ジョニー・ダンフリーズ

ジョニー・ダンフリーズ
基本情報
フルネーム ジョン・コラム・クライトン=ステュアート
国籍 イギリスの旗 イギリス
(スコットランドの旗 スコットランド)
出身地 同・ビュート島ロスシー
生年月日 (1958-04-26) 1958年4月26日
没年月日 (2021-03-21) 2021年3月21日(62歳没)
F1での経歴
活動時期 1986
所属チーム '86 ロータス
出走回数 16 (15スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 3
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1986年ブラジルGP
最終戦 1986年オーストラリアGP
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第7代ビュート侯爵ジョン・コラム・クライトン=ステュアート(John Colum Crichton-Stuart, 7th Marquess of Bute, 1958年4月26日 - 2021年3月21日)は、イギリスの貴族、元レーシングドライバー。1984年イギリスF3チャンピオン、1988年ル・マン24時間レース優勝者。

1993年に爵位を継承するまでダンフリーズ伯爵英語版儀礼称号で称されていたため、ジョニー・ダンフリーズ(Johnny Dumfries)とも呼ばれる。

経歴

生い立ち

イギリスの貴族の第6代ビュート侯爵ジョン・クライトン=ステュアート英語版とその妻ベアトリス(旧姓ウィルド=フォレスター)の間の長男として生まれる[1][2]。ビュート侯爵ステュアート家はステュアート朝の最初のスコットランド王ロバート2世の私生児ジョン・ステュアート (John Stewart) を祖とするスコットランド貴族の家系であり、先祖の当主の一人に18世紀中期に英国首相を務めた第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートがいる[3]

レース活動開始

高等教育よりもモーターレーシングの世界に興味を持ち、1980年100ccカートでキャリアをスタートさせ、1981年からはフォーミュラ・フォードに参戦。同カテゴリーでは1982年まで2年間参戦した。

1983年イギリスF3にステップアップし、最高3位を記録。2年目の1984年には10勝を挙げシリーズ・チャンピオンを獲得した。また同年にはヨーロッパF3にも参戦し4勝を挙げ、チャンピオンとなったイヴァン・カペリに次ぐランキング2位となっている。なおダンフリーズに次ぐランキング3位はゲルハルト・ベルガーであった。

F3での活躍によりF1チームからも注目され始め、1985年にスクーデリア・フェラーリからオファーがあり156/85フィオラノでテストしている。一方で参戦カテゴリーはF3から国際F3000選手権にステップアップし、全11戦中6戦のスポット参戦となったが第4戦ヴァレルンガで6位入賞を記録している。

フォーミュラ1

1986年ロータスの監督ピーター・ウォーアイルトン・セナデレック・ワーウィックのラインナップでF1に参戦する計画であったが、セナが「トップドライバーが2人いると、チーム力が分散する」とワーウィック加入を拒否。このためウォー監督は急遽、F1ではルーキーとなるがF3チャンピオンであることからスーパーライセンスの確実な発給が見込めたダンフリーズに白羽の矢を立て、名門ロータス加入が決定した。セナは1983年のイギリスF3チャンピオンであり、1983年・1984年のチャンプ同士が組むこととなった。

しかしダンフリーズは全16戦中、予選ではベストグリッド8位、決勝でも入賞2回(最高位5位)に終わり、ランキングは13位。予選で8回のポールポジション、決勝で2勝を記録し、チャンピオン争いの末ランキング4位となったセナと比較すると見劣りする結果となった。特に予選の平均タイムではセナに3秒以上の遅れを取っていた。

元々エースであるセナのトップ争いに悪影響が出ないよう起用されたという経緯もあり、支給されるパーツやチーム内での立場において全てはセナを中心に動いており、ダンフリーズはぞんざいな扱いを受けていた。しかしその点を考慮してもこの成績はチームを納得させるに至らなかった。またロータスは翌年よりホンダからエンジン供給を受けることになり、それに伴いまだ86シーズンの中盤である同年8月5日の段階で中嶋悟の来季ロータス加入が発表され[4]、ダンフリーズは1シーズンのみでロータスのシートを失う。これ以後F1の実戦に出る機会は訪れなかったが、1988年よりベネトンF1チームピーター・コリンズ監督からテストドライバーの依頼を受け、3シーズン担当した[5]。役割は主にアクティブサスペンションの開発を任されてのものだった。

スポーツプロトタイプカー (グループC)

1987年は世界スポーツプロトタイプカー選手権(以下:WSPC)にジャガーで参戦、スパ1000kmで総合優勝を記録した。ル・マン24時間レースではザウバーから参戦、最終的にはリタイヤに終わったものの、ファステストラップを記録している。

1988年も引き続きWSPCに参戦。ル・マン24時間レースでは、ジャガーからヤン・ラマースアンディ・ウォレスとのトリオで参戦、総合優勝を果たした。またデイトナ24時間レースでも、エディ・チーバージョン・ワトソンと共に参戦し2位の成績を収めている。

1989年は、トムス-トヨタよりWSPC、ル・マン24時間レースに参戦。翌1990年も同様にトヨタから参戦、ル・マン24時間レースの際には、チームメイトに鈴木亜久里がいた。

1991年はトムスを離れ、クラージュ・コンペティションからル・マン24時間レースに参戦。この年もリタイヤに終わり、優勝した1988年以外は全てリタイヤという結果となった。1992年にレーサーを引退。1993年に父が死去し、第7代ビュート侯爵位を継承。日本円にして総資産1,800億円とされる一族の財産を引き継ぎ、スコットランドビュート島マウント・ステュアート・ハウス英語版カムナック英語版ダンフリーズ・ハウス英語版を住居とする[1]

2021年3月、家族から死去が公表された[6][7]

栄典

爵位/準男爵位

1993年7月22日に父ジョン・クライトン=ステュアート英語版の死去により以下の爵位を継承した[1][2]

  • 第7代ビュート侯爵(7th Marquess of Bute)
    (1796年2月21日勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第12代ダンフリーズ伯爵英語版(12th Earl of Dumfries)
    (1633年6月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第10代ビュート伯爵(10th Earl of Bute)
    (1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第7代ウィンザー伯爵(7th Earl of Windsor)
    (1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第12代エアー子爵(12th Viscount of Ayr)
    (1622年2月2日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第10代キンガース子爵(10th Viscount Kingarth)
    (1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第7代ワイト島のマウントジョイ子爵(7th Viscount Mountjoy, of the Isle of Wight)
    (1796年2月21日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第20代サンカーのクライトン卿(20th Lord Crichton of Sanquhar)
    (1488年1月29日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第12代サンカー卿(12th Lord Sanquhar)
    (1622年2月2日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第12代サンカー及びカムナックのクライトン卿(12th Lord Crichton of Sanquhar and Cumnock)
    (1633年6月12日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第10代カムラーおよびインチマーノックのマウントステュアート卿(10th Lord Mount Stuart, Cumra and Inchmarnock)
    (1703年4月14日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
  • 第8代ヨーク州ウォートレイのマウント・ステュアート男爵(8th Baron Mount Stuart , of Wortley in the County of York)
    (1761年4月3日の勅許状による創設グレートブリテン貴族爵位)
  • 第7代カーディフ城のカーディフ男爵(7th Baron Cardiff, of Cardiff Castle)
    (1776年5月20日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
  • 第12代(ビュートの)準男爵(12th Baronet, of Bute)
    (1627年3月28日の勅許状によるノバスコシア準男爵位)

子女

1984年にキャロリン・ワデル(Carolyn Waddell)と結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けた[1][2]

  • 第1子(長女)キャロライン・クライトン=ステュアート嬢(Lady Caroline Crichton-Stuart, 1984年生)
  • 第2子(次女)キャサリン・クライトン=ステュアート嬢(Lady Cathleen Crichton-Stuart, 1986年生)
  • 第3子(長男)ジョン・ブライソン・クライトン=ステュアート(John Bryson Crichton-Stuart, Lord Mount Stuart, 1989年12月21日生) - 第8代ビュート侯爵。

キャロリンと1993年に離婚。1999年にセリナ・ウェンデル(Serena Wendell)と再婚。彼女との間に以下の1子を儲けた。

  • 第4子(三女)ローラ・アフリカ・クライトン=ステュアート嬢(Lady Lola Affrica Crichton-Stuart, 1999年生)

補足

引退後、世界の富豪を紹介するテレビ番組内でダンフリーズが紹介されたことがある。この際、の内部やプール、読書などの様子が流れた。僅かではあるが、レーサーだったことにも触れられ「レースをしていた頃は毎日が刺激だったが、今は退屈でうんざりする」との発言もあった。

この内容は、日本でも『世界まる見え!テレビ特捜部』を通じて紹介された。

レース戦績

イギリス・フォーミュラ3選手権

チーム シャシ エンジン タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント 参照
1983年 アソシエイテッド ラルト・RT3 VW A A SIL
6
THR
5
SIL
Ret
DON
8
THR
7
SIL
5
THR
Ret
BRH
Ret
SIL
Ret
SIL*
Ret
CAD SNE
DNS
SIL
5
DON OUL
Ret
SIL
6
OUL THR SIL
16
THR 11位 8 [8]
1984年 DPR SIL
1
THR
1
SIL
1
ZOL
2
THR
1
THR
1
DON
1
SIL
4
SNE
1
DON
9
OUL SIL
1
SPA
7
ZAN BRH
Ret
THR
1
SIL
1
1位 106 [9]

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権

チーム シャシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1984年 デビッド・プライス・レーシング ラルト RT3 VW DON
1
ZOL
2
MAG LAC
2
ÖST SIL
1
2位 54
フォルクスワーゲン・モータスポーツ NÜR
1
MNZ
Ret
PER MUG
4
KNU
Ret
NOG
4
JAR
1

国際F3000選手権

チーム シャシ エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1985年 オニクス・レーシング マーチ・85B コスワース DFV A SIL
Ret
THR
7
EST
Ret
NÜR
C
VLL
6
PAU 16位 1
ローラ・モータースポーツ ローラ・T950 SPA
Ret
DIJ
10
PER ÖST ZAN DON
1988年 ゲイリー・エヴァンス・モータースポーツ レイナード・88D A JER VLL PAU SIL MNZ PER BRH BIR BUG ZOL
Ret
DIJ
13
NC 0

F1

所属チーム シャシー タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1986年 ロータス 98T G BRA
9
ESP
Ret
SMR
Ret
MON
DNQ
BEL
Ret
CAN
Ret
DET
7
FRA
Ret
GBR
7
GER
Ret
HUN
5
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
9
MEX
Ret
AUS
6
13位 3

ル・マン24時間レース

クラス No. タイヤ 使用車両 チーム コ・ドライバー 周回 順位 クラス順位
1987年 C1 62 M ザウバー・C9
メルセデス・ベンツ M117 5.0L V8ターボ
スイスの旗 クーロス・レーシング アメリカ合衆国の旗 チップ・ガナッシ
ニュージーランドの旗 マイク・サックウェル
37 DNF DNF
1988年 C1 2 D ジャガー・XJR-9LM
ジャガー・7.0L V12
イギリスの旗 シルクカット・ジャガー
イギリスの旗 トム・ウォーキンショー・レーシング
オランダの旗 ヤン・ラマース
イギリスの旗 アンディ・ウォレス
394 1位 1位
1989年 C1 37 B トヨタ・89C-V
トヨタ・R32V 3.2L V8ターボ
日本の旗 トヨタチーム・トムス イギリスの旗 ジェフ・リース
イギリスの旗 ジョン・ワトソン
58 DNF DNF
1990年 C1 37 B トヨタ・90C-V
トヨタ・R32V 3.2L V8ターボ
日本の旗 鈴木亜久里
イタリアの旗 ロベルト・ラヴァーリア
64 DNF DNF
1991年 C2 13 G クーガー・C26S
ポルシェ・Type-935 3.0L 水平対向6気筒ターボ
フランスの旗 クラージュ・コンペティション スウェーデンの旗 アンデルス・オロフソン
スウェーデンの旗 トーマス・ダニエルソン
45 DNF DNF

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

所属チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1988年 シルクカット・ジャガー イギリスの旗 ヤン・ラマース
イギリスの旗 マーク・ブランデル
ジャガー・XJR9 C1 FSW SUZ FSW FSW SUZ FSW
Ret
NC 0
1989年 DENSO トヨタ・トムス イタリアの旗 パオロ・バリッラ トヨタ・89C-V C1 FSW FSW FSW SUZ
Ret
FSW NC 0

脚注・出典

  1. ^ a b c d Lundy, Darryl. “John Colum Crichton-Stuart, 7th Marquess of the County of Bute” (英語). thepeerage.com. 2015年8月5日閲覧。
  2. ^ a b c Bute, Marquess of (GB, 1796)”. Cracroft's Peerage. 2019年11月25日閲覧。
  3. ^ Stewart Clan Scots Connection (2020年2月4日閲覧)
  4. ^ 走る人生 1986、夢への前夜祭 一志治夫 GPX 1991ベルギー号 12-13頁 山海堂 1991年9月14日発行
  5. ^ ベネトン・テストドライバーのダンフリーズ アクティブ・サス仕様のベネトン・B188を走らせる F1GPX 1989カレンダー号 3頁 山海堂
  6. ^ Johnny Dumfries: Ex-F1 driver & Le Mans 24 Hours winner dies aged 62 - BBC Sport・2021年3月22日
  7. ^ Ex-Formula 1 driver Marquess of Bute dies aged 62” (英語). STV News (2021年3月22日). 2021年3月26日閲覧。
  8. ^ Johnny Dumfries Racing Years 2023年9月9日閲覧。
  9. ^ Formula 3 1984 - Race Index - Great Britain”. www.the-fastlane.co.uk. 2021年1月28日閲覧。

外部リンク

グレートブリテンの爵位
先代
ジョン・クライトン=ステュアート英語版
第7代ビュート侯爵
1993年–2021年
次代
ジョン・クライトン=ステュアート
イギリスの儀礼席次
先代
第9代ハートフォード侯爵英語版
ジェントルメン英語版 次代
第9代ウォーターフォード侯爵英語版
タイトル
先代
アイルトン・セナ
イギリス・フォーミュラ3選手権優勝者
1984年英語版
次代
マウリシオ・グージェルミン
先代
デレック・ベル
ハンス=ヨアヒム・スタック
アル・ホルバート
ル・マン24時間優勝者
1988 with:
ヤン・ラマース
アンディ・ウォレス
次代
ヨッヘン・マス
マヌエル・ロイター
スタンレー・ディケンズ