ブラッドリー・スミス(Bradley Smith, 1990年11月28日 - )は、イギリス・オックスフォード出身のオートバイレーサー。2015年鈴鹿8耐優勝。
経歴
キャリア初期
スミスの父親はモトクロスレーサーであり、一家は練習用の屋外コースを所有していた。スミスがモトクロッサーに乗り始めたのは、6歳のときだった[1]。
スミスはACU[2]が主催する若いライダーのためのアカデミーへの参加を申し込んだが、選出されることはなかった。2004年、13歳のスミスは初めてのロードレース、アプリリア・スーパーティーン・レースに参戦し、ACUアカデミー所属の3人に次ぐシリーズランキング4位の成績を残した。翌2005年は、この年からDORNAが始めた「MotoGPアカデミー」の一員としてスペインの国内ロードレース選手権125ccクラスに参戦。終盤の3レースで優勝し、チャンピオンのマテオ・トゥネスに僅か1ポイント差のシリーズ2位となった。
ロードレース世界選手権
125ccクラス
2006年
2006年、スミスはアルベルト・プーチ率いるレプソル・ホンダチームからロードレース世界選手権125ccクラスにデビューを果たした。第15戦日本GPで8位に入ったのが最高位となり、シリーズランキングは19位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得することができた。
2007年
2007年もチームに残留し、第4戦フランスGPで初表彰台(3位)を獲得[3]、他にもトップ10圏内のフィニッシュを9度経験し、シリーズランキングは10位と成績を伸ばした。
2008年
2008年はポラリス・ワールド・チームと契約、マシンをアプリリアに乗り換えた[4]。開幕戦カタールGPでは自身初のポールポジションを獲得するが[5]、決勝ではトップを走行中にマシントラブルに見舞われてしまった[6]。シーズン中盤には何度も転倒による怪我を負って苦戦したものの[7]、第2戦スペインGPでは3位、雨により赤旗レース中止の影響で僅か5周の超スプリントレースとなった第5戦フランスGPでは2位表彰台に立った。第9戦ダッチTTと第10戦ドイツGPでは一時トップに立ったが、結果は表彰台圏外に終わった。結局このシーズンに勝利を挙げることはできなかったものの、3度のポールポジション、4度の表彰台を記録してシリーズ6位に入った。
2009年
2009年、スミスはホルヘ・マルチネス率いるバンカハ・アスパー・チームに移籍し、引き続きアプリリアを駆ることになった。同チームとは2008年にも契約寸前まで至った経緯があり[8]、また翌2010年シーズンには同チームで250ccクラスにステップアップするオプションも付けられた[9](結果的にはこのオプションは行使されなかった)。
スミスは第3戦スペインGPで、圧倒的な強さを見せてグランプリ初優勝を遂げた。シーズン初のポールポジションを獲得した第5戦イタリアGPではニコラス・テロル、フリアン・シモンとの激しいバトルを制してシーズン2勝目を挙げた。この時点でスミスは74.5ポイント、チームメイトのシモンを3.5ポイント上回ってタイトル争いのトップに立った。しかしその後のレースではシモンが調子を上げ、最終的にチャンピオンを獲得した。シーズン最終盤には、スミスは3戦連続でシモンとのトップ争いに敗れて2位となり、そのうちの2戦はファイナルラップでの逆転劇だった。結局このシーズン、スミスは2勝でシリーズ2位となった。
2010年
2010年シーズンに向けては、新しく始まるMoto2クラスに参戦する複数のチームと交渉をおこなったが[10][11]、結局アスパー125ccチームに残留することとなった[12]。チャンピオン獲得を目指したスミスだったが、このシーズンはマルク・マルケス、ニコラス・テロル、ポル・エスパルガロのスペイン人3人によるチャンピオン争いには絡めず、勝利は最終戦バレンシアGPでの1勝に留まり年間ランキング4位に終わった。
Moto2クラス
2011年
2011年シーズン、スミスはMoto2クラスにステップアップし、フランスのテック3チームでマイク・ディ・メッリオのチームメイトを務めることとなる[13]。
MotoEクラス
2022年
2022年にMotoEクラスに復帰し、新生チームであるWithU GRT RNF MotoEチームから参戦した。
ロードレース世界選手権 戦績
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
脚注
外部リンク
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1970年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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