をアウトにした(いわゆる「ライトゴロ」)。塩崎は「普通はあんな場所、守らない。安打1本、損した」と述べた(ただし、この場面は、試合終盤で守備側のリードがわずか1点であり、かつ二死で走者が二塁にいたため、外野手が前進守備を敷く体制を取るのは珍しいことではない)[10]。
走塁面では盗塁の企図数は少ないが、一塁到達3.96秒、三塁到達11.45秒を記録するなど全力疾走を怠らない[36]。
その他
攻守交代時にはベンチと守備位置の間を常に全力疾走で移動する。これによってヤクルト時代にセ・リーグからスピードアップ賞およびスワロー・エクスプレス賞の表彰を受けている。
応援
日本ハムでは得点圏に走者を置いた状態で稲葉の打席を迎えると、ファンファーレに合わせて一斉にファンが飛び跳ねる、通称「稲葉ジャンプ」と呼ばれる応援が定着している。
ファンファーレは2006年のシーズン前に私設応援団が制作した。当初は曲に合わせてメガホンを叩くだけのものだったが、春先にフルキャストスタジアム宮城(現・楽天生命パーク宮城)で開催された試合で一部のファンが寒さに耐えかねジャンプしたのがきっかけ[要出典]となり、札幌ドームにおいても外野スタンドの一角からジャンプが発生、それがどんどん規模を増していつの間にか球場全体が飛び跳ねるようになった。ただし、一部の野球場(スタルヒン球場など)においては、稲葉ジャンプは危険行為として禁止されており、そのような野球場では飛ばずに膝を曲げて身体を上下させる「稲葉スクワット」が取り入れられている(これは、千葉ロッテマリーンズや埼玉西武ライオンズなど、ジャンプ応援するチームも同様である)。札幌ドームの内野席は本来、飛び跳ねることはおろか立ち上がっての応援行為自体が禁止されているが、稲葉ジャンプの時だけは黙認されている(ジャンプが終わると内野席の観客は速やかに着席する)。なお、応援が始まった初期の頃は「イナバイブ」、「稲葉シェイク」等とも呼ばれていた。
札幌ドームはサッカー用の天然芝フィールドをドームに隣接する敷地で育成・維持している関係上、バックスクリーンにあたる位置のスタンド・構造物が可動式で柔構造になっている。そのため、稲葉ジャンプによる振動は震度3~4の地震に相当する大きさと言われている(2006年の日本シリーズの実況アナウンサーの発言より)。札幌ドームで行われる試合のテレビ中継では稲葉ジャンプにより映像が大きく揺れることがある。
2011年は、シーズン開幕前に東北地方太平洋沖地震が発生し、「被災者に地震の揺れを連想させないように」という配慮のもと、レギュラーシーズン中は稲葉ジャンプが行われなかったが、2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズのファーストステージ(西武戦)で解禁された[37]。
2014年限りで現役引退を表明した9月2日以降の試合では、稲葉が打席に立つと、日本ハムファンだけでなく相手チームのファンも一緒に立ち上がり、両チームのファンが稲葉ジャンプで稲葉を応援する光景が見られた。
ヤクルト時代ではチャンス法政(法政大学応援歌)も使われていた(1997年まで)。1998年からは杉浦享の応援歌が使用された。
なお、稲葉本人はこの稲葉ジャンプを意識していたらしく、稲葉ジャンプが起きるとその打席の初球はほぼ見逃していたと言う[38]。
人物
4人兄弟の長男で、5歳上に姉、5歳下に双子の弟と妹がいる。左投げ左打ちだが、箸、ペンは右手で持つ。ゴルフでは右打ち。
2005年9月19日の西武戦(札幌ドーム)試合前に新庄剛志、森本稀哲、小谷野栄一、石本努との5人で同じデザインのかぶりもの(新庄の顔を模った仮面で「SHINJO5」と命名)を被り、ユニフォームも全員で「背番号:1、背ネーム:SHINJO」のものを着用してシートノックを受けるというパフォーマンスを披露した[39]。2006年シーズンオフには、札幌グランドホテルで開催された選手ディナーショーに出演し自慢のノドを披露した[40]。
元々、近眼だったがヤクルト時代にレーシック手術を行ったことで、以後コンタクトレンズを使わなくなった[41]。
通算死球136は左打者では歴代2位である。
初打席初本塁打を打った1人だが、その中で稲葉は2017年シーズン終了時点で通算最多本塁打を打った記録を持っている[42]。
少年時代は少しでも悲しいことが起こるとすぐに泣きだすような気が弱い性格で、そのこともあり小中ではいじめに遭っていた。中学時代には上級生にたばこを買いに行かされ、学校を抜け出してたばこを買いに行っていることが父親に知らされると父親に殴られ、稲葉本人に「強くならなければならない」という感情が芽生えた。ちなみにその上級生とは話し合いの場を作って意思疎通を図り、これを境にいじめは無くなった[43]。
個人よりもチームプレーを重視するタイプで、2000安打を達成したときには「気負うことはなかったし、チャンスだったからとにかく走者を返そうという一心だった。」とコメントしている。さらに「2000本を打つために今シーズンやっているわけじゃないんでね。あくまでも監督を胴上げするためにやってるんでね。とにかく頑張りたいと思います。」、「個人成績は二の次ですから。」というコメントを残している。2000安打を達成した時のウイニングボールは行方不明になった[44]。
現役時代、試合前のチームメイトとのキャッチボールの際に自身と同じ左投げの投手(杉内俊哉や武田勝など)のフォームを真似て投げることがあった。
現役時代は、背番号41を気に入っており、日本ハム移籍後の2005年は途中入団の経緯から当時チームで一番若い空き番号だった58になるも、翌年41に変更している。その理由の一つに、「41」が自身のイニシャル「AI」と似ているから、ということがある。
ポテトチップスが大好物であり、シーズンオフには食べ過ぎて体型を崩すこともある。自身が進退を懸けていると公言したシーズン20年目を控える2014年1月にはポテトチップスの食べすぎが原因で平常体重の94kgから100kg超まで増えてしまった。それに対してカロリーオフのポテトチップスを食べることで少しでも摂取カロリーを少なくすることを試みている[45]。
映画『探偵はBARにいる2』の中で現在の北海道の大打者として名前が登場する。
2015年1月10日放送の「ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!豪華2本立て!大相撲・プロ野球ぶっちゃけ祭り3時間SP!」で、「稲葉篤紀さんは『ランバンのレディースのピンク』を使っている。」とオリックス・バファローズ伊藤光選手が話していた。ピンク色の箱はランバンの『ジャンヌランバンEDP(オードパルファム)』で稲葉の胸元の匂いを確かめたパネラーの吉田羊も「凄くいい匂い」と絶賛していた[46]。
スキージャンプの葛西紀明とは、1972年生まれの同学年で、オフにはゴルフをするなど、親交がある。
東京オリンピック 野球日本代表(侍ジャパン)監督としてチームを金メダルに導いた功績と栄誉をたたえ、2022年1月18日、愛知県北名古屋市の北名古屋市役所東庁舎前に記念のゴールドポスト(第49号)が設置された(ゴールドポストプロジェクト[47])。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1995
|
ヤクルト
|
67 |
248 |
215 |
22 |
66 |
10 |
0 |
8 |
100 |
40 |
3 |
2 |
2 |
1 |
25 |
2 |
5 |
33 |
5 |
.307 |
.390 |
.465 |
.855
|
1996
|
125 |
496 |
436 |
63 |
135 |
26 |
3 |
11 |
200 |
53 |
9 |
5 |
7 |
7 |
38 |
0 |
8 |
66 |
9 |
.310 |
.370 |
.459 |
.829
|
1997
|
130 |
494 |
439 |
71 |
117 |
24 |
4 |
21 |
212 |
65 |
9 |
6 |
10 |
1 |
37 |
4 |
7 |
67 |
6 |
.267 |
.333 |
.483 |
.816
|
1998
|
88 |
280 |
258 |
29 |
72 |
17 |
2 |
5 |
108 |
23 |
4 |
2 |
2 |
1 |
13 |
1 |
6 |
42 |
2 |
.279 |
.327 |
.419 |
.746
|
1999
|
68 |
142 |
132 |
15 |
35 |
11 |
1 |
2 |
54 |
22 |
3 |
1 |
1 |
1 |
7 |
2 |
1 |
26 |
3 |
.265 |
.305 |
.409 |
.714
|
2000
|
87 |
290 |
274 |
36 |
77 |
13 |
0 |
11 |
123 |
30 |
0 |
0 |
4 |
2 |
8 |
0 |
2 |
42 |
2 |
.281 |
.304 |
.449 |
.753
|
2001
|
138 |
601 |
527 |
94 |
164 |
32 |
5 |
25 |
281 |
90 |
5 |
4 |
13 |
2 |
43 |
0 |
16 |
89 |
6 |
.311 |
.379 |
.533 |
.912
|
2002
|
116 |
488 |
448 |
59 |
119 |
19 |
3 |
10 |
174 |
39 |
3 |
1 |
8 |
4 |
21 |
1 |
7 |
77 |
2 |
.266 |
.306 |
.388 |
.695
|
2003
|
69 |
289 |
260 |
46 |
71 |
8 |
3 |
11 |
118 |
30 |
4 |
1 |
3 |
1 |
18 |
0 |
7 |
48 |
6 |
.273 |
.336 |
.454 |
.790
|
2004
|
135 |
473 |
437 |
61 |
116 |
20 |
3 |
18 |
196 |
45 |
6 |
3 |
5 |
2 |
23 |
2 |
6 |
85 |
3 |
.265 |
.310 |
.449 |
.758
|
2005
|
日本ハム
|
127 |
441 |
414 |
55 |
112 |
28 |
4 |
15 |
193 |
54 |
3 |
3 |
1 |
1 |
21 |
2 |
4 |
82 |
5 |
.271 |
.311 |
.466 |
.778
|
2006
|
128 |
518 |
473 |
66 |
145 |
20 |
2 |
26 |
247 |
75 |
5 |
5 |
6 |
2 |
27 |
2 |
10 |
74 |
6 |
.307 |
.355 |
.522 |
.878
|
2007
|
137 |
579 |
527 |
61 |
176 |
39 |
0 |
17 |
266 |
87 |
6 |
3 |
0 |
4 |
35 |
7 |
13 |
69 |
10 |
.334 |
.387 |
.505 |
.892
|
2008
|
127 |
513 |
448 |
71 |
135 |
25 |
5 |
20 |
230 |
82 |
2 |
3 |
0 |
5 |
56 |
9 |
4 |
85 |
9 |
.301 |
.380 |
.513 |
.894
|
2009
|
135 |
587 |
500 |
78 |
150 |
37 |
4 |
17 |
246 |
85 |
5 |
1 |
2 |
6 |
65 |
11 |
14 |
96 |
4 |
.300 |
.391 |
.492 |
.883
|
2010
|
137 |
591 |
530 |
68 |
152 |
36 |
4 |
16 |
244 |
79 |
3 |
0 |
1 |
5 |
43 |
1 |
12 |
86 |
5 |
.287 |
.351 |
.460 |
.811
|
2011
|
137 |
518 |
473 |
49 |
124 |
22 |
3 |
12 |
188 |
54 |
4 |
2 |
7 |
3 |
27 |
2 |
8 |
71 |
4 |
.262 |
.311 |
.397 |
.709
|
2012
|
127 |
497 |
449 |
46 |
130 |
23 |
3 |
10 |
189 |
61 |
0 |
0 |
8 |
3 |
32 |
3 |
5 |
70 |
3 |
.290 |
.342 |
.421 |
.762
|
2013
|
91 |
285 |
261 |
25 |
53 |
16 |
0 |
3 |
78 |
24 |
0 |
0 |
1 |
1 |
21 |
0 |
1 |
48 |
6 |
.203 |
.264 |
.299 |
.563
|
2014
|
44 |
89 |
77 |
6 |
18 |
3 |
0 |
3 |
30 |
12 |
0 |
0 |
0 |
0 |
10 |
0 |
2 |
13 |
3 |
.234 |
.337 |
.390 |
.727
|
通算:20年
|
2213 |
8419 |
7578 |
1021 |
2167 |
429 |
49 |
261 |
3477 |
1050 |
74 |
42 |
81 |
52 |
570 |
49 |
138 |
1269 |
99 |
.286 |
.345 |
.459 |
.806
|
オリンピックでの打撃成績
年
度 |
代
表 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率
|
2008
|
日本
|
8 |
38 |
34 |
2 |
7 |
1 |
0 |
1 |
11 |
6 |
1 |
1 |
0 |
1 |
3 |
1 |
0 |
5 |
1 |
.206 |
.263 |
.324
|
WBCでの打撃成績
年
度 |
代
表 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率
|
2009
|
日本
|
8 |
24 |
22 |
5 |
7 |
4 |
0 |
0 |
11 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
4 |
0 |
.318 |
.348 |
.500
|
2013
|
7 |
22 |
21 |
2 |
6 |
0 |
0 |
1 |
9 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3 |
1 |
.286 |
.318 |
.429
|
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
一塁 |
外野
|
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率 |
試
合 |
刺
殺 |
補
殺 |
失
策 |
併
殺 |
守 備 率
|
1995
|
ヤクルト
|
2 |
16 |
1 |
1 |
2 |
.944 |
63 |
89 |
3 |
0 |
0 |
1.000
|
1996
|
2 |
14 |
1 |
0 |
1 |
1.000 |
122 |
213 |
10 |
3 |
4 |
.987
|
1997
|
9 |
30 |
0 |
0 |
3 |
1.000 |
127 |
224 |
5 |
5 |
5 |
.979
|
1998
|
20 |
146 |
9 |
2 |
13 |
.987 |
70 |
87 |
0 |
5 |
0 |
.946
|
1999
|
6 |
36 |
4 |
2 |
0 |
.952 |
25 |
41 |
1 |
0 |
0 |
1.000
|
2000
|
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
76 |
129 |
5 |
0 |
2 |
1.000
|
2001
|
- |
137 |
278 |
12 |
4 |
1 |
.986
|
2002
|
- |
115 |
215 |
5 |
0 |
1 |
1.000
|
2003
|
- |
69 |
145 |
6 |
1 |
0 |
.993
|
2004
|
- |
130 |
248 |
3 |
2 |
0 |
.992
|
2005
|
日本ハム
|
1 |
2 |
0 |
0 |
1 |
1.000 |
125 |
244 |
14 |
2 |
7 |
.992
|
2006
|
- |
126 |
275 |
7 |
3 |
1 |
.989
|
2007
|
2 |
2 |
1 |
0 |
2 |
1.000 |
123 |
255 |
4 |
2 |
1 |
.992
|
2008
|
- |
98 |
194 |
5 |
0 |
3 |
1.000
|
2009
|
- |
119 |
217 |
5 |
3 |
1 |
.987
|
2010
|
34 |
258 |
15 |
2 |
30 |
.993 |
83 |
128 |
2 |
2 |
0 |
.985
|
2011
|
70 |
564 |
47 |
4 |
45 |
.993 |
9 |
8 |
0 |
0 |
0 |
1.000
|
2012
|
103 |
912 |
50 |
3 |
65 |
.997 |
-
|
2013
|
64 |
514 |
27 |
2 |
46 |
.996 |
7 |
14 |
0 |
1 |
0 |
.933
|
2014
|
13 |
83 |
5 |
3 |
6 |
.967 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
.---
|
通算
|
328 |
2586 |
160 |
19 |
215 |
.993 |
1625 |
3004 |
87 |
33 |
26 |
.989
|
タイトル
表彰
- ベストナイン:5回(外野手部門:2001年、2006年 - 2009年)
- ゴールデングラブ賞:5回(外野手部門:2006年 - 2009年 一塁手部門:2012年)
- 月間MVP:5回(野手部門:2006年7月、2007年9月、2009年5月、2011年7月、2012年4月)
- 正力松太郎賞:1回(2021年)※特別賞
- コミッショナー特別表彰:1回(特別賞:2021年)
- パ・リーグ 連盟特別表彰:1回(特別功労賞:2014年)
- スピードアップ賞:2回(2000年、2001年) ※2001年はスワロー・エクスプレス賞(セントラル・リーグ会長特別表彰)として
- オールスターゲームMVP:1回(2011年第3戦)
- 日本シリーズMVP:1回(2006年)
- 日本シリーズ敢闘選手賞:1回(2012年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1997年)
- 日本シリーズ特別賞:1回(プロ野球ドリームナイン賞:2012年)
- JA全農Go・Go賞:3回(好捕賞:1996年6月 最多二・三塁打賞:1996年8月 強肩賞:2005年9月)
- 札幌ドームMVP:1回(2007年)
- 札幌ドームMVP功労賞(2014年)
- 「ジョージア魂」賞特別賞:1回(2014年)
- 「ジョージア魂」賞:1回(2014年度第12回)
記録
- 初記録
- 節目の記録
- その他の記録
背番号
- 41(1995年 - 2004年、2006年 - 2014年)
- 58(2005年)
- 80(2015年 - 2021年) - 日本代表コーチ→監督。
- 90(2024年 - )
登場曲
- ヤクルト時代
- 日本ハム時代[48][49][50]
代表歴
指導歴
関連情報
著書
出演番組
脚注
注釈
- ^ プレミア12は日本の初優勝、オリンピックも正式種目となってからは日本の初優勝。
- ^ 後に日本ハムの監督に就任する梨田は1994年当時、近鉄のコーチを務めていた。また、同年の同会議における3位指名のウェーバー順位は、ヤクルトのほうが近鉄より高かった。
- ^ これまでの過去最高齢は2008年の北京オリンピックにおける矢野輝弘(39歳)。
- ^ 初打席本塁打を記録した選手で通算200本塁打を達成したのは、高木守道と稲葉の2人のみ。また、初打席本塁打を記録した選手で2000安打を記録したのは高木・駒田徳広・稲葉の3人のみ。
- ^ 第1打席から順に三塁打(1回)、本塁打(4回)、単打(5回第1打席)、二塁打(5回第2打席)で達成。5回までに達成したのは史上最速、降雨コールドゲームでの達成も史上初。同じ日に当時福岡ダイエーホークスに所属していた村松有人もサイクル安打(史上57人目)を達成。(達成時間は稲葉のほうが早い)1日に2選手がサイクル安打を達成したのも史上初。
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、 稲葉篤紀に関連するカテゴリがあります。
業績 |
---|
|
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
特別賞 | |
---|
|
---|
1950年代 |
- 1951 川上哲治, 野口明, 林義一
- 1952 飯島滋弥
- 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男
- 1954 中西太, 山内和弘
- 1955 山内和弘, 西沢道夫
- 1956 森下正夫, 吉田義男
- 1957 大下弘, 宮本敏雄
- 1958 宮本敏雄, 中西太
- 1959 山内和弘, 中利夫
|
---|
1960年代 |
- 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲
- 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎
- 1962 ブルーム, 張本勲
- 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅
- 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ
- 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一
- 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識
- 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男
- 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司
- 1969 土井正博, 船田和英
|
---|
1970年代 |
- 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎
- 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司
- 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩
- 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之
- 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲
- 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博
- 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司
- 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治
- 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之
- 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二
|
---|
1980年代 |
- 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊
- 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博
- 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之
- 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満
- 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓
- 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美
- 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章
- 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博
- 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三
- 1989 村田兆治, 彦野利勝
|
---|
1990年代 |
- 1990 R.ブライアント, 清原和博
- 1991 古田敦也, 広沢克己
- 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広
- 1993 清原和博, T.オマリー
- 1994 秋山幸二, G.ブラッグス
- 1995 落合博満, 松井秀喜
- 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲
- 1997 松井稼頭央, 清原和博
- 1998 川上憲伸, 松井秀喜
- 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志
|
---|
2000年代 |
- 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博
- 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋
- 2002 G.アリアス, 的山哲也
- 2003 高橋由伸, 金本知憲
- 2004 松坂大輔, SHINJO
- 2005 金城龍彦, 前田智徳
- 2006 青木宣親, 藤本敦士
- 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助
- 2008 山﨑武司, 荒木雅博
- 2009 青木宣親, 松中信彦
|
---|
2010年代 |
- 2010 阿部慎之助, 片岡易之
- 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀
- 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼
- 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一
- 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐
- 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼
- 2016 筒香嘉智, 大谷翔平
- 2017 内川聖一, A.デスパイネ
- 2018 森友哉, 源田壮亮
- 2019 森友哉, 近本光司
|
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 |
- 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰
- 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正
- 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義
- 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清
- 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊
- 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二
- 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実
- 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己
- 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治
- 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸
|
---|
1990年代 |
- 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤
- 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎
- 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也
- 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也
- 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦
- 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾
- 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー
- 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛
- 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広
- 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司
|
---|
2000年代 |
- 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成
- 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満
- 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之
- 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎
- 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信
- 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁
- 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲
- 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博
- 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広
- 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一
|
---|
2010年代 |
- 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平
- 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩
- 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー
- 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也
- 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太
- 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太
- 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔
- 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大
- 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃
- 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩
|
---|
2020年代 |
- 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐
- 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎
- 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆
- 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸
- 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ
|
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1970年代 |
- 1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊
- 1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊
- 1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊
- 1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊
- 1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊
- 1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊
- 1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二
- 1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二
|
---|
1980年代 |
- 1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二
- 1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二
- 1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二
- 1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二
- 1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二
- 1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二
- 1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文
- 1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭
- 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙
- 1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博
|
---|
1990年代 |
- 1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙
- 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙
- 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙
- 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙
- 1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠
- 1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮
- 1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮
- 1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮
- 1998 イチロー, 大友進, 大村直之
- 1999 秋山幸二, イチロー, 大友進
|
---|
2000年代 |
- 2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮
- 2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知
- 2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知
- 2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人
- 2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO
- 2005 大村直之, サブロー, SHINJO
- 2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO
- 2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲
- 2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲
- 2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆
|
---|
2010年代 |
- 2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧
- 2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆
- 2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文
- 2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾
- 2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐
- 2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏
- 2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男
- 2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝
- 2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝
- 2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝
|
---|
2020年代 |
- 2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝
- 2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐
- 2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平
- 2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介
- 2024 辰己涼介, 周東佑京, 万波中正
|
---|
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 |
|
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞 |
|
---|
1950年代 |
- 1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠
- 1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰
- 1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要
- 1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要
- 1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之
- 1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之
- 1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要
- 1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要
- 1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要
- 1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹
|
---|
1960年代 |
- 1960 中利夫, 並木輝男, 森徹
- 1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治
- 1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治
- 1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治
- 1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三
- 1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生
- 1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義
- 1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生
- 1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘
- 1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義
|
---|
1970年代 |
- 1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生
- 1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄
- 1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉
- 1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉
- 1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉
- 1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー
- 1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉
- 1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉
- 1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉
- 1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉
|
---|
1980年代 |
- 1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉
- 1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二
- 1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二
- 1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二
- 1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉
- 1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造
- 1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章
- 1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章
- 1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己
- 1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一
|
---|
1990年代 |
- 1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己
- 1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己
- 1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ
- 1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳
- 1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳
- 1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜
- 1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司
- 1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜
- 1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜
- 1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜
|
---|
2000年代 |
- 2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜
- 2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜
- 2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜
- 2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介
- 2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ
- 2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲
- 2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介
- 2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸
- 2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲
- 2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一
|
---|
2010年代 |
- 2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩
- 2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親
- 2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン
- 2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義
- 2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平
- 2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介
- 2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩
- 2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智
- 2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト
- 2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト
|
---|
2020年代 |
- 2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也
- 2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆
- 2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希
- 2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希
- 2024 近本光司, D.サンタナ, 細川成也
|
---|
|
---|
1950年代 |
- 1950 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫
- 1951 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫
- 1952 飯島滋弥, 大下弘, 別当薫
- 1953 大下弘, 別当薫, 堀井数男
- 1954 大下弘, 関口清治, 山内和弘
- 1955 飯田徳治, 戸倉勝城, 山内和弘
- 1956 杉山光平, 戸倉勝城, 山内和弘
- 1957 大下弘, 毒島章一, 山内和弘
- 1958 杉山光平, 関口清治, 毒島章一
- 1959 杉山光平, 高倉照幸, 山内和弘
|
---|
1960年代 |
- 1960 田宮謙次郎, 張本勲, 山内和弘
- 1961 田宮謙次郎, 張本勲, 山内和弘
- 1962 張本勲, 山内一弘, 吉田勝豊
- 1963 張本勲, 広瀬叔功, 山内一弘
- 1964 高倉照幸, 張本勲, 広瀬叔功
- 1965 張本勲, 広瀬叔功, 堀込基明
- 1966 高倉照幸, 張本勲, 毒島章一
- 1967 土井正博, 長池徳二, 張本勲
- 1968 G.アルトマン, 土井正博, 張本勲
- 1969 長池徳二, 永淵洋三, 張本勲
|
---|
1970年代 |
- 1970 G.アルトマン, 長池徳二, 張本勲
- 1971 門田博光, G.アルトマン, 長池徳二
- 1972 長池徳二, 張本勲, 福本豊
- 1973 長池徳二, 張本勲, 福本豊
- 1974 D.ビュフォード, 張本勲, 福本豊
- 1975 佐々木恭介, 白仁天, 弘田澄男
- 1976 門田博光, 弘田澄男, 福本豊
- 1977 門田博光, 福本豊, L.リー
- 1978 佐々木恭介, 福本豊, 簑田浩二
- 1979 新井宏昌, 栗橋茂, 福本豊
|
---|
1980年代 |
- 1980 栗橋茂, 福本豊, L.リー
- 1981 島田誠, テリー, 福本豊
- 1982 新井宏昌, 栗橋茂, 福本豊
- 1983 島田誠, テリー, 簑田浩二
- 1984 高沢秀昭, T.クルーズ, 簑田浩二
- 1985 金森永時, 熊野輝光, 横田真之
- 1986 秋山幸二, 新井宏昌, 横田真之
- 1987 秋山幸二, 新井宏昌, T.ブリューワ
- 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙
- 1989 秋山幸二, 藤井康雄, R.ブライアント
|
---|
1990年代 |
- 1990 秋山幸二, 石嶺和彦, 西村徳文
- 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平井光親
- 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 高橋智
- 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 藤井康雄
- 1994 イチロー, K.ライマー, 佐々木誠
- 1995 イチロー, 佐々木誠, D.ジャクソン
- 1996 イチロー, 田口壮, 村松有人
- 1997 イチロー, 佐々木誠, T.ローズ
- 1998 イチロー, 大村直之, 柴原洋
- 1999 イチロー, 谷佳知, T.ローズ
|
---|
2000年代 |
- 2000 イチロー, 柴原洋, S.オバンドー
- 2001 礒部公一, 谷佳知, T.ローズ
- 2002 谷佳知, T.ローズ, 小関竜也
- 2003 谷佳知, T.ローズ, 和田一浩
- 2004 和田一浩, SHINJO, 谷佳知
- 2005 和田一浩, 宮地克彦, M.フランコ
- 2006 稲葉篤紀, 松中信彦, 和田一浩
- 2007 稲葉篤紀, 森本稀哲, 大村直之
- 2008 稲葉篤紀, 栗山巧, リック
- 2009 鉄平, 糸井嘉男, 稲葉篤紀
|
---|
2010年代 |
- 2010 多村仁志, T-岡田, 栗山巧
- 2011 糸井嘉男, 内川聖一, 栗山巧
- 2012 糸井嘉男, 角中勝也, 内川聖一
- 2013 長谷川勇也, 内川聖一, 中田翔
- 2014 柳田悠岐, 糸井嘉男, 中田翔
- 2015 秋山翔吾, 柳田悠岐, 清田育宏
- 2016 角中勝也, 糸井嘉男, 西川遥輝
- 2017 柳田悠岐, 秋山翔吾, 西川遥輝
- 2018 柳田悠岐, 秋山翔吾, 吉田正尚
- 2019 荻野貴司, 秋山翔吾, 吉田正尚
|
---|
2020年代 |
- 2020 柳田悠岐, 吉田正尚, 近藤健介
- 2021 杉本裕太郎, 吉田正尚, 柳田悠岐
- 2022 松本剛, 柳田悠岐, 島内宏明
- 2023 近藤健介, 万波中正, 柳田悠岐
- 2024 近藤健介, 辰己涼介, 周東佑京
|
---|
|
野球日本代表 |
---|
|
|
---|
歴代出演者 |
メインキャスター | |
---|
サブキャスター | |
---|
コメンテーター | |
---|
スポーツキャスター | |
---|
スポーツキャスター(メイン以外) | |
---|
お天気キャスター | |
---|
リポーター | |
---|
|
---|
テーマ曲の アーティスト・作曲家 | |
---|
派生番組 | |
---|
前身番組 | |
---|
関連番組 | |
---|
関連人物 | |
---|
関連項目 | |
---|
- ^ a b 2018年10月から月曜 - 木曜の出演に移行したが、現在は木曜・金曜。2021年10月から金曜。
- ^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 水曜。2021年10月から金曜。
- ^ a b c d e f g 金曜のみの出演。小木は月曜 - 水曜(→月曜 - 木曜)を、森川は木曜・金曜を担当。
- ^ 月曜 - 木曜に出演し、現在は月曜 - 金曜。
- ^ a b 月曜 - 木曜に出演。
- ^ a b 『ニュースステーション』から同時間帯続投。
- ^ 『ミュージックステーション』から異動。
- ^ a b 2013年9月まで金曜の『ミュージックステーション』を引き続き兼務。
- ^ 2015年3月までは『報道ステーション SUNDAY』に出演。2018年10月からは平日版に出演。
- ^ a b c d 『報道ステーション SUNDAY』のみの出演。
- ^ a b c 『報道ステーション SUNDAY』ではメインキャスターを担当。
- ^ a b c d e 古舘、河野、小川の夏季休暇・不在時のキャスター代理。
- ^ a b 富川の夏季休暇・不在時のメインキャスター代理。
- ^ 『サンデーステーション』ではメインキャスターを担当。
|
- 先代
- 吉村浩
|
- 北海道日本ハムファイターズ
ゼネラルマネジャー - 4代目:2021年 - 2023年
|
- 次代
- (木田優夫)
GM代行
|
|
|