ドナルド・ロバート・ニコルズ (Donald Robert Nichols[ 2] 、1924年 11月23日 [ 3] [ 1] - 2017年 8月21日 [ 3] )、通称ドン・ニコルズ (Don Nichols)は、アメリカ合衆国 出身の自動車実業家であり、レーシングチームのシャドウ・レーシング・カーズ の創設者・経営者として知られる。
1960年代に日本に滞在し、レースビジネスやレース業界といったものがまだ存在していなかった当時の日本において、その確立に大きな役割を果たした[ 3] 。日本においては、「ドンニコ 」の愛称でも呼ばれた。(→#ドンニコ )
経歴
少年期
米国中西部 、ミズーリ州 エルドン (英語版 ) で生まれた[ 1] 。父親は航空機技術者で、外国を含む各地を回る仕事をしていた[ 4] 。母親は、ニコルズが物心つく前に事故死した[ 2] [ 注釈 1] 。
ニコルズは、少年期をニコルズ家が代々所有していた農園で過ごし[ 4] 、田舎であり、父親も不在がちだったことから、13歳の時にフォード・モデルT を手に入れてからは、それを好き勝手に乗り回すことができた[ 5] 。時折り家に戻ってくる父親から海軍や飛行艇 の話を聞き、そのことが、海軍や、世界中を巡る仕事に興味を抱くきっかけとなった[ 5] 。
アメリカ陸軍
高校を中退した後、アメリカ海軍 に入隊し、その後、陸軍 に入隊し直した[ 3] 。第二次世界大戦 ではヨーロッパ戦線 で戦い、上等兵 として第101空挺師団 の小部隊に所属した[ 6] 。同師団では、第一次降下部隊(パスファインダー部隊 (英語版 ) )の一員となり、他の部隊に先んじてパラシュート降下 して、砲兵 などの主戦力の降下地点を確保する役目を担った[ 6] 。
1944年、19歳の時に、ニコルズは6月のノルマンディー上陸作戦 、続けて、同年9月のマーケット・ガーデン作戦 、12月のバルジの戦い (バストーニュの戦い )に参加した[ 6] [ 7] [ 注釈 2] 。いずれの作戦でも戦傷を負い、特にバルジの戦いでは周囲の600名ほどの味方の内、戦闘開始から最初の24時間で、部隊指揮官を含む200名から300名ほどが戦死するという激戦となったが、ニコルズは生き延びた[ 6] [ 8] 。
終戦により、1945年11月に除隊してミズーリ州の故郷に帰った[ 9] 。この時期にジャーナリストを志望していたニコルズは、その分野で有名な学校でもある、ミズーリ大学 に入ろうとしたが、高校卒業資格がないことが入学のネックとなったため、陸軍に戻った[ 9] 。
その後、朝鮮戦争 に従軍し、陸軍大尉として部隊を統率した後、陸軍の情報将校 として日本に赴任した[ 3] [ 10] 。在日米陸軍 においては、冷戦 下、ソビエト連邦 をはじめとする敵対国の日本における工作活動の監視や排除を任務とする部隊のリーダー格だったと本人は述べている[ 3] [ 11] 。(→#在日米軍における仕事 )
日本赴任中に、陸軍少佐の階級で退役した[ 11] [ 注釈 3] 。
日本における事業
ニコルズは元々スポーツカーなどは好きだったが、モータースポーツとの関わりは在日米軍の軍人として日本に駐在していた時期に始まった[ 3] 。この時期に、軍務の傍ら、レーシングカーやパーツを輸入するビジネスを始め、これが成功したことから、1960年代初めに退役して軍を離れた後も日本への滞在を続けた[ 3] 。
ニコルズが行った活動は、自動車レースの黎明期で海外の技術や情報、人脈といったものを必要としていた日本側と、日本への進出に関心を持っていた米国のレース関係者の双方を結びつけるものとなり、1960年代の日本における自動車レースの確立に大きく寄与するものとなった[ 3] 。
輸入ビジネス
ニコルズはレース関連の様々な部品を輸入し、その買い付けのために日本と米国の間を頻繁に行き来し、この事業を通じて、日欧米の自動車関連メーカーやレース関係者に人脈を広げていった[ 3] 。
日本において、最初に大きな商売となったのはファイアストン やグッドイヤー のレース用タイヤの販売だった[ 3] 。ニコルズは両社のレース部門から売れ残りのタイヤを全て買い付け、日本の倉庫に保管し、それらをトヨタ自動車 やプリンス自動車 、日産自動車 といった日本の自動車メーカーに販売し、大きな利益をあげた[ 3] [ 12] [ 注釈 4] 。
タイヤ以外では、ウェーバー社 製キャブレター の販売でも大きな利益を得た[ 3] 。同社のミニマムオーダー(発注に必要な最低数量)は数千個単位という少なくないものだったが、当時の日本には存在しない高性能なキャブレターであったことから、日本の自動車メーカーの関心を呼び、そのミニマムオーダーを埋めるのに充分な受注を得ることができたという[ 3] 。この時にプリンス自動車が購入したキャブレターは、1964年の第2回日本GP に参戦したスカイラインGT のエンジンにも使用されたと言われている[ 3] [ 注釈 5] 。1960年代後半には、ローラ やマクラーレン の二座席レーシングカー 、シボレーのV8エンジン、ヒューランド製トランスミッションなども輸入した[ 3] 。
富士スピードウェイ
建設予定地で視察を行うニコルズ、モス、マネーペニー(手前の人物たち、左から右)[ 14] [ W 2]
ニコルズは、1966年開業の富士スピードウェイ が設立される端緒を作り、建設計画においても深く関与した。
1960年代初め、日本で上述の輸入業 をしていたニコルズは、その傍ら、当時の米国で大きな成功を収めていたNASCAR 方式のレースビジネスを日本でも行えないかと思案していた[ 3] 。この場合の「NASCAR方式」とは、単にストックカー をオーバルトラック で走らせることのみを意味しているわけではなく、レース場の設計から手掛け、参戦車両や契約ドライバーの派遣、レースのプロモーションといった事柄を包括して運営するという、当時のNASCAR社[ 注釈 6] のビジネスモデルを指している[ 3] 。
ニコルズは、NASCAR社の創業者で経営者のビル・フランス・シニア (英語版 ) に話を通した上で、日本の大手商社 に売り込みをかけていった[ 3] 。この話に、丸紅飯田(現在の丸紅 )の会長だった森長英が大きな関心を示したことから、丸紅飯田の後ろ盾を得て、1963年12月に日本ナスカー株式会社(富士スピードウェイ社{FISCO}の前身)の設立へと至った[ 15] [ 3] 。
ニコルズは、サーキット建設を始めた日本ナスカー社において交渉役として関与し、国外との折衝をほぼ一手に引き受け、当初の設計者であるチャールズ・マネーペニー とスターリング・モス や[ 注釈 7] 、宣伝役として1966年3月に来日したジム・クラーク といった、要人の招聘はいずれもニコルズが手配した[ 3] [ W 2] [ 注釈 8] 。
レーシングドライバー
ニコルズは、日本滞在時にドライバーとして1963年の第1回日本GP と1967年の第4回日本GP に参戦した[ 3] 。
第4回日本GPについては、自分で運転する予定はなかったのだが、3台輸入したローラ・T70 (英語版 ) (Mk2)の内の1台に買い手がつかなかったため、自分でエントリーしたのだという[ 17] [ 3] 。このレースは「ロバート・クラーク(R・クラーク)」という偽名でエントリーし、正体がニコルズだということは当時は伏せられていた[ 18] 。
ニコルズ本人が参戦した1967年のレースでは結果を残せなかったものの、ニコルズが輸入したローラ・T70(Mk3)とシボレーV8エンジンは翌年の日本GP で、TNT対決(トヨタ・日産・タキレーシング )の一角として大きな役割を演じることになった[ 3] [ 注釈 9] 。
シャドウ設立
「AVS・シャドウ」、シャドウ・Mk1(1970年)
1968年に米国に帰国し[ 3] 、カリフォルニア州 コスタメサ で、アドバンスト・ヴィークル・システムズ社(Advanced Vehicle Systems、略称「AVS」)を創業した[ 20] 。
1970年にカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am)への参戦を始め、車両を「AVS・シャドウ」と名付けた[ 21] 。Can-Amでは、1974年シーズン (英語版 ) にジャッキー・オリバー がチャンピオンタイトルを獲得した。
F1
シャドウ・DN1(1973年)
Can-AmでAVS社のスポンサーを務めていたユニバーサルオイル (英語版 ) (UOP)の支援を得たことで[ 22] [ 23] [ 24] 、「シャドウ」をコンストラクター名とチーム名に用いて、1973年 にF1への参戦を開始した。F1参戦のためのファクトリーはイギリスのノーサンプトン に設けた[ 25] 。
BRM から引き抜いたトニー・サウスゲート が設計した「DN1 」をはじめとするシャドウの車両はそこそこの戦闘力を発揮し、1975年 には3回のポールポジション(予選最速タイム)を記録し、1977年 にはアラン・ジョーンズ (車両はDN8 )がチームにとって唯一となる優勝を果たした(1977年オーストリアグランプリ (英語版 ) )。
しかし、その1977年末に、実質的なチーム代表を務めていたジャッキー・オリバー、設計者のサウスゲートら、チームの主要スタッフが離脱し、新チームのアロウズ を設立してしまう。アロウズがシャドウの新型車DN9 とほぼ同じ設計のアロウズ・FA1 を製造したため(設計はどちらもサウスゲート)、ニコルズは工業所有権侵害としてイギリスで訴訟を提起し、勝訴した。
裁判で勝訴したとはいえ、主要スタッフを失った痛手は大きく、1978年 以降、チームは衰退の一途をたどり、1980年 をもってF1から撤退した。イギリスの設備などは、スポンサーだったテディ・イップ に売却し、チームは翌年からセオドール・レーシング となった[ W 3] 。
人物
スコットランド系アメリカ人で、2メートル近い身長の大男だった[ 26] 。30代の頃から、黒髪の2割ほどは白髪で、もみあげから続くヒゲはエイブラハム・リンカーン を思わせる立派なものだった[ 26] [ 注釈 10] 。
ドンニコ
1968年までの日本に住んでいた時期、自動車レース関係のビジネスの一環で、1964年に日本で創刊された『オートスポーツ 』誌にたびたび寄稿し、欧米の情報については誰よりも早く、正確な情報を同誌に提供していた[ 28] [ 注釈 11] 。日本においては、当時、直接関わった関係者から「ドンニコ 」と呼ばれ[ 26] 、その後も日本における愛称として定着していた[ 3] 。
アメリカやヨーロッパから多くの車両や部品を輸入する、外国の選手たちとの仲立ちをするといった形で、日本における揺籃期のグランプリ開催を支えた[ 28] [ 3] 。巨額の利益を稼いで日本を去った経緯から「黒幕」扱いされることも多いが[ 3] 、ニコルズと直接関わりのあった関係者たちからは日本におけるモータースポーツの「道を拓いてくれた恩人」と評価されていた[ 3] 。
ニコルズ自身は晩年のインタビューで、レースが未開だった当時の日本は「成功の機会がある土地」であり、チャンスを与えてもらったことに感謝していると述べている[ 3] 。
在日米軍における仕事
「
それについて話すことはできない。ああ、CIAや軍の諜報工作員であったとか、防諜工作をしていたとかね…。それを話すのは適切ではないと思う。 I can't talk about that. Ah, CIA and military intelligence, counter-intelligence... not proper, I don't think, to discuss it.[ 10]
」
—ドン・ニコルズ
在日米軍における仕事について、後に、CIAスパイ説、米国自動車産業の対日工作員説など様々に言われていた[ 10] [ W 4] 。
ニコルズ本人は、晩年に至っても、この時期のことは自由に話せるわけではないとしつつ、仕事は楽しかったと述べている[ 10] 。防諜 が仕事のひとつだったことは明かしており、ソビエト連邦などの東側諸国による日本における工作活動の監視と排除にあたっていたという[ 3] [ 10] [ 11] 。
そうした前歴を踏まえたものなのか、シャドウは「マントを着けたスパイ」をチームのロゴマークとして用いていた。
その他
日本に赴任する前に、米軍の日本語学校で日本語を習い[ 10] 、その後、10年に渡って日本で居住しており、退役した頃には日本語を流暢に話すようになっていた[ 31] 。
在日米軍時代の部下たちは主に日本人や中国人たちで、柔道 の習得者がいたことに影響され、余暇に講道館 に通うようになり、最初は初心者だったが、任期中に三段にまで昇段したという[ 11] 。
前述した ように、日本でドライバーとしてレースに参戦したことがあるが、ニコルズは1960年代前半は日本自動車連盟 (JAF)が発行した競技ライセンスを使用し[ 12] 、「ロバート・クラーク」として参戦した第4回日本GP には、米国のASNであるアメリカ自動車競技委員会 (英語版 ) (ACCUS)が発行した競技ライセンスを使用した[ 32] 。「ロバート」は自身のミドルネームで、「クラーク」は母親の姓から取っている[ 32] 。
脚注
注釈
^ 1927年5月に、ミズーリ州を含む米国中西部は竜巻の頻発という災害に見舞われ(1927年5月のアメリカ合衆国の竜巻 (英語版 ) )、大きな被害をもたらしたその災害の犠牲者の一人となった[ 1] 。母親は幼いニコルズとタクシーに乗っていた際に竜巻に襲われ、その事故で、ニコルズは負傷しつつも助かったが、母親は死去した[ 1] 。
^ ノルマンディー上陸作戦で、第一次降下を行ったニコルズは最初に撃たれた一人となり、医療テントに後送され、その翌日に医療テントもドイツ軍の砲撃を受け、その時にも負傷したという[ 6] 。その後、マーケット・ガーデン作戦に向けてオランダ方面に飛んだため、フランスでは戦闘をした覚えがないという[ 6] 。
^ 大尉から少佐に昇進したのはある任務によるもので、ニコルズは、その任務の事はよく覚えているが何の任務だったかは言えないと述べている[ 11] 。
^ 米国だけでなく、ヨーロッパのグランプリにも出向き、F1パドックでも買い付けを行い、自動車メーカーだけではなく、日本のタイヤメーカーにも販売した[ 12] 。日本のメーカーの多くは、競技用タイヤ、特にグランプリ用のタイヤに高い関心を持っていたが、当時はそれらを入手するルートを持っておらず(既にF1に参戦していた本田技研工業 は例外)、そこにニコルズの商機があった[ 12] 。
^ プリンス自動車は、ホモロゲーション取得用にスカイラインGTを100台製造し、そのエンジン1基にウェーバー製キャブレターを3個使用した[ 13] [ W 1] (1965年に発売された市販仕様のいわゆる「GT-B」にもウェーバー製キャブレターを3連で使用)。このキャブレターは1個で10数万円するもので、当時の一般的な車両価格を考えると、非常に高価だった[ 13] (ホンダ・S600 で50万円台[ 13] 、スカイラインGTの市販価格は86万円[ W 1] )。そもそも資金があれば入手できるような物でもなく、生沢徹 、小林彰太郎 、浅岡重輝 といった当時の自動車関係者たちは、プリンス自動車がこのキャブレターを搭載したことに非常に驚いたということを述べている[ 13] 。
^ 一般的には「全米自動車競争協会」という訳語が当てられるが、正式な組織名は「National Association for Stock Car Auto Racing, LLC (有限責任会社)」で、会社組織なので、以下「NASCAR社」と記載。
^ マネーペニーは1964年7月、モスは翌8月に来日。
^ クラークは2月の時点でオーストラリアにおり、そのことを知ったニコルズがクラークに帰路に日本に寄るよう依頼してはどうかとFISCOに提案した[ 15] 。FISCOとしても実現するなら望外の提案であり[ 15] 、ニコルズが日本から電話でクラークと交渉を行ったところ、あっさりと快諾が得られたという[ 16] (ただしクラークはイギリスに一度帰国してから日本を訪れた[ 15] )。来日したクラークにはホテルオークラ の部屋が用意されていたが、宿の近所にあるニコルズの部屋(麻布ハイツ)に泊まったという[ 16] 。
^ ニコルズは日産にも協力し、R381 に搭載するエンジンを探していた同社に、米国のエンジンチューナーであるムーン社を紹介し、そのシボレーV8エンジンを手配した[ 19] 。
^ 富士スピードウェイ時代にニコルズと関わった河野洋平 は、ニコルズの名前は忘れたが、「ヒゲずらのアメリカ人」のことは覚えていた[ 27] 。
^ 写真提供や、来日したレース関係者へのインタビュアーとしてもしばしば協力している[ 29] [ 30] 。アメリカ帰国後も、ニコルズの寄稿により、シャドウの記事は同誌に頻繁に掲載されていた。
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創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン F5000マシン Can-Am (グループ7) 主なスポンサー