成田 顕泰(なりた あきやす)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。山内上杉家の家臣。
総社長尾氏5代当主・長尾忠景の三男として誕生。成田正等(自耕斎、岩付正等)の養子となる。文明12年(1480年)、養父・正等が隠居し家督を継いだとされる。
山内上杉家に従い、明応6年(1497年)頃に関東管領・上杉顕定の偏諱を受け「顕泰」と名乗る。太田氏の勢力再興と共に永正6年(1509年)に支城の忍城に移った。
永正の乱では甥の長尾顕方と共に古河公方・足利政氏、関東管領・上杉顕実に従い、横瀬景繁や長尾景長と戦ったが敗退、新しく関東管領となった上杉憲房に降伏した。
大永4年(1524年)、死去。なお、旧来の成田氏の系譜では文明16年(1484年)没とされ、大永4年に没したのは嫡男の親泰とされてきたが、近年の研究において成田氏代々の当主の死没日の記事が1代ずつずれている事が明らかとなった。