カルロス・チェカ・イ・カルレーラ(Carlos "Charlie" Checa i Carrera, 1972年10月15日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元オートバイレーサー。ロードレース世界選手権最高峰の500cc・MotoGPクラスで10年以上活動した後、2008年よりスーパーバイク世界選手権に戦いの場を移している。グランプリでは通算2勝を記録[1]。2011年スーパーバイク世界選手権チャンピオン。弟のダビド・チェカもオートバイレーサーである。
経歴
ロードレース世界選手権 ( 1993 - 2007 )
世界グランプリには1993年第8戦ヨーロッパGP、125ccクラスにデビューを果たし、次戦からは250ccクラスに移る。1995年第9戦イギリスGPからは、前戦ル・マンで両足骨折の重傷を負ったアルベルト・プーチの代役として、シト・ポンスのチームからホンダ・NSR500を駆って最高峰クラスデビューを果たした。
翌1996年には、地元カタルニアでGP初優勝を果たした。ホンダ・ポンスチームには1998年まで在籍したが、その1998年の第8戦、ドニントン、チェカはクラナー・カーブで転倒・負傷したが、当初は単なる擦り傷・打撲傷と見られていた。ところがやがて痛みを訴えだし、数時間後には視力を失い、重篤な状態に陥った。だがその後は無事回復し、第10戦チェコGPから実戦に復帰した。
1999年からは、この年から新たに結成されたワークスのマルボロ・ヤマハチームに移籍し、マックス・ビアッジのチームメイトを務めることになった。トップを快走しながらもクラッシュによりリタイヤという展開のレースが多く、移籍後は勝利は挙げられないままだった。例えば2002年の第12戦リオGPではスタートで失速しながらも挽回してトップに立ったが、その後のコーナーで転倒を喫してしまった。
ヤマハワークスには2004年まで在籍し、最後の年にはホンダから移籍してきたチャンピオンライダー、バレンティーノ・ロッシのチームメイトを務めた。2005年はドゥカティ・ワークスチームに移籍、さらに2006年にはヤマハのサテライト・チームのテック3に移籍した。安定した走りで完走を続け、チームメイトのジェームス・エリソンよりは明らかに速さで上回っていたが、ダンロップタイヤのパフォーマンスが低く、シリーズランキングは下位に沈んでしまった。
2007年にはホンダサテライトのチーム・LCRに移籍したが、他のホンダライダーと共に新しい800ccマシンのパフォーマンス不足に苦しんだ。結局このシーズンをもってチェカはMotoGPから一旦退くことになった[2]。またこの年は鈴鹿8時間耐久ロードレースに岡田忠之と組んでHRCチームからCBR1000RRWを駆って初出場、2位表彰台を獲得した。
スーパーバイク世界選手権 ( 2008 - )
2008
2008年より、チェカはスーパーバイク世界選手権(SBK)に戦いの場を移した。チェカとは逆にMotoGPに移った2007年のチャンピオン、ジェームス・トスランドが在籍していたホンダ系のトップチームであるテンケイト・レーシングのシートを得た[3]。第3戦バレンシアではファイナルラップの最終コーナーで、トップを走っていたスズキのマックス・ノイキルヒナーにオーバーテイクを仕掛けたが両者は接触してしまい、ノイキルヒナーは鎖骨を骨折することになった。その後チェカは第6戦ソルトレークで、自身の初優勝をレース1・レース2ダブルウィンという形で飾った。この年の優勝はこの2勝だけだったが、安定して上位での完走を続け、ホンダ勢最上位となるシリーズランキング4位の成績を残した。
そしてこの年の鈴鹿8耐には、SBKでもチームメイトだった清成龍一と組んでドリーム・ホンダ・レーシングから出場、見事総合優勝を果たした[4]。
2009
2009年もテンケイトチームに残留し、スーパーバイク2年目のシーズンを戦ったが前年のような活躍は残せず、未勝利・表彰台4度の獲得でホンダ勢としては3番手、サテライトチームのレオン・ハスラムに32ポイント差をつけられシリーズ7位に終わった。次年度に向けてテンケイトは体制を3台から2台に減らすこととなり[5]、チェカは清成龍一と共にチームを放出されてしまった[6]。
2010
2010年シーズン、チェカは中堅チームのアルテア・ドゥカティに移籍、イギリスのシェーン・バーンのチームメイトを務めることになった[7]。キャリアが下降線を描いているように思われたチェカだったが、開幕戦フィリップアイランドのレース2では見事復活優勝を遂げてみせた[8]。その後も第12戦イモラでレース1・2ダブル優勝を飾るなどの活躍を見せ、年間ランキングではドゥカティ勢最上位となる3位に入った。
またこの年のSBK閉幕後、MotoGPの終盤2戦に、肩の負傷によりプラマック・レーシングを離脱したミカ・カリオの代役として3年ぶりに出場[9]。復帰戦の第17戦ポルトガルGPでは腕上がりの症状が出てしまい途中棄権となったが[10]、最終戦バレンシアGPでは最下位(15位)ながらポイント獲得を果たした。
2011
2011年シーズンもチェカはアルテア・レーシングに残留、SBK4年目のシーズンを迎えた[11]。アルテア・レーシングはドゥカティ・ワークスチームが前年限りでSBKより撤退したことにより、実質的にドゥカティのナンバー1チームとなった。この年のチェカは開幕戦から驚異的なパフォーマンスを発揮し、全13戦26レース中優勝15回・表彰台登壇21回という圧倒的な速さと安定感を見せ、最終戦を待たずして2011年のシリーズチャンピオンを獲得した。
2012
2012年シーズンも引き続きアルテア・レーシングから参戦した。アルテア・レーシングには2011年にFIMスーパーストック1000選手権で総合優勝したダビデ・ジュリアーノが新たにチームメイトとして加入した。チェカは4度の優勝を獲得し総合4位であった。
2013
2013年にはドゥカティがアルスターチームとパートナーシップを締結しドゥカティ・アルスターとしてSBKに復帰[12]、これに伴いチェカもドゥカティ・アルスターに移籍した。また、この年から1098Rに代わり1199 Panigale Rが新たに投入された。しかし、新車の開発が思うように進まなかったために下位に沈む事が多く、チェカは思うような成績を挙げることができなかった。第11戦イスタンブールではフリー走行中に激しく転倒しレースを欠場。その後の検査により骨盤の骨折が判明した[13]。
チェカは2013年シーズン限りでの引退を発表し、約20年の現役生活に終止符を打った[14]。
主なレース戦績
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
スーパーバイク世界選手権
- 凡例
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
外部リンク
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