ジョン・マイケル・"マイク"・ホーソーン (John Michael "Mike" Hawthorn , 1929年 4月10日 - 1959年 1月22日 )は、イギリスのレーシングカー・ドライバーで、1958年のF1 ワールドチャンピオン。マイク・ホーソン と記されることも多い。
経歴
イギリス人初優勝者
エンツォ・フェラーリ (中央)と相席するホーソーン(右)(1953年)
1952年 第3戦ベルギーグランプリにて、クーパーに乗るプライベーターとしてF1デビュー、予選6位から4位に入賞した。その後、デビュー3戦目となるイギリスグランプリで3位に入り、初表彰台を記録する。本格的なレース経験2年目にして非力なクーパー・ブリストルで見せた好走により、当時の最強チーム、フェラーリ への加入が決まった。
翌1953年はフェラーリワークスチームの一員として参戦し、第5戦フランスグランプリで初優勝した。チャンピオン経験者のファン・マヌエル・ファンジオ を相手にマッチレースを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーで逆転するという見事な勝利であり、「ランス の名勝負」として知られることになる。当時としては最年少優勝記録(24歳)であり、イギリス人として初の優勝、また、フェラーリのエースドライバー、アルベルト・アスカリ の連勝記録[ 注釈 1] を止める結果にもなった。これをはじめ、3度の表彰台を含めて参戦した8戦全てに入賞し、ランキングで4位となった。
翌1954年 も、参戦した8戦中4度の表彰台を含む5度の入賞。最終戦スペイングランプリ では自身2勝目を挙げ、ランキングでも2位に入った。
根拠のない兵役忌避疑惑
1952年工学学校を卒業し、年末までの召集延期を認められていた。モデナでの事故から退院した時、当局より新たに身体検査を通過しない限り召集されない旨言い渡された。フェラーリと契約しイタリアに住んでいた時もしばしばイギリスのレースに参戦するため生家に帰っているし、また空軍への入隊を志願していたこともある。
1954年のアルゼンチングランプリに出場した時、労働省付政務次官が下院に「レーシング・モータリストといえども兵役義務からの免除は認められない」と提言し、ウォルトン派保守党 議員ケネス・トンプソンがマイク・ホーソーンの召集状況に関して質問し、議会で糾弾が始まった。
召集令状が届き、身体検査が行われたが、医師は脚を見るなり検査を続ける意味がないと結論を出した。3ヶ月後に出頭するように言われた。腎臓の具合が悪く、この2ヶ月後に手術を受けている[ 1] 。
1955年ル・マン24時間レース
フェラーリのエースとなったホーソーンだったが、イギリス系チームでの参戦に惹かれ、1955年 はヴァンウォールに移籍する。しかし、新興チームのため成績は低迷し、後半戦はフェラーリに一時復帰した。
この年はスターリング・モスがジャガーからメルセデス・ベンツに移籍し、その後を埋める形でホーソーンはジャガーに乗ることになり、スポーツカーレースのル・マン24時間レース でジャガー・Dタイプ に乗り勝利を収めている。しかしながら、このレースではホーソーンの駆るジャガーを起点として発生した事故でドライバーほか観客に死者86人、重軽傷者100人以上を出す大惨事が起こり、後日ホーソンとジャガーには事故の責任なしと裁定されたものの、この悲劇のレースの当事者として名を刻んでしまい、しかも彼が優勝を飾ったがためにそのレース自体がかなり後味の悪いものとなり、翌日の新聞に「マイク・ホーソーン、あなたの健康を祝して」という皮肉を込めた見出しが躍ることとなった[ 2] 。
1956年はBRMとヴァンウォールに乗るが、開幕戦の3位(プライベーターとしてマセラティのマシンを使用)が最高成績だった。
チャンピオン獲得
1957年ドイツGP表彰式 - 左からコリンズ 、ファンジオ 、ホーソーン
1957年よりフェラーリに正式復帰。この年は未勝利に終わるが、参戦した6戦中4戦で入賞し復活をアピールした。
1958年は、5度のチャンピオンファン・マヌエル・ファンジオ が2戦の出走のみで引退。ホーソーンとスターリング・モス のイギリス人2者の間で、激しいチャンピオン争いが行われることとなった。
この年、全10戦中[ 注釈 2] 4勝を挙げたライバルのモスに対し、ホーソーンは第6戦フランスグランプリでポールトゥーウィン を飾ったのが、唯一の勝利だった。しかし優勝以外ではリタイヤが多かったモスに対し、ホーソーンは勝てないレースでも堅実にポイントを稼いだため、ランキングは拮抗することとなる。ホーソーンは優勝した第6戦フランスグランプリでモスに並ぶと、続く第7戦イギリスグランプリでランキング単独トップに立つ。その後は、1度もランキング首位の座を譲らず、最終的に1ポイント差でチャンピオンを獲得した。
2人の戦績を比較すると、モスは全ドライバー最多の4勝[ 注釈 3] を記録したが、優勝以外では2位1度、他は全てリタイヤ(計5回)。ホーソーンは1勝だが、2位に5回、3位に1回入り、当時1ポイントが与えられていたファステストラップ も、最多の5回を記録している。リタイヤは2回だった。
モスを下しチャンピオンとなったホーソーンだったが、その2ヶ月後このシーズン限りでのF1引退を表明した。これにはファッションモデルのジーン・ハワースと婚約しており以前からホーソーンが「結婚した男はレースに出るべきでない」と言っていたこと、非常に仲の良かったチームメイトの1人ピーター・コリンズ が同年のドイツグランプリ で事故死したこと、自らも肝臓 に病を患っていたことが原因とされている[ 3] 。
公道での事故死
引退から約3ヶ月後の1959年1月22日、ホーソーンは商取引のためロンドンに向かう途中、サリー州 のギルフォードバイパスを走っていて友人のロブ・ウォーカー と偶然出会った。ウォーカーの車を抜いた直後ホーソーンの車は突然スピンし、後ろ向きでトラックに衝突。道からはずれて立木にぶつかり、折れ曲がった車の中でホーソーンは死亡した。事故原因として、オーバースピード、濡れた路面でのスリップ、飲酒運転 などが推測されたが、真相は解明されなかった。ロブ・ウォーカーは「居合わせたのは純粋な偶然」「二人でレースをしたんだろうなんてばかばかしい想像」としている[ 3] 。
なお、ホーソーンはDタイプ のエンジンを積んだ特製のジャガー・Mk1 、ウォーカーはメルセデス・ベンツ・300SL に乗っていたが、ジャガーとメルセデス・ベンツは4年前のル・マンの大事故に絡んだメーカー同士だった。皮肉な最期となったが、前述した不治の病もあり、事故がなくても長生きはできなかったであろうと言われている。
エピソード
蝶ネクタイ を愛用しており、レースの際は緑色のジャケットと白いシャツに蝶ネクタイという目立つ服装でドライビングしていた。このため「ル・パピヨン」(フランス語で蝶の意味)と呼ばれていた。ブロンドの髪には「テスタ・デ・ストッパ」(イタリア語で麻色の髪の意味)というニックネームが付けられた。
ファンジオは1953年のフランスグランプリで戦ったホーソーンについて「私と争ったその青年は金髪のせいで少年のように見えたが、チャンピオン並みの粘り強さを持っていた」と褒めている。ファンジオの引退レースとなった1958年のフランスグランプリでは、優勝者のホーソーンがトラブルでペースの上がらないファンジオを周回遅れにしかけたが、偉大なドライバーに敬意を払い、あえて抜こうとしなかった。
フェラーリのチームメイトであるピーター・コリンズ とは公私ともに気が合い、モナミ・メイト(Mon Ami Mate 、フランス語と英語の造語で「恋人のような友人」)と呼ばれた。1958年にコリンズが事故死した後、ホーソーンはコリンズが愛車フェラーリ・250GT に装着していた特注のディスクブレーキ を見本にして、チームに初めてディスクブレーキの使用を認めさせた。ふたりの友情については、自動車ジャーナリストのクリス・ニクソンが著書『Mon Ami Mate』[ 4] にまとめている。
イギリスまたはイギリス連邦 出身の最優秀F1ドライバーを称える賞として、1959年 より毎年「ホーソン・メモリアル・トロフィー」が選定されている。
レース戦績
F1
ル・マン24時間レース
セブリング12時間レース
スパ24時間レース
ミッレミレア
ランス12時間レース
ペスカーラ12時間レース
注釈
出典
^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.115-142。
^ 『死のレース 1955年 ルマン』pp.159-221。
^ a b 『死のレース 1955年 ルマン』pp.223-235。
^ Transport Bookman Publications,1991 ISBN 0851840477
参考文献
関連項目
外部リンク
チーム首脳※ チームスタッフ※ F1ドライバー F1車両 主なスポンサー 関連組織 F1チーム関係者
主なF1ドライバー
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代
※年代と順序はフェラーリで初出走した時期に基づく。 ※フェラーリにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はフェラーリにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はフェラーリにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1車両 市販車
※ヴァンウォール・カーズによる車両(2003年)。
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン スポーツカー 主なスポンサー
太字はBRMにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。