徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍(在職:1651年 - 1680年)。
生涯
将軍就任
寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。母は七澤清宗の養女・楽子。幼名は竹千代。乳母は川崎(真現院)・三沢局[2]。
父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。
正保元年(1644年)12月、名を家綱と改め、正保2年(1645年)4月に元服する。慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移る。
慶安4年(1651年)4月20日、家光が48歳で薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。
12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後(最後の慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。
治世前半
家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名家臣から証人をとることの廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。
万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年(1664年)には1万石以上の大名に対する領知朱印状を、翌寛文5年(1665年)には公家や寺社を対象とした領知目録を交付している(寛文印知)。
治世後半
寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、イングランド船リターン号による通商再開要求、鄭氏政権による援兵要請などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生している。
側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。その後家綱には30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていた。延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40 (満38歳没)。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている[3]。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた[注釈 3]。
家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例にならい、越前松平家と縁のある有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが[注釈 4]、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある[4]。
財政
家光は500万両を残したが、明暦の大火で焼失した本丸の再建費用だけでも100万両、金銀の産出量の低下と貿易による海外流出で1661年には358万両、家綱が死んだときには100万両も残っていなかった。年々10万両ずつ減っていたが当時の幕閣たちは財政に無頓着で何も手を打たなかった。
人物・逸話
- 嵐寛寿郎の映画である『文武太平記』に拠れば、家綱は温厚な人柄で絵画や魚釣りなど趣味を好み、政務を酒井忠清をはじめ老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。この逸話は家綱自身が幕政指導者としての指導力を発揮出来ず忠清の専制を示すものとしても引用されているが、辻達也や福田千鶴らは幕政の意思決定における将軍上意の重要性を指摘している。ただし、一般的な殿様は決裁の際言うべき言葉は「そうせい」・「考え直せ」・「もってのほかじゃ」の三つしか言わないように教育されており、他の殿様にしてもあだ名がそうせい公や、よかろう様などのエピソードが多々あり、基本的に主導権を積極的にとる殿様は少なく、むしろそういった殿様ではないように教育をするのが普通である。
- 家綱の誕生を祝して、朝鮮通信使が派遣された。徳川将軍家の嫡男の誕生で朝鮮通信使が派遣された唯一の事例である。
- 家綱が元服するまでは、保科正之ら家光時代の遺産ともいうべき人材に恵まれていたのが安定した時代を築ける幸運でもあった。『徳川名君名臣言行録』では「吾、幼年なりといえども、先業を承け継ぎ、大位に居れり」とある。
- 新井白石著の『白石手簡』では、家綱は中国の唐時代の政治書である『貞観政要』を好み、幕政運営の参考にしたという。
- 『武野燭談』に拠れば、家綱の将軍就任から間もない幼少期のことだが、江戸城天守閣へ登った際に近習の者が遠眼鏡を勧めたが「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。
- 遠島となった罪人の話を聞き、家綱は「彼らは何を食べているのだろう」と近臣の者に尋ねたが誰も答えられず、それに対し家綱は「命を助けて流罪にしたのに何故、食料を与えないのか」と言った。それを聞いた父の家光は喜び、「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、流人に食料を与えるようになったという。
- 家綱が食事していたとき、汁物を飲もうとしたところ髪の毛が入っていた。家綱は平然とその髪の毛を箸で摘まんで取り除いたが、小姓が慌てて新しい物と交換しようとした。家綱はその小姓に「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」といった。これは椀を空にすることにより普段のおかわりと同じ様に扱えということで、咎められる者が出ないようにと家綱が配慮したのであった。
- 明暦の大火で焼失被害にあった江戸市中の武家屋敷、神社仏閣などに資金援助し、復興に助力したという。明暦の大火を教訓に、両国橋を架設した。また、両国橋のたもとに「火除地」を設けた。橋のたもとに建造物を建設することを禁じているが、すぐに取り壊せることを条件に建設を一部許可した。「すぐに壊せる」という条件から、盛んに土俵が作られた。これが発端となり、両国は相撲の街として知られるようになった。
- 前述の通り、殉死を禁じた家綱だが、家綱が亡くなったと聞いた元下総佐倉藩主・堀田正信は自害した。正信は家綱の命令で改易にされていたが、正信の父・堀田正盛もまた、家綱の父・徳川家光に殉死した人物である。
官歴
※ 日付 = 旧暦
肖像画
2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された[5][6]。家綱像(白描本)も含まれており父・家光に似て描かれている。
偏諱を受けた人物
関連作品
- 映画
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- テレビドラマ
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- 漫画
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- 小説
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脚注
注釈
- ^ 性別不明、母は養春院。
- ^ 母は円明院、延宝6年(1678年) - 延宝6年(1678年)。
- ^ 将軍の実子(嫡子)継承の形が崩れたということであり、直系継承自体はまだ崩れていないので注意。
- ^ 有栖川宮の祖である好仁親王が徳川家康の曾孫にあたる寧子(越前松平家出身)を妃としていたからとされる。ただし、好仁親王・寧子と幸仁親王には直接の血縁関係はない。
- ^ 1983年版では綱吉を演じた。
出典
参考文献
外部リンク
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- 家康 1566 - 1605
- 秀忠 1605 - 1623
- 家光 1623 - 1651
- 家綱 1651 - 1680
- 綱吉 1680 - 1709
- 家宣 1709 - 1712
- 家継 1713 - 1716
- 吉宗 1716 - 1745
- 家重 1745 - 1760
- 家治 1760 - 1786
- 家斉 1787 - 1837
- 家慶 1837 - 1853
- 家定 1853 - 1858
- 家茂 1858 - 1866
- 慶喜 1866 - 1868
- 家達 1868 - 1940
- 家正 1940 - 1963
- 恒孝 1963 - 2023
- 家広 2023 -
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