アルベルト・プーチ・デ・ラ・ローサ(Alberto Puig de la Rosa、1967年1月16日 - )は、スペイン・バルセロナ出身の元モーターサイクル・ロードレースライダー。
経歴
現役時代
1987年に、スペインのコンストラクターズ・マシンであるJ.J.コバスを駆り、ロードレース世界選手権250ccクラスにデビュー。1992年にはアプリリアを駆って初表彰台を獲得し、シリーズランキング6位に入った。翌1993年にはシト・ポンスのチームでホンダを駆り、シリーズ9位の成績を残した。
1994年には同じくホンダ・ポンス・チームから最高峰500ccクラスにデビューを果たし、NSR500を駆って第6戦ホッケンハイムでは3位表彰台を獲得、年間ランキングでは5位に入る活躍を見せる。結局この年がプーチにとってのベストシーズンとなった。
2年目の1995年には第4戦母国スペインGP(ヘレス)で初優勝を遂げた。その後もコンスタントに上位での完走を続け、躍進が期待されたが、第8戦ル・マンで左足に重傷を負ってしまい、シリーズ残りのラウンドの欠場を余儀なくされた[1]。
1996年開幕戦からレースに復帰し、同郷のカルロス・チェカをチームメイトにシリーズを戦ったが、怪我の影響が残って思うような結果が残せず、結局プーチは1997年の最終戦をもって現役を引退した。
引退後
引退後は後進のライダーの育成に熱心に取り組んでいる。2001年にはスペイン国内のロードレース選手権にケーシー・ストーナーを参戦させ、ランキング2位を獲得したストーナーをルーチョ・チェッキネロに推薦し、翌2002年のGPデビューに導いている[2]。
同じく2001年にはロードレース世界選手権125ccクラスのチーム「テレフォニカ・モビスター・ジュニア・ホンダ」のチーム監督としての活動を開始し、2003年にはダニ・ペドロサが125ccクラスのチャンピオンを獲得した。また同年より250ccクラスにも参戦を開始し、翌2004年からは250ccクラスのみに集中、2004年・2005年とペドロサが同クラス連覇を果たした。また2004年から始まったホンダの若手日本人ライダー育成制度「Honda Racingスカラーシップ」の受け皿となり、第1期ライダーの青山博一のデビューチームとなった[3]。
チームは2006年よりタイトルスポンサーがレプソルに変更になり、MotoGPクラスと同じ「レプソル・ホンダ」となった。同年にはホンダスカラーシップの第3期生、青山周平が同チームからデビューを果たしている[4]。チームは2007年シーズンをもって250ccクラスでの活動を終えた。2006年にペドロサがMotoGPクラスにステップアップして以降、プーチはレプソル・ホンダでペドロサ担当のスポーツ・ディレクターとして活動している[1]。
また2005年からはDORNAと共同で「MotoGPアカデミー」を運営し、ブラッドリー・スミス、スコット・レディング、中上貴晶、ジョナス・フォルガーら、若い才能の発掘に寄与している[5]。
2018年1月、ホンダ・レーシング(HRC)がプーチをレプソル・ホンダのチームマネージャーに起用することを発表した[6]。
ロードレース世界選手権 戦績
脚注
外部リンク
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主なチーム首脳 | |
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現在のライダー | |
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過去のライダー | |
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マシン | |
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ワールドチャンピオン | |
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1 サテライトチームでのチャンピオン獲得。 |