1989年日本グランプリ(1989 Japanese Grand Prix)は、1989年F1世界選手権の第15戦として、1989年10月22日に鈴鹿サーキットで決勝レースが開催された。
概要
マクラーレンのチームメイト同士のドライバーズチャンピオン争いは、アラン・プロストが81ポイント(有効得点では76ポイント)、アイルトン・セナが60ポイントというプロスト有利の状況で日本GPを迎えた。このレースでセナが優勝(9ポイント)を得られないと、最終戦を待たずプロストの3度目のチャンピオンが決定する。両ドライバーには2台ずつシャーシが用意され、ホンダV10エンジンは高出力型の「スペック4」と中低回転域トルク型の「スペック5」のいずれかを選択できる体制が用意された。
ミナルディのピエルルイジ・マルティニが肋骨を傷めて欠場し、代役として全日本F3000に出場しているパオロ・バリッラがF1デビューした。
予選
セナは1987年の日本GP予選でフェラーリのゲルハルト・ベルガーが記録したレコードタイムを大きく更新し、2年連続して日本GPのポールポジションを獲得した。予選2位のプロストは1.730秒という大差をつけられた。
セカンドローにはフェラーリのベルガーとナイジェル・マンセルが並んだ。3位のベルガーはプロストと0.4秒差だったが、最終アタックで予選用タイヤが1周持たずタイムロスした。5・7位のウィリアムズ勢の間にはベネトンのアレッサンドロ・ナニーニがつけた。予備予選から進出したローラ(ラルース)のフィリップ・アリオーが8位、オゼッラのニコラ・ラリーニが10位に食い込む健闘を見せた。
日本勢はロータスの中嶋悟がチームメイトのネルソン・ピケに次ぐ12位。昨年の予選のピケ5位、中島6位と同じく同チームで2人が並ぶ形となった。前年の日本GPでF1デビューしたザクスピードの鈴木亜久里は予備予選落ちとなり、シーズン初の決勝出場は成らなかった。初の母国GPとなるヤマハエンジンは、鈴木の同僚ベルント・シュナイダーが開幕戦以来の決勝出場を果たした。
結果
予備予選
予選本選
決勝
展開
プロスト先行
スタートではプロストがアウト側の2番グリッドから絶妙なスタートを決め、トップで1コーナーに進入した。セナはベルガーにも並ばれかけたが、プロストに続く2位をキープした。ナニーニが4位にジャンプアップし、セミATの問題を抱えるマンセルは6位に後退した。1周目にはミナルディの2台とシュナイダーが早くも姿を消した。
プロストは快調に走行し、10周目にはセナに対して4秒のリードを築いた。以下、ベルガー、ナニーニ、マンセル、パトレーゼがそれぞれ5秒前後の間隔で続いた。中団ではステファノ・モデナ(ブラバム)、ピケ、中嶋の9位争いに、後方からジャン・アレジ(ティレル)、エマニュエル・ピロ(ベネトン)が絡んで激しいバトルとなった。20周前後に各チームのピットストップが行われた。
プロストとセナの差は、周回遅れの処理なども絡んで、30周目には2秒ほどになった。3位のベルガーは34周目にギアトラブルが発生し、スローダウンしてピットに戻った。43周目にはチームメイトのマンセルも白煙を吹きながらストップした。ナニーニが単独3番手を走行するが、優勝争いの2台からは1分近く離されている。ピケやアレジと9位争いをしていた中嶋はタイヤ交換時に順位を落とし11番手を走行していたが、エンジンのオーバーヒートにより41周目にリタイアした。また中嶋と順位を争っていたアレジも37周でリタイアした。
シケインでの接触
残り10周を切る頃にはプロストの背後にセナが肉薄し、オーバーテイクのタイミングを窺う展開となった。決勝前、プロストはウィングを寝かせてストレートスピードを稼ぐセッティングに変更しており、セナがシケインで差を詰めると、プロストが最終コーナーからホームストレートにかけて引き離すというラップが続いた。
残り6周となった47周目、セナは130R立ち上がりで勝負を仕掛け、シケインへのアプローチでブレーキを遅らせプロストのインに飛び込んだ。プロストは一瞬虚を突かれたが、すかさずステアリングをイン側へ切り込んだ。セナはブレーキングでイン側の優位を確保していたが真横には並んでおらず、プロストにラインを被せられた。2台のマクラーレンは接触し、ホイールを絡ませたままコース上に停車した[3]。プロストは掌を上にかざすジェスチャーを見せ、対照的にセナは両手でヘルメットを抱えた。
プロストは直ちにマシンを降りてリタイアしたが、セナはコースマーシャルにコース復帰を補助するよう指示した。押し掛けによりエンジンが再始動し、セナはシケインの退避路を通過してトップのままコースに復帰した[3]。しかし、接触でフロントウィングが破損したため、1周後にピットインしてノーズコーンの交換作業を行った。リタイアしたプロストはマクラーレンのピットに戻らず、コントロールタワーに向かった。
一連のタイムロスにより、ベネトンのナニーニがトップに浮上したが、セナが猛追し、51周目のシケインでインを突いた。ナニーニはブレーキロックしながらも無理には抵抗せず、セナがトップを奪回し、53周目のチェッカーを先頭で受けた。
レース後
セナがトップでチェッカーを受けたものの、プロストの抗議を受けてコントロールタワーでは審議が続けられ表彰式のスケジュールは遅れた。20分後に発表された公式結果では、セナは「シケイン不通過」のレギュレーション違反により失格と判定され、ナニーニの繰り上がり優勝が決定した。
マクラーレンはこの判定を不服として控訴し、FIA国際控訴審判所が10月末に裁定を下すまで、ナニーニの優勝とプロストの3度目のワールドチャンピオンは「暫定」扱いとなった。その後日本グランプリの次に行われたオーストラリアグランプリでセナがリタイアしたため、この審理の結果を問わずプロストのチャンピオンが確定。その後のFIAの審理の結果、「レース中のエンジン押し掛け」によりセナの失格が確定した。これについてモータースポーツジャーナリストの柴田久仁夫とルイス・バスコンセロスは、この時FIA会長で来日中だったジャン=マリー・バレストルが公然とスチュワード(審議委員)の裁定に介入しており、当時のスチュワードでバレストルに盾突ける人間はいなかったと指摘している[4]。
ナニーニはF1参戦4年目にして初優勝を達成し、ベネトンチームとしても1986年メキシコGP以来の2勝目となった。2、3位はパトレーゼとブーツェンが獲得し、コンストラクターズランキングではウィリアムズがフェラーリを抜いて2位に浮上。ピケはエンジンから煙を吐きながら4位に入賞。以下、ブラバムのマーティン・ブランドルとアロウズのデレック・ワーウィックまでがポイントを獲得した。出走26台中、完走したのは10台だった。
結果
データ
大会
- 大会名 - 1989年 FIA F1世界選手権 フジテレビジョン 日本グランプリ (1989 FIA Formula One World Championship Fuji Television Japanese Grand Prix)
- 開催日 - 1989年10月20日 - 10月22日
- 開催地 - 鈴鹿サーキット
- 主催 - 鈴鹿サーキットランド/鈴鹿モータースポーツクラブ
- レース距離 - 310.527km(5.859km×53LAP)
- 決勝日天候 - 曇り
記録
- ポールポジション - アイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ) 1分38秒041
- 優勝 - アレッサンドロ・ナニーニ(ベネトン・フォード) 1時間35分6秒277
- アイルトン・セナが記録した 1時間35分3秒980 は失格により無効
- ファステストラップ - アラン・プロスト(マクラーレン・ホンダ) 1分43秒506 (LAP43)
- アイルトン・セナが記録した 1分43秒025 (LAP38) は失格により無効
- ラップリーダー
- アラン・プロスト(LAP1 - 20, 24 - 46)
- アイルトン・セナ(LAP21 - 23, 47 - 48, 51 - 53)
- アレッサンドロ・ナニーニ(LAP49 - 50)
脚注
- ^ a b “1989 Japanese Grand Prix” (英語). Formula1.com. 2012年2月3日閲覧。
- ^ a b “GP 1989 Results”. ESPN F1. 2012年2月2日閲覧。
- ^ a b “Senna and Prost's Suzuka showdown | 1989 Japanese Grand Prix”. FORMULA 1 2015-05-13. 2024年4月24日閲覧。
- ^ AUTOSPORT No.1561、14-15頁。
参考文献
- 柴田久仁夫「F1ジャーナリスト座談会 ダークサイドの境界線 」『AUTOSPORT No.1561』2021年10月15日号、三栄書房、2021年、14-15頁。
関連項目