|
この項目では、五畿七道の一つである行政区分、および同所を通る古代から中世の街道について説明しています。
|
山陽道(さんようどう、かげとものみち)は、五畿七道の一つである。
本州西部の瀬戸内海側の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、または中国(ちゅうごく)とも称された[1]。
街道においては江戸時代を中心に、
- 西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)
- 西国道(さいごくどう、さいこくどう、せいごくどう、せいこくどう)
- 西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)
- 中国街道(ちゅうごくかいどう)
- 中国路(ちゅうごくじ)
- 山陽路(さんようじ)
などとも呼ばれた[2]。
行政区画としての山陽道
律令に規定された行政区画は、当時「五畿七道」と称されたように、中央の五畿と地方である七道から成っていた。山陽道はその「五畿七道」の一つ、本州の瀬戸内海側を指しており、畿内の西に位置し、現在の兵庫県西部から山口県までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。なおこれを統括する役所は原則的には存在しておらず、基本的には区画を示すものであった。
変遷
山陽道令制国の変遷
- 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
|
---|
五畿七道 |
| 畿内 東海道 東山道 北陸道 山陰道 山陽道 南海道 西海道 |
---|
五畿八道 |
|
---|
- |
|
---|
|
道(みち)としての山陽道
山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。
古代山陽道
概要
古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった。
古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面(上古・中古中国語で「陽」)を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「山陰道」)とも呼ぶようになったとされる。
大同2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の駅家があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど駅路の利用は衰微していった。
『延喜式』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式の兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、山城国の山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅を数えていたことがうかがえる。なお奈良時代には、平城京から木津川沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て淀川対岸の摂津国島上郡(現、高槻市・島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後平安時代には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。
古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)を設けていた。道幅は約6 - 9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の国府を効率良く結んでいた。本道から外れた美作国へは、播磨国草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。
山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。
当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である庸・調を運ぶことを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に瀬戸内海を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。
実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、高槻市郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県備中国分尼寺跡(幅7メートル)、兵庫県たつの市小犬丸(こいぬまる)遺跡、上郡町落地(おろち)遺跡など数例に留まる。広島県府中市での発掘調査では、市内3か所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや[4]、600メートル離れた備後国府跡への分岐点も確認されている[5]。
駅家一覧
以下に駅馬について、分国名/駅名(設置郡名)・備考(駅馬数等)・古代山陽道駅家想定地(推定地関連情報)の順に列挙する。
- 山城(1駅)
- 摂津(5駅)
- 播磨(9駅、廃駅2駅)
- 備前(4駅)
- 備中(4駅)
- 備後(5駅、『延喜式』では安那、品治、葦田の3駅となっている)
- 安芸(13駅)
- 真良(しんら、沼田郡) 駅馬数20疋 三原市高坂町真良
- 梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市本郷町
- 都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『倭名類聚抄』に「沼田七郷」として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
- 鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
- 木綿(ゆう、賀茂郡) 20疋 東広島市西条地区
- 大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
- 荒山(安芸郡) 20疋 広島市安芸区中野東地区
- 安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡府中町城ケ丘 下岡田遺跡
- 伴部(佐伯郡) 20疋 広島市安佐南区伴地区
- 大町(佐伯郡) 20疋 広島市佐伯区利松地区周辺
- 種篦(へら、佐伯郡) 20疋 廿日市市下平良地区
- 濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『万葉集』高庭馬家(たかばのうまや)跡)
- 遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 大竹市
- 周防(8駅、廃駅1駅)
- 石国(いわくに、玖珂郡) 駅馬数20疋 山口県岩国市関戸付近
- 野口(玖珂郡) 20疋 岩国市玖珂町野口
- 周防(光市小周防、熊毛郡熊毛町三丘・高水・勝間付近の諸説) 20疋
- 生屋(いくのや、都濃郡) 20疋 (現生野屋)生野郷
- 平野(都濃郡) 20疋 旧新南陽市西部に平野郷が存在した
- 大前(おおさき、889年に廃止) 防府市
- 勝間(かつま、佐波郡) 20疋 防府市勝間
- 八千(やち、吉敷郡) 20疋 山口市鋳銭司矢地
- 賀孕(かがほ、吉敷郡) 20疋 山口市嘉川(賀宝とも)山口市賀川
- 長門(5駅)
- 阿潭(あたみ、厚狭郡) 駅馬数20疋 宇部市吉見
- 厚狭(厚狭郡) 20疋 山陽小野田市
- 埴生(はぶ、厚狭郡) 20疋 山陽小野田市埴生
- 宅賀(たか、豊浦郡) 20疋(室賀とも)下関市小月
- 臨門(りんもん、豊浦郡) 20疋(外国の賓客を接待する役割も兼ねており、日本書紀には穴門館(後に臨海館)と記載あり)下関市前田付近
太宰府路
(比喜(比菩))
- 到津(いたむつ、企救郡) 15疋 北九州市小倉北区
- 筑前(9駅、『延喜式』では8駅となっている)
中世山陽道
鎌倉時代は、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、宿駅と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。この時期の山陽道は、幕府出先機関である鎮西探題府がある博多と、京都守護(のちに六波羅探題)が置かれた京都を結ぶ交通の要路で、幕府の緊急連絡の際は早馬を使用した。
山陽道の交通が注目されたのは2度の蒙古襲来(元寇)のときで、最初の文永の役(1274年)のときに早馬による蒙古襲来の第一報で博多・京都間に約9日を要し、その他の飛脚による通報に16日前後を要している。これは、古代律令時代の飛駅[注釈 1]による通報と比較して格段に遅い通信であった。2度目の弘安の役(1281年)の時には、博多・京都間を6、7日で通報に要していたことから、文永の役から弘安の役までの間に、中世交通史の研究者である新城常三は鎌倉幕府が逓送制度に何らかの改善がなされたものと推測しており、道路文化研究者で工学博士の武部健一も、蒙古襲来が山陽道の整備改善に寄与する契機となっていると指摘している。
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、旭川を渡り備中へと続く。
備中では小田川沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の国道313号(高梁市~井原市:高梁へは美作から、あるいは高梁川沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道(備中往来)として利用されていたようである。
しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、芦田川に沿う形をとり尾道方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており府中手前では短絡を緩和し、沿岸部の 海田市を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。
さらに室町時代後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる城下町形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった(岡山城下など)。
近世山陽道
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた。
明治以降
明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、明治時代には東京と神戸を結ぶ国道3号(2号から京都で分岐)、および、東京と長崎を結ぶ国道4号の一部になり、大正期には東京と鹿児島を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。
現在では山陽道の機能は、大阪と北九州(門司)を結ぶ国道2号に引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の山陽道とは異なる道筋の部分も多い。一例をあげると岡山県岡山市 - 広島県福山市にかけての国道2号は、かつての山陽道を踏襲しておらず、大幅に異なるルートである旧鴨方往来(浜街道)を併走する。これは国道整備において、主要都市となっていた岡山と福山との間を、本来の東西短絡の性格で道路敷設したためではないかと推測される。
なおこのため岡山県や広島県東部では、かつての山陽道(小田川沿い)やそれに並行する道路は、「旧山陽道」と呼ぶのが一般的となっている。さらに「山陽道」と呼んだ場合には、「山陽自動車道」のことを一般に示している。
鉄道の山陽本線や山陽新幹線、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある。現代においても、近畿地方と九州を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。
脚注
脚注
- ^ 早馬の最も早い連絡便のこと。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
- 古路・古道・歴史散歩公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課 - 広島県下の旧山陽道、西国街道および雲石街道他脇街道調査
|
---|
通過市区町村 |
|
---|
バイパス |
|
---|
道路名・愛称 | |
---|
道の駅 | |
---|
主要構造物 |
- 淀川大橋
- 神崎大橋
- 左門橋
- 武庫大橋
- 業平橋
- 新生田川橋
- 湊川大橋
- 若宮橋
- 福田橋
- 明石大橋
- 加古川橋
- 新加古川橋
- 市川橋
- 姫路大橋
- 城山トンネル
- 揖保川大橋
- 有年橋
- 船坂トンネル
- 三石第一トンネル
- 備前大橋
- 百間川橋
- 旭川大橋
- 大樋橋
- 高梁川大橋
- 神島橋
- 神村トンネル
- 真川橋
- 下木原トンネル
- 是国トンネル
- 正分トンネル
- 福寄トンネル
- 防士トンネル
- 時広トンネル
- 中之町トンネル
- 駒ヶ原トンネル
- 西宮トンネル
- 本郷大橋
- 中野トンネル
- 押手トンネル
- 国信第1トンネル
- 国信第2トンネル
- 黄金橋
- 平野橋
- 新明治橋
- 新住吉橋
- 新観音橋
- 旭橋/新旭橋
- 鈴ヶ峰トンネル
- 八幡川橋
- 美鈴橋
- 海老橋
- 栄橋
- 岩国トンネル
- 防府第1トンネル
- 防府第2トンネル
- 天神山トンネル
- 椹野川大橋
- 高山トンネル
- 木屋川大橋
- 長府トンネル
- 関門トンネル
|
---|
自然要衝 | |
---|
旧道 | |
---|
関連項目 | |
---|