ロバート・ユゼフ・クビツァ (Robert Józef Kubica , 1984年 12月7日 - )は、ポーランド共和国 クラクフ 市出身のレーシングドライバー 。
ワールド・シリーズ・バイ・ルノー およびWRC2 の初代チャンピオンで、ポーランド人 初のF1 ドライバーである。
姓について
意味
キリスト教 の新約聖書 に出てくる使徒 聖ヤコブ (いわゆる「大ヤコブ」、英語 のジェイコブ)のポーランド語 読み「ヤクブ(Jakub)」の指小形 「クーバ(Kuba、ヤクブちゃん)」より。Kubicaの意味は「ヤクブちゃん家(あるいは、ヤクブちゃんのセガレ )の…」なので、Robert Kubica はを字義どおりに解釈すると「ヤクブちゃん家のロベルト」の意味になる。この姓はポーランドでは南部のマウォポルスカ地方 とその周辺に多い。特にタトラ山脈 のあるポトハレ地方 独特の「グラル人 (山の人)」と呼ばれるポーランド人の間でよく見られる姓である。クビツァの出身地であるクラクフはかつてポーランド王国 の首都 が置かれるほど栄えた、マウォポルスカ地方の中心都市で、そこでは「Kubica」という姓は珍しくない。
発音・表記の仕方
日本語表記については、姓は「クビカ」、「クビサ」と表記されていたが、2006年シーズン途中でBMWザウバー 広報から「クビカ」表記は止めて欲しいとのリリースがあった。しかし、クビツァと親しい川井一仁 が本人に聞いたところ「クビカ」、「クビサ」、「クビツァ」を含めどの呼び方をされても気にはしていないようだとF1GPニュース で発言している。
F1関連のウェブサイト などでは「ロバート・クビツァ」と表記するところが最も多い一方で、本来のポーランド語 では「ロベルト・クビツァ」(例: サッカー 選手のアンジェイ・クビツァ )、ポーランド南部の山岳地方では「ロベルト・クビッチャ」のように訛って発音するところ(グラル人 など)もあり、2007年シーズンより、モータースポーツに手厚い東京中日スポーツ を始め、朝日新聞 、共同通信 などメディアでは「ロベルト・クビツァ」へと表記の切替が行われている。アクセントはロベルトのロ 、クビツァのビ につく。ポーランドでも人によってはアクセントを強調して「ローベルト・クビーツァ」と発音することがある。
なお、国際音声記号 では ['robert ku'bitza] [ヘルプ /ファイル ] であり、これによればロベルト・クビツァがもっとも近い。また、英語圏のテレビ放送でも「クビーツァ」と母語に近い発音をしており、日本で多くのマスコミが使用する「クビサ」は少数派であるともいえる。
初期の経歴
4歳の時に両親にねだって買ってもらった4馬力のオフロード カーが自身のキャリアの出発点である。クビツァはこの車でペットボトル の周りを運転して遊ぶことに日々熱中した。成長すると父親Arturはカート を与えたが、クビツァは当時幼く、10歳以上でなければポーランド・カート選手権(the Polish Karting Championship)に参戦できなかった。10歳になり参戦すると、3年で6つのタイトルを獲得した。
その後次のステップに進もうと考え、父親の勧めで単身イタリア に渡る。1998年に国際イタリア・ジュニアカート選手権の初の外国人チャンピオンとなり、ヨーロッパ・ジュニアカート選手権でシリーズ2位、ジュニア・モナコ・カートカップで勝利と、初年度から華々しい結果をあげた。翌年、イタリアでのタイトルを防衛し、ドイツ国際カート選手権に参戦。またジュニア・モナコ・カートカップで再び勝利、マルグッティ・トロフィーやエルフ・マスターズレースといった名のある大会でも勝利を収める。2000年、ヨーロッパおよび世界選手権でともに4位となり、カートでのキャリアを終える。
ジュニア・フォーミュラ
エプシロン・ユースカディ 時代のクビツァ。
2000年にフォーミュラカー レースにステップアップ。フォーミュラ・ルノー のテストドライバーとなる。2001年にユーロカップとイタリア選手権への参戦を開始した。フォーミュラ・ルノーには翌年まで留まり、2002年にユーロカップをランキング7位、イタリア選手権では10戦中4勝をあげてランキング2位という結果で終えた。
2003年にF3ユーロシリーズ へと参戦し、ランキング12位。2004年に同選手権でランキング7位、同年のマカオGP では2位表彰台という結果を残した。
2005年には、この年ワールドシリーズ・バイ・ニッサン から改組されて新たな選手権の初年度として開催されたワールド・シリーズ・バイ・ルノー のエプシロン・ユースカディ チームから参戦し、4勝を挙げて初代チャンピオンに輝いた。再びF3マカオGPにも参戦し、前年同様2位表彰台を獲得した。
同時に、この年はルノー やミナルディ などからF1 のテストにも参加し、ステップアップへの足がかりを築いた。
F1での経歴
2006年 アメリカGP にて。
F1(第1期)
2006年
2006年 はBMWザウバー の第3ドライバーとして起用され、特にシーズン中盤になってチームが力をつけるにつれ、金曜日のフリー走行や、テストなどでも好タイムを記録した。レギュラードライバーのジャック・ヴィルヌーヴ が第13戦ハンガリーGP を欠場したため、このレースにおいてポーランド人初のF1ドライバーとして急遽デビューを飾った。荒れたレースの中7位で初完走し入賞圏内でレースを終えたが、マシン重量が最低基準に2kg足りなかったため失格となった。その後、ヴィルヌーヴはそのままBMWザウバーから離脱したため、以降のレースも参戦することとなった。第15戦イタリアGP では3位でフィニッシュし、デビュー3戦目にして初の表彰台に輝いた。このレースでは、優勝したミハエル・シューマッハ がトップ3ドライバーの記者会見で現役引退を表明。クビサはその引退を発表する会見の席に同席することとなった。残りのレースで入賞することは叶わず、結局この年の入賞はイタリアGPのみに留まったが、初年度にして3位表彰台を獲得する活躍を見せた。
2007年
2007年 カナダGP にて。
2007年 はマクラーレン とフェラーリ が圧倒的な速さでシーズンを支配した。第3戦バーレーンGP からは3戦連続で入賞するも表彰台には手が届かず、BMWザウバーは苦戦が続いた。そんな中迎えた、第6戦カナダGP では大クラッシュに見舞われた。オールドピットヘアピン手前の左コーナーでヤルノ・トゥルーリ と接触。接触自体は軽かったもののコースアウトした際に芝生の段差でマシンが跳ね、前輪が浮き上がったままになったためにコントロール不能のまま直進し270km/hの速度でコンクリート壁に激突した。車体は跳ね返って数十メートルに渡り回転しながら移動し、ヘアピンのランオフエリアで横倒しになりようやく停止。特にフロント部分の破損が著しく、両足が露出するほどの凄まじいクラッシュだったため安否が気遣われたが、幸いにも軽い脳震盪と右足首捻挫のみと診断された。しかし、FIA の医師団の判断により第7戦アメリカGP は欠場した。代役として、後の四度のワールドチャンピオンとなるセバスチャン・ベッテル がF1デビューを飾った。第8戦フランスGP で復帰すると、残り10戦中8戦で入賞する安定感を見せたが、表彰台獲得には至らなかった。
この年は最高位は4位に留まり、ランキング6位に終わった。
2008年 カナダGP にて。
2008年
2008年 、開幕戦オーストラリアGP で予選での自己最高位である2位を記録。決勝ではレース中盤で中嶋一貴 に追突されリタイアに追い込まれる。しかし、第2戦マレーシアGP では自己最高位である2位を獲得し、約1年半年ぶりに表彰台へと上った。さらに第3戦バーレーンGP では自身とチームにとって初のポールポジション を記録。決勝でもフェラーリの2台に続く3位でフィニッシュし、2戦連続表彰台に上った。また、第6戦モナコGP でもミスの無い走りで2位表彰台を獲得。市街地コースでの強さをアピールした。前年に大クラッシュに見舞われた第7戦カナダGP では、完走が13台という荒れたレースを制し、ポーランド人として初優勝を飾ると共に、BMWザウバーにも初優勝をもたらした。この結果、ドライバーズランキングで初めてトップに立った。この飛躍の裏にはオフシーズンの大幅な減量で可能になったバラスト の追加配分があったとされる[1] 。しかし、シーズンが進むに従って調子を落としていった。これはランキング上位に付けチャンピオン争いが可能にもかかわらず、シーズン後半には早々にチームが翌年の車の開発に比重を移してしまった事が影響しており、このチーム方針に対しクビツァは不満を呈していた。
この年は、優勝1回を含め7回の表彰台獲得、ポールポジション1回獲得などの活躍を見せ、シーズン終盤までタイトル争いに絡んだ。最終的に3位のキミ・ライコネン と同ポイントのランキング4位でシーズンを終えた。
2009年 イタリアGP にて。
2009年
2009年シーズン もBMWザウバー から参戦。この年投入されたマシンF1.09 には前年ほどの競争力はなく、開幕戦オーストラリアGP で終盤に一時3位を走行する活躍は見せたものの、第10戦ハンガリーGP までにポイントを獲得したレースは1回のみで、それ以外はポイント圏内はおろか、トップ10にすら入れないレースが続いた。
ベルギーGPでは予選5位を獲得し、決勝でも4位でチェッカーを受けた。第16戦ブラジルGPで雨で混乱が起きた予選では8位を獲得し、決勝では巧みな戦術と運転技術で久しぶりの表彰台となる2位になった。
同年7月でBMWがF1撤退を表明したが、10月7日 にはルノーへの移籍を決め、次期のシートを獲得している。
2010年 マレーシアGP にて。
2010年
2010年シーズン はルノーF1 から参戦。シーズン前はチームの資金難が続きR30 の開発が遅れたが、その後スポンサーが続々と決定され、また建設中であった新しい風洞試験装置が完成するとともに開発のスピードは上がっている。開幕戦バーレーンGP ではスタート直後の1コーナーで前を走るマーク・ウェバー の車がエンジンオイル量過多のため突然白煙を噴いたことに驚いたエイドリアン・スーティル が急な進路変更をしクビツァのマシンに接触、クビツァとスーティルの2台のマシンはスピンした。2人ともすぐにレースに戻り、特にクビツァは最後尾から懸命の追い上げを見せたが11位でゴールし、惜しくもポイント獲得(10位までに与えられる)を逃した。
第2戦オーストラリアGP では予選9位からスタート、混乱の中1周目に4番手まで順位を上げ、のち2位まで順位を上げた。その間メルセデスGPのニコ・ロズベルグ 、マクラーレンのルイス・ハミルトン 、フェラーリのフェリペ・マッサ からゴールまで30周以上にわたって次々と激しい追撃に遭ったものの、巧みな運転技術でこれを封じて順位を死守したクビツァはそのまま2位でゴール、2010年初の表彰台を飾り、上位陣に比べて戦闘力が大幅に劣るといわれるルノーの現行マシンで、しかも上位陣の追い上げを巧みに抑え続けての表彰台獲得はフランスやドイツのメディアから「センセーショナル」と報じられ[2] [3] 、2009年の第16戦ブラジルGPに引き続いて自己の高い実力を再度証明することになった。
また、得意の市街地サーキットである第6戦モナコGP では予選で驚異的なパフォーマンスを発揮し、明らかにマシン性能で上回るドライバーらを抑えて2位を獲得すると、決勝ではスタートで1つ順位を落とすもののそのまま3位表彰台を獲得した。同じく市街地サーキットの第15戦シンガポールGP ではレース終盤6位走行中にタイヤトラブルにより予定外のピットストップを強いられ13位に後退するも、新しいタイヤのグリップを活かして驚異的な追い上げをみせ、オーバーテイクが非常に難しいマリーナ・ベイ・サーキット で前にいるマシンをごぼう抜きしてみせた。結果落とした順位は僅か1つの7位でフィニッシュするなど、改めて市街地サーキットでの強さをみせた。
2011年
開幕前のバレンシアテストの最終日に新車R31 で全体のトップタイムを記録するなど好調なスタートを切ったが、その直後の2月6日にイタリアで趣味でもあるラリー に参戦中大クラッシュ、手首を含む複数個所を骨折した(詳細は#事故 を参照)。少なくとも、負傷箇所の完治だけでも10ヶ月以上かかる見込みであったため、2011年のF1世界選手権 の欠場は避けられない状況になったうえ、レーサーとして復帰することすら絶望的と思われた(2012年から2017年の情報は#F1以外のレース活動 を参照)。
F1(第2期)
2018年
2017年6月のバレンシアのテストセッションで6年ぶりにルノーのF1マシンをドライブ。116周を走破し、テストドライバーのセルゲイ・シロトキン を上回るタイムを記録。同年9月には、2016年のF1チャンピオンであるニコ・ロズベルグ を共同マネージャーに起用することを発表[4] 。10月に入るとウィリアムズ で2014年型マシンによる2回のテストも実施[5] し、安定した速さでF1マシンを走らせることができる点をアピールした。
そのため、2017年シーズンを以て引退を予定していたウィリアムズのフェリペ・マッサ の後任候補にクビツァの名前が浮上した。その後、アブダビGP 後のアブダビでのテストではウィリアムズの2017年型マシンでテストにも参加した[6] 。最終的にウィリアムズはマッサの後任にセルゲイ・シロトキンの起用を決め、2018年のレギュラードライバーにはなれなかったものの、クビツァは同チームのリザーブドライバーとして[7] F1の世界に再び関わっていくこととなった。2018年シーズン中はスペインGPとオーストリアGPの金曜日フリー走行に出走。他にはチームが参加していた公式テストも担当した。
ウィリアムズのリザーブドライバーとして働きながらレギュラーシート獲得を目指していた時、サマーブレイク中に起きたランス・ストロールの父親で資産家のローレンス・ストロールが率いるコンソーシアムがフォースインディアを買収した出来事が彼に大きく影響を与える。この影響で同チームの彼のシートが空く可能性が出てきたため、ウィリアムズは彼の後任を探し始める。その候補にはクビツァの名もあり、2019年から彼が同チームの正ドライバーになるのではという見方が出てきた。だが、ウィリアムズの資金難の影響で持参金などの金銭的メリットが重視され、アメリカGP前にその要素がないジョージ・ラッセル が起用されたことにより、もう一人のドライバーはその点が重要視されるという見方が強まった。そのため、実戦経験ではほかの候補を上回れても、その点がないに等しいクビツァは不利と見られ、一時はフェラーリのリザーブドライバー就任が有力視された。ところが、母国ポーランドの石油会社PKNオーレン が彼のための持参金を用意する情報[8] が流れたのをきっかけに流れが変わった。当初は持参金が用意できるセルゲイ・シロトキンの続投やメルセデスから間接的な支援を得られるエステバン・オコン の起用が有力視されたが、2018年11月22日、ウィリアムズが日本円で10億円を超える支援金を確保[9] したクビツァを翌年のレギュラードライバーに起用したことが発表[10] された。これにより、クビツァのF1復帰が確定することとなった。
2019年
2017年の頃からテストという形でF1に関わっていたが、今シーズンからウィリアムズのレギュラードライバーとしてカムバック[11] し、2010年アブダビGP 以来8年ぶりの実戦となる。チームメイトはメルセデス のジュニア・ドライバー・プログラム出身の新人ジョージ・ラッセル 。
彼の活躍を期待する声が多かったものの[12] 、少数ではあるが苦言[13] や不安視[14] する声もあった。特にウィリアムズでタイトルを獲得したジャック・ビルヌーブは厳しい目で見ており、以前からクビサの復帰については安全面の観点[15] から反対していた。そして、シーズンが開幕すると苦難の幕開けであった。
所属チームのウィリアムズは昨年に引き続いて深刻な不振に陥っており、チームメイト対決においても大半は予選・決勝共に敗北。また、ビルヌーブも開幕戦終了時点で「いいメッセージではない」[16] とストレートに批判していた。本人は当初マシンの個体差に懸念を示していたが[17] 、ラッセル車と交換しても改善せず[18] 、少なくともマシンの性能不足はあれど品質のトラブルがない以上、クビサの能力を疑問視する根拠を提供する結果となった[19] 。ただし、第6戦のようにクビサが先行していたにもかかわらず、ラッセルのピットインを優先させたこと[20] や他の作業が優先された影響もあるが、クビサ用に調整されたステアリングが使用できるようになったのは第14戦からであること[21] が明かされるなど、チーム側は平等に扱っているとコメントしつつも実質ラッセルの方を優先していることを示唆した。
そのため、シーズン中盤には速くもウィリアムズ離脱が囁かれており、クビサのスポンサーも他チームにクビサの売り込みを掛けるなど厳しい立場に立たされていた[22] 。
そんななか、第15戦前に行われた記者会見に出席したクビサは、自身の決断で今季限りでウイリアムズを離れることを表明[23] 。会見後にチームもクビサの決断を尊重した結果というコメントを正式に発表。これにより、今季でF1を離れることが確定した。
ほぼ毎戦が最下位争いとなる中、第11戦ドイツ にて、アルファロメオ 2台がペナルティでタイム加算により繰り上がり、復帰後初の10位入賞となった。また、キャリアとしては、開幕戦からは9戦、通算なら13戦連続完走が最高であったため、テールエンダーとはいえ、第14戦イタリアGP完走に伴い、自身の連続完走記録を更新した形となった。
2020年
2020年はアルファロメオ・レーシング に移籍し、リサーブドライバーを務める。またクビサをバックアップするポーランドの石油企業、PKNオーレン もアルファロメオに移籍しチームのメインスポンサーを務めることとなった。アルファロメオは元を辿ると、クビサのデビューチームであるBMWザウバーでありリサーブドライバーという形ではあるが11年ぶりの古巣復帰という形になる。数レースで金曜日のフリー走行1回目に出走している。
2021年
2021年もアルファロメオのリザーブドライバーを継続し、数レースで金曜日のフリー走行1回目に出走。また、オランダGP・イタリアGPでは新型コロナウイルスに感染したキミ・ライコネン に代わって代役出走。それぞれ15位,14位完走を果たした。
2022年
レギュラードライバーは一新されたが、引き続きアルファロメオのリザーブドライバーを継続。数レースで金曜日のフリー走行1回目に出走する。
事故
2011年 2月6日 、イタリア で開催されたラリー イベント「ロンド・ディ・アンドラ(Rally Ronde di Andora)」で大クラッシュを喫した。シュコダ・ファビア S2000で参戦したクビツァは右から左へと連続して曲がる高速カーブでミスをしガードレール に接触した。事故ではガードレールがクビツァが駆っていたファビアの車体を正面から突き破り、クビツァは右腕の複雑骨折 、左手、足などの単純骨折を負う重傷であった。その後医師達によってサヴォーナ県 のピエトラ・リーグレ にあるサンタコロナ 病院にヘリコプター を使って搬送された[24] [25] 。施術に伴う右腕切断の可能性も検討されたが、専門医による7時間にも渡る手術 の末に切断という最悪の事態は免れた。しかし重傷である事には変わりなく、今後レースを続けられる程に右手の機能が回復するかどうかが懸念されている。また、クビツァの完治には10ヶ月以上かかるとみられ、2011年のF1世界選手権 を欠場することが確定的であると報じられた[26] 。
2月8日、クビツァがクラッシュした様子のコンピュータシミュレート が公開された[27] 。シミュレーションでは右カーブが終わる際に車両後部左側をガードレールに接触させた反動で車体が過度に左に旋回し、ガードレールに正面から接触した。その際にガードレールの鉄板がボンネット から突き破って車内を貫通し、そのままハッチバックドア にまで至った。今回の事故は力点が分散する「面」での接触事故ではなく「線」での接触事故であり、車両設計の段階で安全基準をクリアしていても、重大事故を避けられない車両設計の難しさを露見する結果ともなった。この他にもクビツァの事故直後の様子を捉えた車載カメラの映像も公開され、後続車はクビツァの救助にあたるべく停車するが、マシンから煙があがるほど大破した車両を目の当たりにした後続車のドライバーとコ・ドライバーが大きく動揺している様子まで収められていた[28] 。
複数個所の骨折と、肺の損傷が認められた為に手術は複数回に分ける必要があった。一時期はICU に再び入るなど予断を許さない状況もあったが、2月16日に最後の手術を終え19日にリハビリ病棟 に移った[29] 。
リハビリ中の2012年 1月12日 、自宅近くで散歩中に凍った路面で転倒し、右足脛骨を骨折した[30] 。しかし大事には至らず、半月後にはオートマチックの自家用車を運転できるまでに回復したと報じられた[31] 。
F1以外のレース活動
ラリー
2014年ラリー・ドイツ
2012年 9月、イタリアで行われたラリー「ロンデ・ゴミトロ・ディ・ラナ」に参戦してレース活動を再開、復帰戦を優勝で飾る[32] 。
2013年 1月にはバレンシア・サーキット で行われたドイツツーリングカー選手権 (DTM)のマシンテストにメルセデス から参加[33] 。このためDTM参戦が噂されたが、結局この年はDTMではなく世界ラリー選手権 (WRC)の下位カテゴリーである「WRC2」にシトロエン から参戦[34] 。最終的に参戦した全7戦で5勝を挙げ、同年のWRC2チャンピオンを獲得した[35] 。なお、シフトチェンジは通常右手でシーケンシャルMT を操作するが、クビツァは特例により、ステアリング左側のパドルでセミAT操作をすることが認められた。
2014年 はWRCに昇格し、ポーランドの石油会社ロトス (Grupa Lotos ) の支援を受け、Mスポーツ からフォード・フィエスタ RS WRC で参戦[36] 。ラリー・ポーランド のWRCカレンダー復帰にも協力するが、シリーズランキング16位と低調な結果に終わる。また、負傷した右腕の機能回復が思わしくないことから、F1復帰を事実上断念するような談話も出すようになった[37] 。
2015年 は自らのチームである「RKワールドラリーチーム」を結成しWRCへの参戦を継続[38] 。しかし財政的な問題に悩まされ、さらにはマシンメンテナンスの委託先とのパートナーシップが決裂するなどの問題も抱えたため[39] 、結局2016年 のWRC開幕戦であるラリー・モンテカルロ を最後にWRC参戦を終了した[40] 。
スポーツカー耐久
2016年3月にはムジェロ・サーキット で開かれた12時間耐久レースに参戦し、2011年の事故以来初めてサーキットでのレースに復帰した[41] 。2017年は「国際的なレースに復帰するフィジカル的な準備ができた」と判断し[42] 、バイコレスのLMP1チームよりFIA 世界耐久選手権 (WEC) にフル参戦する予定だったが、後に脱退し参戦を断念している[43] 。
2021年ル・マン24時間レース にはチームWRTからLMP2クラスで参戦。トップを快走するが、ファイナルラップに入った直後にまさかのマシントラブルが発生し、勝利を逃してしまった。
2023年WECでは最後の開催となったLMP2クラスのタイトル(耐久トロフィー)を獲得。これによりいずれも下位クラスではあるものの、ラリーとサーキットの双方でFIAの国際選手権のタイトルを獲得した数少ないドライバーとなった。
DTM
F1のリザーブドライバーを務める傍らで、2020年はドイツツーリングカー選手権 にオーレン・チームART からフル参戦[44] 。第8戦ゾルダーのレース2で表彰台に上がった以外目立った成績をふるうことはなく、年間ランキング15位に終わる。
エピソード
2008年、ロレンツォ・バンディーニ賞 を受賞[45] 。
母国ポーランドで行われた一般投票で約13万票を獲得し、2008年の最優秀スポーツ選手に選出された[46] 。
前述のように大変なラリー好きとしても知られており、F1が開かれない期間に度々ラリーに出場しているが、それが大事故につながってしまった。
市街地コースを得意としており、「ストリートファイター」の異名を持つ(一般的に市街地コースはサーキットと舗装の材質などが異なるため、レース用タイヤでの走行は難しい)。
同じF1ドライバーのフェルナンド・アロンソ とは親友である。2人の面識はカート時代より既にあったがF1デビューをした2006年ハンガリーグランプリ でクビツァの走りを見たアロンソが絶賛した事を切っ掛けに交友を深めた。その後、2009年シーズン終了後にBMWザウバーが撤退することによりクビツァのシートが喪失の危機に陥ったとき、既にルノーからフェラーリに移籍が決定していたアロンソが「僕の後任として迎えられるならば彼を推挙したい」と述べ、クビツァのルノー入りの強い後押しになったと言われる[47] 。又、2011年シーズン開幕前に参加した前述の事故 で、数多くのドライバーや関係者が電報 による見舞いを行う中、アロンソは真っ先にクビツァのもとを訪問している[48] 。各チームがマシンテストなどで開発に注力するような時期に直接の見舞いを行うアロンソが、如何にクビツァとの親交が深いかうかがえる[49] 。
大変社交的でかつ、紳士的な人物であると評価がなされている。小林可夢偉 と日本人記者がインタビューを行っている際に、小林が落とした無線機器 (イヤホン )をインタビュー中に届けるなどユーモアを見せる。又、前述のラリー事故にて昏睡 から目覚めたクビツァがまず最初に尋ねた質問がコ・ドライバー を務めたヤクプ・ゲルベル の安否や容態であったとクビツァの手術を担当した医師が語っている[50] 。
2011年のF1ではシーズン前のテストで走行したのみで事故後は一切参戦していなかったが、ロータス・ルノーGPはクビツァにこの年の給料を支払った[51] 。
2011年の事故後、スヌーカー やボウリング などを趣味として嗜むようになった。特にロニー・オサリバン のファンである[52] 。
レース戦績
略歴
† : ゲストドライバーとしての出走であるため、ポイントは加算されない。
‡ : ポイントはミシュラン・エンデュランス・カップのみ有効となるため、LMP2クラスにはカウントされない。
* : 今シーズンの順位。(現時点)
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
フォーミュラ・ルノー3.5 シリーズ
フォーミュラ1
世界ラリー選手権
世界ラリー選手権-2
ステージ優勝略歴 (世界ラリー選手権)
ヨーロピアンラリー選手権
ドイツツーリングカー選手権
ウェザーテック・スポーツカー選手権
太字 はポールポジション 、斜字 はファステストラップ 。(key )
† : ポイントはミシュラン・エンデュランス・カップのみ有効となるため、LMP2クラスにはカウントされない。
* : 今シーズンの順位。(現時点)
ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ
ル・マン24時間レース
FIA 世界耐久選手権
脚注
^ F1-Live.com 2008年6月4日
^ “f1-entretien-avec-robert-kubica ”. www.racing-1.com. 2018年11月22日 閲覧。
^ “Formel-1-Jetzt-muss-Vettel-die-Kurve-kriegen ”. nachrichten.rp-online.de. 2018年11月22日 閲覧。
^ ニコ・ロズベルグ、ロバート・クビツァのマネジメントチームに加入 - F1-Gate.com 2017年9月16日
^ ロバート・クビツァ、Williamsでの2回目の隠密テストを”生産的”に完了。ハンガロリンクには熱狂的ファンが集合 - Formula1-Data 2017年10月18日
^ ロバート・クビツァ、ウィリアムズ FW40でテストを開始 - F1-Gate.com 2017年11月28日
^ “ウィリアムズ、ロバート・クビツァを2018年のリザーブドライバーに起用 ”. F1-Gate.com (2018年1月16日). 2018年1月16日 閲覧。
^ “クビカがウイリアムズF1レースドライバーの有力候補に浮上か。母国ポーランド企業が多額の支援を検討 ”. www.as-web.jp (2018年10月18日). 2018年11月22日 閲覧。
^ “Kubica to get $10m boost for 2019 race seat ”. www.sport24.co.za. 2018年11月22日 閲覧。
^ “クビカとウイリアムズの契約が正式に発表。大アクシデントから8年、奇跡のF1復帰果たす ”. www.as-web.jp (2018年11月22日). 2018年11月22日 閲覧。
^ “大口スポンサーとともにクビサのF1復帰が確定 間もなく正式発表 ”. www.topnews.jp. 2018年11月22日 閲覧。
^ 「ロバート・クビサのF1復帰はうまくいく」とバーニー・エクレストン - www.topnews.jp・(2019年1月30日)2019年5月16日閲覧
^ ベッテル「クビサのF1復帰はうれしいけれど・・・・・・」 - www.topnews.jp・(2018年12月13日)2019年5月16日閲覧
^ ベッテルとヒュルケンベルグ、クビサのF1復帰に疑問符 - www.topnews.jp・(2017年12月4日)2019年5月16日閲覧
^ クビサは本当にF1復帰できるのか?ビルヌーブやモントーヤの考えは? - www.topnews.jp・(2017年11月16日)2019年5月16日閲覧
^ クビサの復帰はF1にとって「いいメッセージではない」とジャック・ビルヌーブ - www.topnews.jp・(2019年3月27日)2019年5月16日閲覧
^ クビサ、チームメイトに遅れを取る状態に首を傾げる。「他のドライバーにできていることができずにいる」」 - www.as-web.jp・(2019年4月20日)2019年5月15日閲覧
^ ウィリアムズのクビサ、シャシー交換もチームメートに大敗 - www.topnews.jp・(2019年5月13日)2019年5月15日閲覧
^ クビサ更迭が噂されるウィリアムズF1、カナダとフランスのFP1でニコラス・ラティフィを起用 - formula1-data.com・(2019年5月15日)2019年5月15日閲覧
^ ロバート・クビサ「ウィリアムズはラッセルを優先しているように感じる」 www.topnews.jp(2019年5月27日)2019年11月13日閲覧
^ 準備が遅れた特別仕様ステアリング、ようやくクビサの手に…… jp.motorsport.com(2019年10月5日)2019年11月13日閲覧
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^ ロバート・クビツァ、WRC2のチャンピンを獲得 - F1-Gate.com・2013年10月28日
^ "クビツァ、フィエスタRS WRCで来季WRC全戦へ ". RallyXモバイル.(2013年12月13日)
^ ロバート・クビツァ 「怪我によってF1復帰は不可能」 - F1-Gate.com・2014年4月10日
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^ クビツァWRC継続苦しい胸の内、8月末将来を決定か - RALLY X・2015年7月16日
^ ロバート・クビツァ、ラリーキャリア終了の危機 - F1-Gate.com・2016年1月22日
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^ ロバート・クビツァ - ESPN F1
外部リンク
エンジン供給先
※この期間はエンジン供給は散発的に行われた。
主な関係者 主なドライバー
※太字はアルファロメオにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。
車両 関連組織
チーム首脳※ 主なスタッフ/関係者※ 現在のドライバー F1車両 現在のPUサプライヤー 現在のスポンサー 元チーム関係者
主なドライバー
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
※年代と順序はウィリアムズで初出走した時期に基づく。 ※ウィリアムズにおいて優勝したドライバーを中心に記載。太字はウィリアムズにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。斜体はウィリアムズにおいて優勝がないものの特筆されるドライバー。
F2 プロトタイプ ラリー ツーリングカー タイトルスポンサー エンジンサプライヤー
ワールドシリーズ・バイ・ニッサン
ユーロカップ・フォーミュラ・ルノーV6
フォーミュラ・ルノー3.5
フォーミュラ3.5 V8
WRC
1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
WRC2
WRC3
2013 セバスチャン・シャードネット
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エンリコ・ブラゾッリ
2020 ヤリ・フットゥネン
2021 ヨアン・ロッセル
2022 ラウリ・ヨーナ
JWRC
2000年代
2001 セバスチャン・ローブ
2002 ダニエル・ソラ
2003 ブライス・ティラバッシ
2004 パー・ガンナー・アンダーソン
2005 ダニ・ソルド
2006 パトリック・サンデル
2007 パー・ガンナー・アンダーソン
2008 セバスチャン・オジェ
2009 マルティン・プロコップ
2010年代
2010アーロン・ブルカルト
2011 クレイグ・ブリーン
2012 エルフィン・エバンス
2013 ポンタス・ティデマンド
2014 ステファン・ルフェーブル
2015 クエンティン・ギルバード
2016 シモーネ・テンペスティーニ
2017 ニル・ソランス
2018 エミール・ベルクヴィスト
2019 ジャン・ソランス
2020年代
2020 フランシス・レナルス
2021 サミ・パヤリ
2022 ロバート・ヴィヴレス
PWRC
2000年代
2002 カラムジット・シン
2003 マーチン・ロウ
2004 ナイオール・マクシェア
2005 新井敏弘
2006 ナッサー・アル=アティヤ
2007 新井敏弘
2008 アンドレアス・アイグナー
2009 アーミンド・アラウージョ
2010年代
2010 アーミンド・アラウージョ
2011 ヘイデン・パッドン
2012 ベニート・ゲラ