下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。
概要
現在の千葉県北部と茨城県南西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、江戸内海を挟んで相模国と接する。
『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐()」と呼び、これが「しもふさ」「しもうさ」に転じたという。
この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている[1]。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった[2]。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある[3]。
沿革
律令制以前には印波、千葉、下海上の国造が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11の郡(評)をもって令制国としての下総国とした(のち豊田郡が加わる)。元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、宝亀2年(771年)に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更された。国府は市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。
古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し、源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。鎌倉・室町時代と守護の地位を確保し、中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、「千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。一方、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。
15世紀前半の永享の乱やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。結城氏は結城合戦で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も享徳の乱における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と千葉から佐倉に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい小田原の北条氏と対抗した。1538年(天文7年)と1564年(永禄7年)の国府台合戦においてはじめに足利義明が敗死、また義明の後に台頭した安房国の里見氏が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と上杉氏や佐竹氏との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。
ウィキソースに
慶長見聞集の原文「武蔵と下総国さかひの事」があります。
徳川家康の関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は結城城で11万石余を領して家康の次男である結城秀康を養子に迎えて後を継がせていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に秀康が越前北庄(現・福井市)に転封されると、名字も松平氏と改め、結城城[注釈 2]も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである(姫路藩→前橋藩)松平家が行った)。
結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他の藩はいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに幕府領や旗本領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間(1622年 - 1643年)に、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は天保期には約1620か村を数えた。
1867年(慶応3年)の大政奉還の時点で下総国内には結城、古河、関宿、佐倉、高岡、多古、小見川の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。1868年(慶応4年、明治元年)、幕府が崩壊して明治政府が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は下総知県事(佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は武蔵知県事または安房上総知県事の所管)。1869年(明治2年)に下総知県事の管轄区域に葛飾県が置かれ、水筑龍が知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに曾我野藩が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に印旛県が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は常陸国の南半部とともに新治県となった。1873年(明治6年)、印旛県は木更津県(上総・安房両国を管轄区域とする)と合併して千葉県となり、1875年(明治8年)に新治県が廃止されると南半の下総国3郡が千葉県に編入され、逆に(旧)千葉県管下で利根川以北の区域(結城、豊田、岡田、猿島の4郡および葛飾・相馬両郡の一部)が茨城県に編入された。また同時に、葛飾郡のうち江戸川以西の区域が埼玉県に移管された[注釈 3]。この結果、下総国は茨城・千葉・埼玉の3県に分割された[注釈 4]。
明治以後の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,640村・685,804石7斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。
- 葛飾郡(337村・125,308石余) - 幕府領、関宿藩、古河藩、下野壬生藩、駿河田中藩
- 猿島郡(82村・45,915石余) - 幕府領、関宿藩、古河藩、下野壬生藩、丹後峰山藩
- 結城郡(53村・35,007石余) - 幕府領、一橋徳川家領、結城藩、下野壬生藩
- 豊田郡(80村・38,251石余) - 幕府領、出羽長瀞藩、陸奥仙台藩、常陸牛久藩、下野烏山藩
- 岡田郡(42村・22,573石余) - 幕府領、常陸牛久藩
- 千葉郡(136村・44,943石余) - 幕府領、生実藩、佐倉藩、出羽長瀞藩
- 印旛郡(272村・69,228石余) - 幕府領、佐倉藩、高岡藩、遠江浜松藩、山城淀藩
- 埴生郡(62村・25,791石余) - 幕府領、田安徳川家領、佐倉藩、出羽長瀞藩、山城淀藩
- 香取郡(296村・149,119石余) - 幕府領、田安徳川家領、小見川藩、多古藩、高岡藩、佐倉藩、上総飯野藩、安房館山藩、安房船形藩、上野安中藩、三河西端藩、伊勢津藩、山城淀藩
- 匝瑳郡(68村・37,491石余) - 幕府領、佐倉藩、生実藩、上野安中藩、三河西端藩
- 海上郡(70村・27,258石余) - 幕府領、佐倉藩、小見川藩、生実藩、上野高崎藩、上野安中藩
- 相馬郡(142村・64,913石余) - 幕府領、田安徳川家領、関宿藩、高岡藩、上総一宮藩、常陸土浦藩、常陸牛久藩、下野烏山藩、駿河田中藩、山城淀藩
- 慶応4年
- 明治元年
- 9月23日(1868年11月7日) - 遠江浜松藩が上総鶴舞藩に転封。飛地領(印旛郡のうち)が下総知県事の管轄となる。
- 領地替えにより武蔵岩槻藩が葛飾郡の一部を管轄。
- 明治2年
- 明治4年
- 明治6年(1873年)6月15日 - 印旛県が木更津県と統合して千葉県が発足。
- 明治8年(1875年)5月7日 - 第2次府県統合により、新治県のうち下総国を千葉県に、常陸国を茨城県に合併。それに伴う千葉県・茨城県の再編に合わせて、千葉県管下の下総国のうち利根川および旧利根川(現中川、権現堂川)以北の区域(のちの西葛飾郡、北相馬郡)が茨城県に、江戸川以西の村(のちの中葛飾郡)が埼玉県に移管。
国内の施設
国府
市川市国府台では、国府関連施設と思われる遺跡が発掘されている。国府の中心である国庁の正確な位置はわかっていないが、1995年からの和洋女子大学敷地内の発掘調査などでは国衙の周囲の溝と推測される跡が発見された。この発見により、国府台地区に国府があったことが考古学的にも確実視されるようになった。2023年に市川市教育委員会が調査を実施した結果、下総国の国衙跡に関連すると考えられる区画溝や掘立柱建物などが見つかり、区画溝からは土器が数点出土したようである。これにより、千葉商科大学の駐車場周辺は、より重要な施設が存在していたのではないかと推測されるようになり[4]、その結果、地元研究者の間では「今の市営野球場の位置にあったのでは」と推測されるようになった。ところが、その頃、施設の改修や建て替え工事が相次いでおり、埋まったままの遺構が工事で破壊されかねないと、地元の市民団体が「調査体制の整備を」と市川市や千葉県に要望を続けているところである[5]。
郡衙は、下総の郡家のうち埴生郡家は栄町大畑遺跡、また郡家に関連する下総相馬郡の田祖・正税を入れる正倉が我孫子市日秀西遺跡と想定されている。
国分寺・国分尼寺
- 国の史跡。跡地上に後継の国分山国分寺(市川市国分、本尊:薬師如来)があり、法灯を伝承する。
- 国の史跡。僧寺跡の北西に所在。南大門・中門・金堂・講堂が並び、一番奥に尼坊が配置されていた。後継はない。
神社
- 延喜式内社
- 『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社10座10社の計11座11社が記載されている(下総国の式内社一覧参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
- 総社・一宮以下
一宮の香取神宮の力が非常に大きいため、二宮以下は実質的には存在しなかったという説もある。
安国寺利生塔
- 安国寺 - 茨城県古河市にあったと伝えられるが廃寺である
- 利生塔 - 雲富山大慈恩寺(千葉県成田市吉岡、本尊:釈迦如来)が継承
駅
いずれも律令時代の駅。
馬牧
城館
湊・津
太字は主要なもの。
内海
外海
利根川・香取海
- 垣根津
- 野尻津
- 森戸津
- 笹本津
- 今泉津
- 石出津
- 笹川津
- 小見川津
- 側高津
- 篠原津
- 井戸庭津
- 佐原津
- 関戸津
- 岩ヶ崎津
- 神崎津
地域
古代-中世
郡と荘園
カッコ内には補足(他の呼称・管理者・成立年等)を記述する。
中世 - 近世
下総国の藩
特記事項のない限り、須田茂『房総諸藩録』(崙書房、1985年)による。ただし、徳川家康の関東入部後に配置され、関ケ原の合戦後に大名となって転出した1万石以下の知行地も含む。
郡と村
近代以降
郡と村
石高
人口
- 1721年(享保6年) - 54万2661人
- 1750年(寛延3年) - 56万5614人
- 1756年(宝暦6年) - 48万3526人
- 1786年(天明6年) - 46万8413人
- 1792年(寛政4年) - 46万4641人
- 1798年(寛政10年) - 48万4641人
- 1804年(文化元年) - 47万8721人
- 1822年(文政5年) - 41万9106人
- 1828年(文政11年) - 49万7758人
- 1834年(天保5年) - 40万2093人
- 1840年(天保11年) - 49万9507人
- 1846年(弘化3年) - 52万5041人
- 1872年(明治5年) - 64万5029人
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
人物
国司
下総守
下総介
武家官位としての下総守
守護
鎌倉幕府
室町幕府
- 1336年 - 1351年 : 千葉貞胤
- 1353年 - 1365年 : 千葉氏胤
- 1365年 - 1417年 : 千葉満胤
- 1417年 - 1430年 : 千葉兼胤
- 1430年 - 1441年 : 千葉胤直
- 1441年 - 1454年 : 千葉胤将
脚注
注釈
- ^ 別称「総州」は上総国とあわせて、または単独での呼称。
- ^ 元禄年間には結城藩が再置されて、結城城も再建されたものの、石高は明治維新まで1.8万石であった。
- ^ 埼玉県は既に武蔵国葛飾郡の北半部を管下に置いている。
- ^ 埼玉県に編入された下総国葛飾郡は中葛飾郡となったのち、武蔵国葛飾郡北半を以て編成された北葛飾郡に編入された。これは下総国であった区域が武蔵国に編入されたことになるので、通常、埼玉県は全域が武蔵国であったとして扱われる。
- ^ 本多康俊(5000石)。慶長6年(1601年)に三河西尾藩に移封[6]。
- ^ 木曾義利(1万石)。慶長5年(1600年)除封[6]。
- ^ 松平定勝(3000石)。慶長6年(1601年)に遠江掛川藩に移封[6]。
- ^ 松平家忠(1万石)。小見川藩に移転。
- ^ 天野康景(5000石)。慶長5年(1600年)に駿河興国寺藩に移封。『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版、1996年)「近世大名配置表」には大須賀(藩)の記載がない。
- ^ 松平信一(5000石)。慶長6年(1601年)に常陸土浦藩に移封[6]。
- ^ 本多成重(3000石→5000石)。慶長18年(1613年)に越前丸岡藩に移封[7]。
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
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