カール・フォガティ

カール・フォガティ
生年月日 (1965-07-01) 1965年7月1日(59歳)
ランカシャー、ブラックバーン
ウェブサイト www.carlfogarty.com
レースでの経歴
ロードレース世界選手権 MotoGPクラス
活動期間1990年 - 1993年
マニファクチャラーカジバ, ホンダ
チャンピオン0
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
6 0 0 0 0 37
スーパーバイク世界選手権
活動期間1990年 - 2000年
マニファクチャラードゥカティ, ホンダ
チャンピオン4. 1994年,1995年,1998年,1999年
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
219 59 109 21 48

カール・ジョージ・"フォギー"・フォガティ (Carl George "Foggy" Fogarty1965年7月1日 - ) は、イギリスイングランドランカシャーブラックバーン出身の元オートバイレーサー。スーパーバイク世界選手権で4回 (1994年、1995年、1998年、1999年) のチャンピオン、通算59勝はジョナサン・レイに次ぐ史上2位の記録を持つ。

経歴

スーパーバイク世界選手権

ドゥカティ・916を駆るフォガティ

1991年、ニール・タックスワース率いるホンダチームからスーパーバイク世界選手権 (SBK) にフル参戦を開始し、シリーズランキング7位を記録した。チームは1992年に撤退することとなり、フォガティはフルシーズンを戦えない状況に陥ったが、ドニントンで初勝利を挙げ、シリーズ9位に入る活躍を見せた。

1993年、フォガティはドゥカティ・ワークスに移籍を果たす。この年はカワサキスコット・ラッセルとタイトル争いを演じることとなった。ラッセルの年間5勝に対しフォガティは11勝を挙げたが、2位の数はラッセル12回に対してフォガティは2回と安定性に欠け、ラッセルがチャンピオンとなった。

1994年シーズン、手首を骨折し第2戦ホッケンハイムを欠場したが、その後はカワサキのラッセル、ホンダのアーロン・スライトとのタイトル争いを制し、フォガティは初のSBKワールドチャンピオンに輝いた。翌1995年も開幕から8レースで6勝を挙げる活躍を見せ、その後も逃げ切りに成功し24レース中5レースを残してシリーズ2連覇を決めた。

1996年は再びタックスワースのチームに移籍することとなった。今回チームはホンダのワークスサポートを受けていたがフォガティは苦戦することとなり、チームメイトのスライトがシリーズ2位に入ったのに対してフォガティは4位に終わった。1997年にはドゥカティに戻り、ホンダのジョン・コシンスキーに次ぐシリーズ2位を記録した。

1998年シーズン、フォガティは第5戦ニュルブルクリンク終了時ではランキング6位に沈んでいた。しかしそこから猛烈な巻き返しを見せ、最終戦菅生トロイ・コーサー、スライトを逆転しチャンピオンに輝いた。翌1999年はライバルを寄せ付けない強さを見せ、2位のコーリン・エドワーズ(ホンダ)に128ポイントもの大差を付けて自身4度目のタイトルを手に入れた。

2000年シーズンの第2戦フィリップアイランドの第2レース、フォガティはプライベーター仕様のドゥカティを駆る Robert Ulm と絡んで転倒し、複数箇所を負傷した。特に肩に負ったダメージは大きく、再びレースを戦えるほどには回復できずにフォガティは現役を引退することとなった。フォガティの後継者にはトロイ・ベイリスが就き、その後ドゥカティに3度のライダーズタイトルをもたらしている。

2002年、ドゥカティはフォガティの栄誉を讃え、300台限定のスペシャルモデル「モンスター・S4フォガティ」を発売した。

その他のレース

1992年 マン島TTでヤマハを駆るフォガティ

キャリア初期にはフォーミュラTT世界選手権(TT-F1)で活躍した。同選手権は1988年にスーパーバイク世界選手権が始まるとそちらに人気を奪われてしまい、シリーズ最後の1990年にはFIM規定の年間6戦を下回ったため、世界選手権から「フォーミュラTTカップ」に格下げとなったが、フォガティはホンダのマシンを駆って1988年から1990年までの3年連続でシリーズチャンピオンを獲得している。

また当時同選手権に組み込まれていたマン島TTレースでも3度総合優勝を果たしている。1992年にはヤマハの750 ccマシンで当時のラップレコード:18分18秒9(平均速度198.9km/h)を樹立し、この記録は7年もの間破られることがなかった(1999年にジム・ムーディがRVF750で平均速度200.3km/hを記録)。

ロードレース世界選手権にはフル参戦することはなかったが、何度かのスポット参戦を経験している。1990年には負傷したピエールフランチェスコ・キリの代役として500 ccクラスにROCチームから出場し、スウェーデンGPで自身最高となる6位に入った。また地元イギリスGPにはワイルドカード枠で何度か出場しており、1992年にはハリス・ヤマハを駆り一時6位を走行していたが、オイルに乗ってクラッシュしてしまった。1993年カジバのマシンでセカンドロウを獲得し、1周目にバロスドゥーハンシュワンツがクラッシュすると序盤は2位を走行、その後3位を走行中にガス欠に見舞われてしまったが、何とか惰性でフィニッシュラインまでたどり着いて4位に入賞した。1994年のイギリスGPにもエントリーしていたが、決勝を走ることはなかった。当初は手の負傷を理由にしていたが、のちに競争力がなかったのが本当の理由だったと明かしている。

1992年にはテリー・ライマーと組んでカワサキチームから世界耐久選手権に参戦。ル・マン24時間耐久ロードレースではMichael Simulも加えた3人体制で総合優勝を飾る。鈴鹿8時間耐久ロードレースではリタイヤに終わったものの、シリーズチャンピオンを獲得した。鈴鹿8耐にはこの年以外にも何度か出場しており、1991年にはスティープ・ヒスロップと、1996年には青木拓磨とペアを組んでそれぞれ3位表彰台を獲得している(いずれもマシンはホンダ)。

1995年にはデイトナ200マイルレースにドゥカティを駆って出場。フォガティはレースをリードしていたが、1周目に転倒しながらもその後復帰して猛追してきたカワサキのスコット・ラッセルに優勝をさらわれてしまった。イエローフラッグが掲示されてセーフティカーが入り、一気に差を詰められてしまったのが敗因だとフォガティは語った[1]

主な戦績

スーパーバイク世界選手権

シーズン バイク 出走 優勝 表彰台 PP FL ポイント シリーズ順位
1988 ホンダ 1 0 0 0 0 0 -
1989 ホンダ 2 0 0 0 0 0 -
1990 ホンダ 6 0 0 0 0 30 19位
1991 ホンダ 20 0 0 0 0 146 7位
1992 ドゥカティ 20 1 2 1 2 134 9位
1993 ドゥカティ 25 11 15 6 10 349.5 2位
1994 ドゥカティ 20 10 14 6 10 305 1位
1995 ドゥカティ 24 13 19 4 9 478 1位
1996 ホンダ 24 4 9 0 2 331 4位
1997 ドゥカティ 24 6 15 0 4 358 2位
1998 ドゥカティ 24 3 14 0 2 351.5 1位
1999 ドゥカティ 26 11 19 4 7 489 1位
2000 ドゥカティ 4 0 2 0 2 36 26位
合計 220 59 109 21 48 3008

(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

メーカー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2
1988 ホンダ GBR
Ret
GBR
HUN
HUN
GER
GER
AUT
AUT
JPN
JPN
FRA
FRA
POR
POR
AUS
AUS
NZL
NZL
- 0
1989 ホンダ GBR
7
GBR
13
HUN
HUN
CAN
CAN
USA
USA
AUT
AUT
FRA
FRA
JPN
JPN
GER
GER
ITA
ITA
AUS
AUS
NZL
NZL
44位 12
1990 ホンダ ESP
14
ESP
Ret
GBR
6
GBR
6
HUN
HUN
GER
GER
CAN
CAN
USA
USA
AUT
AUT
JPN
JPN
FRA
Ret
FRA
8
ITA
ITA
MAS
MAS
AUS
AUS
NZL
NZL
19位 30
1991 ホンダ GBR
Ret
GBR
9
ESP
9
ESP
8
CAN
CAN
USA
11
USA
11
AUT
AUT
SMR
7
SMR
8
SWE
4
SWE
4
JPN
11
JPN
8
MAS
8
MAS
7
GER
9
GER
10
FRA
6
FRA
7
ITA
7
ITA
Ret
AUS
AUS
7位 146
1992 ドゥカティ ESP
12
ESP
10
GBR
Ret
GBR
1
GER
20
GER
11
BEL
Ret
BEL
8
ESP
5
ESP
Ret
AUT
6
AUT
7
ITA
7
ITA
4
MAS
MAS
JPN
JPN
NED
4
NED
2
ITA
Ret
ITA
Ret
AUS
7
AUS
Ret
NZL
NZL
9位 134
1993 ドゥカティ GBR
Ret
GBR
GER
3
GER
7
ESP
1
ESP
1
SMR
5
SMR
3
AUT
4
AUT
4
CZE
1
CZE
2
SWE
1
SWE
1
MAS
1
MAS
1
JPN
1
JPN
24
NED
1
NED
1
ITA
4
ITA
4
GBR
2
GBR
Ret
POR
Ret
POR
1
2位 349,5
1994 ドゥカティ GBR
1
GBR
2
GER
GER
SMR
Ret
SMR
5
ESP
1
ESP
1
AUT
1
AUT
1
INA
Ret
INA
1
JPN
4
JPN
2
NED
1
NED
1
ITA
2
ITA
1
GBR
14
GBR
5
AUS
1
AUS
2
1位 305
1995 ドゥカティ GER
1
GER
1
SMR
2
SMR
2
GBR
1
GBR
1
ITA
1
ITA
2
ESP
2
ESP
1
AUT
1
AUT
2
USA
5
USA
7
GBR
1
GBR
1
JPN
Ret
JPN
1
NED
1
NED
1
INA
1
INA
Ret
AUS
4
AUS
2
1位 478
1996 ホンダ SMR
7
SMR
6
GBR
8
GBR
7
GER
5
GER
1
ITA
1
ITA
3
CZE
2
CZE
3
USA
8
USA
4
GBR
5
GBR
Ret
INA
2
INA
3
JPN
8
JPN
4
NED
1
NED
1
ESP
5
ESP
7
AUS
4
AUS
6
4位 331
1997 ドゥカティ AUS
2
AUS
4
SMR
3
SMR
3
GBR
2
GBR
1
GER
4
GER
1
ITA
3
ITA
4
USA
2
USA
2
GBR
Ret
GBR
1
AUT
1
AUT
Ret
NED
2
NED
1
ESP
Ret
ESP
Ret
JPN
13
JPN
Ret
INA
3
INA
1
2位 358
1998 ドゥカティ AUS
1
AUS
3
GBR
7
GBR
3
ITA
6
ITA
2
ESP
9
ESP
1
GER
13
GER
13
SMR
4
SMR
3
RSA
2
RSA
2
USA
5
USA
Ret
GBR
4
GBR
2
AUT
3
AUT
2
NED
2
NED
1
JPN
3
JPN
4
1位 351,5
1999 ドゥカティ RSA
1
RSA
1
AUS
2
AUS
2
GBR
1
GBR
2
ESP
3
ESP
3
ITA
1
ITA
1
GER
1
GER
15
SMR
1
SMR
1
USA
5
USA
4
GBR
19
GBR
4
AUT
2
AUT
4
NED
1
NED
1
GER
1
GER
2
JPN
2
JPN
5
1位 489
2000 ドゥカティ RSA
3
RSA
Ret
AUS
2
AUS
Ret
JPN
JPN
GBR
GBR
ITA
ITA
GER
GER
SMR
SMR
ESP
ESP
USA
USA
GBR
GBR
NED
NED
GER
GER
GBR
GBR
26位 36

ロードレース世界選手権

シーズン クラス バイク 出走 優勝 表彰台 PP ポイント 順位
1979年 500cc スズキ 1 0 0 0 0 -
1986年 250cc ヤマハ 1 0 0 0 0 -
1990年 500cc ホンダ 4 0 0 0 24 18位
1992年 500cc ハリスヤマハ 1 0 0 0 0 -
1992年 500cc カジバ 1 0 0 0 13 23位
合計 8 0 0 0 37

鈴鹿8時間耐久ロードレース

開催年 バイク チーム パートナー 総合順位
1989年 ホンダ・VFR750R タカダ・レーシングプロジェクト スティーブ・ヒスロップ 37位
1990年 ホンダ・VFR750R タカダ・レーシングプロジェクト スティーブ・ヒスロップ 30位
1991年 ホンダ・RVF750 クノール・カップ・スープRT スティーブ・ヒスロップ 3位
1992年 カワサキ・ZXR-7 チームまんだいカワサキフランス テリー・ライマー リタイヤ
1996年 ホンダ・RVF/RC45 カストロール・ホンダ 青木拓磨 3位

[2]

引退後の活動

2002年、フォガティはマレーシアペトロナスと組んで、「フォギー・ペトロナス」チームを立ち上げた。元々ザウバー(後藤治)とペトロナスがMotoGP参戦を目指して開発していた3気筒990ccマシンを手直ししたペトロナス・FP1英語版[3]を使い、翌2003年シーズンよりスーパーバイク世界選手権に参戦を開始した。ライダーはかつてのチームメイトのトロイ・コーサージェームス・ハイドンが務めた。ドゥカティ以外のメーカーのワークスサポートが縮小されていた2004年シーズンには、コーサーとクリス・ウォーカーがそれぞれ1度ずつ3位表彰台を獲得し、年間コンストラクターズランキングでも3位に入る活躍を見せた。しかしいくつかのメーカーのワークス活動が再開された2005年以降は、全く競争力を見せることができなかった。

ペトロナスは2006年シーズン終了をもってプロジェクトを終了させることとなり、フォギー・チームの将来は不透明なものとなった。2007年、チームはカスタマー仕様のドゥカティを走らせようとしていたが、スポンサーを集めることができずに頓挫。翌2008年はMVアグスタのワークスチームとして復活する計画があったが[4]これも実現できず、チームの設備は売りに出されることになってしまった[5]

脚注

外部リンク

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!