モナコグランプリ
モナコグランプリ
グランドスタンドK全景。
モナコグランプリ (モナコGP 、英 : Monaco Grand Prix , 仏 : Grand Prix de Monaco )は、モナコ公国 のモンテカルロ市街地コース で行われるF1 世界選手権レースの一戦である。
F1カレンダーのなかでも最も厳しいコースのひとつと言われており[ 1] 、インディ500 、ル・マン24時間レース と並び「世界3大レース 」の1つに数えられ、F1およびモナコの象徴ともいえる名物レースとなっている。
概要
1929年 に第1回大会を開催し、第二次世界大戦 前後の中断(1938年 - 1947年 、1949年 )、1950年代前半[ 注 1] 、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行 に見舞われた2020年 を除き毎年開催されている。1950年のF1世界選手権発足時よりイギリスGP 、イタリアGP 、ベルギーGP と並んで同シリーズに組み込まれている。この内、同じコースで開催され続けているのはモナコGPのみである。
グランプリ期間中、普段は人口3万人の小国に、およそ20万人の観客が訪れる[ 2] 。モナコ王室を始めとして、政財界の協力によって行われる国家的な観光イベントでもある。多くの観客を招き入れるため、キリスト昇天祭 の祝日となる5月の2週目か3週目に日程を合わせるのが慣わしである[ 3] が、近年はF1カレンダーの過密化により、キリスト教 の復活祭 と一致しないこともある。また他のグランプリで初日となる金曜日 を休息日として木曜日からレースウィークを始めるという伝統があったが、2022年からは他のグランプリ同様の金曜日開始スケジュールとなった。近年はインディ500 と同日に開催されることが多くなっていたが、日程が重なることを避けるため、2026年からモナコGPは6月の最初の週末に開催されることとなった[ 4] 。
レースの舞台となるのは、モナコのモンテカルロ区 とラ・コンダミーヌ区の公道を閉鎖して造られた1周3,337 mのモンテカルロ市街地コース である。現在のF1レースでは「305 kmを超える最低の周回数」がレースの規定周回数・総走行距離として定められているが、このコースでは例外として、総走行距離が1973年 [ 注 2] から約260 km(78周[ 注 3] )に減らされている。この約260 kmという距離は、このコースをF1マシンで走行し続けるとこれぐらいの距離で2時間以内に収まるから、という理由で決められている[ 注 4] 。コースの設営準備には6週間、レース後の撤去作業には2週間を要する[ 2] 。
F1開催を希望する国が増加していることもあり、開催権料も特例的に安く設定されている本GPが外される可能性も囁かれたが、2024年11月14日に2031年 までの開催契約が結ばれた[ 5] 。
レースの特徴
コース幅が非常に狭いためレース中の追い抜きは困難であり、他のコースに増して予選結果が重要視される。レース中はペースの遅いマシンの後方に数台が数珠繋ぎとなり、無理な追い抜きで接触する場面がよく見られる。ポールポジション を獲得したドライバーがそのまま優勝することが多く、2024年現在で31回ポール・トゥ・ウィン が達成されている。本グランプリ開始数年後の1933年にグリッド の決め方がくじ引きから現在の方式である予選タイムの早い順に変更されているが、これもこのコースが追い抜き困難で不公平であるからという理由による。
伝統と華やかさに加え、高い技量と集中力を要する難コースであることから、「モナコGPの優勝は3勝分の価値がある[ 6] 」といわれる。ここで際立って強いドライバーは「モナコ・マイスター 」と賞賛されることがあり、スターリング・モス (3勝)、グラハム・ヒル (5勝)、ジャッキー・スチュワート (3勝)、アラン・プロスト (4勝)、アイルトン・セナ (6勝)、ミハエル・シューマッハ (5勝)、ニコ・ロズベルグ (3勝)といった名手が挙げられる(後述の#優勝回数 も参照)。
ファン・マヌエル・ファンジオ は出走4戦中2勝をあげ、4戦全てでポールポジション とファステストラップ を記録している。一方、ジム・クラーク は出走6戦中4回ポールポジションを獲得しながら、4位が最高で1勝もできなかった。
事故の起きやすい環境や、マシンにも過酷で機械の故障が発生しやすいことから、優勝候補がリタイアするなど波乱の展開が繰り広げられることもあり、意外なチームやドライバーが優勝することもある。過去9名のドライバーがこのコースでF1初優勝を遂げており、初優勝が出やすいコースでもある。
起源
1931年のモナコGPで優勝したルイ・シロン
モナコGPの主催者であるモナコ自動車クラブ (Automobile Club de Monaco, ACM ) は、1890年 にモナコ自転車クラブとして発足した。1925年に自動車クラブに改名し、国際自動車連盟 (FIA) の前身である国際自動車公認クラブ協会 (AIACR) に登録申請を行った。1911年 よりラリー・モンテカルロ を開催していたため、問題なく加盟できると考えていたが、ラリーで使用しているコースのほとんどは隣国のフランス国内で行われており、レース開催経験の無さを理由に申請を却下された。
ACM会長アレクサンドル・ノゲの息子アントニー・ノゲ は、モナコの街路を使用してレースを開催する計画を立てた。当時の公道レースはもっぱら郊外の田舎道で行われており、市街地でのレース運営は無謀に思われた。しかし、モナコ大公 ルイ2世 や、高級ホテル ・カジノ を経営するソシエテ・デ・バン・ド・メール社 (英語版 ) (SBM)の理解を得て1929年 の第1回開催にこぎつけ、モナコ自動車クラブはAIACRに加盟を認められた。功労者であるノゲの名は、英語読みの「アントニー・ノウズ」として最終コーナーの名称に残されている。
コースデザインにはモナコ出身のドライバールイ・シロン が協力した。シロンはインディ500 出場を優先したため第1回大会は不参加だったが、第3回大会で優勝している。また、引退後は競技委員長を務め、シグナル式スタートが採用されるまでスタート/チェッカーフラッグを振った。シロンの名もプールサイドベントの入口のコーナーに残されている。
権威
上流階級の世界
通例では、各国のGP主催者はF1の商業管理団体であるフォーミュラワン・マネージメント (FOM) に莫大な開催権料を支払い、コースサイドの看板広告の収入もFOMに納めねばならない。モナコGPの主催者であるACMは、特例として開催権料を免除または減額されている上に、看板広告収入も手にしている[ 7] 。モナコGPは2007年 まで、ヨーロッパ で唯一たばこ広告 規制のないレースであった。
高級リゾート という土地柄、富裕層の人々は高級ホテルや自宅アパートのバルコニーや、港に停泊する豪華なクルーザー の甲板、「Formula One Paddock Club 」といった特等席からレースを観戦している。期間中、ホテルの宿泊料金は軒並み跳ね上がるが、予約の時点で満室になる上に、高級ホテルの多くは最低5日から7日以上の連続宿泊を条件とする。
一般観戦者は近隣のニース やイタリア方面の街に宿をとり、自家用車やフランス国鉄 (SNCF) に乗ってモナコ入りする。一番安い観戦ポイントは、最終コーナーを見下ろす断崖の立見席である。
モナコ公国は所得税 非課税のタックス・ヘイヴン として知られる。外国人が居住するためには審査が必要となるが、F1ドライバーは名士として優遇されている。税金対策の他、治安が良い、プライバシーが守られる(有名人でも特別視されない)などの理由から、スイス と並んで居住地として人気があり、モナコGP期間中はドライバー達がマンションから「自宅通勤」する光景が見られる。2000年 と2002年 のウィナーであるデビッド・クルサード は、最高級ホテル「コロンバス・モンテカルロ」の共同経営者という副業を持っていた。
レースウィーク中にはモナコ大公 主催のパーティが開かれ、ドライバーやチーム関係者をはじめ、世界中のセレブリティ が参加する。また、2010年までモータースポーツ シーズンの終了後にFIA傘下各カテゴリのチャンピオンを集めての表彰式が毎年モナコで行われていた。
表彰式
モナコGPはモナコ王室が観覧する御前レースであり、かつては大公レーニエ3世 と大公妃グレース・ケリー がオープンカー でパレード走行を行っていた。レース後の表彰式もロイヤルファミリーが出席するため、他のグランプリとは手順が大きく異なる。
ホームストレートのスタート地点付近に2階建てのロイヤルボックスがあり、階下に表彰ステージが設けられている。
レース終了後、4位以下はピットの車両保管所にマシンを止めるが、1~3位の3台はロイヤルボックスの前にマシンを停める。ドライバー3名はコースから階段を上って表彰ステージに立つ。
ロイヤルファミリーの前に3名が並び、プレゼンターである大公(現在はアルベール2世 )からトロフィーを受け取る。
シャンパン は表彰ステージ上で開封してはいけない。シャンパンファイト はステージからコースに下りてから行い、ステージ方向へシャンパンを向けることは厳禁(2019年まで)。
表彰台に関しては、大公よりも高い位置にドライバーが立つことが失礼であるとして、特別な台は設けず表彰ステージの最前列に、通常の表彰台と同じ配置でドライバーと優勝コンストラクター代表者が整列する。シャンパンに関しては、大公夫妻にシャンパンがかからないようにするため、大公の目の前での乱痴気騒ぎは失礼にあたるため、である。一国の元首から栄誉を称えられるというところも、このレースの優勝が価値あるものと見做されている理由の一つである。ただ2021年以降は、ドライバーがコースに下りることは無くなり、表彰ステージ上でシャンパンファイトを行っている。
1987年 の優勝者アイルトン・セナ は、事前にチーム側 から上記の注意をされていたが、モナコ初優勝の喜びにそのことを忘れ、トロフィー授与終了直後にステージ上でシャンパンを開封した。さらに、背後にいたレーニエ3世 らロイヤルファミリーに向かってシャンパンをかけてしまい、式典終了後に各方面から非難を受けた。
2009年 の優勝者ジェンソン・バトン は手順を知らず(後にマーシャルの誘導ミスと判明)、ウィニングラップ後ピットに戻ってしまった。バトンは車両保管所でそのことを知らされ、ホームストレートを駆け足で表彰ステージに向かった。
2024年 の表彰式では、自身初の母国優勝となったシャルル・ルクレール を祝し、アルベール2世自身がシャンパンファイトに参加した(なぜかアルベール2世用のシャンパンも用意されていた)[ 8] 。
過去のおもな出来事
1929年 - 初開催。ブガッティ に乗るウィリアム・グローバー=ウィリアムズ が優勝した。初優勝者を記念して、1991年にサン・デボーテ(第1コーナー)に彼の銅像が立てられた。
1931年 (英語版 ) - モナコ出身のルイ・シロン が地元優勝を果たした。
1932年 (英語版 ) - 4回目の開催で初めてブガッティ以外の車両が勝利。アルファロメオ のタツィオ・ヌヴォラーリ が優勝したものの、直後を同じアルファロメオで走っていたルドルフ・カラツィオラ は車両にトラブルが出ていたヌヴォラーリを故意に抜かずに2番手をキープしたままゴールし、八百長ではないかとレース後に物議を醸した。
1933年 (英語版 ) - この年から決勝レースのグリッドポジションをくじ引きではなく練習走行のタイムを基準に決める方式に変更。その練習走行のタイムアタックでトップを争っていたルドルフ・カラツィオラがタバココーナーの壁でクラッシュし、右足に深刻な重傷を負う事故が発生。
1936年 (英語版 ) - 豪雨の中の開催となる。ルドルフ・カラツィオラが2位に2分近いタイム差をつけ、3位以下を周回遅れにする圧勝。
1950年 - F1世界選手権開幕2戦目として開催。1周目にブラインドコーナーで多重事故が発生したが、優勝したファン・マヌエル・ファンジオ はコースサイドの群集の動きから危険を察知し、接触を回避した。
1952年 (英語版 ) - スポーツカーレースとして開催。トンネルでの事故で負傷したルイジ・ファジオーリ が入院中に死亡。
1955年 - この年以降はF1の選手権として開催される。アルベルト・アスカリ のマシンがシケイン付近で海中に転落したが、無事救助される[ 注 5]
1961年 - スターリング・モス がフェラーリ の2台を振り切り、モナコ通算3勝目を達成。モスのレースキャリアにおいてベストレースのひとつにあげられる。
1963年 - グラハム・ヒル がモナコ初優勝。以後1964年、1965年、1968年、1969年と5勝を獲得し、「ミスターモナコ」と呼ばれる。
1965年 - ポール・ホーキンス (英語版 ) のマシンがアスカリと同様にシケインから海に転落、その後無事救助された。
1966年 - エンジンの最大排気量が3リッターに変更された最初のレースとして開催。完走と認められたのは僅か4台で、2023年 現在でもF1最少完走台数の記録を保持している。
1967年 - ロレンツォ・バンディーニ のマシンがシケインで炎上。バンディーニは火傷により3日後に死亡。
1970年 - 最終ラップの最終コーナーでジャック・ブラバム が痛恨のスピンを喫し、ヨッヘン・リント が大逆転優勝。
1982年 - 終盤に上位が次々脱落し、リカルド・パトレーゼ がF1初優勝。
1984年 - 大雨により赤旗終了。ルーキーアイルトン・セナ とステファン・ベロフ の追走が注目される。またこのレースでセナは初のファステストラップを記録している。
1988年 - トップ独走中のセナがポルティエ(第8コーナー)で単独クラッシュ。
1992年 - ナイジェル・マンセル が1位、セナが2位を走行していたが、レース終盤にマンセルがタイヤ交換で2位に後退してセナが1位に。ピットアウトしたマンセルがセナを猛追するモナコGP史に残るデッドヒートを展開したが、セナが抑え切って4連覇、5回目の優勝を達成。アクティブサスペンションによる圧倒的な競争力を誇ったウィリアムズのマシンを制した大金星。
1993年 - セナがモナコGP5連覇、並びにヒルの記録を塗り替えるモナコ通算6回目の優勝を達成。
1994年 - 前戦サンマリノGP で事故死したセナとローランド・ラッツェンバーガー への哀悼の意を表して1・2番グリッドを空席とし、路面に両ドライバーの母国の国旗をペイントした。 予選中、カール・ヴェンドリンガー がシケインのバリアに激突。一時意識不明となる。ミハエル・シューマッハ が自身初のポールポジション からモナコGP初制覇。
1995年 フリー走行でマシンがストップしたために、井上隆智穂 が乗車しながらロープで牽引されている最中、突然飛び出してきたオフィシャルカー(ジャン・ラニョッティ が運転していた)に衝突されマシンが横転した。その様子をモニターで見ていたシューマッハは大笑いした。また、そのシューマッハのドライブによりルノー エンジンが念願のモナコGP初制覇を達成。
1996年 - 雨中の乱戦でオリビエ・パニス がF1初優勝。リジェ に搭載された無限 エンジンにとってもF1初優勝。チェッカーを受けたのは僅か3台で、完走扱いを含めても7台のサバイバルレースとなった。
2004年 - ルノーのヤルノ・トゥルーリ が自身初のポール・トゥ・ウィンでF1初優勝。ルノーエンジン9年ぶりのモナコ制覇(ルノーワークスとしては初)。またこのトゥルーリ以降モナコGPで初優勝を達成したドライバーは2019年モナコGP終了時点では出ていない。
2006年 - 予選中、シューマッハがラスカス(第17コーナー)に故意にマシンを停め、後続のフェルナンド・アロンソ やマーク・ウェバー らのアタックを妨害したとして予選記録を無効抹消とされ、最後尾ピットからのスタートとなった(俗に言う「ラスカス・ゲート[ 9] 」ないしは「ラスカス事件[ 10] 」)。
2007年 - ワン・ツー・フィニッシュしたマクラーレン にチームオーダー 疑惑発生(チームオーダーは2010年 まで禁止だった)。
2008年 - 雨の決勝レース、フロントロウを独占したフェラーリの2台は奮わず、3番手スタートのルイス・ハミルトン が序盤のタイヤをパンクさせるミスを挽回しモナコGP初制覇。一時、非力なマシンで表彰台目前の4位まで浮上する活躍を見せたフォース・インディア のエイドリアン・スーティル だったが、キミ・ライコネン に追突されてリタイヤし男泣き。
2009年 - この年に台風の目となったブラウンGP がこのGPでも危なげなくワン・ツー・フィニッシュを決めるが、優勝したバトンはモナコのしきたりを知らず前述の珍事を起こす。
2010年 - レース終了直前に2台のマシンの衝突によりセーフティカーが入り、セーフティカー先導でレースが終了することに。しかしこの年セーフティカー退出時のルールが変更され、セーフティカーがピット入口のラインを越えた時点から追い抜きが可能となっていた。この年メルセデス から復帰したシューマッハはこれを利用し、最終ラップでセーフティカーが退出するや否やコントロールラインまでのわずかな間に前のアロンソをオーバーテイク。しかしこれは明らかなルール違反で20秒加算のペナルティを受けた。この一件がセーフティカー退出時のルールが再考されるきっかけとなった。[ 11] また、決勝レースで単独クラッシュしたルーベンス・バリチェロ が苛立ちのあまり、マシンから出る際にステアリングホイールをコース上に投げ捨て、危険行為と高価な代物を粗末に扱ったことで非難された。ステアリングホイールは外装が傷ついただけで済んだ。
2011年 - 予選Q3でザウバー のセルジオ・ペレス がトンネル出口でバランスを失いヌーベルシケイン入口のバリアに高速で衝突。マシンは大破、ペレスは脳震盪を起こして決勝レースと次戦カナダGP を欠場し、カナダGPではペドロ・デ・ラ・ロサ が代役を務めた。セバスチャン・ベッテル がモナコGP初制覇。
2013年 - メルセデスのニコ・ロズベルグ が優勝し、父ケケ・ロズベルグ が1983年に優勝してから30年越しで親子2代でのモナコGP優勝を達成。
2014年 - 予選Q3の終盤にロズベルグがミラボー(第5コーナー)でオーバーランしてエスケープロードにマシンを止め、イエローフラッグが振られる。これによりアタック中だったハミルトンはアタックを断念、ロズベルグがポールポジションを獲得し、決勝でロズベルグがポール・トゥ・ウィンを飾り2連覇するも物議を醸す。
2015年 - レース終盤に2台のマシンの衝突によりセーフティカーが入る。ポール・トゥ・ウィンを目指していたハミルトンは、後続のロズベルグやベッテルもこのタイミングでピットに入ると考えタイヤ交換のためピットインしたが2台はステイアウト。なんと戻った場所は彼らに続く3番手の位置だった[ 12] 。ハミルトンはこの自滅によって3位でレースを終え、ロズベルグは図らずもF1史上4人目のモナコGP3連覇を達成した。
2016年 - このGPで改良型のルノーパワーユニット を積んだレッドブル のダニエル・リカルド がチーム久々かつ自身初のポールポジションを獲得し、雨の中スタートした決勝もこのまま優勝かと思われた。しかし雨が上がってきた終盤、2位のハミルトンのタイヤ交換(ウェットからウルトラソフトに交換)を見たレッドブル陣営はリカルドの交換タイヤを直前で「ソフト」から「スーパーソフト」に変更。しかしガレージに適切に情報伝達されず、リカルドがピットインした時にタイヤが用意されていなかった[ 13] 。このピットでのタイムロスによりリカルドはハミルトンに順位を明け渡す形となって2位でレースを終え、怒りと失意を口にした[ 14] 。
2017年 - 予選でライコネンが自身2008年フランスGP 以来のポールポジションを獲得し、フェラーリがフロントロウを独占。決勝ではチームオーダーによりベッテルがライコネンを逆転して優勝。これは自身にとって6年ぶりのモナコGP優勝、チームとしては2001年以来16年ぶりのモナコGP優勝、及び2010年ドイツGP 以来のワン・ツー・フィニッシュとなった。
2018年 - コースレコードを塗り替える走りで自身2度目のポールポジションを獲得したリカルドだったが、決勝では19周目でMGU-K の故障により180馬力を失い、回生ブレーキが効かなくなったことに伴うリアブレーキの加熱、その上柔らかいウルトラソフトタイヤでロングランを強いられるという苦境に立たされた。しかし手負いのマシンで逃げ切って優勝し2016年の雪辱を果たした[ 15] 。
2019年 - 元F1王者でメルセデスの重役を務め、前週の5月20日に亡くなったニキ・ラウダ をF1全体で追悼。決勝スタート前にドライバー達は彼のトレードマークだった赤いキャップを着けて黙祷し、メルセデスは特別に1戦限りの赤いハロ を2台のマシンに着けて臨んだ。 決勝はポールからスタートしたハミルトンがチームの選択ミスにより終盤タイヤを使い果たしていたが、マックス・フェルスタッペン のテール・トゥ・ノーズの猛追を辛くも抑え切り優勝[ 16] (フェルスタッペンは5秒加算ペナルティで4位に降格)。自身をメルセデスに引き入れたラウダの死去に人一倍ショックを受けたハミルトン[ 17] にとっては、ラウダに捧げる特別な勝利となった。
2020年 - 1月下旬より新型コロナウイルス の感染が世界に拡大し、各国で多くのスポーツ大会が中止する決断が行われた。F1も例外でなく、当初は計画上の第4戦に開催予定であった中国GPの開催延期のみにとどまっていたが、開幕戦オーストラリアGPの中止をきっかけに5月までに開催されるレースはすべて延期が決定した。そして3月19日(UTC)、当初は延期にとどまっていたモナコGPだったが、主催者は今年のレースを中止にすると発表。そのため、1955年にF1レースとして始まって以来66年ぶりの開催中止となった。
2021年 - フェラーリのシャルル・ルクレール が母国レースで自身初、チームとしても久々のポールポジションを獲得したが予選最終アタックでクラッシュ[ 18] 。ドライブシャフトにトラブルが出て決勝レースをスタートできなかった[ 19] 。 ポールシッターが不在となったレースはフェルスタッペンが支配し、ホンダに1992年以来29年ぶりのモナコGP優勝をもたらした。メルセデスのハミルトンが奮わずボッタスがリタイアしたことで、自身及びレッドブル・ホンダ体制になってから初のドライバーズ・コンストラクターズの両方でポイントリーダーとなった[ 20] 。 リタイアしたボッタスだが、ピットでのタイヤ交換の際にホイールナットの角をホイールガンで削ってしまい(俗に言う「なめる」)、ホイールを外せなくなるという前例の無いトラブルに見舞われた。そのためマシンは一度イギリスに送り返され、ファクトリーでホイールを外す作業が行われた[ 21] 。
2022年 - 雨の中スタートした決勝レース26周目にハース のミック・シューマッハ がプールサイドシケインで単独クラッシュした際、マシンがリヤセクションが離断するほど大破した。低速コースとしては異例の大きな破壊度であったためドライバー達はこれを深刻視し、検証と対策を求める声を上げた[ 22] 。 決勝レースは、フェラーリが予選でフロントロウを独占していながらピット戦略の度重なる混乱によりレッドブルの先行を許し、前年に移籍したペレスがモナコGP初勝利[ 23] 。しかし、予選Q3でペレスがクラッシュしフェルスタッペンのアタックを妨害する形になった件は、シーズン終盤にルクレールとドライバーズランク2位を争ったペレスを優位にするためにサンパウロGP において出されたチームオーダーをフェルスタッペンが頑なに拒否することにつながり、2人の間に亀裂を生むきっかけとなった[ 24] 。
2023年 - 車体規則が変更された前年、メルセデスは他チームと異なる極小のサイドポッド「ゼロポッド」を採用したが、ここに至るまで戦闘力と挙動安定性を著しく欠き、ついにこのGPから他チームと同様のサイドポッドを導入した。このマシンはハミルトンがフリー走行でクラッシュした際に奇異に映るほど高くクレーンで持ち上げられ[ 25] 、グラウンドエフェクトカーの肝であるアンダーフロアが早速「公開」された。メルセデス代表のトト・ヴォルフ は「クレーン操縦者はシルク・ドゥ・ソレイユ 出身だったのだろう」と揶揄し苦笑いした[ 26] 。また、予選Q1でクラッシュしたペレスのマシンも同様に高々と持ち上げられ、最速マシン『レッドブル・RB19 』の戦闘力の秘訣の一端が露わになることとなった[ 27] 。
2024年 - 決勝レーススタート直後、後方スタートとなったペレスとハースのケビン・マグヌッセン がボー・リバージュ(第2コーナー)へのアプローチの際に並びかけて接触し、同じくハースのニコ・ヒュルケンベルグ を巻き込んで3台が衝突・大破する大クラッシュに発展し一時赤旗中断となる[ 28] 。ルクレールが1931年のルイ・シロン 以来、F1では初となる母国グランプリ初優勝をポール・トゥ・ウィンで飾り[ 29] 、2021年、2022年の雪辱を果たした。レッドブルはフェルスタッペンもこの週末奮わず、ライバルの戦闘力向上も相まって「低速でバンピーなコースに弱い」マシンの弱点を再び露呈させた[ 30] 。
過去の結果
F1世界選手権レース開催前(1929年-1949年)
F1世界選手権レース開催後(1950年-)
★は初優勝。☆はその年のドライバーズチャンピオン 。■はポール・トゥ・ウィン
過去のコースレイアウト
1929-1971
1972
1973-1975
1976-1985
1986-1996
優勝回数
ドライバー
アイルトン・セナ が最多の6勝を挙げている。
(2勝以上)
回数
ドライバー
優勝年
6
アイルトン・セナ
1987 , 1989 , 1990 , 1991 , 1992 , 1993
5
グラハム・ヒル
1963 , 1964 , 1965 , 1968 , 1969
ミハエル・シューマッハ
1994 , 1995 , 1997 , 1999 , 2001
4
アラン・プロスト
1984 , 1985 , 1986 , 1988
3
スターリング・モス
1956 , 1960 , 1961
ジャッキー・スチュワート
1966 , 1971 , 1973
ニコ・ロズベルグ
2013 , 2014 , 2015
ルイス・ハミルトン
2008 , 2016 , 2019
2
ファン・マヌエル・ファンジオ
1950 , 1957
モーリス・トランティニアン
1955 , 1958
ニキ・ラウダ
1975 , 1976
ジョディー・シェクター
1977 , 1979
デビッド・クルサード
2000 , 2002
フェルナンド・アロンソ
2006 , 2007
マーク・ウェバー
2010 , 2012
セバスチャン・ベッテル
2011 , 2017
マックス・フェルスタッペン
2021 , 2023
コンストラクター
(2勝以上)
回数
コンストラクター
優勝年
15
マクラーレン
1984 , 1985 , 1986 , 1988 , 1989 , 1990 , 1991 , 1992 , 1993 , 1998 ,2000 , 2002 , 2005 , 2007 , 2008
11
フェラーリ
1952 , 1955 , 1975 , 1976 , 1979 , 1981 , 1997 , 1999 , 2001 , 2017 ,2024
8
メルセデス
1935 , 1936 , 1937 , 2013 , 2014 , 2015 , 2016 , 2019
7
ロータス
1960 , 1961 , 1968 , 1969 , 1970 , 1974 , 1987
レッドブル
2010 , 2011 , 2012 , 2018 , 2021 , 2022 , 2023
5
BRM
1963 , 1964 , 1965 , 1966 , 1972
4
ブガッティ
1929 , 1930 , 1931 , 1933
3
アルファロメオ
1932 , 1934 , 1950
マセラティ
1948 , 1956 , 1957
クーパー
1958 , 1959 , 1962
ティレル
1971 , 1973 , 1978
ウィリアムズ
1980 , 1983 , 2003
2
ブラバム
1967 , 1982
ベネトン *
1994 , 1995
ルノー
2004 , 2006
エンジン
(2勝以上)
回数
メーカー
優勝年
15
メルセデス *
1935 , 1936 , 1937 , 1998 , 2000 , 2002 , 2005 , 2007 , 2008 , 2009 ,2013 , 2014 , 2015 , 2016 , 2019
13
フォード **
1968 , 1969 , 1970 , 1971 , 1973 , 1974 , 1977 , 1978 , 1980 , 1982 ,1983 , 1993 , 1994
11
フェラーリ
1952 , 1955 , 1975 , 1976 , 1979 , 1981 , 1997 , 1999 , 2001 , 2017 ,2024
7
ホンダ ***
1987 , 1988 , 1989 , 1990 , 1991 , 1992 , 2021
6
ルノー
1995 , 2004 , 2006 , 2010 , 2011 , 2012
5
クライマックス
1958 , 1959 , 1960 , 1961 , 1962
BRM
1963 , 1964 , 1965 , 1966 , 1972
4
ブガッティ
1929 , 1930 , 1931 , 1933
3
アルファロメオ
1932 , 1934 , 1950
マセラティ
1948 , 1956 , 1957
TAG ****
1984 , 1985 , 1986
2
RBPT / ホンダ ・RBPT ***
2022 , 2023
脚注
注釈
^ 1951・1953・1954年は開催せず。1952年はF1ではなくスポーツカーレースとして開催。
^ この年セクションの後半にプール、ラスカス、アントニー・ノーズが追加された。
^ 1967年までは約318km(100周)、1968年から1972年まで約251.6km(80周)。
^ 現在の競技規則では規定周回数に達するか、2時間(赤旗中断を含めた場合は3時間)を超えた最初の周でレースが成立する。
^ しかし、この4日後にモンツァ でスポーツカーのテスト走行中に事故死。
^ a b c 1931年-1932年および1935年-1939年に行われた四輪モータースポーツにおける最高峰の選手権。現在のF1世界選手権の前身にあたる。モナコグランプリが選手権の一戦として開催されたのは1935年-1937年。
出典
関連項目
外部リンク
2025年 に開催されるGPかつて開催されていたGP 開催に至らなかったGP