マイク・ボールドウィン (Mike Baldwin, 1955年1月15日 - ) はアメリカ合衆国カリフォルニア州パサデナ出身の元オートバイレーサー。1980年代にAMAスーパーバイクのトップライダーとして活躍し、世界グランプリにも参戦した。
略歴
ボールドウィンはAMAフォーミュラ1のタイトルを5度獲得し、また鈴鹿8時間耐久ロードレースで初めて3勝を挙げたライダーでもあった。世界グランプリにはケニー・ロバーツ率いるヤマハのチームから参戦し、1986年には500ccクラスでランキング4位の成績を挙げた[1]。そのまま最も成功するアメリカ人レーサーの一人になるかと思われたが、怪我によって選手生命を縮めることになった。
2001年、AMA殿堂入りを果たした[2]。
戦歴
AMA
ロードレース世界選手権
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
鈴鹿8時間耐久レース
人物
マイクはアメリカ西部のカリフォルニア州の山の中の町で生まれ、3歳のときに同州内にある湖の近くに転居し、10歳のときに東部のコネチカット州に転居する。兄弟は、実兄1人、実弟1人、異母弟1人、異母妹2人である。趣味はスキーとヨットで、スキーは大回転が得意である[5]。
マイクは16歳のときに初めてバイクに乗った。最初のバイクは125ccのトレールバイクで、それに乗って森の中を走り回っていた。18歳になるとロードスター(roadster)に乗り換え、舗装路での走りを楽しんでいた。友だちに誘われてバイクレースを観戦しに行く。レースへの出場も誘われ、出走することになる。最初のレースは1974年で、使用したバイクは、レース会場まで乗って行ったロードスターであった。マイクはレーサーを持っていなかったのである[6]。
家族の中でバイクに乗るのはマイクだけである。マイクは19歳でロードレースを始めたが、そのことを知った家族はあまりいい顔はしなかった。そこにはアメリカ東部でのバイクレースの社会的な位置付けが関連し、また、バイクレースはスキーよりも危険だという認識が家族にはあった[7]。
マイク自身にとってはスキーもバイクレースも危険性は同じであった。ただ、スキーでは収入を得ることができない、と考えていた。それに対して、バイクレースは楽しんで収入を得られるもの、という認識であった[8]。
1974年のデビューレースでバイクレースの面白さに気づいたマイクはロードスターを売り、レーサーを探していた。そんなときにある友だちがマイクのために市販ロードレーサーヤマハTR-2(350cc)とヤマハTA125[9](125cc)の2台を買ってくれた。その友だちはマイクに無償でロードレーサー2台をあげたのである。2回目以降のレースはこの2台で出場した。その年は全レースを走り、10勝をあげた[3]。
1975年はAMAノービス250ccクラスに参戦。ヤマハTR-2(350cc)を250ccに改造しての参戦である。TA125は売却し、ハーフトラック(約800m)用のダートトラックレーサーを購入し、ダートトラックレースに1年間参戦した[10]。
マイクが掲げるレーシングライダーとして必要なことは次の三つである。
集中力を身に付けることはたやすいことではないが、一度その方法を会得すれば、その後は集中力を維持することは容易である、とマイクは考えている。一方、勝利への決意を維持することは難しいと考えている。レース経験を重ねると緊張感が緩んでくるというのである。そのため、いつも自分を奮い立たせる必要があるという。レースに対する思い入れについては、マイクはスキー選手だった頃にスキーレースに打ち込んでいて、スキーのことばかり考えていた。そのことが習慣として身についており、ロードレースを始めてからは、シーズン中はロードレースのことばかり考えることがごく普通にできるのである[11]。
マイクにとって、走ることは楽しいことであり、ダートトラックレースなど他のスポーツはロードレースでより速く走るための糧である[12]。
参考文献
ウェブサイト
出版物
脚注
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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2000年代 | |
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