阿部慎之助
阿部 慎之助 (あべ しんのすけ、1979年 3月20日 - )は、千葉県 浦安市 出身の元プロ野球選手 (捕手 ・内野手 、右投左打)、プロ野球監督 。現在は読売ジャイアンツの監督を務める。
読売ジャイアンツ (巨人)一筋で19年間プレーし、正捕手や一塁手 として8度のリーグ 優勝、3度の日本シリーズ 優勝に貢献。2007年 から2014年 までは第18代主将 も務めた[ 1] 。国際大会でも2009年 にWBC 優勝を経験。2013年 のWBC では日本代表 の正捕手も務めていた。引退翌年の2020年 からは巨人の二軍監督 やヘッド兼バッテリーコーチ等を歴任し、2024年 からは第20代一軍監督を務める。
愛称 は「慎ちゃん 」、「慎之助 」など。
経歴
プロ入り前
3人きょうだいの第2子(1歳上の姉と3歳下の妹がいる[ 2] )として誕生。慎之助の名は母親が池畑慎之介(ピーター) の大ファンだったことから名付けられた。父は掛布雅之 と習志野市立習志野高等学校 で同期であり、掛布が3番・父が4番を打ち[ 3] 、全国高等学校野球選手権大会 に出場経験がある。その影響もあり、幼い頃から阪神タイガース ファン で掛布に憧れ左打ちになった。ただし、掛布の存在も大きかったが直接的な理由は小学校低学年で右目を悪くしたことで父親から勧められたことだという[ 4] 。また父もポジションは捕手、中央大学 と共通している[ 3] 。父の勧めもあり、浦安市 野球協会学童部所属・軟式少年野球チーム・浦小クラブに所属。その縁で浦安市野球協会で阿部慎之助杯争奪少年野球大会を協賛している。
浦安市立浦安中学校 [ 5] から安田学園高等学校 [ 注 1] へ進学。高校では通算38本塁打 を打つ。高校3年時の1996年度NPBドラフト会議 前には、中日ドラゴンズ のスカウトを務めていた堀江忠一(関東地区担当スカウト)と中田宗男 が阿部の打撃を高く評価しており、また当時の安田学園高校野球部の監督が中田の大学時代の後輩でもあった縁から、中田は監督に阿部をドラフト会議で指名したい旨を伝えており、仮に本人がプロ志望であれば森野将彦 に次ぐ3位で指名しようと考えていたという[ 8] 。しかし同年9月、監督は中田に阿部が中央大学へ進学するという旨を伝えたため、中日が阿部を指名することはできなかった[ 8] 。中田はこの出来事について、当時巨人のスカウト部長を務めていた末次利光 (中央大学OB)が介在していた可能性を指摘している[ 8] 。
中央大学 商学部 [ 9] に進学し3年生春まで東都大学野球連盟 2部リーグでプレーする。2部リーグ通算51試合出場、186打数58安打、打率.312、12本塁打、41打点。花田真人 との強力バッテリーで、3年生春に2部優勝し、入替戦を制したことで秋にチームは1部昇格。1部リーグ通算28試合出場、92打数27安打、打率.293、5本塁打、19打点。ベストナイン1回。
大学3年時の1999年 にはアマチュアの有力選手をプロのキャンプへの派遣する制度によって日本ハムファイターズ のキャンプに参加。シート打撃で当時日本ハムのエースだった岩本勉 からバックスクリーン へ特大の本塁打を打った[ 10] 。中大時代は打撃には定評があり、(捕手以外の)野手への転向を勧められることもあったが固辞した[ 11] 。2000年 11月のNPBドラフト会議 において、ドラフト1位(逆指名)で読売ジャイアンツに入団。契約金の最高標準額(1億円プラス出来高払い5000万円)で契約した。背番号は10 。
巨人入団
2001年 、一軍ヘッドコーチの原辰徳 の推薦を受け[ 12] 、3月30日の阪神タイガース との開幕戦に「8番・捕手」で新人捕手ながら先発出場した(球団では山倉和博 以来23年ぶり)。その試合で星野伸之 からプロ入り初打席初安打初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せた[ 13] 。当時の巨人は村田真一 に代わる正捕手の育成が急務だったこともあり、監督の長嶋茂雄 は村田を阿部の「教育係」にするとともに、127試合に起用して経験を積み重ねさせた[ 14] 。8月1日の対中日ドラゴンズ 戦では6回に遠藤政隆 から満塁本塁打 を放つ[ 15] など、最終的には13本塁打を記録したが、規定打席 にはあと6打席足りなかった。なお、新人捕手の2桁本塁打は田淵幸一 以来2人目。
2002年 、前年と同じ127試合に出場し、自身初、球団では1987年の山倉和博以来の捕手による規定打席到達を果たし、初のベストナイン とゴールデングラブ賞 を受賞した。6月24日の対広島東洋カープ戦(札幌ドーム )の8回表、本塁で三塁走者の福地寿樹 と交錯、左足を負傷し、試合後出場登録抹消される[ 16] が、後半戦からは高橋由伸 の離脱に伴い主に3番で起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ 打を記録した[ 注 2] 。このことから『サヨナラ慎ちゃん 』と呼ばれるようになった[ 21] 。8月11日の広島東洋カープ 戦でのサヨナラ本塁打は自身初のサヨナラ本塁打であるとともに、巨人の東京ドーム通算1000号本塁打となるメモリアルアーチであった[ 22] 。さらに打率も.298と3割の一歩手前までいくなど、打撃も好調だった。
2003年 、3月29日の対中日ドラゴンズ戦で5回一死満塁の打席で朝倉健太 から満塁本塁打を放つ[ 23] も、シーズン途中で右肩を故障したこともあり[ 24] 、この年は94試合出場。規定打席には届かなかったものの打率.303を記録した。また、初めてオールスターゲーム に出場した。
2004年 、4月9日から4月16日にかけて6試合連続本塁打[ 注 3] [ 26] 、4月28日は対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場 )で1試合3本塁打[ 27] を放った。4月の月間16本塁打は王貞治 の球団記録を更新し、1981年の門田博光 (南海 )、1994年の江藤智 (広島)と並ぶ日本タイ記録だった[ 28] 。5月1日の対広島東洋カープ戦では3-3の同点の延長11回一死一塁の打席で永川勝浩 からサヨナラ2点本塁打[ 29] を放ち、5月12日には1998年にマーク・マグワイア が記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新した「開幕33試合目での20本塁打」を記録した[ 30] 。だがその後は失速し、5月後半 - 7月はそれぞれ2本ずつに留まったうえ、6月25日に左太ももを故障[ 31] 、7月18日の対ヤクルトスワローズ戦では2-2の同点の9回無死一・二塁の打席で河端龍 からサヨナラ3点本塁打を放つ[ 32] が、8月20日に右脇腹を故障した[ 33] こともあり、最終的には33本塁打だった。しかし、巨人の捕手として球団史上初となるシーズン30本塁打を記録し、2年ぶりに規定打席に到達。さらに自身初となる打率3割も記録した。11月には日米野球 に捕手・代打で8試合中6試合に出場したが、13打席11打数0安打2四球だった。
2005年 、シーズンを通して5番に定着し、最終的に2年連続で打率3割を越え、出塁率、得点圏打率はチームトップの成績だった。8月13日の対阪神タイガース戦(東京ドーム)では3-3の同点の延長12回無死満塁の打席で久保田智之 からサヨナラ安打[ 34] 、8月23日の対横浜ベイスターズ戦では右肩痛のため、プロ入り後初めて一塁手 として出場[ 35] 、9月4日の対広島東洋カープ戦(旧広島市民球場 )では4回二死満塁の打席でケニー・レイボーン から満塁本塁打を放った[ 36] 。また、オフに守備の負担を減らせば4番打者を務めることができると考えた原辰徳 監督に一塁手への配置転換を提案されたが、「捕手として勝負したい」と辞退した[ 37] 。12月2日の契約更改では年俸2000万円増の1億4000万円でサインした[ 38] 。
2006年 、ワールド・ベースボール・クラシック の日本代表に選出されたが、前年の故障の影響で出場を辞退。シーズンでも4年ぶりに打率3割を割り、自己ワーストの10本塁打に終わったが、キャリアハイの盗塁阻止率.443を記録した。10月18日に、元・日産ミスフェアレディの一般女性との結婚を発表した。
主将、そして4番打者
2012年
2007年 、主将に任命された。6月9日の東北楽天ゴールデンイーグルス 戦で巨人軍第72代4番 となり、この試合で2本塁打5打点と活躍した[ 39] 。また、6月14日のオリックス・バファローズ 戦で、平野佳寿 から満塁本塁打を打ったが、これはプロ野球史上初の球団通算200満塁本塁打となった。さらにオールスター第2戦ではMVPを獲得。9月25日には33本塁打を打ち、同時に自身初となるシーズン100打点に到達。これは2003年の城島健司 (当時ダイエー)以来、史上4人目の捕手登録選手のシーズン100打点達成となった(セ・リーグでは門前真佐人 以来2人目で、57年ぶりの記録)。2008年の北京オリンピック の野球日本代表 予選 3試合に出場し、打率.769(13打数10安打)4打点を記録し、最優秀打者賞・MVPを獲得した。
2009年日本シリーズ優勝パレードでの阿部慎之助(2009年11月22日撮影)
2008年 は本塁打1本に付き1万円を慈善団体に寄付するようになった。優勝が決定した10月10日の試合では2打点を挙げるが、牽制球で二塁へ帰塁した際に右肩を負傷[ 40] 。その結果、クライマックスシリーズ は欠場し、日本シリーズ は代打・指名打者として出場し、1本塁打含む打率.400を記録するも、捕手の守備に就くことはできなかった。
2009年 はスタメンを外れたり、セス・グライシンガー の先発時は鶴岡一成 がマスクを被った一方で、4年ぶりに一塁手で出場することもあった。9月には5試合で7本塁打を打つ活躍で月間MVPを受賞。最終的にチームトップ、リーグ2位の32本塁打、リーグ1位の本塁打率、リーグ1位の長打率 を記録し、チームのリーグ3連覇に貢献。9月18日の東京ヤクルトスワローズ 戦では、巨人の捕手で史上初となる通算200本塁打を達成した。日本シリーズ では北海道日本ハムファイターズ と対戦し、第5戦で武田久 からサヨナラ本塁打、第6戦では武田勝 から決勝打を記録し、ピンチの場面で3番・稲葉篤紀 、4番・髙橋信二 を三振に仕留める好リードを見せるなど活躍。チームも日本一を達成し、シリーズMVPを受賞した。
2010年 5月21日の楽天戦で永井怜 から本塁打を打ち、10年連続2桁本塁打を達成した[ 注 4] 。6月19日の中日ドラゴンズ 戦では浅尾拓也 からこの試合2本目の本塁打を打ち、6度目の20本塁打を記録した。そして、2004年以来となる両リーグ最速の20本塁打を記録(同日、クレイグ・ブラゼル も記録)した。このペースは2004年に次ぐものであった[ 41] 。さらに、6月は打率.375、14本塁打、21打点の成績で月間MVPに選出された。9月11日の広島戦で、捕手としては野村克也 ・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を達成した。捕手としては球団初、左打者の捕手としても史上初の記録であった。本塁打率は2年連続でセ・リーグ1位だった。契約更改では、4億円を提示された。
2011年 は東日本大震災 の影響で日程が遅れたことに加え、4月5日の阪神との練習試合で右脹脛を負傷し、開幕に出遅れた[ 42] 。その後は二軍での調整を経て、交流戦初戦の楽天戦で「5番・捕手」で一軍復帰すると、初安打を打った[ 43] 。その後も正捕手としてだけではなく、終盤はラミレスに代わって4番に定着するなど、攻守にわたってチームを牽引した。9月29日の横浜戦では谷繁元信 が打ち立てた、セ・リーグ記録の連続守備機会無失策1708を抜く、新記録の1709を達成した[ 44] 。最終的には114試合に出場して、打率.292、114安打、61打点を記録したが、開幕から1か月の間欠場した影響で8年ぶりに規定打席には到達できず。それでもチーム2位、そして5年連続となるシーズン20本塁打を達成した。シーズン中には、第7回「ジョージア魂賞 」を受賞し、JA全農Go・Go賞は、8月の「最多盗塁阻止賞」部門、9月の「最多二塁打、三塁打賞」部門、10月の「最優秀賞」と3か月連続で受賞。また、5年連続となるベストナインにも選出された。契約更改では、怪我で出遅れながらもチームを牽引したことが評価され、現状維持の4億円(推定)で更改した。
2012年 1月に第3子が誕生した。主に4番で起用され[ 注 5] 、史上最多タイとなる年間3度の月間MVPを受賞するなどチームを牽引し、自身初の打撃タイトルとなる首位打者、打点王、最高出塁率を獲得した。本塁打もウラディミール・バレンティン に4本差の2位であり、一時は三冠王 も視界に入れた。打率.3404は1991年に古田敦也 が記録した.3398を上回る捕手の最高記録であり[ 46] 、打点は両リーグで唯一100を超える104を記録した。また、三振数も規定打席到達者の中でセ・リーグ最少で、出塁率・長打率も12球団トップだった。リード面でもチーム防御率2.16は、1966年の西鉄ライオンズ (2.13)以来の好成績となった。日本シリーズ では、3戦目に右膝裏を痛めて途中交代し、4戦目と5戦目に出番はなかったが、6戦目は「4番・捕手」で出場し、7回裏に決勝適時打を打ってチームを日本一に導いた。また、原監督と共に正力松太郎賞 を受賞し、さらにセ・リーグMVP にも選出された。11月6日に発表された「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」 」の日本代表にも選ばれた[ 47] 。契約更改では推定年俸5億7000万円の1年契約で更改。佐々木主浩 、松井秀喜に次ぐNPBで日本人史上3位の高額年俸となった。12月4日に発表された第3回WBC 日本代表 候補選手34人に選ばれた[ 48] 。
2013年 は前年に続き安定した活躍を続け、攻守にわたってチームを牽引した。だが優勝マジックを1として迎えた9月21日の広島戦で、試合開始10分前に肩に強い違和感を持ち欠場。代役として井野卓 が出場することになった。そして診断の結果、帯状疱疹 に感染していることが明らかとなった[ 49] 。それでも翌日の9月22日の広島戦、1点リードの9回に捕手として出場し、チームの顔として優勝の瞬間にグラウンドに立った。前年ほどの傑出した成績ではなかったものの、それでも3年ぶりに30本塁打を記録するなど、この年も打撃各部門で高い数字を記録した。また、推定年俸が6億円となり、松井秀喜と並ぶ球団最高年俸タイ記録、NPBでは史上2位タイ記録となった。
2014年 5月1日のヤクルト戦で西村健太朗 の逆球を捕った際に首を痛め、途中交代した。6月7日の西武戦で岸孝之 から本塁打を打ち、球団歴代本塁打数332本で並んでいた松井秀喜 を抜いて球団歴代単独4位に浮上した。なお、この本塁打で捕手としては史上5人目となる通算1000打点も達成した[ 50] 。7月11日の阪神戦では、プロで初の退場処分。7月25日の中日ドラゴンズ 戦では、球団史上6人目となる通算3000塁打を達成した[ 51] 。しかし、この年は怪我や不振に泣かされ、一塁手で出場することもあった。そのうえ本塁打も19本に終わり、2006年の10本以来、8年ぶりに20本を下回ったほか、打率.248は規定打席到達者の中で最下位だった。クライマックスシリーズ では全試合4番打者を務め、第1戦に藤浪晋太郎 から本塁打、第3戦ではランディ・メッセンジャー から先制適時打を打ったが、この2安打のみと不振だった。なお、第3戦の適時打はCS4試合の中でチーム唯一の適時打だった(それ以外の得点は本塁打と犠飛)。オフの10月22日、「日本プロ野球80周年記念試合 」の阪神・巨人連合チームに選出された[ 52] [ 53] 。11月6日、捕手部門で2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞した[ 54] 。不振が響いて推定年俸は5億1000万円(9000万円ダウン)になったが、それでも球界最高年俸は変わらなかった。
内野手へのコンバート
2016年3月16日 明治神宮野球場
2015年 は捕手から一塁手にコンバートされ、開幕から一塁手で出場したが、相川亮二 が離脱したこともあり、急遽4月3日の阪神戦で捕手に復帰した[ 55] 。これを記念し4月15日に、「I'm back! Tシャツ」が発売された[ 56] 。4月18日、左太腿裏の肉離れで登録抹消された[ 57] 。7月1日の広島戦で通算350本塁打を達成した[ 58] 。しかし自主トレからハイペースで猛練習した影響で、開幕前に疲労が蓄積し、その結果、シーズンを通して何度も離脱を繰り返し、結局111試合の出場で打率.242、15本塁打、47打点の成績に終わった[ 59] 。CSのファイナルシリーズでは打率.688を記録[ 59] 。推定年俸は選手の減額制限である40%近くの36%(1億8400万円)ダウンを受け入れ、3億2600万円でサインした。巨人としては球団史上では金額面で過去2番目、12球団でも4番目となる下げ幅だった。
2016年 は当時の監督である高橋由伸の方針で再び捕手登録に戻った。シーズン前、里崎智也 は元々「自分が監督なら捕手はキャッチング・ブロッキング・スローイングが一軍レベルに達している場合それ以上の守備力に関わらず打つ選手を使う」という持論を持っていただけに、打撃に定評のある阿部が一軍でマスクを被れるかどうかに注目していた[ 60] [ 61] 。だが、オープン戦で肩に違和感を覚えて登録抹消され、開幕二軍で迎えた。5月31日のオリックス戦で一軍復帰し、本塁打を打った。さらに、7月8日のDeNA 戦から8月10日のDeNA戦まで23試合連続安打を記録し、自己最長連続安打となった。最終的に91試合の出場で規定打席到達はならなかったが、打率.310、12本塁打、52打点を記録し、4番として随所で活躍を見せた。しかし、一塁手または指名打者としての出場となり、プロ入り後、初めて捕手での出場が0のシーズンとなった。推定年俸は6600万円ダウンの2億6000万円となった[ 62] 。
2017年 は再び内野手登録となった。3月31日の中日との開幕戦で大野雄大 から本塁打を打ち、自身初のシーズン初打席での本塁打を記録し、4月1日の中日戦でも田島慎二 から逆転サヨナラ3ランを打った。6月18日のロッテ戦で佐々木千隼 から本塁打を打ち、通算382本塁打として原辰徳に並んだ。さらに第2打席で2打席連続本塁打を記録して通算383本塁打となり、原を抜いて球団歴代単独3位となった。8月13日の広島戦で今村猛 から安打を打ち、NPB史上49人目の通算2000安打を達成した。巨人の生え抜きでは1980年の柴田勲 以来37年ぶり5人目、また21世紀以降の巨人のドラフト指名選手では初の快挙であった[ 63] [ 注 6] 。3年ぶり、内野手登録となってからは初めて規定打席に到達し、打率は.262と振るわなかったものの内野手転向後では最多の129試合の出場で17年連続2桁本塁打となる15本塁打・76打点を記録した。
2018年 は岡本和真 にレギュラーを奪われ、怪我以外の理由では初めて開幕スタメンを外れた[ 64] 。その後は主に代打での出場が続いたが出場機会に恵まれず、初安打は4月29日と遅れた[ 65] 。それでも随所での活躍が光り、10月1日のヤクルト戦では10号本塁打を打った[ 66] 。これで入団1年目から18年連続での2桁本塁打となり、清原和博 、張本勲に次ぎ歴代3位となった[ 67] 。岡本の台頭によって先発出場は少なかったものの、1年を通して大きな怪我もなく、一度も登録を抹消されず最終的に95試合に出場。打率.247、11本塁打、46打点を記録した。
捕手復帰、現役引退へ
2019年 は監督に復帰した原辰徳と協議し、再び捕手に復帰することを決意した[ 68] 。小林誠司 、宇佐見真吾 [ 注 7] 、大城卓三 、そして埼玉西武ライオンズ からFAで新加入した炭谷銀仁朗 との正捕手争いとなった。しかし、キャンプ中に度重なる怪我に悩まされて、捕手は宇佐見を除いて3人体制となり、阿部は代打の切り札として開幕一軍入りした。
6月1日の中日戦で田島慎二から本塁打を打ち、史上19人目となる通算400本塁打 を達成した[ 69] 。巨人での通算400本塁打達成は王貞治・長嶋茂雄に次ぐ3人目であり、巨人の捕手では史上初の達成となった[ 70] 。また、捕手の通算400本塁打達成は野村克也・田淵幸一に次いで史上3人目だった。捕手で1666試合出場しており、捕手で通算1000試合出場と通算2000安打を達成しての通算400本塁打は野村以来2人目だった。また、本塁打王なしでの通算400本塁打は史上5人目であった[ 注 8] [ 70] 。6月9日のロッテ 戦で田中靖洋 から本塁打を打ち、通算229人の投手から本塁打を記録というNPB新記録を樹立した。6月13日の西武戦で本塁打を打ち、通算230人の投手から本塁打を記録し、記録を更新。交流戦での通算本塁打数をセ・リーグ初となる60本塁打とした[ 71] 。7回には粟津凱士 から二塁打を打ち、史上42人目(球団の生え抜き選手では川上哲治 、長嶋、王に次ぎ4人目)の通算350二塁打を達成した。捕手として400本塁打・350二塁打を達成した選手は野村以来史上2人目、セ・リーグでは史上初の快挙であった[ 72] 。
その後は小林や大城がスタメンマスクで起用され続けたことで阿部は前年までと同様に代打や一塁手でのスタメン起用に終始し、捕手復帰を目指したシーズンながら結局一度もマスクをかぶる機会はなく、自身の今後について原とも協議した結果、2019年限りで現役を引退することを決断。9月23日に明治神宮野球場 で行われたヤクルト戦終了後のミーティングでチームメイトに涙ながらに引退を報告する様子が巨人軍公式のTwitterとYouTubeチャンネルで公開された[ 73] [ 74] 。9月25日には引退会見が行われた[ 75] 。
9月27日の本拠地最終戦(DeNA戦)で『ありがとう慎之助 』と銘打った引退記念試合が行われ、2015年5月31日の楽天戦以来1580日ぶりに「4番・捕手」として先発出場した(捕手での出場自体は2015年6月6日のソフトバンク戦以来1574日ぶり)。初回は引退会見で自ら「もう一度球を受けたい」と名前を挙げ、来日初先発となったスコット・マシソン を好リード。2回は救援登板した中央大学の後輩でもある澤村と2012年の日本シリーズにおける場面を再現するやりとり を見せてマウンドで握手を交わしたあと、大城卓三 と入れ替わる形で一塁手の守備に就いた[ 注 9] 。この試合で4回裏に中川虎大 から公式戦最後の安打(通算2132安打目)となる通算406号本塁打を右翼席へ叩き込み、8回の守備で山本泰寛 と交代しベンチへ退いた。9月28日のヤクルト戦(明治神宮野球場)がシーズン最終戦及び公式戦最後の試合となり、代打で出場も申告敬遠され、中央大学の後輩でもある鍬原拓也 を代走に送られた。これについては「俺らしい。史上初じゃない? 球史に残る偉大な記録じゃないかな」とコメントした[ 76] [ 注 10] 。現役最終年となったこの年は打率も3割近くOPSも.892と高水準だったが、序盤は代打メインで先発出場が増えたのが後半戦以降ということもあり打数は少なく、キャリアで唯一本塁打は1桁に留まった。
日本シリーズ では全4試合(1 - 3戦目は5番打者として先発)に出場し、初戦の第1打席では千賀滉大 から令和の日本シリーズ初本塁打・初得点となるソロ本塁打を打ったが、チームはソフトバンクに4連敗を喫し敗退(プロ最終打席は二塁ゴロ)。第4戦終了後に対戦相手であるソフトバンクの選手たちによって背番号と同じ10回胴上げ され、19年間の現役生活を終えた[ 77] 。
11月1日、任意引退公示された[ 78] 。
現役引退後
二軍監督・コーチ
2020年 から巨人の二軍監督に就任[ 79] [ 80] 。背番号は80 に変更された。
2020年、9月16日に元木大介 一軍ヘッドコーチが虫垂炎 のため緊急入院したことにより、同日の対阪神戦から10月1日の対広島戦まで一軍ヘッドコーチ代行としてベンチ入りした(期間中は二軍野手総合コーチの村田修一 が二軍監督代行を務めた)[ 81] [ 82] 。
2021年も引き続き二軍監督を務めたが、二軍公式戦全日程終了後の10月5日から一軍作戦コーチに配置転換された(二軍監督代行は三軍監督の二岡智宏 が務めた)。
2022年 は、一軍作戦兼ディフェンスチーフコーチとして、守備部門におけるトップを務め、投手チーフコーチの桑田真澄 、ヘッド兼オフェンスチーフコーチの元木大介 と共に、“3大チーフコーチ”の一角を担った[ 83] [ 84] 。
2023年 は“3大チーフコーチ”体制はなくなり、一軍ヘッド兼バッテリーコーチに就任した[ 85] [ 86] 。そして10月4日のシーズン最終戦終了後に行われた最終戦セレモニーで挨拶に立った原辰徳 監督から、自身の退任とともに後任として阿部が監督に就任することが公表された[ 87] 。
第20代巨人軍監督
2023年10月6日、正式に監督就任が発表された。同日に球団オーナーの山口寿一 、前監督の原辰徳が同席の上で就任記者会見を執り行い、監督就任と共に背番号を原が着用していた「83 」に変更、契約期間は2024年から3年間であることも併せて発表された[ 88] 。球団では浅沼誉夫 (第2代監督)以来2人目、戦後(2リーグ制以降)では初めて捕手出身の監督であり、かつ二軍監督経験者として初の一軍監督就任でもある。
2024年 、スポーツ報知では、毎年歴代監督本人のスローガンを書道で披露することになっている。書道初体験の阿部が初披露したその年のスローガンは「新風 」である。
2024年9月27日の広島戦に8-1で勝利し巨人軍を4年ぶり39回目の優勝へと導いた。クライマックスシリーズ ではリーグ3位でファーストステージ勝者の横浜DeNAベイスターズ に3勝4敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で敗れ日本シリーズ 進出を逃した。
代表経歴
2000年 9月にはシドニーオリンピック代表 に選ばれた。
北京オリンピック日本代表 での阿部
北京オリンピック代表 に選出され、8試合に出場した[ 89] 。
2009年シーズン開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) の日本代表 に選出された。城島が正捕手として起用されたため出場機会には恵まれなかったが、第2ラウンド1組1位決定戦 では捕手として先発出場した。
2013年 2月20日に発表された第3回WBC日本代表選手28人に選ばれた[ 90] [ 91] [ 92] 、2大会連続2度目の選出となった。同大会では、主将、4番、正捕手の三役を兼任した。1次ラウンドでは無安打も[ 93] 、3月12日のオランダ 戦では自身初かつWBC史上初の1イニング2本塁打を記録した[ 94] 。しかし、準決勝のプエルトリコ 戦では好機に3度凡退し[ 95] 、チームは敗戦を喫した。阿部は全7試合に出場し、チーム最多タイの7打点を記録した。
選手としての特徴
捕手の守備に就く阿部
打撃
強打、強肩の捕手として知られ[ 96] 、基準違反統一球 が導入されていた2011年から2012年において両リーグ最高打率となる.318、同OPS.935を誇った。スイングを始めてから腰を捕手方向に捻るツイスト打法 により緩急に対応し[ 97] [ 98] 、内角の球も切れずにスタンドに運ぶ技術を持つ[ 99] 。
左打者ながら左投手も苦にせず、2006年から2010年まで左投手に対して打率.283を記録し、統一球導入後の通算でも打率.327を記録している。ツイスト打法は内田順三 に勧められて2004年から取り入れ[ 96] 、普段の練習やティーバッティングなどで腰の開きを我慢しながら反復して練習しているという[ 96] 。また、父からの「力に頼ることなく基礎の技術を大事に素直に打ちなさい」という教えを忠実に守っており、練習でのフリーバッティングにおいても強引に引っ張るのではなく、逆方向へ打ち返す練習を2017年の時点[ 100] でも行なっていた。下半身の強靭さが必要なツイスト打法[ 101] を使いこなす一方で、左打者で一塁到達4秒台後半の鈍足である[ 102] 。捕手でありながら強打者でもあることが高く評価されてきたが、阿部曰く捕手であるために打撃で悩む暇がなかったことが逆に良かったとしている[ 96] 。
守備
スローイング面では2010年には両リーグトップの進塁阻止率を記録[ 103] 。アマチュア時代から強肩に定評があり、スローイングの制球も安定している[ 102] 。試合後のアイシングやオフの鍼治療などで肩のケアには気を配っているが、肩の消耗のため「大学時代が一番スローイングは良かったかな?」と思うこともあるという[ 96] 。
リード面では「直感型とデータ型に分類するのではなく、両方が必要だと思っている。リードに関しては正解がないから、臨機応変に対応できることが一番」と話している[ 96] 。キャプテンシーが高く評価されており、チームメイトからは「ミットを構えた時の安心感があるし、声をかけてくれるタイミングも抜群」との信頼を得ている[ 96] 。2009年から2014年までは捕手として戦力になれる選手がいたことや怪我の影響もあり負担の少ない一塁手 としての出場も偶にあったが、2005年と2015年以降では怪我が深刻になったこともあり一塁手 としての出場が急増した。
主将として
2007年から2014年まで8年間にわたってチームの主将を務めたことで、緊張感のないプレーや不甲斐ない姿を晒す選手に対しては厳しい言葉を発することがあった。また、毎年1月に行われる自主トレには、坂本勇人や小林誠司を始め多くの若手選手を自費で帯同させていた。
2011年、シーズン終盤の10月6日の横浜戦に先発した東野峻 が7回2安打2失点の投球を見せたが、5四球出したことで「この成績で満足するなら野球やめたほうがいいんじゃないか」と苦言を呈した[ 104] 。
2012年の日本シリーズ 第2戦では、先発の澤村拓一が初回に2つの死球でピンチを招き、さらに牽制球 のサインを見逃したことで、一度タイムを取ってマウンドに行き澤村の頭を叩いた。これで澤村は奮起し、8回無失点の好投で日本シリーズ初登板初先発初勝利を飾った[ 105] (詳細は2012年の日本シリーズ を参照)。7年後の阿部の引退記念試合では、2回に登板した澤村に対しサインが合わずマウンドへ駆け寄る阿部が澤村を叩く素振りを見せて握手を交わすというこのシーンを再現した一幕が見られた[ 106] 。
メンタル面
プロ入り1年目から正捕手に抜擢され、若手時代は投手の成績が振るわないと阿部がメディアからリード批判の標的にされ、苦しめられることも多かった[ 107] 。また、先輩投手にちゃんと返球しなきゃいけないというプレッシャーからイップス に陥った経験も明かしている[ 107] 。練習量で取り戻そうとスローイング練習を繰り返す日々を送ったが、そのせいで肩を壊してしまうこともあった[ 108] 。自分から周りにイップスであることを言えるようになってから精神的な変化があり改善していったという[ 108] 。その後、同リーグの捕手からは様々な重圧を乗り越えてきたメンタルの強さを賞賛されるようになり、谷繁元信 は「入って来たときはいろんな批判がありながらそこを黙らせた。自分の成績で。メンタル的に強くないとできない」と語り[ 109] 、相川亮二 は巨人という伝統球団で捕手を続けることの重圧を踏まえながら「慎之助は重たい責任を背負ってこれだけ長くレギュラーとして、チームの中心選手としてやってきた。そういう強さを持っているのが本当に凄い」と称えた[ 110] 。
その他
総合評価指標WAR において、2012年、2013年にはそれぞれ9.7、8.4といずれも両リーグNo.1の数値を記録する[ 111] [ 112] 。現役時代は左打ち、そして二軍監督としてのプロフィールでは「右投左打」[ 113] と登録されているが、指導者となってからは実際にはノック等では右打としている。本人曰くメジャーリーグベースボール からの誘いはあったというが「英語が喋れないので断念した。」という。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
2001
巨人
127
428
386
40
87
18
0
13
144
44
3
0
2
2
31
7
7
79
9
.225
.293
.373
.666
2002
127
511
446
62
133
26
0
18
213
73
4
1
4
3
46
12
12
81
10
.298
.377
.478
.854
2003
94
371
314
46
95
15
1
15
157
51
1
1
3
4
40
6
9
52
7
.303
.392
.500
.892
2004
108
436
379
61
114
22
1
33
237
78
0
0
1
0
43
1
13
87
6
.301
.391
.625
1.016
2005
130
534
476
56
143
16
0
26
237
86
0
2
0
6
51
4
1
78
15
.300
.365
.498
.863
2006
129
497
452
39
133
26
2
10
193
56
0
2
4
2
35
4
4
76
8
.294
.349
.427
.776
2007
140
580
499
72
137
20
0
33
256
101
1
2
3
10
57
7
11
76
17
.275
.355
.513
.868
2008
125
484
428
60
116
27
0
24
215
67
1
1
4
0
44
5
8
66
17
.271
.350
.502
.852
2009
123
462
409
63
120
20
2
32
240
76
1
1
2
7
34
0
10
87
9
.293
.357
.587
.943
2010
140
569
498
85
140
27
2
44
303
92
0
0
1
1
58
3
11
91
8
.281
.368
.608
.976
2011
114
437
390
45
114
21
0
20
195
61
1
1
2
1
35
2
9
66
12
.292
.363
.500
.863
2012
138
556
467
72
159
22
1
27
264
104
0
0
2
8
69
6
9
47
11
.340
.429
.565
.994
2013
135
529
422
81
125
17
0
32
238
91
0
0
0
6
86
9
15
59
8
.296
.427
.564
.991
2014
131
526
459
49
114
24
0
19
195
57
1
3
0
2
58
5
7
77
16
.248
.340
.425
.765
2015
111
419
343
44
83
14
0
15
142
47
0
0
0
4
64
1
8
84
9
.242
.370
.414
.784
2016
91
387
335
43
104
13
0
12
153
52
0
1
1
3
44
1
4
55
8
.310
.394
.457
.850
2017
129
512
455
41
119
13
0
15
177
76
0
1
1
7
41
1
8
67
13
.262
.329
.389
.718
2018
95
223
198
22
49
6
0
11
88
46
0
0
1
1
21
2
2
55
6
.247
.324
.444
.769
2019
95
192
158
15
47
8
0
7
76
27
0
0
0
2
28
2
4
23
1
.297
.411
.481
.892
通算:19年
2282
8653
7514
996
2132
355
9
406
3723
1285
13
16
31
69
885
78
152
1306
190
.284
.368
.495
.863
年度別打撃成績所属リーグ内順位
年 度
年 齢
リ | グ
打 率
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
打 点
盗 塁
2001
23
セ・リーグ
-
-
-
-
-
-
-
2002
24
-
-
10位
-
-
9位
-
2003
25
-
-
-
-
-
-
-
2004
26
-
-
-
-
8位
-
-
2005
27
-
-
-
-
-
-
-
2006
28
-
-
-
-
-
-
-
2007
29
-
-
-
-
5位
4位
-
2008
30
-
-
9位
-
7位
-
-
2009
31
10位
-
-
-
2位
-
-
2010
32
-
‐
-
-
3位
6位
-
2011
33
-
-
-
-
4位
9位
-
2012
34
1位
4位
-
-
2位
1位
-
2013
35
6位
-
-
-
3位
3位
-
2014
36
-
-
-
-
-
-
-
2015
37
-
-
-
-
-
-
-
2016
38
-
-
-
-
-
-
-
2017
39
-
-
-
-
-
-
-
2018
40
-
-
-
-
-
-
-
2019
41
-
-
-
-
-
-
-
-は10位未満(打率は規定打席未到達の場合も-と表記)
太字年度 は規定打席到達年度、年度背景色金色は最優秀選手賞(MVP) 受賞年度
WBCでの打撃成績
年 度
代 表
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
2009
日本
4
6
6
0
1
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
2
0
.167
.167
.167
2013
7
24
23
5
6
1
0
2
13
7
0
0
0
0
1
0
0
2
0
.261
.292
.565
年度別守備成績
年 度
球 団
捕手
一塁
試 合
刺 殺
捕 殺
失 策
併 殺
捕 逸
守 備 率
企 図 数
許 盗 塁
盗 塁 刺
阻 止 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
2001
巨人
125
846
63
4
8
6
.996
68
44
24
.353
-
2002
126
1013
65
6
15
9
.994
50
30
20
.400
-
2003
93
772
51
7
4
4
.992
61
39
22
.361
-
2004
108
894
56
2
10
4
.998
56
38
18
.321
-
2005
98
793
55
8
10
1
.991
72
53
19
.264
32
263
14
3
14
.989
2006
128
916
83
3
7
7
.997
88
49
39
.443
-
2007
139
1001
74
8
9
8
.993
70
50
20
.286
-
2008
122
914
82
4
15
4
.996
79
50
29
.367
-
2009
107
715
67
4
7
5
.995
80
54
26
.325
10
71
5
0
6
1.000
2010
137
958
94
1
10
7
.999
97
61
36
.371
5
41
1
2
5
.955
2011
112
758
75
2
12
3
.998
61
41
20
.328
1
4
0
0
0
1.000
2012
116
788
70
7
8
1
.992
57
37
20
.351
21
175
7
3
17
.984
2013
119
858
71
1
5
5
.999
76
48
28
.368
5
39
4
0
3
1.000
2014
111
699
69
1
12
3
.999
66
48
18
.273
24
175
8
1
15
.995
2015
25
167
16
0
0
0
1.000
18
9
9
.500
78
652
35
2
44
.997
2016
-
84
705
37
10
68
.987
2017
-
115
962
45
5
76
.995
2018
-
41
272
9
1
13
.996
2019
1
2
0
0
0
0
1.000
1
1
0
.000
37
196
8
2
14
.990
通算
1667
12094
991
58
132
67
.996
1000
652
348
.348
453
3355
173
29
275
.992
年度別監督成績
レギュラーシーズン
年 度
球 団
順 位
試 合
勝 利
敗 戦
引 分
勝 率
ゲ | ム 差
本 塁 打
打 率
防 御 率
年 齡
2024年
巨人
1位
143
77
59
7
.566
-
81
.247
2.49
45歳
通算:1年
143
77
59
7
.566
Aクラス1回
タイトル
表彰
記録
初記録
節目の記録
100本塁打:2005年8月10日、対横浜ベイスターズ14回戦(東京ドーム)、4回裏に三浦大輔 から右越ソロ ※史上241人目
150本塁打:2008年5月3日、対東京ヤクルトスワローズ 7回戦(明治神宮野球場 )、9回表に五十嵐亮太 から右越3ラン ※史上146人目
1000試合出場:2009年5月4日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場 )、「8番・捕手」で先発出場 ※史上430人目
1000安打:2009年6月8日、対東北楽天ゴールデンイーグルス 4回戦(東京ドーム)、6回裏に井坂亮平 から左前安打 ※史上253人目
200本塁打:2009年9月18日、対東京ヤクルトスワローズ20回戦(明治神宮野球場)、7回表に加藤幹典 から中越3ラン ※史上95人目
250本塁打:2011年5月18日、対東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城 )、7回表に永井怜 から右越ソロ ※史上55人目
100死球:2012年6月30日、対中日ドラゴンズ8回戦(東京ドーム)、3回裏に小笠原孝 から ※史上18人目
1500試合出場:2013年4月4日、対横浜DeNAベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、「4番・捕手」で先発出場 ※史上177人目
1500安打:2013年4月7日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)、7回裏に小林正人 から右前安打 ※史上113人目
300本塁打:2013年4月21日、対広島東洋カープ 6回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島 )、7回表に中村恭平 から右越2ラン ※史上38人目(捕手では野村克也 ・田淵幸一 に次いで3人目)
1000打点:2014年6月7日、対埼玉西武ライオンズ 4回戦(東京ドーム)、5回裏に岸孝之 から右越ソロ ※史上42人目(捕手では野村克也・田淵幸一・古田敦也 ・谷繁元信 に次いで5人目)
3000塁打:2014年7月25日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤドーム )、2回表に大野雄大 から遊撃内野安打 ※史上53人目
300二塁打:2014年9月21日、対東京ヤクルトスワローズ22回戦(東京ドーム)、1回裏に小川泰弘 から左中間へ適時二塁打 ※史上62人目
350本塁打:2015年7月1日、対広島東洋カープ13回戦(東京ドーム)、8回裏に戸田隆矢 から中越ソロ ※史上28人目
2000試合出場:2017年5月20日、対横浜DeNAベイスターズ8回戦(横浜スタジアム)、「4番・一塁手」で先発出場 ※史上50人目
3500塁打:2017年8月3日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(明治神宮野球場)、1回表に星知弥 から中前安打 ※史上29人目
2000安打:2017年8月13日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回表に今村猛 から右前安打 ※史上49人目
400本塁打:2019年6月1日、対中日ドラゴンズ10回戦(東京ドーム)、6回裏に田島慎二 から右越ソロ ※史上19人目[ 127] [ 128]
350二塁打:2019年6月13日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(メットライフドーム )、7回表に粟津凱士 から中越二塁打 ※史上42人目[ 72] 。
150死球:2019年8月9日、対東京ヤクルトスワローズ18回戦(東京ドーム)、5回裏に小川泰弘から ※史上5人目
その他の記録
WBCでの記録
背番号
10 (2001年 - 2019年)
80 (2020年 - 2023年)
83 (2024年 - )
登場曲
代表歴
関連情報
著書
関係文献
脚注
注釈
^ 野球部かつ3年間同じクラスだった岩舘善広は、2005年1月から阿部の個人マネジャー・専属ドライバーを務めている[ 6] [ 7] 。
^ 8月11日の対広島東洋カープ戦で4-4の同点の延長10回二死無走者の打席で小林幹英 からサヨナラ本塁打[ 17] 、8月15日の対ヤクルトスワローズ 戦で2-2の同点の9回一死無走者の打席で藤井秀悟 からサヨナラ本塁打[ 18] 、8月21日の対横浜ベイスターズ 戦で1-1の同点の延長10回一死二塁の打席でシェーン・バワーズ からサヨナラ二塁打[ 19] 、9月17日の対横浜ベイスターズ戦で1点を追う9回二死満塁の打席で斎藤隆 から逆転サヨナラ2点適時打[ 20] の計4度サヨナラ打を記録。
^ 4月11日の対ヤクルトスワローズ戦で3点を追う6回二死満塁の打席で山部太 から放った逆転満塁本塁打を含む[ 25] 。
^ チームでは長嶋茂雄・王貞治・原辰徳・松井秀喜 ・高橋由伸 に次いで6人目。
^ 2012年シーズン開幕に際して、当時の監督・原辰徳 は「ある種、慎之助のチームだから」と言っている[ 45] 。
^ 巨人の背番号10を付けた選手では、2000安打達成者が3人(阿部の前の達成者は、張本勲 と駒田徳広 )輩出されることとなった。
^ シーズン途中に北海道日本ハムファイターズ へトレード移籍。
^ 張本勲 ・衣笠祥雄 ・清原和博 ・金本知憲 に次ぐ史上5人目。
^ この回は澤村が初球を投じる前に一連のやりとりがありそのまま一塁の守備についたため、澤村の投球を受けることなく大城にマスクを託した。また澤村の登板時に阿部へのサプライズで互いの母校である中央大学の校歌が登場曲として流され、阿部が笑みを浮かべる一幕があった。
^ 実際に2023年シーズン終了時点で一軍公式戦の現役最終打席において申告敬遠された選手は阿部ただひとりとなっている。
^ 規定打席未満の際に不足分を打数に加え再計算しても、規定打席到達者の最高率を上回る場合はリーグ首位とする(野球規則10・22)。
^ 2013年の表彰名は「月間アットホームクラッチヒーロー賞」
^ プロ野球記録は中村剛也 の72本。
出典
関連項目
外部リンク
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阿部慎之助 に関連するカテゴリがあります。
監督・コーチ
監督 一軍コーチ 二軍監督・コーチ 三軍監督・コーチ 巡回コーチ
業績
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
2019年から2021年は表彰休止
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 特別賞
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代
1980 木下富雄 , 山根和夫 , 平野光泰
1981 平田薫 , 江川卓 , 河埜和正
1982 大田卓司 , スティーブ , 中尾孝義
1983 田淵幸一 , テリー , 中畑清
1984 山本浩二 , 高橋慶彦 , 福本豊
1985 R.ゲイル , 真弓明信 , 長崎啓二
1986 清原和博 , 石毛宏典 , 津田恒実
1987 石毛宏典 , 秋山幸二 , 槙原寛己
1988 清原和博 , 森山良二 , 郭源治
1989 岡崎郁 , 香田勲男 , 阿波野秀幸
1990年代
1990 渡辺久信 , 辻発彦 , 伊東勤
1991 工藤公康 , 渡辺久信 , 野村謙二郎
1992 石毛宏典 , 秋山幸二 , 飯田哲也
1993 飯田哲也 , 高津臣吾 , 潮崎哲也
1994 桑田真澄 , H.コトー , 辻発彦
1995 T.ブロス , 池山隆寛 , 高津臣吾
1996 大島公一 , 鈴木平 , イチロー
1997 石井一久 , 稲葉篤紀 , 池山隆寛
1998 斎藤隆 , 石井琢朗 , 駒田徳広
1999 工藤公康 , 永井智浩 , 城島健司
2000年代
2000 仁志敏久 , 村田真一 , 高橋尚成
2001 岩村明憲 , 石井一久 , 真中満
2002 清原和博 , 上原浩治 , 斉藤宜之
2003 井口資仁 , 城島健司 , 桧山進次郎
2004 A.カブレラ , 和田一浩 , 谷繁元信
2005 渡辺俊介 , サブロー , 李承燁
2006 ダルビッシュ有 , F.セギノール , 森本稀哲
2007 山井大介 , 森野将彦 , 荒木雅博
2008 中島裕之 , 平尾博嗣 , 鈴木尚広
2009 亀井義行 , D.ゴンザレス , 小谷野栄一
2010年代
2010 内竜也 , 清田育宏 , 大島洋平
2011 杉内俊哉 , B.ファルケンボーグ , 和田一浩
2012 長野久義 , 阿部慎之助 , J.ボウカー
2013 田中将大 , 銀次 , 内海哲也
2014 柳田悠岐 , D.サファテ , 武田翔太
2015 明石健志 , R.バンデンハーク , 武田翔太
2016 A.バース , 西川遥輝 , 中田翔
2017 柳田悠岐 , 内川聖一 , 濵口遥大
2018 森唯斗 , 柳田悠岐 , 中村晃
2019 高橋礼 , A.デスパイネ , 松田宣浩
2020年代
2020 M.ムーア , 中村晃 , 柳田悠岐
2021 高橋奎二 , D.サンタナ , 杉本裕太郎
2022 吉田正尚 , 山﨑福也 , 塩見泰隆
2023 森下翔太 , S.ノイジー , 山本由伸
2024 筒香嘉智 , A.ジャクソン , A.ケイ
1950年代
1951 川上哲治 , 野口明 , 林義一
1952 飯島滋弥
1953 飯田徳治 , 平井三郎 , 堀井数男
1954 中西太 , 山内和弘
1955 山内和弘 , 西沢道夫
1956 森下正夫 , 吉田義男
1957 大下弘 , 宮本敏雄
1958 宮本敏雄 , 中西太
1959 山内和弘 , 中利夫
1960年代
1960 森下整鎮 , 金田正一 , 張本勲
1961 広瀬叔功 , 田宮謙次郎
1962 ブルーム , 張本勲
1963 近藤和彦 , 王貞治 , 古葉毅
1964 金田正一 , J.マーシャル , J.スタンカ
1965 D.スペンサー , 高倉照幸 , 江藤慎一
1966 広瀬叔功 , 榎本喜八 , 古葉竹識
1967 土井正博 , 長池徳二 , 大杉勝男
1968 江藤慎一 , 柴田勲 , 小池兼司
1969 土井正博 , 船田和英
1970年代
1970 長池徳二 , 江夏豊 , 遠井吾郎
1971 江夏豊 , 長池徳二 , 加藤秀司
1972 野村克也 , 阪本敏三 , 池田祥浩
1973 若松勉 , 福本豊 , 山崎裕之
1974 高井保弘 , 福本豊 , 張本勲
1975 山本浩二 , 松原誠 , 土井正博
1976 有藤道世 , 門田博光 , 吉田孝司
1977 若松勉 , 野村克也 , 王貞治
1978 A.ギャレット , 簑田浩二 , 掛布雅之
1979 王貞治 , B.マルカーノ , 山本浩二
1980年代
1980 岡田彰布 , 平野光泰 , 江夏豊
1981 藤原満 , 掛布雅之 , 山倉和博
1982 福本豊 , 柏原純一 , 掛布雅之
1983 門田博光 , 梨田昌崇 , 落合博満
1984 簑田浩二 , ブーマー , 江川卓
1985 高木豊 , W.クロマティ , 松永浩美
1986 山本和範 , 清原和博 , 吉村禎章
1987 高沢秀昭 , 石毛宏典 , 清原和博
1988 ブーマー , 岡田彰布 , 正田耕三
1989 村田兆治 , 彦野利勝
1990年代
1990 R.ブライアント , 清原和博
1991 古田敦也 , 広沢克己
1992 石井浩郎 , 古田敦也 , 駒田徳広
1993 清原和博 , T.オマリー
1994 秋山幸二 , G.ブラッグス
1995 落合博満 , 松井秀喜
1996 山本和範 , 清原和博 , 金本知憲
1997 松井稼頭央 , 清原和博
1998 川上憲伸 , 松井秀喜
1999 松井秀喜 , R.ローズ , 新庄剛志
2000年代
2000 R.ペタジーニ , 山﨑武司 , 清原和博
2001 松井稼頭央 , R.ペタジーニ , 中村紀洋
2002 G.アリアス , 的山哲也
2003 高橋由伸 , 金本知憲
2004 松坂大輔 , SHINJO
2005 金城龍彦 , 前田智徳
2006 青木宣親 , 藤本敦士
2007 A.ラミレス , 阿部慎之助
2008 山﨑武司 , 荒木雅博
2009 青木宣親 , 松中信彦
2010年代
2010 阿部慎之助 , 片岡易之
2011 畠山和洋 , 中村剛也 , 稲葉篤紀
2012 中村紀洋 , 前田健太 , 陽岱鋼
2013 澤村拓一 , 新井貴浩 , 内川聖一
2014 B.エルドレッド , 柳田悠岐
2015 藤浪晋太郎 , 會澤翼
2016 筒香嘉智 , 大谷翔平
2017 内川聖一 , A.デスパイネ
2018 森友哉 , 源田壮亮
2019 森友哉 , 近本光司
2020年代
2000年代 2010年代
2010 阿部慎之助 , 和田毅
2011 内海哲也 , 坂口智隆
2012 杉内俊哉 , 吉川光夫
2013 能見篤史 , 田中将大
2014 山田哲人 , 則本昂大
2015 畠山和洋 , 菊池雄星
2016 鈴木誠也 , 大谷翔平
2017 丸佳浩 , 松本剛
2018 石山泰稚 , 石川歩
2019 柳裕也 , 鈴木大地
2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1967年から1984年までは最多出塁数。1985年以降は最高出塁率。
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
投手 - 捕手
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
野球日本代表
監督 コーチ 投手 捕手 内野手 外野手
緑色背番号は、開催地限定代表