松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安祥松平家第4代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。
多くの史料では、大永6年[2](1526年)4月29日出生としている[3]。また、「松平記」や「三河記大全」は天文18年(1549年)に24歳没としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。
その他25歳没とするもの[4]、また27歳没とするもの[5]もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳没とするが年次の記述がない。
青木貞景の娘とされているが[6]、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある[7]。
通称は次郎三郎[11]。また岡崎三郎と称したことが発給文書より確認されている[12]。
大永6年(1526年)4月29日、安祥松平家第3代当主・松平清康の長男として誕生。幼名は竹千代とされるが、他にも複数伝わる[13]。
天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が家臣・阿部正豊に殺害される(森山崩れ)。これにより竹千代が事実上家督を相続し、安祥松平家第4代当主となる。この直後[14]、織田信秀が三河へ侵攻した。織田軍の数は総勢8千とも伝わり、迎え撃つ松平勢は雑兵700[15]から800[16]ほどで、叔父の松平康孝が指揮を執ったという。大樹寺に布陣した織田軍と松平軍は井田野または伊田郷という地で合戦となった(井田野合戦)。松平勢は高力重長[17]など多くが討死したが、織田勢も骨を折ってなおなかなか勝ち切れなかったため、和睦した。
村岡幹生は、「松平記」は織田軍が松平信定を当主に据えるために出兵しながら目的を果たせずに和睦したと記しながら、その直後に信定が岡崎に入城したことになっており、合戦記事そのものが虚構であるとしている[18]。
大叔父の桜井松平家当主・松平信定は竹千代と対立し、安祥松平家の家督を狙うようになった(諸説あり)。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曽祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、信定の権威は強まっていき、日増しに増長し、史書にて「国中の制法信定次第」と称されるほどになった。同天文4年(1535年)頃、信定は本拠・岡崎城を占領し、竹千代は追放された。竹千代は重臣・阿部定吉らと共に吉良持広を頼って逃亡した。「三河物語」などによれば、伊勢国神戸に逃れたという。天文5年(1536年)には信定が所領を押領して譜代の衆を挑発し、また竹千代を殺害しようと企てるようになった。
竹千代は吉良持広の庇護下において元服し、持広より一字を拝領して広忠と改めた。この頃の広忠の動向は史料によって差異があるが、「松平記」、「三河物語」によれば、吉良持広を通じて今川義元に支援を求め、遠江国懸塚を経て、三河牟呂城に入った[19]。
なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が北畠氏の一門である星合氏の出とする『寛政重修諸家譜』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している[20]。一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している[21][22]。
この間、譜代の家臣らが広忠の岡崎城帰還を望んでおり、阿部定吉や大久保忠俊らが尽力していることが諸書からうかがえる。
この頃の広忠の動向は史料によって差異があるため、正確な時期等にも差異がある。叔父の松平信孝も広忠を支援する方針であったらしく、大久保らと共に広忠帰還を支援している[23]。いずれにせよ、天文年間に広忠は信定から岡崎城を奪還した。
広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。天文9年(1540年)、織田軍が安祥城へ侵攻し、6月に合戦となった(第一次安城合戦)[24]。この戦いにおいて城代・松平長家が討死(自害とも)した。
「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが、こちらでは安祥城は陥落しておらず、松平利長、松平忠次らが防戦して敵が退いたと記されている。安祥城落城の時期については諸説あるが、いずれにしろ西三河における織田氏の勢力は拡大していたようである。
天文10年(1541年)、水野忠政の娘・於大の方と婚姻する。
天文11年(1542年)、今川義元は三河から織田氏勢力を駆逐するべく大軍を発し、織田信秀も対抗するべく兵4千を率いて安祥に出陣し、8月に両者は激突した(第一次小豆坂の戦い)。この戦いでは織田信秀が勝利した。(ただし、この戦いには虚構説もある。)
同年12月26日、嫡男・竹千代(後の徳川家康)が誕生する。
『寛政譜』によれば、広忠は松平信孝を重用したが権勢をふるって増長し、松平親長や、弟の康孝の遺領を押領した。そして「岡崎の老臣等」が信孝の増長を警戒したという。広忠は信孝が今川氏に年始の使者として派遣されている隙に妻子や家臣を岡崎から追放し、天文12年(1543年)頃、信孝は上和田城主・松平忠倫、酒井忠尚らと共に織田信秀に通じて離反した。その後も幾度か安祥で織田勢と合戦し、信孝とも戦っている。
於大の方の兄で水野氏当主の水野信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に寝返った。このため広忠は、同年9月に今川氏との関係を慮って於大の方を離縁した。天文14年(1545年)には桜井松平家の松平清定・家次らを攻撃している。(広畔畷の戦い)
天文14年(1545年)9月、織田氏の下にあった安祥城に侵攻したが敗北し、本多忠豊が身代わりとなって討死した。
広忠は、織田氏の三河侵攻に対抗する見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に拉致された[注釈 1]。
天文17年(1548年)3月19日、小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には松平重弘兄弟の山中城を落とした。同月三河冑山にて信孝と対陣。菅生川原で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。天文18年(1549年)2月20日、再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命通り人質として駿府へ移送した。
天文18年(1549年)3月6日、死去した(後述)。享年24。
近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号[25])の発見[26]をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落[27]して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた[28]。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫[29]や糟谷幸裕[30]の意見が対立している[31][注釈 2]。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている[26][34]。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる[34]。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている[35]。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている[34]。
いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた[36]」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。
「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。
「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。
なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘(戸田御前)であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている[注釈 3][38]。
大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。
広忠は天文18年(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。
死因に関しても諸説がある
「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。
『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している[39]。
これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している[40]。
なお近年の歴史ドラマでは松平家の悲劇性を強調するためか暗殺説を採用する例が多く、NHK大河ドラマの中で家康の一代記を扱った1983年の「徳川家康」及び2023年の「どうする家康」では、共に暗殺説を採用している。このため、暗殺説が最も広く知られた学説となっている。
葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。
現在大樹寺に加え、大林寺・松應寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。
また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている[41]。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。
松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)
天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、
(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、
「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。
生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。
連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。
天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという[43]。