徳川 家康 (とくがわ いえやす、旧字体 :德川 家康 )は、戦国時代 から江戸時代 初期の日本 の武将 、戦国大名 、江戸幕府 初代将軍 。徳川氏 (将軍家 、御三家 など)の祖。三英傑 の1人に数えられる。
概要
家系 は三河国 の国人 土豪 ・松平氏 の内、安祥松平家 5代当主。幼名は竹千代 [5] 。幼少期を織田氏 ついで今川氏 の下で人質として過ごし[5] 、諱は元服時に今川義元 より偏諱 を受けて元信 (もとのぶ)、次いで元康 (もとやす)と改め、通称 は当初次郎三郎 、元康に改名した際に蔵人佐 を用いている[9] 。
当初は今川氏の配下として活動するが、永禄 3年(1560年 )に桶狭間の戦い で今川義元が討死したのを機に今川氏から独立して家康 に改諱し、織田信長 に接近して清洲同盟 を結ぶ[5] 。永禄 9年12月29日(1567年 2月18日 )には徳川氏に改姓 した。本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏 など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国 ・駿河国 にまで広げていく。天正10年(1582年 )には本能寺の変 での信長死亡後に発生した天正壬午の乱 も制して甲斐国 ・信濃国 を手中に収め[5] 、5か国を領有する大大名となった。
信長没後に織田政権 で勢力を伸張した豊臣秀吉 とは小牧・長久手の戦い で対峙するが[5] 、後に秀吉に臣従し、小田原征伐 後は後北条氏 の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権 下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老 に列せられ大老 筆頭となる[5] 。
秀吉没後の慶長 5年(1600年 )、関ヶ原の戦い では東軍を率いて西軍に勝利し天下人 の地位を獲得、慶長8年(1603年 )に征夷大将軍 に任命され武蔵国 江戸 に幕府 を開く。慶長20年(1615年 )の大坂の陣 で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制 の礎を築いた。
没後は東照大権現 の神号 を後水尾天皇 から贈られ[10] 、東照宮 に祀られるなどして神格化 され、江戸時代を通じて崇拝された。
生涯
岡崎城 天守
孟齋芳虎 画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』
竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市) (2016年8月14日撮影)
※ 日付は、太陰暦 による和暦 。西暦 の暦法は便宜上、ユリウス暦 とする。
生い立ち
天文 11年(1542年 )12月26日、岡崎城主松平広忠 の嫡男 として岡崎城 において生まれる[注釈 1] 。生母は緒川城 主水野忠政 の娘・大子 (伝通院)。幼名は竹千代 (たけちよ)。胞刀の役は酒井政家 、蟇目 の役は石川清兼 が務めた。
3歳のころ、水野忠政没後に水野氏 当主となった水野信元 (大子の兄)が尾張国 の織田氏 と同盟する。織田氏と敵対する駿河国 の今川氏 に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる[注釈 2] 。
人質として今川家、そして織田家へ
天文 16年(1547年 )8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府 へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城 で義母の父・戸田康光 の裏切りにより、尾張国 の織田信秀 へ送られた。だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田 の加藤順盛 の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長 と知り合ったという伝説があるが、史料にはない[18] 。また、近年の研究[注釈 3] では、天文16年9月[注釈 4] に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。
2年後に広忠が死去する[注釈 5] 。今川義元 は織田信秀の庶長子 ・織田信広 [注釈 6] との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 7] に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代 (朝比奈泰能 や山田景隆 など)により支配された[注釈 8] [注釈 9] [注釈 10] [注釈 11] 。墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸 には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸 に入った。
なお、安城松平家の家督は、広忠が亡くなった時点で竹千代が継承していたと考えられている。そのことが今川家中において、既に領主となっていた竹千代に対する人質として扱いが領主の子に対する通常の人質の例とは異なった理由として考えられる[34] [注釈 12] [36] 。
元服・初陣
天文24年(1555年 )3月、14歳のとき、駿府の今川義元の下で元服 し、次郎三郎元信 と名乗った[37] 。義元の偏諱「元」の字を与えられており、これは改めて今川氏の配下になったことを意味した[37] 。
弘治 3年(1557年 )もしくは2年(1556年 )、今川義元の姪とされる関口親永 の娘(築山殿 )を娶る[37] [注釈 13] 。これにより、今川一門に準じる立場となった[37] 。
弘治4年(1558年 )頃に、祖父・松平清康の名の一字をとり、元康 と改め[37] 、仮名も蔵人佐 と改めている[9] [注釈 14] 。
なお、松平元康(徳川家康)の今川氏との関係については吉良氏 との関係を考慮する必要があるとする指摘もある。吉良氏は三河国幡豆郡を根拠とした足利氏御一家 の一つで、今川氏の宗家筋であった。吉良氏は守護ではないものの、三河の国主に准じられて国内の国衆にも影響を与え、松平信忠 は吉良義信 、松平清康は吉良持清 、松平広忠は吉良持広 の偏諱を得たと推定されている。今川義元は吉良氏に代わって安祥松平氏当主に対して自らの偏諱を与えるとともに自らの一門に組み込むことによって吉良氏の三河国主としての地位を間接的に否定するとともに、今川氏の三河支配の安定化を実質上の三河最大の勢力である松平氏を介して図ったと考えられる[40] 。
当時、三河国では国衆の間で大規模な反乱が起きており(三河忩劇 )、永禄 元年(1558年 )2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城 主・鈴木重辰 を攻めた。これが初陣 であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた(寺部城の戦い )。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付[注釈 15] し、腰刀を贈った。永禄2年(1559年)に駿府の元康は7か条からなる定書を岡崎にいる家臣団との間で交わしている。これは、将来的に今川氏直臣の岡崎城主となるであろう元康と今川氏による間接統治下で希薄化した家臣団との間の主従関係を再確認する性格を持っていた[43] 。
清洲同盟から三河国平定
徳川家の家紋 "丸に三つ葉葵 (徳川葵)"
永禄3年(1560年 )5月、桶狭間の戦い で先鋒を任され、大高城 の鵜殿長照 が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧 を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦 と丸根砦 の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。5月19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰朝 は鷲津の砦を攻め落とした。
5月19日昼頃、今川義元は織田信長に討たれた。織田方の武将の水野信元 は、甥の元康のもとへ、浅井道忠 を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、菩提寺 の大樹寺 に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城した[45] [46] 。岡崎城に入る際、大樹寺 住職の登誉天室 と相談の上、独自の軍事行動をとり、今川からの独立を果たそうとしたとされる[48] 。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある[49] 。さらに近年の新説として、桶狭間での勝利に乗じた織田軍の三河侵攻を警戒した今川氏真 がこれに備えるために元康の岡崎城帰還を許したとする説も出されている[50] 。
永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝 に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府 との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府の承認を取り付けようとしている[51] 。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城 を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 16] 。
折しも今川氏の盟友であった武田信玄 、北条氏康 は、関東管領 ・上杉憲政 を奉じた長尾景虎(上杉謙信 )の関東出兵(小田原城の戦い )への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる。また、桶狭間の戦い直後は三河の今川方をまとめて織田方の侵攻と対峙していた元康が三河への軍事的支援を後回しにして同盟国の武田・北条支援に動く氏真に失望して、援軍を得られないまま織田氏に抵抗を続けるよりも織田氏と結んで独立を図った方が領国維持の上で得策と判断したとする見方もある[50] 。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている。その後も元康は藤波畷の戦い などに勝利して、西三河の諸城を攻略する。
永禄4年(1561年 )先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、信長と和睦し、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟 )(『史料総覧』巻10)[注釈 17] 。同年4月西三河 で今川氏との戦いが開始された。
永禄5年(1562年 )には、元康と信長が会って会談し、同盟の確認をして関係を固めている[注釈 18] 。一方、今川氏真の要請を受けた将軍・足利義輝は松平・今川両氏の和睦を図り、義輝から北条氏康らに対しても和睦の仲介を指示しているが、和睦は実現しなかった。
永禄6年(1563年 )には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康 と名を改めた。「家」を選んだ理由は明確ではない[59] [注釈 19] 。ほぼ同じ時期に今川義元に倣った花押 の形を変更している。改名以前の花押が「元」の字を変形させたものである以上、花押の変更は当然のことであったとも言えるが、これも今川氏からの決別を示したことと言える[64] 。こうした動きが桜井・大草の両松平家をはじめとする親今川派を刺激して、翌年の一斉蜂起につながったとする見方がある。同年3月には、同盟の証として嫡男・竹千代(信康 )と信長の娘・五徳 との婚約が結ばれる。
永禄7年(1564年 )、今川氏真が家康討伐の意向を示すと[注釈 20] 、酒井忠尚や吉良義昭ら三河国内の反家康勢力の国衆が挙兵し、続いて三河一向一揆 が勃発するも、これを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏 や西郷氏 といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏 のような敵対勢力を排除していった。遠江国で発生した国衆の反乱(遠州忩劇 )の影響で三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡 を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年 )までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した[注釈 21] 。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成 (後に石川数正 ))・東三河衆(旗頭:酒井忠次 )・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役 を新たに置いた。
「徳川」への改姓
永禄9年(1566年 )、家康は朝廷 から藤原氏 として従五位下 三河守 に叙任 され、その直前、あるいは同時に苗字を「徳川 」に改めている。
この改姓を朝廷に願い出る際にはいくらかの工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から新田氏 支流世良田氏 系統の清和源氏 であると自称していたが、当初は正親町天皇 が清和源氏の世良田氏が三河守に任官した先例がないことを理由にこの叙任を認めなかった[69] 。そこで家康は三河国出身で京誓願寺 住持だった泰翁 を介して近衛前久 に相談した[70] 。
前久の対処により、吉田兼右 が万里小路家 で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがもう一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位 下三河守 に叙任された(近衛家文書)[69] 。この先例とされたのは松平氏 の祖とされる新田氏 庶流の世良田三河守頼氏 で、藤原氏となったのは嫡男有氏 とその弟教氏 で、松平清康 の世良田改姓とつなげたとの説がある[69] [注釈 22] 。この勅許に関連した改姓で当面は徳川姓を名乗るのは家康一人であり、松平氏一族や家臣団統制に役立った[71] 。この改姓に伴い家康は「本姓 」を「藤原氏 」としているが、後に源氏 に復している(#源氏への「復姓」時期について )。
今川領遠江への侵攻
永禄10年(1567年 )5月、長男の竹千代と信長の娘である徳姫 を結婚 させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。竹千代は、7月に元服 して信長より偏諱 の「信 」の字を与えられて信康 と名乗る事になった。
永禄11年(1568年 )、信長が室町幕府13代将軍 ・足利義輝の弟・義昭 を奉じて上洛 の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一 を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫 に任命されている(『歴名土代 』)。左京大夫は歴代管領 の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 23] 、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏 であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[72] [注釈 24] [注釈 26] 。
同年12月6日、甲斐国 の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻 )、家康は酒井忠次 を取次役に遠江割譲を条件として武田氏 と同盟を結び、13日、遠江国 の今川領へ侵攻して曳馬城 を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。
武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川 を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語 』)。しかし永禄12年(1569年 )1月8日、信濃国 から武田家臣・秋山虎繁 (信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 27] 。
5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城 を攻囲。籠城戦 の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。
元亀 元年(1570年 )、岡崎城から遠江国の曳馬城に移ると、ここを浜松 と改名し、浜松城 を築いてこれを本城とした[注釈 28] 。なお、岡崎城は長男の信康に譲った。また信長を助け、金ヶ崎の戦い に参戦したほか、朝倉義景 ・浅井長政 の連合軍との姉川の戦い では活躍を見せた。
武田氏との戦い
家康は北条氏康・氏政父子と協調して武田領を攻撃していたが、武田信玄は氏康没後の元亀2年(1571年)末に北条氏政との甲相同盟 を回復し駿河国を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景・浅井長政・石山本願寺 ら反織田勢力を糾合して信長包囲網 を企てた際、家康にも副将軍 への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。
元亀3年(1572年 )10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦 )を開始した[注釈 29] 。これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国 岩村城 を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍はほぼ単独という形で武田軍と戦うこととなる。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像 』(徳川美術館 所蔵)。
徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川 を渡って見附 (磐田市 )にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城 を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために内藤信成 ・本多忠勝らを偵察隊として遣わせるも武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い )。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い )。
ようやく信長から佐久間信盛 、平手汎秀 率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広 ・成瀬正義 や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照 ・青木貞治 といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信 に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。(三方ヶ原の戦い )武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してから家康は「空城計 」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされているが、信憑性に疑問も呈されている。
その後家康は、三方原の失敗を戒めとするため、合戦直後の自身の姿を描かせ、それが徳川家康三方ケ原戦役画像 であるとするのが通説とされてきた。ただし近年上記通説に対し疑問が呈されている(詳細は「徳川家康三方ケ原戦役画像 」を参照)。
浜名湖 畔の堀江城 攻略を断念して一旦浜名湖 北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国設楽郡 の野田城 を2月には落とされ、城主・菅沼定盈 が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城 まで退き、武田信玄の死去(享年51歳)により撤兵した。
武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆 の一角である奥平貞能 ・貞昌 親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。
武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼 も攻勢に出て、天正 2年(1574年 )には東美濃の明智城 、遠江高天神城 を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。同年、家康は犬居城 を攻めるが、城主天野景貫 の奇襲により敗退する。同時期、武田に内通していたとして、家臣の大岡弥四郎 らを捕え、鋸挽き で処刑した。この大岡弥四郎事件については、築山殿も参画しており武田氏への内通の中心人物だったとの説も唱えられている。
信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年 )5月の長篠の戦い では主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城 を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。
なお、家康は長篠城主の奥平信昌(信昌の諱「信」は従来は信長の「信」をこの時に拝領したものとされていたが、近年は信玄に従属した時に一字拝領を受けた説もある)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光 を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫 を正室として嫁がせている。だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる。
天正3年(1575年)、家康は唐人五官(五官は通称か)に浜松城下の屋敷と諸役免除を認める朱印状を発行しており、懸塚湊や上流の馬込川 に中国商船が来航して浜松城下にて貿易を行っていたことが知られている。五官の名は『慶長見聞録』にも登場しており、五官の名を持つ唐人はその後家康に従って江戸に移住したとみられている[83] 。天正5年(1577年 )2月以降、遅くても翌年4月までに花押を改めている。家康は元服以来、永禄6年の家康改名に伴う全面的な変更(前述)を含めて度々花押の変更を行ってきたが、この時変更された花押が最晩年まで用いられることになる[64] 。
天正6年(1578年 )、越後 上杉氏 で急死した上杉謙信 の後継者を争う御館の乱 が発生し、武田勝頼は北信濃 に出兵し乱に介入する。謙信の養子である上杉景勝 (謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の上杉景虎 (謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年(1579年 )9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城 などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。
また同じころ、信長から正室 ・築山殿と嫡男・松平信康 に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹 が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、より信頼性の高い史料では信長は「信康を殺せ」とは言っておらず「家康の思い通りにせよ」と言っており、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は家康・信康父子の対立が原因とする説や、築山殿や信康は実際に武田氏に内通して家康への謀反を企んだとする説も出されている[84] [85] [86] [87] [88] [89] 。なお家康本人は堀秀政 宛に「今度左衛門尉(酒井忠次)をもって申し上げ候処、種々御懇ろ之儀、其の段お取りなし故に候。忝き意存に候。よって三郎不覚悟に付いて、去る四日岡崎を追い出し申し候。猶其の趣小栗大六・成瀬藤八(国次)申し入るべきに候。恐々謹言」としている(松平信康#信康自刃事件について の項を参照)。
岩村城の戦い 以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱えることにもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長 を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与 )を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年 )、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い )。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。木曾義昌 の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年 )2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君 (梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡した。最後まで抵抗した武田方の蘆田信蕃(依田信蕃 )が守る田中城 は成瀬正一 らの説得により大久保忠世 に引き渡された。
家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還 を通過して帰還している(甲州征伐 )。
家康はこの戦功により駿河国(庵原郡 江尻は穴山信君領)を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜んだ。
また遅くともこのころには、三河一向一揆の折に出奔した本多正信 が、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いのころに既に帰参していたとも)。
本能寺の変と天正壬午の乱
天正10年(1582年)5月21日、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城 を訪れ、大接待を受けた。この際、秀吉より援軍要請があった信長は自ら出陣することを決めたが、家康もこれに従い帰国後に軍勢を整えて西国へ出陣する予定だった。
6月2日、堺 を遊覧中に京 で本能寺の変 が起こった。このときの家康の供は小姓 衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝 に説得されて翻意し、服部半蔵 の進言を受け、伊賀国 の険しい山道を越え加太越 を経て伊勢国 から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え )。帰国後、家康は直ちに兵を率いて上洛しようとしたが、鳴海で秀吉が光秀を討った報を受けて引き返した。穴山信君 が帰国途中で戦死したため、駿河国江尻を併呑した。
一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆 が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野 一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益 は、旧武田領を治めてまだ3か月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可 と毛利秀頼 は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆 は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直 率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱 や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆 らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱 )。
一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照 ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠 を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島 で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺 ・一条信龍 屋敷に本陣を置いていたが、新府城 (韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩 台上の城砦群に布陣し、若神子城 (北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。
ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸 が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ 戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎 を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫 が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河(碧海郡(矢作川 以西)を除く[91] )の5か国を領有する大大名へとのし上がった。
小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従
豊臣秀吉
信長死後の織田政権 においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄 と手を結び、天正11年(1583年 )には織田家筆頭家老 であった柴田勝家 を賤ヶ岳の戦い で破り、勝家と手を結んだ信長三男・織田信孝 を自害させることで、さらに影響力を強めた。家康は賤ヶ岳の戦い で勝った秀吉に、戦勝祝いとして松平親宅 が入手した茶器の初花 を贈った。また本能寺の変で光秀に加担した疑いで京都から逃れてきた元関白 の近衛前久 を家康は保護していたが、秀吉と交渉して近衛を無事帰洛させることができた。
しかし天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁した織田信雄が、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫・三法師(織田秀信 )を推戴する秀吉と対立するようになると、信雄は家康に接近して秀吉に対抗することとなった(『岩田氏覚書』)。
天正12年(1584年 )3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山 )に着陣した。
秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城 を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興 らが三河国に出兵した。4月9日には長久手 において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い )。「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」といわれた[92] 。
小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国 の長宗我部氏 ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国 の毛利氏 、常陸国 の佐竹氏 ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康 )を秀吉の養子(徳川家・本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)とした。
戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国 の佐々成政 が自ら、厳冬の飛騨山脈 を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年 )に入ると、紀伊国 の雑賀衆 や土佐国の長宗我部元親 、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に補任され、豊臣政権を確立する。
これに対して家康は、東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5か国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市 )の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城 主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠 ・平岩親吉 らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦 )。
勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[93] に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺 の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[94] 。
家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記 』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対してさらなる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正 ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔 して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。
天正14年(1586年 )に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記 』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫 (南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる[注釈 30] 。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所 を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。ただし、天正14年正月に織田信雄が岡崎城に訪問した際に家康は秀吉に臣従する内意を表明し(『貝塚御座所日記』)、2月には秀吉から一柳直末に対して家康を赦免することにしたので家康討伐命令が中止になったことを伝える朱印状が送付されている(『一柳家文書』)。このため、朝日姫との婚姻は家康の臣従を受けた対応とも考えられる。なお、家康の臣従から上洛までの間隔が開いた背景として、家康から秀吉に離反した信濃国の国衆3名(木曽義昌・小笠原貞慶・真田昌幸)の取り扱いを巡る調整を必要としたことも考えられる。実際に7月に家康に従わない真田昌幸討伐の動きがあり、翌8月に上杉景勝の嘆願で家康が昌幸を赦免して昌幸が家康の与力大名となることが確定している。柴裕之は大政所の岡崎訪問は家康の上洛中に秀吉方に危害を加えられることを恐れる家康や徳川家中に対する配慮であったとしている。また、同年9月11日に家康が本拠地を浜松城から駿府城に移しているのも、秀吉が臣従と引き換えに5か国安堵を認めたことをきっかけにしているとしている[96] 。
家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長 邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城 において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織 を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)[注釈 31] 。
豊臣家臣時代・関東への移封
天正14年(1586年 )11月1日、京へ上り、11月5日に正三位 に叙される。このとき、多くの家康家臣も叙任された。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城 へ移した。5か国支配の安定と今後の「関東総無事 」のための拠点として駿府は重要な場所であった[100] 。
これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。
天正15年(1587年 )8月、再び上洛し、秀吉の推挙により、朝廷から8月8日に従二位 ・権大納言 に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字 を下賜された。
同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令 が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国 ・出羽国 )の監視が託された。12月28日、秀吉の推挙により、朝廷から左近衛大将 および左馬寮御監 に任ぜられる[注釈 32] 。このことにより、このころの家康は駿府左大将 と呼ばれた[要出典 ] 。
家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政 ・氏直父子宛ての5月21日付起請文[101] で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。
家康が北条親子のことを讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
今月中に兄弟衆を京都に派遣する
豊臣家への出仕を拒否する場合、娘(氏直に嫁いだ督姫 )を離別させる
家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規 を上洛させるなど、ある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。天正18年(1590年 )1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上断交し、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家 が豊臣家の城番として岡崎城に入城している(小田原征伐 )[95] 。
なお、これに先立って天正17年(1589年 )7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地 を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東 へ領地を移封 されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得た知識と経験は新領地の関東統治に生かされた。
天正 18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵国 ・伊豆国 ・相模国・上野国・上総国 ・下総国 ・下野国 の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。石高は約240万石で、さらに上洛の際の費用(在京賄領)として、近江国 ・伊勢国・遠江国・駿河国のうちで約11万石が与えられた。家康の関東移封の噂は戦前からあり[注釈 33] 、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[101] 、結局北条氏の旧領国に移されることになった。
秀吉は関東・奥羽の惣無事という目的を達成するために家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したと考えられている。一方、家康は豊臣政権から政治的・軍事的保護を得ている以上、移封を拒絶することは出来なかった。ただし、関東移封に関しては流動的な側面があり、その後も奥羽情勢の悪化に伴って陸奥国への再移封の噂が徳川家中に流れている(『家忠日記』天正20年2月6日条)。
この移封によって三遠駿と甲信(上杉の北信を除く)119万石[107] (徳川家内の「五ヶ国総検地」では実高150万石とも)から関東250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高 ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方 の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府 と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している[108] 。この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城 ではなく、武蔵江戸城 を居城とした。なお、小田原合戦中に秀吉が自らの「御座所」を江戸に設ける構想を示しており(「富岡文書」)、江戸城を家康の本拠地としたのも秀吉の積極的な意向が関与していた。
天正18年(1590年)8月1日、家康は江戸へ入城した(江戸御打入)[注釈 34] 。この日は正式に入城した日であり、これ以前にも、視察のため江戸に入っている。
家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城 に配置する[注釈 35] とともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安 ・伊奈忠次 ・長谷川長綱 ・彦坂元正 ・向井正綱 ・成瀬正一・日下部定好 ら有能な家臣を代官 などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗 の享保の改革 で引き上げられるまで継承された。
家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。
なお、小田原攻め直前の天正18年1月14日、前年より京都の聚楽第で病に臥せっていた朝日姫が病死した。朝日姫の死で徳川家との婚姻関係が亡くなることを憂慮した秀吉は同月に自分の養女である小姫 (実父は織田信雄)を長丸(秀忠)と婚姻させている(一説には婚約とも)。しかし、小姫も天正 19年(1591年 )7月に早世している。後に豊臣秀勝 と死別した別の養女達子 (実父は浅井長政)を秀忠に嫁がせたのも、秀吉が家康及び徳川家を親族として引き留めたいという考えがあったと推測される[113] 。
天正19年(1591年)6月20日 、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次 を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆 、和賀・稗貫一揆 、仙北一揆 、藤島一揆、九戸政実の乱 などの鎮圧に貢献した。
文禄 元年(1592年 )から秀次に関白を譲り太閤となった秀吉の命令により朝鮮出兵 が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城 に在陣しただけであった[注釈 36] 。『家忠日記』にはこの時に伊達政宗 ・南部信直 ・上杉景勝 ・佐竹義宣 が家康の指揮下にあったと記してある。このころの家康は武蔵大納言 とよばれた。
文禄4年(1595年 )7月に「秀次事件 」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城 に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治制度を直接学ぶことになった[114] 。
徳川内府
慶長 元年(1596年 )5月8日、秀吉の推挙により内大臣 に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。
慶長2年(1597年 )、再び朝鮮出兵 が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島 の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。
慶長3年(1598年 )、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼 を補佐するための五大老 ・五奉行 の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた[114] 。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国 の大名 は名護屋 残留であった。
秀吉死後
豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、合議による合意を得ない大名家同士の婚姻を行う。婚約した娘は、全て家康の養女とし、その内容は次の通りである。
このころより家康は、細川忠興 や島津義弘 、増田長盛 らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老 ・前田利家 や五奉行の石田三成 らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年 )1月19日、家康に対して三中老 の堀尾吉晴 らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は後述する伏見城治部少丸の直下にある自身の屋敷から、対岸の向島城 へ移ることでこの一件は和解となった。
3月3日の利家病死直後、福島正則 や加藤清正 ら7将 が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた(石田三成襲撃事件 )。三成は佐竹義宣 の協力で大坂を脱出して伏見城内治部少丸 にある自身の屋敷に逃れたが[115] 、家康の仲裁により三成は奉行の退任を承諾して佐和山城 に蟄居 することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所 の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され[116] 、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。もっとも、家康と三成は対立一辺倒ではなく協調を模索する時期もあり、家康は中立的な立場からの解決を図り双方の均衡を保とうとしたが、それが却って政争を悪化させたとする見方もある[117] 。
9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽 の節句 における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄 の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。
9月13日付毛利秀元宛輝元書状には、家康が大坂入りした理由として次の3つを挙げている。
秀忠が江戸へ下向したため正室お江と離れるので、彼女以外の女性が秀忠の子を生む可能性があり両者の仲が悪くなるのを避けるため、お江も下向させようとしたが淀殿周辺から反対されたこと。
後陽成天皇が譲位の意向を示したが、秀吉の遺言とは異なる子を指名したため、家康が譲位の断念を申し入れざる得なかったこと。
秀吉遺言で東国の大名は大坂、西国の大名は伏見にいることが求められたが、宇喜多秀家は大坂に留まったため家康の抗議で伏見に移ることを承諾したが、同様の者がまだ複数いること。
9月9日に登城した際、前田利長 ・浅野長政 ・大野治長 ・土方雄久 の4名が家康の暗殺 を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして[注釈 37] 、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居 させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸 の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院 を江戸に人質として差し出し[118] 、出兵は取りやめとなる[注釈 38] 。これを機に前田氏 は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。
またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。
慶長 5年(1600年 )3月、豊後国 に南蛮船 (オランダ船)のリーフデ号 が漂着した。家康はリーフデ号を大阪 へ移し、航海長のウィリアム・アダムス (後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステン は家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された[120] 。
関ヶ原の戦い
関ヶ原 古戦場。家康の馬印 に用いられたとされる「厭離穢土欣求浄土 」の旗[48] が跡地に掲げてある。
慶長5年(1600年 )3月、越後国の堀秀治 から会津の上杉景勝の重臣・直江兼続 に越後にあった年貢の下半期分まで持ち出された訴えを、出羽国 の最上義光 らからは会津 の軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた[要出典 ] 。さらに上杉氏の家臣で津川城 城代 を務め家康とも懇意にあった避戦派の藤田信吉 、栗田国時 の二人が、会津から江戸の徳川秀忠 の元へ上杉の行動に関する釈明をしようとする途中で、兼続の仕向けた使者達に襲撃され、国時が殺害される事件まで起きた[要出典 ] 。
これに対して家康は、伊奈昭綱 を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、既に徳川との一戦を固めていた兼続が、『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争 参照。)と呼ばれる挑発的な文書を記した書簡を返書として送ったことから家康は激怒。景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐 を宣言した[要出典 ] 。これに際して後陽成天皇 から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米 2万石を下賜された[要出典 ] 。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反 人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。
6月16日、家康は大坂城・京橋 口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田 、6月25日に駿府、6月26日に三島 、6月27日に小田原 、6月28日に藤沢 、6月29日に鎌倉 、7月1日に金沢 、7月2日に江戸 という、遅々たる進軍を行っている[要出典 ] 。
この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継 とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元 を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13か条におよぶ家康の弾劾 状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い )。
さらに三成らは伊勢国 、美濃国 方面に侵攻した。家康は下野国小山 の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方 に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍 が結成されていった(小山評定 )。
東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政 、大久保忠隣 、本多正信らを付けて宇都宮城 から中山道 を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道 から上方に向かった。それでも家康は動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1か月ほど留まり、7月24日から9月14日までの間に、関ヶ原合戦に関する内容の文書だけでも外様の諸将82名に155通、家康の近臣に20通ほどの文書を送っている[121] 。
正則ら東軍は、清洲城 に入ると、西軍 の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城 を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。
9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近 と宇喜多秀家 の家臣・明石全登 が奇襲し、それに対して東軍の中村一栄 、有馬豊氏 らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義 が戦死している(杭瀬川の戦い )[注釈 39] 。
家康は自らの軍師 で臨済宗 の禅僧である閑室元佶 (関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮 ( せんぜい ) を行わせ、大吉を得た。
9月15日午前8時ごろ、美濃国関ヶ原 において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午ごろかねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋 の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治 、朽木元綱 、赤座直保 、小川祐忠 らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘 の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い )。
9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長 、安国寺恵瓊 らと共に六条河原 で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名の殆どを処刑 ・流罪 ・改易 ・減封 に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿 に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めなかったが、論功行賞により各大名家 の領地に含めていた太閤 蔵入地 (豊臣氏の全国に散在していた直轄地)は東軍の諸将に恩賞として分配された。また太閤 蔵入地 のうち、堺 、長崎 、生野銀山 の管理には家康の家臣が派遣され、家康の直轄領となっていくことになる。
その結果、豊臣氏は摂津国 ・河内国 ・和泉国 の3か国65万石の一大名となり、家康は天下人 としての立場を確立した。だが、まだ西国大名は新年の挨拶に大坂城に伺候し豊臣家が西国を支配する二重公儀体制との説がある。
家康のスペイン外交と浦賀
鈴木かほるの研究によれば、秀吉の没後、家康が五大老の筆頭として表舞台に立ったとき、どの国よりもいち早く対外交渉をもったのは、当時、世界最強国と称されたスペインであったという。その目的はスペイン領メキシコで行われている画期的な金銀製錬法であるアマルガム法の導入であり、スペイン人を招致するため浦賀湊を国際貿易港として開港し[124] 、西洋事情に詳しいウィリアム・アダムス を外交顧問としたという。
家康はフィリピン(スペイン領)近海における私貿易船を絶滅させるため、慶長6年(1601年)正月、フィリピン総督に宛てて公貿易船の証として日本からフィリピンへ渡海する朱印状を交付することを伝えた。日本では古来から難破船の漂着は龍神の祟りとして積荷を没収し、その売り上げをもってその土地の寺社の修復に充てる習わしであったが、家康はこの仕来りを破り、慶長7年(1602年)8月に漂着船の積荷を保証することを伝え、安心して浦賀湊に商船を派遣するようフィリピン総督に通告した。つまり家康の朱印船制度創設は浦賀ースペイン外交にあったのである。浦賀にはウィリアム・アダムスの尽力により慶長9年にスペイン商船が初めて入港し、以後、毎年入港している。
メキシコ側の思慮によりアマルガム法の導入の実現には至らなかったが、慶長6年秋に上総大多喜浦に漂着した司令官ジュアン・エスケラや、慶長14年(1610年)9月に上総国岩和田沖に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコ・デ・ビベロ をアダムスが建造した船で帰国させたが、その返礼大使としてセバスチャン・ビスカイノ が浦賀湊に入港している。このときのビスカイノは日本の東西の港の測量および金銀島探検の使命を帯びて来航したのであるが、金銀島の発見には至らず、そのうえ船は破船してしまう。ビスカイノは帰国のための船の建造を家康に請うたが断られた。そこでビスカイノは奥州の港の測量の際、伊達政宗 がメキシコとの貿易を希望していたことを思い起こし、宣教師ルイス・ソテロ を介して政宗に帰国の大型帆船の建造を依頼し、これが実現してサン・ファン・バウティスタ号 の遣欧に至るのである。このとき将軍・秀忠は向井忠勝 に政宗遣欧船の随行船として船を造船させている。この船は江戸内海の口で座礁してしまったが、このように秀忠が遣欧船を造船していた事実や、向井忠勝が公儀大工を伊達政宗のもとに派遣している事実、また幕府は禁教令によりビスカイノ一行を本国に帰国させなければならなかったことを考えれば、政宗遣欧船は幕府の知るところであったことは疑う余地もない。
家康が開港したスペイン貿易港浦賀の記念碑が建つ横須賀市東浦賀の東叶神社
元和元年(1615年)6月、サン・ファン・バウティスタ号がビスカイノの返礼大使ディエゴ・デ・サンタ・カタリナ を乗せ浦賀湊に帰帆した。この船には政宗の家臣・横沢将監吉久や日本商人らが同船していた。しかし、家康が死去するとサンタ・カタリナに国外退去令が出され、彼らは元和2年(1616年)8月に浦賀を発航した。これがメキシコへ向かう最後の貿易船となった。こうして浦賀湊は国際貿易港としての生命を絶たれ、スペイン人鉱夫の招聘は実現することなく訣別を迎えたのである。
長崎や平戸は貿易港としてよく知られるが、江戸初期に家康によって浦賀がスペイン商船の寄港地として開港され、貿易が行われていたことは教科書にも記されていない。この史実を伝えようと、地元の住民によって市民団体が結成され賛助金が集められ、平成31年(2019年 )4月、神奈川県横須賀市東浦賀の東叶神社境内に「日西墨比貿易港之碑」が建てられ除幕式が行われた。 [要出典 ]
征夷大将軍
慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝 が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る[注釈 40] 。
関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年 )3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府 を開くため、徳川氏の系図 の改姓 を行った[注釈 41] 。
慶長7年(1602年 )、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まっていなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田 に減転封。代わりに佐竹氏 と同じく源義光 の流れをくむ武田氏 を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた[注釈 42] 。これによって確定した徳川氏の領域は一門・譜代大名の所領も含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国・越前国、西は近江国・山城国・大和国と北伊勢の桑名領をほぼ一円支配しつつ、西国では長崎 や堺 、石見銀山 、生野銀山 の直轄領が点在する内容であった(秋田氏や里見氏などの小規模な外様大名の支配地は除く)。
慶長8年(1603年 )2月12日、右大臣 に任じられる。同日、征夷大将軍、源氏長者 、奨学淳和院等別当、牛車 兵仗 等の宣下 があった[注釈 43] 。
同年3月12日、伏見城から二条城 に移り、3月21日、衣冠束帯 を纏い行列を整えて御所 に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽 が行われ諸大名や公家衆を饗応した。
なお家康の将軍宣下の数ヵ月前の、慶長7年12月4日(新暦では1603年1月15日)に、秀吉の造立した方広寺 大仏殿が失火のため全焼し、京中を騒然とさせた。この火事について、豊臣氏の権威を失墜させるために徳川方が故意に放火したのではないかという風説も流れたという。
慶長8年10月16日、右大臣を辞任した。
大御所政治
イギリス王ジェームズ1世 の徳川家康への書簡(1613年)
慶長10年(1605年 )4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝 を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝 と板倉重昌 も叙任された。同7月23日、近衛信尹 を関白に推挙する。
慶長12年(1607年 )には駿府城に移って、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠(御所)に対して、前将軍の家康は「駿府の大御所 」として主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した(大御所政治 )。ただ明確に線引きされていたわけではなく、越後福嶋騒動 では当事者たちを駿府城に召喚して弁論させ、越後高田藩 堀氏 の改易 を命じた。
同年、朝鮮通信使 と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮 との国交を回復した[要出典 ] 。
慶長13年(1608年 )、大坂方が朝廷に働きかけ秀頼を左大臣 にする兆候を事前に捉え、これを阻止する(しばらく左大臣は空位)。同年、右大臣九条忠栄 を関白 に推挙する。
慶長14年(1609年 )、オランダ 使節と会見。オランダ総督 (使節は国王を自称[注釈 44] )マウリッツ からの親書を受け取り、朱印状 による交易と平戸 にオランダ東インド会社 の商館 の開設を許可した。
慶長15年(1610年)、足尾銅山 を開山。1600年に天領 にした石見銀山 等の銀 、1601年に天領にした佐渡金山 等の金 と併せ、銅 もその後の江戸幕府 の主要な財源となる。
慶長16年(1611年 )3月、家康は後水尾天皇 即位に合わせて上洛、同月20日に九男・徳川義利 (義直)、十男・頼将 (頼宣)を参議 中将に、十一男・鶴松 (頼房)を少将に叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう[要文献特定詳細情報 ] 。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重 に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した。
同月28日、二条城にて秀頼と会見した(二条城会見 )。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽 を仲介として上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功した [要出典 ] 。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解がある[137] 。翌4月12日に挙行された後水尾天皇の即位式を、家康は裹頭(僧兵が被る目出しの覆面)でお忍びとして見物、式後に義直・頼宣と共に改めて参内して即位を賀した。同日、西国大名らに対して三カ条の法令を示して誓紙を取っており、これにより徳川公儀の天下支配が概ね成ったともいわれる。
同年、ヌエバ・エスパーニャ (現在のメキシコ )副王ルイス・デ・ベラスコ の使者セバスティアン・ビスカイノ と会見し、スペイン国王フェリペ3世 の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、スペイン側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない[139] 。
慶長17年(1612年 )、九条忠栄を左大臣に、鷹司信尚 を関白に推挙する。
慶長18年(1613年 )、イギリス東インド会社 のジョン・セーリス と会見。イングランド国王ジェームズ1世 からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館 の開設を許可した。
慶長19年(1614年 )3月8日、勅使が駿府に下向して家康に孫和子 入内の許可と共に、太政大臣 か准三后 への昇進を勧めるが、家康は太政大臣の贈官 を希望して辞退した。翌9日、秀忠は右大臣 に就任し、豊臣秀頼に官位が追いつく。
大坂の陣
晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は脅威であり続けた[注釈 45] 。なお特別の地位を保持していて実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、関ヶ原の戦い後に西国 に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、同時に秀頼が関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られていた。秀忠の将軍宣下時の官位は内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られており、秀忠を上回っていた。
家康は大坂の周囲にある伏見 、堺 や大和郡山 を直轄領にしつつも、当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、秀吉の遺言を受けて孫娘・千姫 を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた[141] 。
そのような中、慶長12年(1607年 )には結城秀康、慶長16年(1611年 )に加藤清正・堀尾吉晴・浅野長政、慶長18年(1613年 )には浅野幸長 ・池田輝政 など、豊臣恩顧の大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。
そして、慶長19年の方広寺鐘銘事件 をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。
方広寺鐘銘事件
現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字
エンゲルベルト・ケンペル が描いた方広寺 大仏(京の大仏 )のスケッチ[142] ただし、このスケッチに描かれている大仏は、寛文 7年(1667年)に再建された3代目大仏で、秀頼が再建した2代目大仏ではない
大坂の陣 の契機となった方広寺 鐘銘事件は、秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏 )の再建にあたり発生したものだが、方広寺 大仏・大仏殿が何故滅失していたかは以下の通りである。
秀吉は焼損した東大寺に代わる新たな大仏として、京都に大仏・大仏殿を造立した(京の大仏 )。「国土安全万民快楽」をスローガンに、刀狩 で民衆から奪取した刀剣類を大仏造立のための釘・鎹(かすがい)に利用した。この大仏は一応完成したが、開眼供養前に文禄 5年閏7月13日(1596年 9月5日)の慶長伏見地震 で大破し、その後秀吉の命で破却された。大仏殿は地震での倒壊を免れたので、慶長2年(1597)には当時甲斐国 にあった善光寺如来 が、大仏に代わる新たな本尊とするため方広寺大仏殿に遷座させられ、大仏殿は「善光寺如来堂」と称されるようになったが、翌慶長3年には善光寺如来が本国(信濃善光寺 )に還された。豊臣政権は秀吉没後に大仏の再建に取り掛かったが、慶長7年(1602年)12月に大仏鋳造中の失火で火災が発生し、大仏のみならず大仏殿も滅失してしまった。
豊臣氏は秀吉の死後、秀吉の追善供養として、戦乱で荒廃した多数の寺社に寄進を行い、伽藍・社殿の整備を図った(豊臣秀頼の寺社造立 も参照)。主なもので東寺 金堂・延暦寺 横川中堂・熱田神宮 ・石清水八幡宮 ・北野天満宮 ・鞍馬寺 毘沙門堂など、多数にのぼった。慶長12年(1607年 )には、豊臣秀頼 により、豊臣家家臣の片桐且元 を奉行として、再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図されるようになった。通説では、家康が秀頼に方広寺大仏・大仏殿の再建を勧め、それを豊臣方が受け入れて再建工事の運びとなったとされるが、それは豊臣家の財力を蕩尽させるための家康の謀略とされてきた。しかし歴史学者の河内将芳 は、豊臣氏に大仏・大仏殿再建工事費を負担させたのは事実だが、「大仏再建は秀頼と徳川の共同事業で、徳川もかなりの労力を注いだ。幕府は大仏を豊臣一色とは認識せず、東大寺の代わりになるものとして重視したのではないか[146] 。」とし、豊臣と徳川の共同事業であったとしている。河内は『新大仏殿地鎮自記』に以下の記述があることをその証左としている。慶長15年(1610年)6月12日に義演 を導師として大仏殿の地鎮祭が行われたが、この時のことを義演 が著した書が『新大仏殿地鎮自記』である。その書では、工事の大檀那(発注者)について「前将軍昨年(慶長14年)当堂御再興を御下知す、造作料においては、右大臣豊臣朝臣秀頼御下行なり」とあり、先将軍の家康が大仏殿再建の命令を発し、工事費は豊臣秀頼 が負担することになっていた。また工事の棟梁については「番匠大和守(中井正清 ) 前将軍御大工なり、ことごとくみなこの大工がままなり」とあり、家康お抱えの大工中井正清 が工事の全てを取り仕切ることになっていた。上記の記述より河内は、大仏再建にかかる費用は豊臣氏が負担するが、大仏・大仏殿再建工事そのものについては徳川氏が主導権を握ったとしている。
大仏の再建工事については史料に乏しく、いつ行われたか詳細は不明である。大仏殿再建工事については史料が多く残っており、それらによれば、大仏殿の立柱工事は慶長15年(1610年)8月22日から行われ、慶長17年(1612年 )1月29日から大仏殿に屋根瓦を葺く作業が始まった。慶長17年(1612年 )中に大仏殿はほぼ完成し、工事着工から2年足らずという異例の速さで大仏殿の再建が完了したことが分かる。
方広寺大仏・大仏殿の再建が完了したため、落慶供養の段取りを進めることになった。段取りは片桐且元 が進め、武家間では京都所司代 の板倉勝重 や、家康との協議がなされた。しかし落慶供養は武家側だけで決定できるものではなく、朝廷や公家・寺社勢力との協議も必要であった。方広寺は、正式な寺号を持たず(「方広寺」という寺号は江戸時代中期以降に自然発生的に生じたもので、当時は単に「大仏」もしくは「東山大仏」「京大仏」などと呼称されていた)、朝儀を経て創立された寺院ではなかったため(悪く言えば豊臣氏の私的な建造物であった)、正式な寺院となるよう、朝廷との協議がなされた。寺号については「東大寺」とするか、もしくは新たに定めるかなどが候補として挙がっていたが、方広寺の寺号を「東大寺」と定め、方広寺を東大寺の継承寺院とする案も検討されていた。
方広寺再建落慶供養の出席者について、各種史料の記述から、家康が落慶供養に出席するため、上洛する計画であったことが窺える。また『本光国師日記 』には、「秀頼公供養に御上洛」については「いかようにも心次第と」と家康が仰せ出したとあり(慶長19年7月18日条)、秀頼と家康の双方が落慶供養に参加する可能性もあった。
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慶長19年(1614年 )には梵鐘 も完成し、片桐且元 は梵鐘の銘文を南禅寺 の文英清韓 に作成させ、梵鐘に銘文を入れた。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康 」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった[139] [141] 。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛 する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名 )源家康という意味である)、これは後世の俗説である>[141] 。
さらに8月18日、京都五山 の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし」(徳川実紀)と返答したという。
これに対して豊臣氏は、家老・片桐且元 と鐘銘を作成した文英清韓 を駿府に派遣し弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人 を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告 したのである。
この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするために家康が以心崇伝 らと画策して問題化させたものであると考えられているが、当時の諱の常識からすれば不敬と考えられるものであり、また近年研究では問題化に崇伝の関与はなかったとされている[141] [注釈 46] 。なお歴史学者の河内将芳 は、以心崇伝 が著した『本光国師日記 』に、以下のような通説とは逆の記述があることを指摘している。 以心崇伝 が板倉勝重 に宛てた書状(8月22日条)には「文言以下の善悪、市(片桐且元 )存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」とあり、鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元 に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている。
その後、梵鐘は太平洋戦争中の金属供出を免れ、鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。なお江戸時代に、梵鐘は懲罰的措置として地面に置かれ鳴らないようにされていたとする俗説があるが、実際は誤りである(詳細は方広寺 の記事を参照)。
大坂冬の陣
慶長19年(1614年 )11月15日、家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲したが、力攻めはせずに大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うに留めた。徳川軍は木津川口 ・今福 ・鴫野 ・博労淵 などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦い では敗戦を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨 をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲 (石火矢 ・大筒 ・和製大砲 )を放たせ、これがきっかけとなり和睦交渉が行われた。
和睦の締結後、慶長20年(1615年 )1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。
従来の説では、「豊臣方は二の丸、三の丸の破壊を形式的なもので済ませ、時間稼ぎを狙っていたが、徳川方が惣構 を全ての廓と曲解することで強引に工事に参加して、豊臣側が行うとされた二の丸の破却作業も勝手に始め、さらに和議の条件に反して内堀までも埋め立てたため、豊臣側は抗議したが、最初から和議を守るつもりの無い家康はこれを黙殺した」とされていたが、当時の記録には和議の条件は大坂城の「惣構と内堀を含む二の丸、三の丸の破壊」であることが記されており、誤りと言える。二の丸・内堀の破壊を行わないという記述は後世の書でのみ確認できる。また惣構を徳川方が、二の丸・三の丸を豊臣方が破壊する予定だったが、後者の作業も徳川方が行ったことは当時の記録にも記されている。しかし、これに対して豊臣方が抗議を行ったこと、時間稼ぎが目的だったこと、家康が騙すことを目的としたこと等も、後世の書でしか確認はできない。この工事に関係した伊達政宗・細川忠利 ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる。
大坂夏の陣
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三河物語 の原文「彦左衛門申は、何と御状成とも御旗は立申たりと申せば、早御けしきかわりて御わき指をねぢまわさせられて、頭へ埃のかゝり申ほど御杖にて畳をつかせられて、我も見ざるほどに、莵角に立間敷と重々御状なれども、何と御状成共御旗は立申と強く申はりたれば、御状には、其儀ならば何としたるぞと御状之時、ちやうす山の方より崩れて来り申者が、御家中の旗、やり、又は御鑓共にふみくづして御旗斗立て罷在と申上ければ、然者何としたると御状の時、ちやうす山方より参たる者は御前の方へ参而、御前の方がくづれ申と申ける時、弓矢八幡今日の天道我が一代迯げたる事もなきを、あれめが我をにげたると云。大久保七郎右衛門が性の強きに、大久保次右衛門がこわきに、兄弟一のぢやうの強きやつめなり相模をも我が助けておきたる。あれめが情のこはき事を云と御意被成て、城内のひゞくほど御声のたかければ、各々何事にやと申て肝を消す」があります。
このころ、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし、内堀を掘り返す仕儀に出た。そのため幕府は「豊臣氏が戦準備を進めている」と詰問、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。さらに、徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、近畿方面に大軍を送り込んだ。そして、豊臣氏に要求が拒否されると、再度侵攻を開始した。
これに対して豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、幕府方は各戦闘で勝利を収めた。最終戦の天王寺・岡山の戦い においても徳川軍は大軍ゆえに混乱が起きて一時は本陣を下げたが、結果は大勝を収め、豊臣方は大坂城に退却・内部の裏切りにより放火もあり落城した。5月8日、秀頼と淀殿、その側近らは自害、ここに豊臣宗家は滅亡した。
その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神 の神号が廃され、豊國神社 と秀吉の廟所であった豊国廟 は閉鎖・放置されている。明治維新 の後に豊国大明神号は復活し、東照宮 にも信長や秀吉が祀られるようになっている。
最晩年
鷹狩り 姿の徳川家康公之像(駿府城 本丸跡)
慶長20年(1615年 )6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王 を猶子とする。元和 元年(1615年 )7月17日、禁中並公家諸法度 17条を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度 ・一国一城令 が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。
同年12月、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津の柿田川 の湧水にある古城泉頭城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前1月12日に諸人が迷惑するとの理由で中止し、駿府城二の丸にある元竹腰正信 屋敷の改築に方針転換したが、これも体調悪化・死去により立ち消えになっている[159] 。
元和 2年(1616年 )の年始より、幕府による各種儀礼整備の一環として武家諸法度の条文に従い、江戸城・駿府城共に登城する者には烏帽子・装束(狩衣・大紋・素襖)の着用が命じられた。1月9日、前年12月の段階では京で行う意向だった孫家光の元服を、吾妻鏡に倣い勅使の下向と共に自身も江戸に向かい同地で行うことを秀忠に伝えた。
同月21日、鷹狩 に出た田中 で病に倒れ、小康状態となった25日に駿府へ帰還した。その後、療養生活に入るが、病状は一進一退をたどりつつも徐々に悪化していった。
3月27日、朝廷から太政大臣 に任ぜられ、病を押して任官の勅使と対面した。先述のように家康はかねてより太政大臣の贈位を希望していた。武家出身者の太政大臣としては、平清盛 、源義満(足利義満 )、豊臣秀吉に次いで史上4人目であった。これ以後は駿府の相国様と呼ばれる。同月29日、勅使饗応後に駿府に集まった大名・公家衆へ江戸下向・帰洛を命じた。任官後、家康の病状はいよいよ悪化し、4月1日には後述する遺言を遺した。
最期
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東照宮御実紀附録 の家康による外様大名への遺告原文「わが命旦夕に逼(せま)るといへども、将軍かくておはせば、天下の事心やすし、されども、もし将軍の政道その理にかなはず、億兆の民艱困することもあらむには、誰にてもその任にかはらるべし、天下は一人の天下にあらず、天下の天下なりと聞けば、たとひ他人天下の政務をとりたりとも、四海安穏にして万民その仁恩を蒙らば、これ元より家康が本意にして、いさゝか憾(うら)みおもふ事なし、われ死せば、いづれも先帰国して、将軍の指揮に従ひ、江戸に参観すべし」があります。
元和2年(1616年 )4月17日 巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳(満73歳4か月)で死去した。即夜、久能山 に遺体は移された。死去に際して幕府は、大名・旗本に対して家康弔問のための下向は無用と伝え、寺院に対しても後述する遺言で法事を行う増上寺以外の法要は不要である旨を伝達している。
『東照宮御実記 』が伝えるところでは、以下の2首を辞世 として詠んでいる。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
死因については、鯛 を榧 の油で揚げ、その上にすった韮 をふりかけた天ぷら による食中毒 説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日 の夕食で[注釈 47] 、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは胃癌 説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、吐血 と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている[161] [162] 。
後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌 であるという説明がなされることもあるが、実際には、大奥 の侍女 の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである[注釈 48] 。
当時、殉死 は彼の子忠吉や秀康の死去時にも行われたように、既に流行の兆しが見えていたが、家康自身は殉死を嫌い禁じていた。このため名のある者の殉死はなかったが、古くから仕えた老齢の小者2人が殉死したという逸話がある。
没後
家康の神格化
『本光国師日記』によると、家康は「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」と遺言したとされる。この遺言に従い、葬儀は5月17日に増上寺で行われ「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗の戒名がつけられた。この葬儀は神として祀られたため内々で行われ、諸大名の参列・香典は無用、僧も近国からのみの参集であった。
遺体 は駿府 の南東の久能山 (現久能山東照宮 )に葬られ、遺言通り、一周忌 を経て関東平野 の最北部にある日光 の東照社 に分霊された[164] 。天海指揮による日光への改葬説が、幕府文献などにも「改葬」と記述されていたため広く信じられてきたが、近年になってその矛盾を指摘する議論・研究が盛んとなり、日光へ運ばれた「神柩」[注釈 49] の中に遺体はなかったとする説が有力となっている。
神号は側近の天海 と崇伝 、神龍院梵舜 の間で、権現 と明神 のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神は不吉とされ、山王一実神道 に則って薬師如来 を本地とする権現とされた。この後、壬生孝亮 が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つを示し、また一説によると菊亭晴季 も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した。日本大権現 が有力候補であったが、元和3年(1617年)2月21日に東照大権現 の神号、3月9日に神階 正一位 が贈られる。
また、東照社は今川直房 と酒井忠勝 の尽力により正保 2年(1645年 )11月3日に宮号宣下があり、東照宮 となり[注釈 50] 、さらに東照宮に正一位の神階が贈られた。
以上のように神格化された家康は江戸幕府の始祖として東照神君 、権現様 、神祖 [167] 、烈祖 [168] などとも呼ばれ、諸大名が東照宮を勧請したことにより全国各地に祀られ、江戸時代を通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた。
墓所・霊廟
徳川家康の埋葬地としての「墓所」は一般に、久能山東照宮 の廟所宝塔(神廟)と、日光東照宮 の奥社宝塔の2つとされる[169] [170] [171] [172] 。徳川宗家 第18代当主の徳川恒孝 は、「徳川家康公顕彰四百年記念事業」に際して静岡商工会議所の広報誌に連載したコラムで、「日本各地で開催された家康公の四百忌の大祭は、駿府で築かれた公の御墓所である久能山東照宮の大祭からスタートし」と書き記した[173] 。徳川将軍15人中寛永寺 か増上寺 のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光 と徳川慶喜 がいる[注釈 51] 。
久能山東照宮の廟所宝塔
元和2年(1616年)に創建された。創建当初は木造桧皮葺の造りであったが、寛永17年(1640年)に家光により現在の石造宝塔に造替された。「神廟」ともいう。家康の遺命により西向きに建てられている[174] 。1955年6月22日に重要文化財に指定された[175] 。
日光東照宮の奥社宝塔
元和3年(1617年)4月に日光の社殿が完成し、4月8日に家康は奥院廟塔に改葬された。そして一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。1908年8月1日に旧国宝(重要文化財)に指定された[176] 。
その他
寛永20年(1643年)、将軍家光は高野山 に10年の歳月をかけて、家康と秀忠を祀る霊屋 (徳川家霊台 )を建てた。向かって右の建物が家康霊屋である。1926年4月19日に旧国宝(重要文化財)に指定された[177] [178] 。
1969年4月、松平氏 の菩提寺 である愛知県 岡崎市 の大樹寺 において、松平八代墓の隣に家康の墓碑が建てられた[180] 。形は久能山東照宮の廟所宝塔にも日光東照宮の奥社宝塔にも似ているが、実際には日光東照宮の宝塔を模して制作された[181] [182] 。
年表
※天正15年(1587年)8月8日付の「従二位 権大納言 昇叙転任」の宣旨 では豊臣家康 の名義でなされた可能性がある。同日付で息子・徳川秀忠も侍従 に任官 しているが、これは豊臣秀忠 名義となっている(「秀忠公任官位記宣旨宣命下書留」(宮内庁書陵部 蔵本))。同様に、同年12月28日付の「左近衛大将 左馬寮御監 両官職 兼帯」の宣旨、慶長元年(1595年)5月8日付の正二位 内大臣 の昇叙転任の宣旨についても豊臣家康 の名義であったと考えられる。現存の日光東照宮 所蔵の徳川家康の任官叙位 の宣旨は、元の宣旨が遺失したため(徳川実紀正保2年5月8日条)、正保 2年(1645年 )に将軍・徳川家光の要請により朝廷 が再発行した文書として伝わっており、この再発行手続きの段階で豊臣 から源 に変更した可能性がある。
※天正15年(1587年)12月某日、従一位行左大臣近衛信輔、左近衛大将兼帯を辞す(公卿補任)。同月28日、従二位行権大納言徳川家康、左近衛大将・左馬寮御監を兼帯(日光東照宮文書)。天正16年(1588年)正月13日、従二位行権大納言鷹司信房、左近衛大将兼帯(公卿補任)。これにより、同日までに徳川家康、左近衛大将および左馬寮御監の兼帯を辞すと想定出来る。なお、文禄5年(1596年)5月8日付、家康に対する内大臣宣旨(日光東照宮文書)においては、家康の官位は、正二位行権大納言兼左近衛大将源朝臣家康となっているが、公卿補任では、家康の左近衛大将の兼任記事は無く、権大納言鷹司信房が左近衛大将を兼任している記事となっている。
※文禄3年(1594年)9月21日付、「文禄三年徳川家康宛豊臣秀吉知行方目録」(三重県関町の関地蔵院文書:四日市市史第8巻史料編近世Ⅰ 四日市市編・発行所収)によれば、宛名(家康)は、「羽柴江戸大納言殿」となっており、この時点では、羽柴の苗字を賜わっていたと考えられる[184] 。
さらに、その前年、文禄2年(1593年)5月20日に羽柴姓を使用している。東京国立博物館所蔵文書[184] 。
人物・逸話
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東照宮御実紀附録 の原文「合戦に臨ませ給ひ、はじめの程は采もて指揮し給へども、戦烈しきに及むでは、御拳もて鞍の前輪をたゝかせられ、かゝれ
〳 〵 と御下知あり、はてには御指のふしぶしより血ながれ出づるを、戦畢りて後、御薬附けさせ給ひても、いまだ癒え給はざるうちに、又かくのごとくなれば、後々に御指の中ふし、四つながらたこになり、御年よらせらるゝに及むでは、御指こはゞりて、御屈伸もやすらかにおはせざりしとぞ、〈岩淵別集、常山紀談、〉」があります。
久能山東照宮 にある、徳川家康の手形
徳川家康像(芝東照宮 蔵)
徳川家康像(岡崎公園 )
徳川家康像(東岡崎駅 前)
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東照宮御実紀附録 の徳川家康による武辺評「(家康の)近臣等大坂の事語り出でしに、五日・六日若江の戦に、井伊掃部頭直孝が家人三人して、敵を相打にせしといふ、直孝検察せしに、両人の相打に極り、一人は言葉たがひしとて、咎めしといふを聞かせられ、(家康が言うには)いづれもよく承れ、すべて何事も余地のあるをもてよしとす、あまりに切詰めしはよからず、わきて武辺のことは猶更なり、むかし織田右府いまだ微弱のとき、いづれの戦にか、佐々内蔵助成政・前田又左衛門利家両人して、敵一人を突ふせしに、成政、利家に向ひ、其首とられよといふ、利家、われは敵を突倒せしまでなり、はじめに鎗つけしは御辺なれば、御辺こそ首とられよと、かたみにゆづり合ひし所へ、柴田修理亮勝家はしり来て、さまで辞退の首ならば、我給はらむとて首をあげて、おの
〳 〵 も来られよといひつゝ、三人打連れ、右府の前へ来り、そのよしいへば、右府大に感賞せられしとか、此三人などは武辺に余地がありて、いと優なる事と仰せられき、〈駿河土産、〉」があります。
人物
容貌
家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロ は、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録 』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女 に結ばせていたとされている(『岩淵夜話』)。家康着用の辻ヶ花染の小袖 は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される。
武術の達人
剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱 の新陰流 の流れをくむ神影流[注釈 54] 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。文禄 2年(1593年 )に小野忠明 を200石(一刀流 剣術の伊東一刀斎 の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年 )に新陰流の柳生宗矩 [注釈 55] を召抱える。塚原卜伝 の弟子筋の松岡則方 より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流 を学んでいる。小田原征伐の際に橋をわたるとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った(『武将感状記』)。
弓術については三方ヶ原の戦い において退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射 で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語 』『中庸 』『史記 』『貞観政要 』『延喜式 』『吾妻鑑 』を好んだ」と記載している。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版 (伏見版 )で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し[188] 、また林羅山に抄出本を作成させており[189] 、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語 』の教授を受けたり、三浦按針 から幾何学 や数学 を学ぶなど、その興味は幅広かった。
古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは将軍家や御三家に譲られて「駿河御譲本 」と呼ばれ、幕府の紅葉山文庫 や尾張家の蓬左文庫 などに受け継がれ、今日まで伝わっている。
南蛮から贈られた薄石が瑪瑙 と知らされたおり、『本草綱目 』で確認させたように実証的であった。
多趣味
鷹狩 と薬 作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。
鷹狩は、府中御殿 に滞在しながら[注釈 56] お鷹の道 で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名[191] や青山忠成 や内藤清成 の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)[193] 。
薬 作りは、八味地黄丸 など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。「薬喰い」とも言われる獣肉 を食すなど記録が多い。駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。
猿楽 (現在の名称は能 )は、若いころから世阿弥 の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞 を好んだという。駿府城三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。
囲碁 の本因坊算砂 を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌 が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂 に顕彰されている。
将棋 は一世名人・大橋宗桂 に慶長17年(1612年 )に扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年 )の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される[194] 。
香道 を好み薫物 ( たきもの ) の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅 を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている[195] 。なお有名な蘭奢待 については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純 と大久保長安 が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し[196] 、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)[196] 。
新しいもの好き
関ケ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足
南蛮胴 、南蛮時計 など新しい物好きだった。
芸事は好まない
今川家での人質時代に今川義元 に舞を所望されたが、猿楽 にして欲しいと請い唖然とさせた。家臣が代わりに舞っている。
家康は幼少期より茶の湯 の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない[198] 。家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物 の名物・大名物が目白押し[199] だが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅 と上林政重 に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花 』を献上し、政重は後に宇治の茶畑 の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
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甲陽軍鑑 の原文「家康家老
本多百介 と云剛の武士むすこを、未の九月もち候所に此子
三ツ口 なりとて家康
山県 と名を付候」があります。
家康は、中国の人物として劉邦 、唐の太宗 、魏徴 、張良 、韓信 、太公望 、文王 、武王 、周公 を尊敬している。着目すべきはすべて周 ・漢 ・唐 時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝 を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄 に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。軍令に関しては重臣・石川数正 の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉 と名乗らせ水戸藩 を治めさせている。
書画
『翁草 』(神沢貞幹 )や『永茗夜話』(渡辺幸庵 )には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。こうした文書類には、普通右筆 が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。天正年間 には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流 を好み、藤原定家 筆の小倉色紙 を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになるが、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している[200] 。ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画 が10点余り伝わっているが、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。しかし、『寛政重修諸家譜 』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯 と魚 を好み、野菜 の煮付けや納豆 もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。酒 は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
和漢の生薬 にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目 や和剤局方 を読破し、慶長12年(1607年 )から、本格的な本草研究に踏みだした[195] 。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸 を特に好んで処方して日常服用していたという。松前慶広 から精力剤になる海狗腎 ( オットセイ ) を慶長15年(1610年 )と慶長17年(1612年 )の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)[195] 。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸 を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏 が薬師如来 となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店 は今も現存する。
晩年には心身の健康のために東南アジアから香木を集めていたという[201] 。
しかし、晩年に病に倒れた際には、介抱した侍医頭の片山宗哲 は診察の結果「胃癌 」であると突き止めたものの[202] 、家康本人は寸白(サナダ虫) の固まりであると誤った自己診断を下してしまう。宗哲の調合した薬は服用せず、自身で調合した万病丹や銀液丹などを飲み続けるも、効果は無く病状は悪化を続けた。父を心配した秀忠は万病丹の服用を諫めてもらうよう宗哲に頼み、同じことを思っていた宗哲は服用を控えるよう家康に進言した。
すると薬学研究者のプライドを傷つけられた家康は顎を震わせて怒りだし、宗哲を信州高島藩 へ流罪にするという暴挙に及んだ。日頃養生に細心の注意を払い、「御医師家康」と言われるほど医療に自信を持っていた家康が人生の最後にきて誤診により寿命を縮めてしまったのは皮肉といえる[203] [204] 。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、家督相続後は三河一向一揆において多数の家臣に裏切られている。また、小牧・長久手の戦い 後には重臣・石川数正 にも裏切られている。働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず利己的でプライドが高い。結束も縁故関係による所が大きい。腹心以外の家臣団との交流は少なく家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
倹約
家康の倹約にまつわる逸話は多い。
侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
商人より献上された蒔絵 装飾を施した御虎子 (便器)の悪趣味さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
蒲生氏郷 は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家 をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『 老人雑話 』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約 と評している。例えば『信長公記』に記された織田信長 の接待においては京から長谷川秀一 を招いて趣向を凝らした接待を行っている。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られているが、これは偽作である。明治 時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀 の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押 文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟 らが日光東照宮 など各地の東照宮に収めた[205] 。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓 』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就 )が元和 の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書 とされている。
織田家との関係
平野明夫は家康宛の信長書状は元亀四年四月六日までは書止文言は恐々謹言で宛名の脇付も進覧ないし進覧之候とあるが天正五年一月二十二日付以後の書止は謹言になり、脇付は無くなっている。これを等輩に対する書札礼から下様への書札礼に変化していると分析している。
また家康から信長への書状は天正二年九月十三日付けの書止文言は恐々謹言だが、天正二年閏十一月九日付以降は最高位の恐惶謹言が用いられていてしかも脇付は最高の敬意を示す「人々御中」が用いられている。
これを持って平野は家康は一門に準ずる織田政権下の一大名であったと締め括っている。
谷口克広 も武田家滅亡の際に駿河が信長から家康に宛行いを受けたと書いてあるのは信長公記だけでなく当代記にも「駿河国家康下さる」とあるうえ、三河物語でさえも、「駿河をは家康へ遣わされて」という表現を用いているとし家忠日記でもこの頃の信長を「上様」と呼んでおり、家康の家臣でさえ、縦の関係が生じていることを認めざるをえなかったとしている。
その他
居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期および桶狭間の戦い後10年と極めて短い。
幼少から持っていた洞察力
「教導立志基」より『徳川竹千代』、小林清親 筆
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川 の河原で子供達の石合戦 を見物した。150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかったが、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年 )、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画 の紙形 (下絵)が公開された[209] 。家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史 』では、「信長の姉妹を娶り」とあり[210] 、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変 直後の神君伊賀越え では伊賀 ・甲賀忍者 の力添えを受けて三河国 まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏 の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかったが、城主・多羅尾光俊 が赤飯 を与えたところ、信用して城で一泊した。その後は伊賀の豪族 ・百地氏、服部氏 、稲守氏、柘植氏 の柘植清広 等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官 に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸 へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
影武者説
大坂夏の陣 の際に家康は真田信繁 に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者 が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。一説に異母弟の樵臆恵最 もしくは小笠原秀政 ではないかといわれる。大阪府堺市の南宗寺 には家康の墓とされるものがある。徳川家康の影武者説 も参照。
源氏への「復姓」時期について
家康は永禄 4-6年ごろの文書では本姓 として「源氏」を使用しており、永禄9年(1566年 )に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓しているが、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから、関ヶ原の戦い の勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用[注釈 58] して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった[69] 。
しかし米田雄介 が官務 壬生家 の文書を調査したところ、天正20年9月の清華成 勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。笠谷和比古 は、天正16年4月の後陽成天皇 の聚楽第 行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「大納言 源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている、
他に天正 14年(1586年 )、安房国 の里見義康 (新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている[217] 。また、天正14年には藤原氏を用いた寺社への朱印状 も残っている。天正19年(1591年 )、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源朝臣 」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。
笠谷は家康が源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭 の出家時期と重なっており、左馬寮御監 ・左近衛大将 など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権 下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している。阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、さらに清和源氏(河内源氏 )の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家 に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している[108] 。
江戸幕府の支配に関して
徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日 (1609年 8月24日 )付
家康が礎を築いた徳川将軍家 を頂点とする江戸幕府 の支配体系は、それまでの日本を統治したどの組織よりも極めて [独自研究? ] 完成度の高いものである。江戸幕府は京 、大坂 、堺 など全国の幕府直轄主要都市(天領 )を含め約400万石、旗本 知行 地を含めれば全国の総石高 の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩 ・譜代 大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山 など重要鉱山 と貨幣 を作る権利も独占して貨幣経済 の根幹もおさえるなど、他の大名 の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社 、朝廷 、そして皇室 までをもいくつもの法度 で取り締まり支配した。これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易 (取り潰し)の憂き目にあっており[注釈 59] 、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件 などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名に対しても参勤交代 などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。
このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上におよぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。
後の鎖国 政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末 まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もある。ただし、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明 が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名への官位 の授与を禁止し、禁中並公家諸法度 を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。大坂冬の陣 の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命 による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。さらに家康は秀忠の五女・和子 を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年 )まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。
一族・譜代の取り扱いに関して
息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。 [誰? ]
長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。
関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また、秀忠の生母である於愛(竜泉院)は、築山殿の死後に家康の正室とされていた時期があったのではないかとする新説も出されており[220] 、この説が正しければ秀忠の後継はかなり早い時期からの既定路線であったとも考えられる。なお、秀康の子・松平忠直 には、秀忠の娘・勝姫 を嫁がせている。
忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家 並の所領(越後国 ・高田55万石)が与えられていた。
しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の陣で真田信繁 (通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げたが、論功行賞に不満を言い立てた。家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前 福井藩 を継いだのは忠直の弟・忠昌 であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。
徳川四天王 である本多忠勝 や榊原康政 を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣 を改易・失脚させている。しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝 が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政 と孫・本多忠刻 に自分の孫・熊姫(松平信康 の娘)と千姫 を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。大久保氏 も忠隣の孫・忠職 は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝 は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。ただし、忠職が家康の曽孫であるから、という見方もできるのも否めない。しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。
家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大岡弥四郎 を鋸引き という極刑で処刑している。大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正 を促したとする見方もできる。さらには、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。
また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重 に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。
家康と同時代の人々
家康は、武田信玄を尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ[注釈 60] 。その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やすこともなかった[注釈 61] 。家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。
そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権 の不備もあって天下人 となった。とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。
その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り 」と賞賛されたと伝わる[221] [222] [223] 。
家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の戦い では開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番の野々村四郎右衛門が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓 に侵入者が何者か尋ねるが、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物 の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方の孕石元泰 を後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。
情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。例えば三方ヶ原の戦い で家康の身代わりとなって討死した夏目吉信 の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に真田信之 、本多忠勝 らの決死の嘆願で真田昌幸 と真田幸村 を助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士 が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実 」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆 を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代 だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、さらには英国人ウィリアム・アダムス (外国人に武士として知行 を与えた[224] のは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。
家康と宗教
ウィキソースに
東照宮御実紀附録 の原文「本願寺の光佐が先妻の腹に設けし嫡子を光寿といふ、後妻の生みし次子を光照といへり、光佐が死せし後豊臣太閤その後妻が美婦の誉高きを聞及ばれ、召寄せて寵眷せられたるより、光照をもて光佐が嗣とし、本願寺を継がしめ、光寿をば早く隠居せしめ、真常院とて子院の住職となさしむ、光寿も我身犯せる罪もあらで面目を失ひしを、君にも兼ねてさるまじき事とおぼしめしたり、さるに此度の戦(関ヶ原)の前に及び、光寿京を出で関東へ赴き、金川の御旅館にて見え奉り、愚僧が門徒の者ども美濃・近江の間にあまた候へば、此度彼等に一揆を起させ、御味方をなさしめむと申せば、君その心ばえは奇特に思召せども、一揆の事はまづ無用にいたされ、御僧は是より江戸に赴きて滞留せらるゝとも、又は上方へ帰らるゝとも、心まかせにせらるべしと仰せられたり、其頃黒田長政もまた、一向門徒をして上方に蜂起せしめむと勧め奉りしに、われ賊徒を誅するに、何とて法師の力をからむやとて聞かせ給はず、其後慶長七年、光寿が事不便に思召し、殊更の御執奏にて光寿を門跡になぞらへ、別に東六条に伽藍を営建して、一刹を開かしめ給ひしかば、光寿は弥陀如来の弘慈も是には過ぎじと、世にかしこき事と思ひ、これより此宗東西両派に別るゝ事とはなりしなり、〈岩淵夜話、〉」があります。
戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗 は第11世門主・顕如 の死後、顕如の長男・教如 と三男・准如 が対立し、教如が独立する形で東本願寺 (真宗大谷派 )を設立、後にこれに対して准如が西本願寺 (浄土真宗本願寺派 )を設立し、東西本願寺に分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。
現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とする一派と教如を法主とする一派に分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している[225] 。
東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺 と興正寺 が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。
ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年まで参謀として活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。
また、同様に町衆 に対し強い影響力を有する日蓮宗 に対しても、秀吉が命じた方広寺 大仏殿の千僧供養時に他宗の布施 を受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派 の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥 を対馬国 に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経 らを耳・鼻削ぎの上で追放した。家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。
これら新興の宗派以外の古い天台宗 ・真言宗 ・法相宗 にも独占した門跡 を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗 の知恩院 を門跡に加え、さらに天台宗の関東における最高権威として輪王寺 に門跡を設けた。これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。
一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件 や岡本大八事件 を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。
家康の死後、幕府は寺請制度 等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。
近現代における評価
家康は江戸期を通じて神格化され[226] [227] 、否定的評価は禁じられており、自由な評価が解禁されたのは江戸幕府が崩壊した明治維新 後である。山岡荘八 の小説『徳川家康 』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。
司馬遼太郎 は家康について記した小説『覇王の家 』あとがきで、家康が築いた江戸時代 については「功罪半ばする」とし、「(日本人 の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験したが、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。
2000年 に朝日新聞社 が実施した識者5人(荒俣宏 、岸田秀 、ドナルド・キーン 、堺屋太一 、杉本苑子 )が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、家康が得票数で1位を獲得した[228] 。
遺品
死去時における家康の遺品は「駿府御分物」として秀忠や側室・娘・孫に一部が、残りの大部分が御三家に分与された。尾張家と水戸家にはその目録があり、大雑把な分類を下記する[229] 。
武具類 刀剣・薙刀・槍・弓・鉄砲・拵装剣具・甲冑・旗幟・幕・法螺貝・陣太鼓・軍配・采配・馬印・陣中使用調度・馬具・鷹狩道具
金銀道具 風炉・釜・天目茶碗等の茶の湯道具一式・香箱・香盆・盃等
御数寄屋道具 茶壺・茶入・茶碗・釜・花活等の茶の湯道具・掛物・歌書・香道具類・文房具類
能狂言道具 面・衣装・腰帯・髷帯・被服・小道具・楽器等
振舞道具 茶碗・皿・徳利・盃・盆・膳・椀等
調度類 碁将棋道具・屏風・各種箱類・敷物・鋏・爪切・望遠鏡・ビードロ鏡等
衣類反物類 小袖・羽織・帷子等衣服類、絹・木綿・麻等反物類、糸・綿類
その他 紙・蝋燭・香木・薬類・薬道具等
これらの大半は長い年月の内に使用・贈答・破損等で失われたが、それでも多くの遺品が残存している。この他に生前家臣等へ下賜したものを含めれば、他の人物とは比較にならない多種多様な遺品が伝来している。
刀剣
「駿府御分物」目録に記載された刀剣・薙刀・槍の総数は1,172点を数える。この内、目録の記述が簡略なため現存品と確認できるのは少なく100点、刀剣85点中国宝・重要文化財・重要美術品指定42点、御物4点、また名物は40点を数える。
家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真 」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣 に備えるために、伊賀守金道という刀工に1,000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。
一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国 桑名 (現在の三重県 桑名市 )の刀工、千子村正 (せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である[231] 。
家康自身も村正の打刀 と脇差 を所有し、これらは尾張徳川家 に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館 に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。家康がこの大小 を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている[注釈 62] 。この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」や短刀「夢告(むこく)」などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている。
お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助 (元今川氏 のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。
なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている[231] 。村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正#妖刀村正伝説 )で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けたが、そうした伝説は家康の死後に発生したものである[231] 。徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。
妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。
『三河後風土記 』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎 が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。これは正保 年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長 15年(1610年)に平岩親吉 が自ら著した神君家康の真実と信じられていた。
家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった[231] 。仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく[231] 、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。
甲冑
伊予札黒糸威胴丸具足
金溜塗具足
文字威胴丸具足(兜は別品)
家康所用とされる甲冑は多数伝来しており、記録伝承が確実なものだけで10領が現存する。
代表的なものとして上述の「南蛮胴 具足」(下賜品含め5領、他兜のみも有)、「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(2領、内1領は兜欠)[240] 、「金溜塗具足」(2領)などが伝来している。
当時の武将は存在を誇示するため派手な甲冑や前立を好んでいたが、家康が大坂の陣 で使用した歯朶具足は飾りが少ない漆黒の甲冑は「現代刀」と共に家康の気質を表しているとされる[241] [240] 。一方で、金色の「金溜塗具足」や「金小札緋縅具足」[242] 、水牛の角を立物として熊毛を植えた「熊毛植黒糸威具足」[243] 、一の谷と大釘を組み合わせた立物に銀箔と白糸による総白色の「白糸威一の谷形兜」[244] 、華麗な姿や桐紋から当初は秀吉所用と思われた「花色日の丸威胴丸具足」[245] 等派手な甲冑も多数伝来しており、実際には多種多様な甲冑を着用・所持した。
また家康は秀吉と同様に欧州に甲冑を贈っているが、オーストリア アンブラス城 にある「文字威胴丸具足」は「日本の皇帝及び皇后が神聖ローマ皇帝 ルドルフ2世 」に贈った品と記録がある。この具足は先述の「花色日の丸威胴丸具足」や1613年に秀忠がイギリス国王ジェームズ1世 に贈った甲冑等の家康やその近辺の甲冑と同一の特徴があり、1608年から1612年に家康が贈った甲冑とされる。この甲冑は胴前面と左袖に「天下」、胴後面と右袖に「太平」の文字が紅糸で縅してある[246] 。
衣服
目録記載の主な衣類として小袖2,746領、単物2,258領、糸490貫がある。生前の下賜品を含めた現存品は180点を超え、その種類も羽織・胴服・陣羽織・小袖・綿子・下着・カルサン・小袴・襟巻・長裃・裃・肩衣・帷子・浴衣・紙子・下帯・足袋、素材も絹・天鵞絨 ・羅紗 ・革・麻・紙と多彩である。
衣類の中でも辻ヶ花 の小袖は技術的・美術的にも価値が高い遺品が多く、「葵梶葉文染分辻が花染小袖 」のように重要文化財に指定された品も多い。『慶長板坂卜斎記』には家康が家臣へ数多くの小袖(年間に9から14・15領)を下賜した結果、天正末から文禄に掛けて小袖が天下に広まったとして、日本衣装が結構な事は家康に始まるとして、日本建築が結構な事は秀吉に始まると対比させている。
例として「練緯地白紫段葵紋散辻が花染陣羽織」[247] は天正10年(1582年)伊賀越え時の下賜品とされ時期が判明する最も古い衣装であり、慶長15年(1610年)に下賜された「白練緯地松皮菱竹模様小袖 」[248] は半世紀以上後に流行した寛文小袖 とする説も出た斬新なデザインである[249] 。また大破した残欠を化学分析した結果、黄金色に復元された「黄金色地葵紋波兎文辻ケ花染羽織」[250] は地味と言われる家康の趣向に対する認識を大きく変えた。
蔵書
家康の駿府城中にあった文庫「駿府御文庫」に収められた蔵書は、「国内の旧記・稀覯本」は将軍家に収められ「紅葉山文庫 」の基となった。残りは前述のように御三家に相続され、この内尾張家に収められた分は「蓬左文庫 」の基となった。
将軍家相続分は「先代旧事本紀 」・「古事記 」・「釈日本紀 」等国書が多く、史書・故実書が大半を占めるが、漢詩文集や漢籍 (史書が殆ど)もある。これらの多くは社寺・公家・院御所等から得られたもので、概算で51部1,200冊を数える。御三家の内、目録のある尾張家の分は378部2,838冊、水戸家の分は180部907冊とされる。「駿府御文庫」の収蔵数は約1,000部7,800冊と推測され、これとは別に林羅山へ預けた分は記録がある漢籍800部に和書を加えれば1,000部になると推測される。
蔵書の分類は漢籍が8割、和書が2割とされ、学問書が多くを占めている。これらの蔵書は江戸幕府による文治政策の基礎を成したと見られる[251] 。
一族縁者
家康は2代将軍・徳川秀忠 の父、3代将軍・徳川家光 ・水戸藩主 水戸光圀 らの祖父、4代将軍・徳川家綱 、5代将軍・徳川綱吉 、徳川綱重 (6代将軍・徳川家宣 の父)、8代将軍・徳川吉宗 の曽祖父に当たる。家康の実子では、六男の松平忠輝 が最も長く生きた。家康の存命中に玄孫 も生まれており、家康の曽孫の敬台院 が蜂須賀至鎮 に嫁いで産んだ三保姫 と蜂須賀忠英 と正徳院 の他、家康の曽孫同士で結婚した小笠原忠脩 と円照院 の間の齢昭院 と小笠原長次 、家康の曽孫の栄寿院 が有馬直純 に嫁いで産んだ有馬康純 が該当する。
偏諱を与えた人物
功績のあった臣や元服する者に自分の名の一字(太字)を与えた。
関連史料
同時代の人物による記録
編纂物(資料的価値が高いとされるもの)
関連作品
小説
山岡荘八 著『徳川家康 』第1巻
明治時代以降に形成されていた老獪な陰謀家という家康像を、その一生涯を通じて描くことによって一新した長編小説。
本作を原作としたメディア展開作は多く、最初の映像化は1964年 のNET(現・テレビ朝日)テレビドラマ『徳川家康』で主演は市川右太衛門 、青年期を市川の息子の北大路欣也 が演じている。1965年 公開の映画『徳川家康 』(東映、監督:伊藤大輔 )では再び北大路欣也が家康を演じた。1970年 には日本テレビ で『竹千代と母』という題名で放送されて家康を中村光輝 が演じ、1975年 にはNETで少年期が『少年徳川家康 』としてアニメ化、1982年 から1984年 には横山光輝 によって漫画『徳川家康』が連載された。1983年 にはNHK 大河ドラマ 『徳川家康 』が滝田栄 を主演として1年間放映され、1992年 にはテレビ朝日 の『戦国最後の勝利者!徳川家康 』で再び北大路欣也が家康を演じている。
※上記三作品は「家康三部作」とも呼ばれる。
高橋直樹
『最後の総領・松平次郎三郎』 (1995年、講談社、後に『若獅子家康』と改題されて講談社文庫)
伊東潤
『峠越え』(2016年、講談社、徳川家康最大の切所「伊賀越え」を描いた小説)
『天地雷動』(2016年、KADOKAWA、長篠合戦を描いた小説)
上田秀人
『夢幻』(2020年、中央公論新社、徳川家と織田家の因縁を描いた小説)
今村翔吾
『幸村を討て』(2022年、中央公論新社、大坂の陣の謎に探偵役として家康自身が迫る小説)
『竹千代の値』(『戦国武将伝 東日本編』収録、2023年、PHP研究所 )
安部龍太郎
映画
主人公達を導き、主人公の人生を転換させる重要人物であり、戦国時代の世を治める者として描かれている。
テレビドラマ
主役作品
登場作品
主人公である織田信長 の盟友として登場し、情に厚く、哀愁漂う人物として描かれている。
主人公である直江兼続 にとっての好敵手として家康が登場し、悪役ではあるが人間味のある姿が描かれている。
主人公である江 にとっての後見人的存在として家康が登場する。
主人公・真田信繁 にとっての生涯の宿敵として登場するが、単純な悪役ではなく、喜怒哀楽を交え戦国大名として悩み苦しみ成長しながら真田家に対峙していく様子が描写されている。真田家の人物が直接関与しない事項は歴史上重要な事象でも大胆に割愛する作品構成にあって、家康側の事情は(真田家の人物が登場しなくとも)一続きの場面として取り上げられている。
主人公は井伊直虎 。家康は、共に今川家配下であった時代から、その動向の如何が井伊家にとって影響の大きい人物として設定されており、遠江への侵攻による井伊家の消滅や、直虎の養子である井伊虎松 の出仕など、幼少時から天正壬午の乱後の北条との同盟までの関わりが描かれている。
主人公・明智光秀 との関わりがあった重要人物として登場する。家康の幼少期から今川氏や織田氏との関わりが描かれている。
ドラマの案内役として主に番組冒頭で登場して、歴史上の出来事やその背景についてカメラ目線で視聴者に解説する。幕末から大正時代までを描いている作中で、江戸幕府の祖として、その終焉とその後の日本を視聴者と共に見守っていく役割になっている。
『鎌倉殿の13人 』(2022年、NHK大河ドラマ、出演:松本潤 ) 最終回において次回作『どうする家康』より先行登場。『吾妻鏡 』を読む姿が描かれている。
漫画
ゲーム
舞台
※影武者としての家康の主題作品は「徳川家康の影武者説 」参照。
音楽
絶頂〜徳川家康(1973年、作詞:佐伯孝夫 、作曲:冬木透 、歌:三田明 。コンピレーション・アルバム『戦国の武将』(規格品番:SJX-155)収録)
展覧会
「夏季特別展 徳川家康―天下人への歩み―」、2023年7月23日~2023年9月18日、徳川美術館・名古屋市蓬左文庫・読売新聞社 [256]
脚注
注釈
^ 徳川家譜でも松平記でも天文11年12月26日の生まれと記されているが、家康自身は慶長8年(1603年)に作成したまじないに使う願文に自らの年齢を『六十一歳癸卯歳』と記しており、生年を天文12年(癸卯)としている。徳川美術館 学芸部部長代理を務めた原史彦 はこのズレについて、家康が生まれたとされる天文11年12月26日は寅年、寅の日、寅の刻であり、誕生日すらも帝王になる資質を備えていたことを強調するため誕生日をわざと書き換えたと推測され、本来の生年は家康自身の言う通り天文12年であるとする説を唱えている。歴史学者の磯田道史 も原の説に近い立場を取っており、勇敢にみせるイメージ戦略をとるため卯年ではなく寅年生まれであることにしたと推測する他、家康の幼名である竹千代は父・広忠が天文12年2月26日夜の連歌 会で詠んだ句にちなんでおり、嫡男である家康が2カ月以上も命名されなかったのは不自然であるとして、家康本来の誕生日は天文12年2月26日からそう遠くない日であるとの可能性を指摘している[11] 。その後、歴史学者の遠藤珠紀 が家康の生年が卯年であるとする史料が全て陰陽道関係のものであることに注目し、陰陽道では実際の暦日に基づく暦月と異なって立春をもって正月とする節月(節切り)を採用しており、天文11年は12月21日に立春を迎えていることからそれ以降(12月26日)に生まれた家康は暦月では寅年・節月では卯年生まれとなるため、陰陽道に関する文書では卯年として扱われたとしている(遠藤は家康と同様の事例として南北朝時代の公家で暦応4年12月23日に生まれた広橋仲光 の例を挙げている)[12] 。遠藤説は、家康が天文11年12月26日生まれであるが故に発生した特殊な問題として捉えている。
^ 松平氏では天文12年(1543年)に長く松平広忠の名代 (家督代行)を務めていた松平信孝 (広忠の叔父)が広忠や重臣の阿部大蔵 らによって追放されているが、広忠と大子の婚姻自体が水野氏と連携関係にあった信孝主導による縁組であり、信孝を排除した結果として水野氏との同盟関係が終了したと新説も出されている。なお、当時の水野氏は複数の流れに分かれており、信元(緒川家)の水野氏が織田方についたことが明確になるのは織田信長が織田氏を継承して知多郡への支配の立て直しを意図した後であり、可能性の1つとして松平広忠の死後に今川氏が安祥松平家を断絶させずに竹千代(家康)を後継者とする方針を決めたことに対する反発が信元離反の一因になったとする指摘もある。
^ この説では、松平広忠が叔父・信孝、戸田氏が牧野氏と争った際に今川義元・織田信秀が共に信孝および牧野氏を支援したことで今川・織田両氏の間に一時的な連携が生じたとする。また、重臣の酒井忠尚 も信孝陣営にあったとされる。なお、天文期の今川・織田両氏による三河侵攻については村岡幹生 の「織田信秀岡崎攻落考証」[21] をきっかけに岡崎城が織田氏に攻め落とされたことが新たな有力説になっているが、その際の松平広忠の政治的立場については依然として今川方にあったとする村岡と今川からの離反を図ったために今川・織田両氏による三河侵攻が生じたとみる平野明夫 [22] や糟谷幸裕[23] らとの議論がある[24] 。その後、村岡も説を修正し、両者の連携を認めた上で岡崎城の陥落に前後して連携が破綻してしまったことが、今川義元の行動を不可解にしている(松平広忠との和睦と今川方への帰参誘引)と推測している[25] 。
^ なお、当時の情報伝達の状況から、実際の松平広忠の織田氏への降伏と人質の差出が8月であった可能性も指摘されている[26] ため、時期的には竹千代が人質に出されたと伝えられる時期と被ることになる。
^ 家臣の岩松八弥 の謀反によって殺害されたとする説がある(『岡崎市史』は暗殺説を採る)一方で、暗殺説は信頼性の低い史料からの付会に過ぎず、岩松による襲撃が事実としてもそれが死因と断定できる根拠はなく、病死を否定する理由はないとする意見もある[21] 。
^ 前年の天文18年(1549年 )、安祥城 を太原雪斎 に攻められ生け捕りにされていた。
^ 『東照宮御実紀』では少将宮町、『武徳編年集成 』では宮カ崎とされている。
^ 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、むしろ今川義元の厚意(もちろん義元の側の思惑もあるが)によるものだという説もある[28] 。また、そもそもの話として幼少の竹千代では松平家中・領国の存続は不可能であり、松平領の安定のためにも駿府で保護する必要性があった。
^ 近年の研究では、岡崎城そのものには今川氏の城代が入っていたものの、松平領はあくまでも将来的には竹千代が継ぐものであり、今川義元は安祥松平家で唯一岡崎城に残されていた随念院 (松平信忠の娘、竹千代の大叔母)を擁した松平家臣団による政務を承認する形で実際の統治が行われたと考えられている[31] 。
^ 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱 )が同年齢の家康と仲良くなったことから、家康に極めて好意的かつ協力的であったようである。後に岡部正綱は家康の家臣となり、甲州制圧作戦でその外交手腕を発揮することになる。
^ なお、この駿府人質時代に北条氏規 も駿府で人質となっていたため、このころから二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また、住居が隣同士だったという説もある[32] 。さらに浅倉直美 は北条氏規は関口親永の婿養子であったとする説を唱えている(つまり、氏規の妻とされる女性は築山殿の姉妹ということになる)。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩 として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
^ なお、天文16年の政治的混乱の中で、広忠の存命中に竹千代へ家督を譲らされた可能性も指摘されている[35] が、現時点では結論が出せないとされている[26] 。
^ 近年では築山殿の母親を義元の近親または養妹とする説に否定的な説もあるが、それでも関口氏自体が今川氏一門として遇された家であり、関口氏の婿になることはそのまま今川氏の親類衆に加えられることを意味していた。
^ 祖父の清康、父の広忠の官途名は確認されておらず(名乗る前に早世したためか)、曽祖父である信忠の左近蔵人佐を継ぐ形で今川義元から与えられたものと考えられる[39] 。
^ 山中は岡崎城が織田軍に落とされたとされる天文16年9月から間もない天文17年(1548年)1月に今川義元によって奥平貞能に与えられていたが、その貞能は三河忩劇において反今川派に属していた[41] 。
^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝 と近藤康用 に所領を宛行した判物[52] の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
^ 近年、永禄4年の合意は松平・織田間の和睦の合意に過ぎず同盟の性格を持っていない[55] 、実際の同盟締結は永禄10年5月の信康と徳姫の婚姻に伴って成立したとする柴裕之の説もある[56] 。
^ 一般的に場所は清州城と言われ同盟の名になっているが、史実上の場所は不明である。会談自体の存在を疑問視する見解もある[55] 。
^ 経営史学者の菊地浩之 は大子の再婚相手である久松俊勝 が「長家」と名乗っていた時期があることを指摘し、久松長家(俊勝)を父親代わりとみなしてその偏諱 を用いたが、家光 以後に「家」の通字 が徳川将軍家 として重要になりその由来は隠された。また長家も家康が大名となり、その権勢が拡大して逆に「家」のつく名「長家」をはばかり「俊勝」と改名したという説を唱えている[60] 。日本史研究家の渡邊大門 は「根拠不詳で説得力に欠ける」[61] 、日本史家の平山優 は「何らの裏づけもない、印象論としかいいようがなく、まったく検討に値しません。松平・徳川氏の研究者は、そもそもこれを学説と認定すらしていません」と述べている[62] [63]
^ 永禄7年4月に今川氏真は「三州急用」すなわち家康討伐を理由に免税特権を無視した臨時徴収を実施し、更に武田信玄にも援軍を要請しているが、同年7月に北条氏康の要請で氏康の太田資正討伐に援軍を派遣した結果、家康討伐は先送りにされた。その結果、三河側では氏真による家康討伐に期待して反家康勢力が挙兵し、遠江側では臨時徴税をしながら家康討伐を起こさなかった氏真への不信感が高まったことによって遠州忩劇が引き起こされたと指摘されている。しかし、前後して発生した2つの反乱は「今川氏真の来援を期待していた三河の反乱軍は氏真が遠江の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず家康に敗れる」「松平家康の来援を期待していた遠江の反乱軍は家康が三河の反乱鎮圧に専念したために支援を得られず氏真に敗れる」という皮肉な形で終結することになった[66] [67] 。
^ 正確には以前より織田領であった加茂・碧海両郡の西部地域はそのまま織田領となっている。
^ 引用元は『岡崎市史』。
^ 細川氏 嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄 -細川政元 期の赤松政則 、足利義稙 -細川高国 期の大内義興 、足利義晴 -細川晴元 期の六角義賢 がこれに該当する。
^ ただし、家康が左京大夫任命そのものを辞退していないことは、公家側の日記に「徳川左京大夫(家康)」[73] [74] という記述があることより確認できる。また、家康自身が延暦寺に充てて「左京大夫家康」と自書した文書[75] も現存しているため、朝廷や寺社に対しては三河守よりも格上とみなされている左京大夫を称した可能性もある[76] 。
^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると、義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆 討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[77] の宛名が徳川改姓・三河守任官以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[78] [注釈 25] 。
^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも一定程度独立した立場であったと考えられている。ただし、元亀元年の4月頃までは双方の取次である榊原康政と土屋昌続 の間で外交交渉が行われており、公式に手切が宣言されたのは、同年10月の上杉謙信との同盟締結時であったとみられている[79] 。
^ 『当代記』によれば、当初は見附に本拠地を移す予定で普請を行っていた(城之崎城 がその跡という)が、織田信長の要望を受けて浜松に変更したという。信長からすれば、織田と徳川の本拠地が離れすぎてしまうことを望まなかったと推測される[80] 。
^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[81] 。
^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉することを警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、
朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと。
長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと。
万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること。
を婚姻の条件にしたとされる。(1)と(3)は実際起こらなかったものの、(2)については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、(2)の条件に基づく判断であったと考えられ、(1)と(3)の条件も実在した可能性が高い[95] 。
^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[95] [97] 。
^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである[要出典 ] 。
^ ルイス・フロイス によると、オルガンティーノ は1588年 5月6日 付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[103] 。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一 ・川崎桃太 によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[104] 。
^ ただし、『家忠日記』によれば、7月18日には家康が江戸城に入城している。8月1日は佐竹氏の領国画定によって、徳川氏を含めた関東諸将の国分が確定した日であり、それが八朔の祝いと結びつけられたと考えられている。
^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては、川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[112] 。
^ 『常山紀談 』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根 を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
^ 他にも加藤清正や宇喜多秀家および細川忠興の計画への関与の噂もあった。また、石田三成は増田・長束両奉行とともに家康に協力的な立場を取ったという[117] 。
^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[119] 。
^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川 )で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町 の項を参照のこと。
^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述 )。
清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍 や皇族将軍 の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代 に作られた俗説である。
^ 関ヶ原の戦い後の戦後処理で家康の五男である武田信吉と娘婿である蒲生秀行の新しい所領が確定していなかった。このため、上杉氏・佐竹氏の処分との関連性が言われ、島津氏家臣鎌田政近 が国元に充てた書状では、「武田信吉が直江兼続の娘を娶って上杉景勝の養嗣子となる」という風説を記している(『旧記雑録後編』)。しかし、武田信吉の病気もあってこの風説は実現されず、慶長6年8月の上杉氏の減封確定後に没収された旧上杉領の中から会津60万石が蒲生秀行に与えられた[130] 。その後、減転封の処分を受けた佐竹氏の旧領が信吉に与えられることになる。
^ 徳川家康征夷大将軍補任の宣旨
内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読文) 内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広 、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝 、正二位)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る
— 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記
※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。
^ 当時のオランダは公式には共和制であった(ネーデルラント連邦共和国 )。オランダが正式に王制となるのは19世紀初めのウィーン会議 後である。
^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山 に諮問しているともいわれるが、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[141] 。
^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康の諱 を「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1] 。
^ 京 で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎 清次が紹介し、田中城 (現・静岡県 藤枝市 )にて供したものである[160] 。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げ に近い。cf. 天ぷら#逸話 。
^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[163] 。
^ 『東武実録 』では、久能での埋葬の段では「神柩」とし、日光への「改葬」の段では「霊柩」として、柩の呼称を区別している。
^ 野村玄 によれば、当時国内では寛永飢饉 、国外では明 清 交替と鎖国令に伴うポルトガル の報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇 のときの風宮 改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[166] 。
^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地 」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。
^ a b 年は、1582年10月4日以前はユリウス暦 、それ以降はグレゴリオ暦 に基づく。日付は宣明暦 長暦。
^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ[183] 。
^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
^ 柳生宗厳 と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[190] 。
^ 渡辺守綱伝世品は個人蔵、榊原康政伝世品は東京国立博物館 蔵(南蛮胴具足 e国宝)
^ 吉良氏は安城松平家(徳川宗家)にも影響を与えた三河の名族というだけではなく、足利氏の有力な庶流として御一家に列せられた一族であった[40] 。谷口雄太 は「新田氏流」という概念は『太平記』の影響によって後世作り出されたフィクションで、室町・戦国期には新田氏は足利氏の庶流・一門として扱われていたとする(当然、世良田氏や得河氏も足利一門ということになる)認識から、家康は徳川氏を(新田氏ではなく)将軍・足利氏の一門として位置づけるために実際に有力一門である吉良氏の系図の借用を行ったと主張している[212] 。
^ 中には福島家のような取り潰され方[要出典 ] をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹 から秀吉は自身の側室に長女の茶々 を、家康は後継者である秀忠の正室に三女の江 を迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
^ 2013年の時点では無疵の健全作と思われていたが[231] 、その後の調査で疵をならして修復した形跡が発見されている。
^ 他に穴山信君や秋山虎康、または武田信玄の娘などという説もある。
^ 一説に母は下山殿ともいわれる。
^ 一説に母は於梶ともいわれる。
^ 他に蔭山氏広や冷川村百姓の娘などという説もある。
^ 他に江戸重通 の娘などという説もある。
^ 松代藩 主真田幸道 が江戸幕府に提出した諸系図には台徳院殿(徳川秀忠 )娘となっている。
^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[252] 。
^ 『徳川実紀 』に落胤説があったとの記述がある。
^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年 )ころの史料なので信憑性には疑問がある。
^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。
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参考文献
古典
書籍
論文
関連項目
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外部リンク
松平宗家 第9代当主(1549年 - 1566年)
親氏 ????-1393?
泰親 1302?-1393?
信光 1404-1488?
親忠 1488?-1496
長親 1496-1503
信忠 1503-1523
清康 1523-1535
広忠 1535-1549
家康 1549-1566
徳川宗家 初代当主(1566年 - 1605年)
家康 1566 - 1605
秀忠 1605 - 1623
家光 1623 - 1651
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