ドン・ニコルズ

ドン・ニコルズ
Don Nichols
Nichols-Moss-Moneypenny 1964 FSW construction site.jpg
ニコルズ(1964年)
生誕 (1924-11-23) 1924年11月23日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミズーリ州エルドン英語版[1]
死没 (2017-08-21) 2017年8月21日(92歳没)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テンプレートを表示

ドナルド・ロバート・ニコルズ(Donald Robert Nichols[2]1924年11月23日[3][1] - 2017年8月21日[3])、通称ドン・ニコルズ(Don Nichols)は、アメリカ合衆国出身の自動車実業家であり、レーシングチームのシャドウ・レーシング・カーズの創設者・経営者として知られる。

1960年代に日本に滞在し、レースビジネスやレース業界といったものがまだ存在していなかった当時の日本において、その確立に大きな役割を果たした[3]。日本においては、「ドンニコ」の愛称でも呼ばれた。(→#ドンニコ

経歴

少年期

米国中西部ミズーリ州エルドン英語版で生まれた[1]。父親は航空機技術者で、外国を含む各地を回る仕事をしていた[4]。母親は、ニコルズが物心つく前に事故死した[2][注釈 1]

ニコルズは、少年期をニコルズ家が代々所有していた農園で過ごし[4]、田舎であり、父親も不在がちだったことから、13歳の時にフォード・モデルTを手に入れてからは、それを好き勝手に乗り回すことができた[5]。時折り家に戻ってくる父親から海軍や飛行艇の話を聞き、そのことが、海軍や、世界中を巡る仕事に興味を抱くきっかけとなった[5]

アメリカ陸軍

高校を中退した後、アメリカ海軍に入隊し、その後、陸軍に入隊し直した[3]第二次世界大戦ではヨーロッパ戦線で戦い、上等兵として第101空挺師団の小部隊に所属した[6]。同師団では、第一次降下部隊(パスファインダー部隊英語版)の一員となり、他の部隊に先んじてパラシュート降下して、砲兵などの主戦力の降下地点を確保する役目を担った[6]

1944年、19歳の時に、ニコルズは6月のノルマンディー上陸作戦、続けて、同年9月のマーケット・ガーデン作戦、12月のバルジの戦いバストーニュの戦い)に参加した[6][7][注釈 2]。いずれの作戦でも戦傷を負い、特にバルジの戦いでは周囲の600名ほどの味方の内、戦闘開始から最初の24時間で、部隊指揮官を含む200名から300名ほどが戦死するという激戦となったが、ニコルズは生き延びた[6][8]

終戦により、1945年11月に除隊してミズーリ州の故郷に帰った[9]。この時期にジャーナリストを志望していたニコルズは、その分野で有名な学校でもある、ミズーリ大学に入ろうとしたが、高校卒業資格がないことが入学のネックとなったため、陸軍に戻った[9]

その後、朝鮮戦争に従軍し、陸軍大尉として部隊を統率した後、陸軍の情報将校として日本に赴任した[3][10]在日米陸軍においては、冷戦下、ソビエト連邦をはじめとする敵対国の日本における工作活動の監視や排除を任務とする部隊のリーダー格だったと本人は述べている[3][11]。(→#在日米軍における仕事

日本赴任中に、陸軍少佐の階級で退役した[11][注釈 3]

日本における事業

ニコルズは元々スポーツカーなどは好きだったが、モータースポーツとの関わりは在日米軍の軍人として日本に駐在していた時期に始まった[3]。この時期に、軍務の傍ら、レーシングカーやパーツを輸入するビジネスを始め、これが成功したことから、1960年代初めに退役して軍を離れた後も日本への滞在を続けた[3]

ニコルズが行った活動は、自動車レースの黎明期で海外の技術や情報、人脈といったものを必要としていた日本側と、日本への進出に関心を持っていた米国のレース関係者の双方を結びつけるものとなり、1960年代の日本における自動車レースの確立に大きく寄与するものとなった[3]

輸入ビジネス

ニコルズはレース関連の様々な部品を輸入し、その買い付けのために日本と米国の間を頻繁に行き来し、この事業を通じて、日欧米の自動車関連メーカーやレース関係者に人脈を広げていった[3]

日本において、最初に大きな商売となったのはファイアストングッドイヤーのレース用タイヤの販売だった[3]。ニコルズは両社のレース部門から売れ残りのタイヤを全て買い付け、日本の倉庫に保管し、それらをトヨタ自動車プリンス自動車日産自動車といった日本の自動車メーカーに販売し、大きな利益をあげた[3][12][注釈 4]

タイヤ以外では、ウェーバー社キャブレターの販売でも大きな利益を得た[3]。同社のミニマムオーダー(発注に必要な最低数量)は数千個単位という少なくないものだったが、当時の日本には存在しない高性能なキャブレターであったことから、日本の自動車メーカーの関心を呼び、そのミニマムオーダーを埋めるのに充分な受注を得ることができたという[3]。この時にプリンス自動車が購入したキャブレターは、1964年の第2回日本GPに参戦したスカイラインGTのエンジンにも使用されたと言われている[3][注釈 5]。1960年代後半には、ローラマクラーレン二座席レーシングカー、シボレーのV8エンジン、ヒューランド製トランスミッションなども輸入した[3]

富士スピードウェイ

建設予定地で視察を行うニコルズ、モス、マネーペニー(手前の人物たち、左から右)[14][W 2]

ニコルズは、1966年開業の富士スピードウェイが設立される端緒を作り、建設計画においても深く関与した。

1960年代初め、日本で上述の輸入業をしていたニコルズは、その傍ら、当時の米国で大きな成功を収めていたNASCAR方式のレースビジネスを日本でも行えないかと思案していた[3]。この場合の「NASCAR方式」とは、単にストックカーオーバルトラックで走らせることのみを意味しているわけではなく、レース場の設計から手掛け、参戦車両や契約ドライバーの派遣、レースのプロモーションといった事柄を包括して運営するという、当時のNASCAR社[注釈 6]のビジネスモデルを指している[3]

ニコルズは、NASCAR社の創業者で経営者のビル・フランス・シニア英語版に話を通した上で、日本の大手商社に売り込みをかけていった[3]。この話に、丸紅飯田(現在の丸紅)の会長だった森長英が大きな関心を示したことから、丸紅飯田の後ろ盾を得て、1963年12月に日本ナスカー株式会社(富士スピードウェイ社{FISCO}の前身)の設立へと至った[15][3]

ニコルズは、サーキット建設を始めた日本ナスカー社において交渉役として関与し、国外との折衝をほぼ一手に引き受け、当初の設計者であるチャールズ・マネーペニースターリング・モス[注釈 7]、宣伝役として1966年3月に来日したジム・クラークといった、要人の招聘はいずれもニコルズが手配した[3][W 2][注釈 8]

レーシングドライバー

ニコルズは、日本滞在時にドライバーとして1963年の第1回日本GPと1967年の第4回日本GPに参戦した[3]

第4回日本GPについては、自分で運転する予定はなかったのだが、3台輸入したローラ・T70英語版(Mk2)の内の1台に買い手がつかなかったため、自分でエントリーしたのだという[17][3]。このレースは「ロバート・クラーク(R・クラーク)」という偽名でエントリーし、正体がニコルズだということは当時は伏せられていた[18]

ニコルズ本人が参戦した1967年のレースでは結果を残せなかったものの、ニコルズが輸入したローラ・T70(Mk3)とシボレーV8エンジンは翌年の日本GPで、TNT対決(トヨタ・日産・タキレーシング)の一角として大きな役割を演じることになった[3][注釈 9]

シャドウ設立

「AVS・シャドウ」、シャドウ・Mk1(1970年)

1968年に米国に帰国し[3]カリフォルニア州コスタメサで、アドバンスト・ヴィークル・システムズ社(Advanced Vehicle Systems、略称「AVS」)を創業した[20]

1970年にカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)への参戦を始め、車両を「AVS・シャドウ」と名付けた[21]。Can-Amでは、1974年シーズン英語版ジャッキー・オリバーがチャンピオンタイトルを獲得した。

F1

シャドウ・DN1(1973年)

Can-AmでAVS社のスポンサーを務めていたユニバーサルオイル英語版(UOP)の支援を得たことで[22][23][24]、「シャドウ」をコンストラクター名とチーム名に用いて、1973年にF1への参戦を開始した。F1参戦のためのファクトリーはイギリスのノーサンプトンに設けた[25]

BRMから引き抜いたトニー・サウスゲートが設計した「DN1」をはじめとするシャドウの車両はそこそこの戦闘力を発揮し、1975年には3回のポールポジション(予選最速タイム)を記録し、1977年にはアラン・ジョーンズ(車両はDN8)がチームにとって唯一となる優勝を果たした(1977年オーストリアグランプリ英語版)。

しかし、その1977年末に、実質的なチーム代表を務めていたジャッキー・オリバー、設計者のサウスゲートら、チームの主要スタッフが離脱し、新チームのアロウズを設立してしまう。アロウズがシャドウの新型車DN9とほぼ同じ設計のアロウズ・FA1を製造したため(設計はどちらもサウスゲート)、ニコルズは工業所有権侵害としてイギリスで訴訟を提起し、勝訴した。

裁判で勝訴したとはいえ、主要スタッフを失った痛手は大きく、1978年以降、チームは衰退の一途をたどり、1980年をもってF1から撤退した。イギリスの設備などは、スポンサーだったテディ・イップに売却し、チームは翌年からセオドール・レーシングとなった[W 3]

人物

スコットランド系アメリカ人で、2メートル近い身長の大男だった[26]。30代の頃から、黒髪の2割ほどは白髪で、もみあげから続くヒゲはエイブラハム・リンカーンを思わせる立派なものだった[26][注釈 10]

ドンニコ

1968年までの日本に住んでいた時期、自動車レース関係のビジネスの一環で、1964年に日本で創刊された『オートスポーツ』誌にたびたび寄稿し、欧米の情報については誰よりも早く、正確な情報を同誌に提供していた[28][注釈 11]。日本においては、当時、直接関わった関係者から「ドンニコ」と呼ばれ[26]、その後も日本における愛称として定着していた[3]

アメリカやヨーロッパから多くの車両や部品を輸入する、外国の選手たちとの仲立ちをするといった形で、日本における揺籃期のグランプリ開催を支えた[28][3]。巨額の利益を稼いで日本を去った経緯から「黒幕」扱いされることも多いが[3]、ニコルズと直接関わりのあった関係者たちからは日本におけるモータースポーツの「道を拓いてくれた恩人」と評価されていた[3]

ニコルズ自身は晩年のインタビューで、レースが未開だった当時の日本は「成功の機会がある土地」であり、チャンスを与えてもらったことに感謝していると述べている[3]

在日米軍における仕事

それについて話すことはできない。ああ、CIAや軍の諜報工作員であったとか、防諜工作をしていたとかね…。それを話すのは適切ではないと思う。
I can't talk about that. Ah, CIA and military intelligence, counter-intelligence... not proper, I don't think, to discuss it.[10]

—ドン・ニコルズ

在日米軍における仕事について、後に、CIAスパイ説、米国自動車産業の対日工作員説など様々に言われていた[10][W 4]

ニコルズ本人は、晩年に至っても、この時期のことは自由に話せるわけではないとしつつ、仕事は楽しかったと述べている[10]防諜が仕事のひとつだったことは明かしており、ソビエト連邦などの東側諸国による日本における工作活動の監視と排除にあたっていたという[3][10][11]

そうした前歴を踏まえたものなのか、シャドウは「マントを着けたスパイ」をチームのロゴマークとして用いていた。

その他

  • 日本に赴任する前に、米軍の日本語学校で日本語を習い[10]、その後、10年に渡って日本で居住しており、退役した頃には日本語を流暢に話すようになっていた[31]
  • 在日米軍時代の部下たちは主に日本人や中国人たちで、柔道の習得者がいたことに影響され、余暇に講道館に通うようになり、最初は初心者だったが、任期中に三段にまで昇段したという[11]
  • 前述したように、日本でドライバーとしてレースに参戦したことがあるが、ニコルズは1960年代前半は日本自動車連盟(JAF)が発行した競技ライセンスを使用し[12]、「ロバート・クラーク」として参戦した第4回日本GPには、米国のASNであるアメリカ自動車競技委員会英語版(ACCUS)が発行した競技ライセンスを使用した[32]。「ロバート」は自身のミドルネームで、「クラーク」は母親の姓から取っている[32]

脚注

注釈

  1. ^ 1927年5月に、ミズーリ州を含む米国中西部は竜巻の頻発という災害に見舞われ(1927年5月のアメリカ合衆国の竜巻英語版)、大きな被害をもたらしたその災害の犠牲者の一人となった[1]。母親は幼いニコルズとタクシーに乗っていた際に竜巻に襲われ、その事故で、ニコルズは負傷しつつも助かったが、母親は死去した[1]
  2. ^ ノルマンディー上陸作戦で、第一次降下を行ったニコルズは最初に撃たれた一人となり、医療テントに後送され、その翌日に医療テントもドイツ軍の砲撃を受け、その時にも負傷したという[6]。その後、マーケット・ガーデン作戦に向けてオランダ方面に飛んだため、フランスでは戦闘をした覚えがないという[6]
  3. ^ 大尉から少佐に昇進したのはある任務によるもので、ニコルズは、その任務の事はよく覚えているが何の任務だったかは言えないと述べている[11]
  4. ^ 米国だけでなく、ヨーロッパのグランプリにも出向き、F1パドックでも買い付けを行い、自動車メーカーだけではなく、日本のタイヤメーカーにも販売した[12]。日本のメーカーの多くは、競技用タイヤ、特にグランプリ用のタイヤに高い関心を持っていたが、当時はそれらを入手するルートを持っておらず(既にF1に参戦していた本田技研工業は例外)、そこにニコルズの商機があった[12]
  5. ^ プリンス自動車は、ホモロゲーション取得用にスカイラインGTを100台製造し、そのエンジン1基にウェーバー製キャブレターを3個使用した[13][W 1](1965年に発売された市販仕様のいわゆる「GT-B」にもウェーバー製キャブレターを3連で使用)。このキャブレターは1個で10数万円するもので、当時の一般的な車両価格を考えると、非常に高価だった[13]ホンダ・S600で50万円台[13]、スカイラインGTの市販価格は86万円[W 1])。そもそも資金があれば入手できるような物でもなく、生沢徹小林彰太郎浅岡重輝といった当時の自動車関係者たちは、プリンス自動車がこのキャブレターを搭載したことに非常に驚いたということを述べている[13]
  6. ^ 一般的には「全米自動車競争協会」という訳語が当てられるが、正式な組織名は「National Association for Stock Car Auto Racing, LLC(有限責任会社)」で、会社組織なので、以下「NASCAR社」と記載。
  7. ^ マネーペニーは1964年7月、モスは翌8月に来日。
  8. ^ クラークは2月の時点でオーストラリアにおり、そのことを知ったニコルズがクラークに帰路に日本に寄るよう依頼してはどうかとFISCOに提案した[15]。FISCOとしても実現するなら望外の提案であり[15]、ニコルズが日本から電話でクラークと交渉を行ったところ、あっさりと快諾が得られたという[16](ただしクラークはイギリスに一度帰国してから日本を訪れた[15])。来日したクラークにはホテルオークラの部屋が用意されていたが、宿の近所にあるニコルズの部屋(麻布ハイツ)に泊まったという[16]
  9. ^ ニコルズは日産にも協力し、R381に搭載するエンジンを探していた同社に、米国のエンジンチューナーであるムーン社を紹介し、そのシボレーV8エンジンを手配した[19]
  10. ^ 富士スピードウェイ時代にニコルズと関わった河野洋平は、ニコルズの名前は忘れたが、「ヒゲずらのアメリカ人」のことは覚えていた[27]
  11. ^ 写真提供や、来日したレース関係者へのインタビュアーとしてもしばしば協力している[29][30]。アメリカ帰国後も、ニコルズの寄稿により、シャドウの記事は同誌に頻繁に掲載されていた。

出典

出版物
  1. ^ a b c d e Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.15
  2. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.14
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae RacingOn Archives Vol.12、「ドン・ニコルズ 熱狂“裏”仕掛け人」(大月裕二郎) pp.182–187 ※初出は『Racing On No.470』 pp.76–81
  4. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.16
  5. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.17
  6. ^ a b c d e f Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.18
  7. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.19
  8. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.21
  9. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.23
  10. ^ a b c d e f Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.26
  11. ^ a b c d e Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 1 - Born To Battle」 pp.14–27中のp.27
  12. ^ a b c d Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.32
  13. ^ a b c d 別冊CG 日本グランプリ・レース 最初の10年、「第1回日本グランプリ参加者座談会」(浅岡重輝、生沢徹、塩崎定夫、杉江博愛、小林彰太郎、千葉允) pp.157–164中のp.162
  14. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.37
  15. ^ a b c d オートスポーツ特別編集 ザ・タイムトンネル・サーキット、「ドン・ニコルズという男」(久保正明) pp.86–87
  16. ^ a b オートスポーツ 1966年5月号(No.10)、「来日した世界チャンピオン ジム・クラークの2日間」(久保正明) pp.94–98
  17. ^ 日本の名レース百選 Volume 009 '67 第4回日本GP、「レースレポート」 pp.38–41中のp.41
  18. ^ オートスポーツ 1967年6月号(No.23)、「一匹オオカミとファクトリーの激闘に湧いた 日本グランプリ・レース」(久保正明) pp.17–26
  19. ^ 激闘'60年代の日本グランプリ(桂木1995)、p.86
  20. ^ オートスポーツ 1969年7月号(No.50)、「宇宙時代のニュー・グループ7」 pp.42–45
  21. ^ オートスポーツ 1969年8月号(No.51)、「“AVS・シャドー”の秘密デザイン」(ドン・ニコルズ) pp.94–95
  22. ^ オートスポーツ 1972年9/15号(No.101)、「UOP、F-1へ挑戦か?」 p.65
  23. ^ オートスポーツ 1973年1/15号(No.109)、「シャドウF-1、デビューま近か」 p.106
  24. ^ オートスポーツ 1973年2/1号(No.110)、「シャドウF-1の開発順調」(ダグ・ナイ) pp.58–59
  25. ^ オートスポーツ 1973年2/15号(No.111)、「バスタブ型ツインチューブ・モノコックを持つシャドウF-1」 pp.82–83
  26. ^ a b c オートスポーツ 1999年2/15号(No.765)、「レース史・私の報告書 第3回 光明は、実存か?」(塩澤進午) pp.120–123
  27. ^ サーキット燦々(大久保2005)、「元副社長 河野洋平は語る」 pp.319–335中のp.327
  28. ^ a b 自動車工業 1979年6月号(第155号)、「見る楽しみ」(久保正明) pp.11–15
  29. ^ オートスポーツ 1965年 Autumn(No.6)、「アメリカ・スポーツ界の話題」(Don Nichols) pp.45–93
  30. ^ オートスポーツ 1965年 Winter(No.7)、「ブラバム GTカー・レースに進出か?」(ジャック・ブラバム インタビュー、聞き手・Don Nichols、久保正明) pp.92–93
  31. ^ Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.28
  32. ^ a b Shadow(Lyons 2020)、「Chapter 2 - The Entrepreneur」 pp.28–41中のp.39
ウェブサイト
  1. ^ a b Gazoo編集部、webCG (2015年2月13日). “独創のGT-R(1969年)”. GAZOO.com. 2023年3月26日閲覧。
  2. ^ a b Stirling Moss, Shadowman & Tokyo's nightlife: the creation of Fuji Speedway” (英語). Motor Sport Magazine (2020年8月20日). 2023年3月21日閲覧。
  3. ^ David Malsher (2017年8月23日). “Obituary: Shadow team founder Don Nichols 1924-2017” (英語). Autosport.com. Autosport. 2023年3月26日閲覧。
  4. ^ CIAスパイ説、米自動車産業の対日工作員説など謎多きドン・ニコルズの功績と日本モーター史の深い縁を探る【新書紹介】”. Cars Meet Web. ネコ・パブリッシング (2021年1月14日). 2023年3月21日閲覧。

参考資料

書籍
雑誌 / ムック

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!