ステファン・ニルス・エドウィン・ヨハンソン (Stefan Nils Edwin Johansson , 1956年 9月8日 - )は、スウェーデン人の元F1 ドライバーでレーシングドライバー 。1997年 ル・マン24時間レース の優勝者。
プロフィール
スウェーデンからロンドンへ
父もサルーンカーレース などに出場するモータースポーツ愛好家で、「リーフ(葉っぱ)」という愛称を持っていた父とカート場でよく一緒にいたことから「リトル・リーフ」とのニックネームを名付けられた。11歳から本格的にレーシングカート 開始、ケケ・ロズベルグ とはこの時期からの知り合いである。なお4歳年下の妹がいるが、その妹もカートレーサーで地元の女性部門チャンピオンを取っている。地元の工業高校に学び、卒業後に空調機器の設計部門を持つ会社に就職し、レース資金を貯めていた[1] 。
1975年 からフォーミュラ・フォード で四輪レース開始、1976年 からF3 に乗り始め、1977年 に初の国際格式レースへの参加となったモナコグランプリ 前座のF3で4位の結果を残す。
1978年 と1979年 イギリス・フォーミュラ3選手権 へ参戦するが、資金面では夕食をチョコレート で我慢してレース用のガソリン を買い、サーキットからサーキットへと移動する車中で寝袋 に入って寝泊まりというような非常に苦しい時期を過ごす[1] 。
しかし1979年途中から、イギリスF3で表彰台に立てるようになり初優勝も記録、マールボロ からのパーソナルスポンサードを受け始めるなど状況が好転し始める。マールボロとは、所属チーム内のスポンサー事情による中断はあれど1990年代以降も続く良好な関係となった。三つの葉が重なって描かれたヘルメットのデザインは愛称の「リトル・リーフ」に由来するものである。
F3チャンピオン獲得とF1デビュー
1980年 春、突如F1 のシャドウ チームから声が掛かり[注釈 1] 、開幕から2戦(アルゼンチン ・ブラジル )にエントリーしたが、シャドウF1活動末期の全くポテンシャルの無い状態で、この時は何れも予選不通過に終わる。後年のインタビューで「この時シャドウからのオファーを受けたのは失敗だった。F1マシンも全く未経験で、さらに悪いことにチームメイトのデビット・ケネディ に予選タイムで負けてしまったことでこれ以後僕へのオファーを躊躇したというチームマネージャーも1人や2人では無かったと聞いている。事前の準備が皆無だったのにF1と言うだけで飛びついてしまった。」と述べている[1] 。
この年本来の参戦カテゴリーはイギリスF3であり、そこでは6勝を挙げてチャンピオンを獲得。所属チームは後にF1マクラーレン チームを運営することになる、ロン・デニス 率いる「プロジェクト4」であった。同年のイギリスF3はランキング9位にナイジェル・マンセル 、同10位にエディ・ジョーダン も参戦していた。
なお、マカオグランプリ のF3レースには1984年に初参戦し2位を獲得している。さらにF1参戦後の1988年にも出場し8位になった。なおマカオではF3だけでなくツーリングカーによるギアレース、2013年にはマカオグランプリ60周年記念のマスターズレースにも出場した。
ホンダとの交錯
1981年 からヨーロッパF2 選手権へステップアップ、トールマン チームから参戦し2勝を挙げ、ランキング4位に入る。翌1982年 は、ホンダの出資により立ち上げられた新チームであるマールボロ・スピリット・レーシング に移籍。シーズンを通し決勝での安定感はチームメイトのティエリー・ブーツェン に分があったが、予選ではヨハンソンがシーズン最多となる13戦中5回のポールポジション を獲得し、リタイヤも多いがハマれば優勝するドライバーとの評価を得る[2] 。全日本F2最終戦のJAFグランプリ 鈴鹿にはブーツェンとともに参戦し、ホンダのお膝元である鈴鹿でコースレコード(1分48秒100)でポールポジション を奪取。それまでのレコード[注釈 2] を2秒以上縮めたタイムに日本の関係者は衝撃を受けた[3] 。チームメイトのブーツェンとは常に比較対象とされ、翌年ホンダエンジンと共にスピリットがF1へとデビューする際、事前テストは2人で行われていたが、レースには1カー体制でのエントリー申請だったため、正ドライバーにどちらが選ばれるのかが注目された。結局ヨハンソンが選ばれブーツェンは違う形でF1へたどり着くことになる。後々までこの2人はライバルと呼ばれることが多かった[4] 。
ヨハンソンがドライブしたスピリット・201C
1983年 、ホンダ がスピリットと共に第2期F1活動を開始。チームと共にヨハンソンもF1の決勝レースへ正式記録上のデビューを果たすが、ホンダにとってスピリットは実戦テスト 担当の役割であり[5] 、勝つ為のチームとしてホンダが同年最終戦 からウィリアムズ と組むようになると、スピリットはエンジンを失い、ヨハンソンもシートを失った。この時点でヨハンソンは初期から開発に携わったホンダV6ターボのハイパワーを一番知っている人物であり、翌1984年 のウィリアムズ・ホンダのNo.2シート獲得を望んでいたが[1] それはジャック・ラフィット の物となった。
F1シートは確保できなかったが1984年は多忙で、3月にIMSA のセブリング12時間レースでポルシェ・935 をドライブし優勝を収める。そして日本からオファーがあり、ヨコハマタイヤ ADVAN チーム(運営はノバエンジニアリング /森脇基恭 チーフメカとコンビを組む)と契約、主戦場を日本へと移し当時日本のトップカテゴリーであった全日本F2選手権 にフルエントリー、またもホンダエンジン搭載マシンをドライブする事になり、中嶋悟 や星野一義 、高橋国光 と戦った。後に1987年からF1で戦うことになる中嶋とは最終戦までチャンピオン争いを展開し、ランキング2位(3勝)となった。
再びF1へ
その一方、F1の中盤戦に差し掛かる頃に、正ドライバーだったマーティン・ブランドル が骨折し代役を探していたケン・ティレル からオファーが届き、日本でF2に参戦しつつティレル からF1にも参戦、更にはポルシェ・956 を駆りグループC 世界耐久選手権 (WEC)にも参戦しており、ヨーロッパと日本を度々往復する多忙な身となる。
しかしティレルが「水タンク事件」(ティレル#水タンク事件 の頁を参照)の余波でこの年のシーズン全体からの失格・出場停止処分となり、またもやF1シートを失うも、イタリアGP からはジョニー・チェコット の骨折で代役が必要になった(イタリアGPのみ契約トラブルで出場停止になったアイルトン・セナ の代役)トールマンのシートを獲得、いきなり4位入賞を果たし、トールマンチームとは翌1985年 から2年間のNo.1ドライバー契約も交わすこととなった。
低迷期のフェラーリへ
フェラーリ時代のヨハンソン(1985年イギリスGP)
こうして1985年 シーズンを迎え、新車TG185 の発表会にも出席していたが、開幕直前になってもトールマンチームがどのタイヤメーカーとも契約出来ない問題が発生し、チーム自体が参戦を一時断念。またもシートを失いかけたところ、ティレルが契約していたステファン・ベロフ との間で契約上の問題が発生したため[6] 、前年に続きケン・ティレルがトールマンから出走する予定が流れていたヨハンソンに急遽オファー。開幕戦はマーティン・ブランドル と共にティレル・フォードで参戦し7位となった。
開幕戦終了後、フェラーリ が突如ルネ・アルヌー を解雇した[注釈 3] 。すると、ヨハンソンはイタリアのフェラーリ本拠地のマラネッロ に呼ばれエンツォ・フェラーリ と直々に話をする事になった。「君はファイターか?」と総帥から質問をされ、それに「イエス」と答えると、次戦から名門フェラーリへと加入することが決定したという。エンツォ・フェラーリは前年の最終戦 の序盤に、トールマンに乗るヨハンソンがチャンピオン争い中のニキ・ラウダ を数周にわたって押さえる走りを見せたことと、1983年ヨーロッパグランプリ でスピリット・ホンダのヨハンソンがフェラーリのアルヌーと、既にエンツォのお気に入りだったティレルのミケーレ・アルボレート の2人を数周押さえたことがあって以来、動向を注視していたのだという[7] 。また、交渉マネージメントを依頼していたケケ・ロズベルグ からのプッシュもあった[注釈 4] 。この移籍に際して複数年契約を結んでいたトールマンのチーフだったアレックス・ホークリッジは、違約金 などフェラーリに請求することも無く栄転 を喜んで契約解除に応じた。
同年のフェラーリは完全新設計のマシンである156/85 が夏までは好調で、ヨハンソンは2位表彰台を2回獲得し、特にフェラーリでの2レース目だったサンマリノGP では終盤トップに浮上。イモラ の観客席を埋めていたティフォージ 達を熱狂させ「"イル スヴェデーゼ ボランテ"(カッ飛びスウェーデン野郎)」とのチャント が場内に響いたが、残り2周で燃料不足となり勝利を逃した。このトップ走行時は「移籍後いきなり(フェラーリの地元で)勝てるかも」と自身でも思ったという[8] 。カナダGP ではチームメイトでイタリア人であるミケーレ・アルボレート がランキングリーダーであり、完全No.1扱いであった。レース終盤1位走行のアルボレートの真後ろに迫り、ペースも残りの燃料状況もヨハンソンの方が良好だったが、ピットボードにて「STEF SLOW」というチームオーダーサインが出され、1-2フィニッシュを優先しチームプレーを守ったヨハンソンは再び目前の勝利を逃した。シーズン後半はエンツォの指示によるターボシステムの変更により156/85の戦闘力が低下しフェラーリは大失速した[9] 。このためアルボレートと共に優勝はおろか表彰台に立つことも叶わなくなったが、フェラーリ初年度をランキング7位で終えた。
1986年 もF186 の空力バランスの悪さとエンジンパワーの非力さに悩まされ[注釈 5] 、ウィリアムズ・ホンダ やマクラーレン・TAG ポルシェ が展開する優勝争いにはチームの2人ともに加わることができず、ベルギーGP では一時トップを走行したが、決勝最高位は3位であった。初優勝が叶わなかったばかりか、チーム自体も1980年 以来の年間0勝に終わった。ヨハンソンは終盤戦コンスタントにポイントを稼ぎドライバーズ・ランキング5位とキャリアベストを更新したが、チームはシーズン終盤にベネトン でF1初優勝を挙げ台頭したゲルハルト・ベルガー へ正式オファーを出すことを決定しており[10] 、ヨハンソンはチームを去ることになった。
2年間名門に在籍したが、戦闘力不足に苦しむチームの低迷期にあたり勝ちに恵まれず、2年間で2回の2位を含む6回の表彰台と言う結果に終わった。またエンツォ・フェラーリが女性をピットに入れるのを好まなかったため、それまではレースに同行していたフィアンセ をサーキットに連れて来なくなった[11] 。
プロストのNo.2
マクラーレンMP4/3
1987年 にはマクラーレンチームへ移籍、アラン・プロスト のNo.2として1年間在籍。開幕戦ブラジルGP で3位、第3戦ベルギー では優勝したプロストに次ぐ2位でフィニッシュし1-2フィニッシュと幸先の良いシーズンスタートを切る。しかしこの年はホンダエンジン を搭載するウィリアムズとロータス 、フェラーリが高い戦闘力を持っていた上に、チームメイトのプロストに予選・決勝とも遅れを取ったが、2位表彰台を2回獲得するなどトータル30ポイントでランキング6位(プロストは3勝、46ポイント、ランキング4位)を獲得した。また、第10戦オーストリアGP の予選日、山間部にあるエステルライヒリンク のコース上に、森の中から突如野生のシカ が入って来たため、240km/hで走行していたヨハンソンは避けきれず左フロント部から衝突、反動でコース脇にはじき出されマシンが大破するクラッシュが発生しトピックとして各国に報道された[12] 。幸いMP4/3コクピット脇のカーボンモノコック が割れた際に衝撃を吸収したため、負傷は首・肩の打撲 と肋骨の骨折 で収まったが、そのレースキャリアでもっと大きいクラッシュとなった。
プロストとは非常に仲良くなり、35年以上経た2020年代 でも互いのSNS 上で交流するほどであるが[注釈 6] 、チームとして苦戦の年で、翌年へ向けチームは強力なホンダエンジンを獲得[13] 、そのホンダからのプッシュもあり翌年のシートはアイルトン・セナ に奪われてしまった。セナがマクラーレンに来る話が表面化してからは、ヨハンソンがウィリアムズへ移籍するとの報道もあったが、実際にウィリアムズのシートを射止めたのはリカルド・パトレーゼ であった。なお、ロン・デニスはヨハンソンの能力自体はF3時代からの付き合いでもあり認めていた[注釈 7] 。
ヨハンソンは、チームメイトとなった事でプロストのドライバーとしての能力に非常に感銘を受け、雑誌『Racing On 』のインタビューにて「プロストは凄いよ、どの部分がどう凄いのか聞かれても困る。全部凄いんだから。」と答えており[8] 、1993年のプロスト引退時にも「マシンをセッティングする時、エンジニアはアランの言っていることを聞いてその通りにセットするだけでいいんだ。そしてすべて彼の言ったとおりのラップタイムになる。その光景はそばで見ていてショックを受けたし、とても学ぶことが多かった。僕のあとで加入したセナ も同じようにアランから学んだだろうと確信している」と証言している[14] 。それまでは「レーサーという職業である以上、僕の最終的な仕事はワールド・チャンピオンを取ることだろうね(1984年)[1] 」「今年はグランプリをいくつか獲りたいと思っている(1986年)[15] 」など強気の発言も多かったが、F2時代から得意としていたリスクを冒してまでの猛烈な予選タイムアタックは以後影を潜めた。
リジェでの苦闘
1988年 はフランスのリジェ に移籍。チームメイトは皮肉にもかつてフェラーリのシートを「奪う」形になったアルヌーであったが、リジェでの二人の関係は悪いものではなく情報の共有もされた。チームはジタンたばこ と国営くじのスポンサーからの潤沢な予算を持つ上に、ノンターボエンジンとしてはそれなりの性能を持つジャッド エンジンを搭載するものの、ミッシェル・テツがデザインしたJS31 は、V8エンジンの前後をはさむように燃料タンクを2分割配置するという特殊な燃料タンクの位置からバランスを決定的に欠いており、チームボスであるギ・リジェ がテツに対し「こんなクソ車つくりやがって」と公に非難する出来であった[16] 。シーズン途中で数度の大幅改修が施されたものの、最終戦までJS31に戦闘力は全く無く、「元フェラーリコンビ」2人共にノーポイントに終わったばかりか、しばしば予選落ちを喫するなど精彩を欠いた。
この年を境にヨハンソンはF1では十分な体制のチーム・マシンを得る事は無くなり、F1関係者からも「F1優勝経験が無い割にギャラが高い」と言う意見もあるなど[17] 「下り坂」を転げていくこととなる。
下位チームからのエントリー
1989年 は、F3000 からF1へステップアップしてきた新規参入チーム、オニクス へ移籍。アラン・ジェンキンス がデザインしたORE-1はDFRエンジンながらシャシー素性は良く、第7戦フランスGP で決勝5位に食い込みチームのF1初ポイントを獲得。第13戦ポルトガルGP では予備予選 組としては驚異的な3位表彰台を獲得し、これがF1最後の表彰台となった。この年は予備予選さえ通過できれば予選・決勝とも中堅としてまずまずの速さを持ったチームだったが、その予備予選を通過するのが狭き門であり、たびたび予選不通過があった。
1990年 、2月に第一子が誕生しオニクスのNo.1として期するものがあったが[18] 、前年のメインスポンサーはポルシェエンジン獲得に失敗したことでスポンサーから撤退してしまい、予算を失う。チームオーナーがモンテヴェルディ を代表とするスイス人グループに変わり[19] 、開発予算がないためにマシンの相対的性能が落ちたこともあり開幕2戦で予選落ちを喫するなど、ORE1 は前年時折り見せた速さを失っていた。チームはスイス人で前年ユーロブルン で走っており、さらにスポンサーを持ちこむことのできるグレガー・フォイテク をF1に乗せるためにヨハンソンとの契約を解除、シートを失う[20] 。
フットワークFA12
1991年 には全日本F3000選手権 に参戦する方向で内定していたが、開幕直前になってフランスの小規模チームであるAGS のシートを得る[注釈 8] が、JH25 の戦闘力も低く開幕2レース予選落ちでシートを失い、第5戦カナダGPからアレックス・カフィ 負傷の代役としてアロウズ (フットワーク)のシートを獲得。5年ぶりにアルボレートとコンビを組んだが、FA12 はシーズン中にエンジンがポルシェ V12からコスワースV8に変更されるなど重量バランスが欠如していたこともあり4戦中3戦で予選不通過となり、イギリスGPでの予選不通過を最後にカフィが戦列復帰するとヨハンソンの代役参戦は終了した。その後、ベルトラン・ガショー解雇で空いたジョーダンの候補に名前が挙がるも、シートはテストを受けた新人ミハエル・シューマッハ のものとなり、これ以後F1でのシートを得ることは無く、1992年からはアメリカ・CARTシリーズ へと活動の舞台を移した。
F3からF2時代は一発の速さが魅力だがレース振りの荒いドライバーと評され、モナコF3では主催者から厳重注意を受けたこともあったが、F1にステップアップ後は逆にレースでの安定感はあるものの、予選で一発の速さに欠ける場面が見受けられるようになった。エンツォ・フェラーリもこの予選順位が悪い点が不満だったと述べ、ヨハンソンに替えてゲルハルト・ベルガー を獲得する一因になった[21] 。また人柄が気さくな好漢である事からパドックの人気者ではあったが、その反面、勝利を追求するエゴイスティックな部分が無かったこと、そしていずれのチームも低迷期に当たったことが災いし、惜しいところで優勝を逃す事数回、結局優勝を経験できずF1では大成できなかった。
F1以後
ヨースト・ポルシェWSC95
F1以後は、1992年途中からアメリカのインディ/CART シリーズにベッテンハウゼン・モータースポーツより参戦。デビュレースで3位表彰台に立つ[22] などしてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。1993年にインディ500 に出走したことにより、ヨハンソンはモナコグランプリ ・ル・マン24時間レース ・インディ500のいわゆる『世界3大レース 』への出走を果たした。CARTには約5年参戦し、1996年を最後にフォーミュラカーから引退した。
1997年にはミケーレ・アルボレート、トム・クリステンセン と共にヨースト・ポルシェをドライブしル・マン24時間耐久レースで優勝するなど、耐久レースの世界で活躍した。なお、このル・マン24時間には1983年以後の大半の年に参戦(フェラーリ、マクラーレンと契約時はF1以外のレースは契約上不可)、ポルシェやアウディ 、1990年と1991年にはマツダスピード からも参戦、1992年にはトヨタ・92C-V を駆り上位完走している。
絵画やデザインへの関心が高く、1992年に自らデザインも担当する時計ブランド「H III」を立ち上げた。当時本人が「最初に僕の時計を買ってくれたお客さんはマリオ・アンドレッティ なんだよ!」と喜んで語っていたエピソードがある[23] 。
1990年代後半からアメリカ・インディアナポリス を拠点に自らレーシングチームを組織し、インディ・ライツ 選手権で若手にシートを与えて育成を始め、後に6度チャンピオンを獲得するスコット・ディクソン を見出し、フェリックス・ローゼンクビスト のマネージメントも務めている[24] 。また、自らのドライブでALMS やルマン24時間レースに、かつてF1に同時期参戦し親交のあったジョニー・ハーバート やJ.J.レート をパートナーに参戦するなど50代になって以後もレースへの参戦を続けた。
現在
2005年より開催されていた元F1ドライバーが参戦するグランプリマスターズ に参戦した他、様々なカテゴリーのレースにも参戦している。現在は高級時計ブランド「ステファン・ヨハンソン・ベクショー」を経営する。
2013年8月4日、スーパーフォーミュラ 第4戦もてぎに来場し、エンジン始動コールと優勝者への「ステファン・ヨハンソン賞」のプレゼンターを務めた。2014年は久々にWECに参戦することが発表された。
日本との関係
日本でのレースにも多数参戦経験があり、全日本F2には1981年より毎年スポット参戦し、1984年はフルエントリー(前述)、その他にも富士インターTEC 、WEC-JAPAN など日本で行われた国際レースの常連であり、日本人F1ドライバーの中嶋悟が誕生するまでの数年、ヨハンソンは日本のレースとF1との距離をはかる物差し的な存在として日本のレースファンから注目されていた。1985年のオートテクニック 誌にはコラム(日記)が連載されていた。また、F1のシートを失っていた1988年と1990年のオフには全日本F3000からの誘いが来たこともあった。
F1時代の1988年から1993年まで、ヨコハマタイヤのイメージキャラクターとして雑誌広告やテレビCMに出演した。ADVANの特集誌が発売された際にもインタビューに応じ「ADVANカラーのマシンに乗るのはとても名誉なことだった」と述べており[25] 、ADVANタイヤの開発をしていた高橋健二 (2005年死去)への信頼も語っている。
その他1988年にはトヨタ と日本国内のグループC カー(JSPC )でのレース契約を結び、アパレルブランド「taka-Q 」カラーのマシンをドライブした。「taka-Q」は1984年5月からヨハンソンをパーソナルスポンサーとしても支援した。
トヨタとの契約は日本国内で開催されるレースに関してのみで、ヨーロッパ開催のグループCカーレース(WSPC )では同年、1988年 の終盤戦にザウバー ・メルセデス C9 を駆り参戦、第9戦のスパ・フランコルシャン ではマウロ・バルディ とのコンビで優勝している。さらにF1引退後も上記の様に度々日本を訪れている。
エピソード
今宮純 著の「F1大百科」によると、オニクス移籍時、ヨハンソン自ら日本のダンパーメーカーに仕事を依頼したと言うエピソードがあるという。結局、実現はしなかった。
F1ドライバーとしては珍しくタバコ好き。当時は他にアレッサンドロ・ナニーニ とネルソン・ピケ 、ケケ・ロズベルグが喫煙者として知られていた。日本で参戦していた1984年にはオートスポーツ 誌の企画で星野一義 との対談があり、互いにスモーカー同士であり吸いながら談笑している様子が掲載されたこともあったが、その銘柄は星野が「ラーク 」、ヨハンソンが「マールボロ」であった。
1986年スペイングランプリ ではヘルメットが行方不明となり、ナイジェル・マンセル のスペアのヘルメットを貸りてレースに出た。また急遽復帰が決まった1991年カナダグランプリ では初日に自身のヘルメット到着が間に合わず、同じSHOEI ユーザーだったジョニー・ハーバート の物を貸り、トレードマークの葉っぱを手書きステッカーでサイド部に貼付けて予選を走った[26] 。
風貌がアーノルド・シュワルツェネッガー に似ているとされ、日本人女性のファンも多かった。1988年にはファッション誌「POPEYE」 にモデルとして起用され表紙モデルも担当した。
1987年には、「スウェーデンの交通遺児に3億円寄付した」と報じられる。その当時はモナコのプール付きの豪邸に住み、愛車はベンツとフェラーリであった。この家では1991年に自身が出演するヨコハマタイヤのCM撮影も行われた。引退後はロサンゼルス 郊外にアトリエ 兼住居を構えて拠点としている。
フェラーリとマクラーレンに乗った3年で勝てなかったことで、Sports Graphic Number のF1特集号においては「ミスター・ハードラック」「不運の男」と表現されたり、レース専門誌Racing Onでの取材時も「よく、運が無いと言われますね」との質問も受けていたが、ヨハンソン自身は「確かに言われるけど、フェラーリとマクラーレンに乗れるなんてそんなに無いでしょ?(その当時ではまだプロスト、マンセル、ベルガーとも両方への在籍歴は無かった)、だから充分に運はあるんじゃないかな」と述べている[8] 。
同インタビューにて、F1で勝てると思ったレースとして1985年のサンマリノGPとカナダGP(前述)、加えて1987年サンマリノグランプリ を挙げている。このレースでは序盤にフロントウイング交換のためピットインを強いられたが、MP4/3 のセッティングが決まっており「すごく気分良く走れたいいレースだった。」と述懐している[8] 。
名前を短縮すると、女優のスカーレット・ヨハンソン と同じく「S・ヨハンソン」と表記されることが多い。その為に「Yahoo! ニュース」のコメント欄などで度々ネタにされている。
アーティストのキース・ヘリング (1990年死去)からヨハンソン自身をモチーフとした絵画をプレゼントされたことがあり、この画を非常に大切にしている[27] 。
年齢は3つ違うが、80年代のレース活動期が重なっていたアイルトン・セナ とは1984年の世界耐久選手権 (NEWMAN ポルシェ・956 )でチームメイトであったり、F1トールマンでもチームメイトとなった。ヨハンソンはセナの死去後、ロサンゼルスのアトリエに自身の現役時のヘルメットと並べてセナのヘルメットを並べて飾っており、例年5月1日の命日近くには若き日に一緒に撮ったスナップ写真 と共に哀悼の意を表している[28] 。
カーナンバー(F1)
17 (1980年第1.2戦)
40 (1983年第9〜14戦)
3 (1984年第10〜13戦)
19 (1984年第14戦)
20 (1984年第15.16戦)
4 (1985年第1戦)
28 (1985年第2戦〜1986年)
2 (1987年)
26 (1988年)
36 (1989年)
35 (1990年第1.2戦)
18 (1991年第1.2戦)
10 (1991年第5〜8戦)
レース戦績
ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権
イギリス・フォーミュラ3選手権
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
全日本F2選手権
マカオグランプリ
F1
(key )
CART
ル・マン24時間レース
全日本ツーリングカー選手権
関連項目
脚注
注釈
^ マールボロからの推薦もあった。
^ それまでのレコードは松本恵二の出した1分50秒58(1981年全日本F2開幕戦全日本BIG2&4レース)。
^ アルヌーの解雇は、当時フェラーリ・チームマネージャーであったマルコ・ピッチニーニ (英語版 ) の妻と不倫 問題を起こしたとされるが、アルヌーはこの件について話した事が無いため詳細は不明。理由を口外しないことを条件に、その年の給料をフェラーリから受け取っていたという説もある。『F1全史 1981 - 1985』 96頁 ニューズ出版 1992年
^ 「母国語に次いでスウェーデン語が得意なケケは、創設したユーロ・プロモーションでヨハンソンをサポートしている。彼がフェラーリ初年度から50万ドル以上の契約金を得ているのはユーロ社の交渉のおかげだ」人物インタビュー・ステファン・ヨハンソン by Mike Doodson オートスポーツ No.445 1986年5月1日号 127頁
^ F186の戦闘力の低さは、チームメイトのアルボレートがシーズン序盤にしてモチベーションを失い、6月からウィリアムズとの移籍交渉を始めてしまうほどだった。 '89注目ドライバーインタビュー ミケーレ・アルボレート F1GPX '88年NA回帰元年記念号 27頁 山海堂 1989年2月8日発行
^ これはヨハンソンがプロストの脅威とならなかったからと言う見方もされる。
^ デニスは専任のテストドライバー(ジョナサン・パーマー 、アラン・マクニッシュ )を雇っていた1991年にもヨハンソンにMP4/5B の鈴鹿でのテストを依頼している。 F1速報 1991年カナダGP号 1991年6月発行
^ AGSに内定していたが急遽ジョーダン に鞍替えしたアンドレア・デ・チェザリス の代役。なおヨハンソンも前年からジョーダンのシート獲得候補に名前が報じられていた。
出典
^ a b c d e ASインタビュー 新人物物語・ステファン・ヨハンソン「F1への限りなきチャレンジャー」 オートスポーツ 三栄書房 1984年6月15日発行
^ A DAY IN A SINSE スパF2グランプリ1982 Racing On 1988年1月号 132頁 武集書房 1988年1月1日発行
^ 1982JAF鈴鹿グランプリ リザルト JAFモータースポーツ
^ 中村良夫 のグランプリ老兵見参 第十一回 ティエリー・ブーツェン GPX 1989スペイン 18-19頁 山海堂 1989年10月21日発行
^ 名車列伝 スピリット201C F1速報
^ Hamilton, Maurice (ed.) (1985). AUTOCOURSE 1985-86 . Hazleton Publishing. pp. p.87. ISBN 0-905138-38-4
^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック 著 双葉社
^ a b c d R'onインタビュー ステファン・ヨハンソン Racing On 1987年11月号 武集書房
^ ロングインタビュー ミケーレ・アルボレート To The Next Win「敗れざる夢」by Leo Turrini / Sports Graphic Number 297 F1クライマックス'92 50-54頁 1992年8月20日発行 文芸春秋
^ R'on INTERVIEW ゲルハルト・ベルガー「フェラーリへの道」 by James Daly Racing On 2月号 60-65頁 武集書房 1987年2月1日発行
^ 人物インタビュー ステファン・ヨハンソン モナコに返り咲いた男(Mike Doodson) オートスポーツ No.445 130頁 三栄書房 1986年5月1日発行
^ ヨハンソンが鹿をはねた!? Racing On 1987年10月号 武集書房
^ ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のチーム」桜井監督記者の質問に答える GPX '87イタリアGP 31頁 山海堂
^ アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年日本GP 44頁 ニューズ出版
^ 人物インタビュー・ステファン・ヨハンソン by Mike Doodson オートスポーツ No.445 1986年5月1日号 127頁
^ シーズンオフテスト現地リポート グランプリ・エクスプレス 特別編集'88カレンダー号 3-5頁 1988年1月10日発行
^ 今宮純「F1大百科 1989」ケイブンシャ ブックス
^ VOICE ヘレステスト入りが一日遅れたヨハンソン、ベビー誕生だった GPX '90開幕直前号 5頁 1990年3月10日発行
^ シーズン・オフを賑わしたオニクス、スイスの財団グループによる買収が完了 Racing On No.073 1990年5月15号
^ ヨハンソンのシート喪失に見え隠れする、フォイテクの「カネとコネ」 Racing On No.075 1990年6月15号
^ Racing On 1986年11月号
^ ヨハンソン インディカーに衝撃3位デビュー Racing On No.124 1992年8月1日号
^ F1 PRIX 双葉社 1993年
^ フェリックス・ローゼンクヴィスト「F1?ノーサンキュー」 F1-gate 2020年1月24日
^ ADVAN 前へ 挑み続ける者たち Racing On No.473 30頁,42頁 三栄 2014年10月1日
^ 急遽代役ヨハンソン メットが遅刻でハーバートから借用。でも葉っぱはちゃんと付いてまっせ GPX 1991カナダ 28頁 1991年6月22日発行
^ Here is the painting that Keith painted for me, fantastic memories! Instagram 2023年5月12日
^ Ayrton Senna,1960 - 1994 Instagram 2023年5月2日
外部リンク
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン F5000マシン Can-Am (グループ7) 主なスポンサー
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー
1970年代 1980年代 1990年代
太字はティレルにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。
車両 主なスポンサー
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン F2マシン 主なスポンサー
チーム首脳※ チームスタッフ※ F1ドライバー F1車両 主なスポンサー 関連組織 F1チーム関係者
主なF1ドライバー
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
※年代と順序はフェラーリで初出走した時期に基づく。 ※フェラーリにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はフェラーリにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はフェラーリにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
チーム首脳※ 主なチームスタッフ※ 現在のドライバー F1車両
現在のPUサプライヤー
メルセデス (1995 - 2014, 2021 - )
現在のスポンサー 主な関係者
主なF1ドライバー
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はマクラーレンで初出走した時期に基づく。 ※マクラーレンにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はマクラーレンにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はマクラーレンにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
Can-Am F2 F5000 USAC/CART GT※ タイトルスポンサー エンジンサプライヤー
創設者 主なチーム関係者 F1ドライバー F3000 ドライバーF1マシン 主なスポンサー